誓いの空
WiTHeR
開幕 上
仄暗い部屋の中で、少女は虚ろな瞳で眺めている。彼女の正面には大人一人程の大きさの影が滲んだ墨のように広がっている。
彼女の身体は枯木のように痩せ細り、肌の色は血の気が引き灰色に染まっている。深く沈み込んだ眼窩には人の生気は感じられない。彼女の目蓋に収まっている瞳は賽の河原の石塊のように無機質だ。年相応の少女の瞳とは思えない程の伽藍堂。だが、その無機質な石の中で、地獄の劫火の残り火が彼女の中で燻っている。
彼女の身体は何にも拘束はされていない。逃げようとすれば逃げられるだろう。だが、彼女にはそれが出来なかった。彼女は三ヶ月以上、食事どころか水さえも摂取していない。それでも生きていられるのは、彼女の痩せ細った左腕に刺された一本の注射針。其処から彼女の血管へと流れる点滴だけが、彼女を活かす糧だ。しかし、それも充分に彼女の肉体を満たすには程遠い。《辛うじて生きられる》程度だ。彼女の肉体は既に限界に達していた。
彼女の枯れた大地のように皺だらけの唇が微かに動く。
「・・・す・・・なら・・・さっさと・・・しな・・・さい・・・」
絹が擦れたような声が唇から漏れる。咽喉が涸れ声が音にさえ成らない。
《普通の神経》を持ち合わせた人間であれば、目にも当てられない光景だろう。だが、彼女の悲愴な姿にさえ、正面に立つ男は眉一つ動かしていない。能面のように皮膚に張り付いた表情はおよそ《表情》という表現からかけ離れている。
故に、少女は男の表情から一切何も感じ取れない。だが、彼女にはその表情の下にある《澱み》が見えていた。それは確信と云っても良い。彼女には男の考えが透けて見えた。
―――この男は私に何の感情も抱いていない・・・向けていない・・・この行動も私に向けたものではない・・・これは・・・
「未だ無駄口を叩ける気概程度はあるか」
男は徐に彼女の長い黒髪を掴み上げる。「くぅっ・・・」と彼女の口から苦悶の声が漏れる。だが、彼女は男に反抗する意志を覆す事は無い。
「安心したよ。君は『生きている』からこそ価値がある。生憎と、中々私の思惑通りに事が進まなくてね。君にも随分と無理を強いているようで申し訳ないと思っているよ」
男は抑揚の無い声で云う。
「どの・・・く・・ちが・・・」
「君は勘違いをしている」
男は少女の声を打ち消すように云う。男は彼女の貌を無理矢理自身の貌に近付ける。
「君程の美しい女性が、
男は少女の髪を焦らすように解放する。少女は力無く床に倒れ臥せた。
「君の矜持は敬意に値する。が、君が木偶人形のように弄ばれる事が無いのは、私の御蔭であるという事を忘れて貰っては困るな。君の《全て》は私の掌の上なのだよ」
少女は力無く歯を喰いしばる。
しかし、その通りだ、と云わざるを得ない。少女は男に抵抗する手段はおろか、腕一つ振り解く力すら無いのだ。それこそ、男の言葉が示す『人形』に過ぎない。
「さてと、」
男はスーツの襟を正すと少女を見据える。
「私が此処を訪れたのは他でも無い。君に朗報を持ってきたのだよ」
「ろう・・ほう・・・?」
少女は顔を顰める。と、同時に絶望する。男の云う『朗報』とは、少女にとって『凶報』でしかない。その『凶報』を、男はただ淡々と告げる。
「私の『標的』である《君の大事な人》が、漸く本格的に私に復讐の刃を向けてくれそうだよ。その刃をこの私の頚元にね・・・」
男は自分の掌を刃に見立て自身の咽喉笛へと突き付ける。依然として、男の表情は仮面を張り付けたように一切動かない。だが、その声は心躍る子供のように無邪気さを帯びているように聞こえる。
―――お願い・・・どうか・・・
「そろそろ私は御暇させていただこう。君の心の漣をこれ以上ざわつかせては、君のその《燃えるような意志》に焦がされてしまうからね」
男はそう云い残すと、薄暗い部屋を出て行った。
少女は再び一人残される。無音に近い部屋の中で自身の鼓動だけが深く重く耳の中に残る。その鼓動が酷く妬ましい。と同時に、惜しいとも感じてしまう。
―――私は未だ死ぬ訳にはいかない・・・
死を選ぶ事を容易い。
人間が容易く死ぬ生き物であると、彼女は知っている。だが、彼女はそれを選択しない。選択する事は《決して出来ない》のだ。その理由がある。男はそれを見抜いている。だからこそ、男は彼女の《自殺を防止する》という手段を一切施こさなかった。
「わたしは・・・ぜったいに・・・しなない・・・」
噛み締めた唇から紅い血が篝火のように弾ける。状況が動く以上、此処から脱出する機会は必ずある。少女は男が出て行った扉を睨み付け目を閉じる。胸に秘めた約束を握り締めるように。
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