第29話 儀鬼の式

 地面に描かれた半径五メートルほどの円。

 左側にはツタのような複雑な曲線が描かれており、右側にはゆったりとした線が一本だけ描かれている。

 俺はその中心に立っていた。

 隠れ家で話し終えたあと、俺と未妙は広場のある公園を探して、ここまでやってきたのだ。


「この図はどういう意味なんだ?」


 俺は未妙に聞く。


「単純な図の合成だ。半面は鬼の召喚、もう半面は陰陽術そのものを表している」

 未妙はかかとで砂利の上に線を引いている。夕方の時は肘までしか生えていなかった草はすでに肩まで広がっている。

「そのもの?」

「ようはシンボルだ。陰陽術の中でももっとも有名な模様。太極図を半分に割っていると言えば、わかりやすいだろう?」

 俺は右側の図を見る。残念なことに、まず太極図がわからなかったので何も言えなかった。「鬼の召喚っていうのは?」

「使い魔を呼び出すための模様だな。もし生きていたら、ネットで式鬼とでも検索してみろ」

「説明が雑じゃね?」

「この図を描くのに集中したいんだ。失敗すれば、お前の理性が吹き飛ぶからな」


 未妙が言う。俺は慌てて口を閉じる。


「<儀鬼の式>の成功率は一割と言われている。ただ術を賭けられる人間が鬼人の場合、その成功率は七割まで高まる」

「いや、そう言うのは後で聞くから。今は図を描くのに集中しようぜ?」

「失敗した三割の内、二割は術者の実力不足、一割は鬼人でありながらも儀鬼を受け入れられない特異体質だったと言われている」

「わかった。わかった。わかったから、もうしゃべらないで。ごめんなさい。俺が悪かったです」

 俺がそう言うと、未妙はにやりと笑って、「安心しろ。もう終わった」と言った。

「どうした? 顔色が悪いぞ? やめるか?」


 未妙が俺を見て言う。


「やめねえよ。怖くもないし、未妙も信頼しているし」


 俺は早口で答える。

 未妙はじっと俺の顔を見てきたあと、あからさまにため息をついた。

 ポケットから『世界』を取り出して、ライトをつけると、地面の図を写真に撮った。


「整合性チェック中だ。今ならまだ間に合うぞ」

「もう聞くな。そういう言葉は求めてねえから」


 俺は自分の弱気を振りはらうために、強気な口調で切り返した。

 隠れ家を出てから、何度も何度も後悔と恐怖の思いが打ち寄せてきていた。

 手のひらはじっとりと汗ばんでいるのに、体は冷えていて、足は小刻みに震えている。

 脈もどんどん早くなっていて、気を抜いたら、その場で座り込んでしまいそうだった。

 でもやめる気はしない。

 自分が間違っているとは少しも思っていなかった。


「早いところやってくれ。目に砂が入って、俺が地面の模様を踏んだりしたら、色々と面倒だろ」

「愚か者。本当にいいんだな? お前は今自分の人生の全てを決めようとしているのだぞ」

「だから、もう脅しはいらねえから」

「聞く耳を持て」


 未妙は俺の正面に立って、視線を合わせてくる。


「いいか? 勢いで決めるんじゃないぞ。頭を働かせて、自分の胸の内に問いかけるんだ。お前はどうありたい? お前はどう生きたい? お前はなんのために存在しているんだ?」

「進路だってわからなかったのに、そんなことは答えられるかよ」

 俺は言う。

「分かっているのは一つだけだ。後悔したくないんだよ。俺は俺を大切にしてくれた人を大切にしたいし、その人たちを守りたい。そのためになら俺がどんな人生を歩んでも、俺は自分に誇りを持てる」


 未妙は俺を見つめたあと、盛大にため息をついた。


「わかった。術をはじめる」


 両手を上げて、視線を図に向ける。


「<儀鬼の式>が成功した瞬間に、草佩主(くさはぬし)には気付かれると思っていろ。術によって、この場の陰陽が不自然ほど変化するんだ。どれだけぼんくらな神でも反応せざるをえない」

「つまり?」

「ほぼ十割の確率で、ここに草佩主(くさはぬし)がやってくる」

「ちょっと待て。草佩主(くさはぬし)が来る前に、儀鬼になった後のことを色々と教えておくべきじゃないのか? それとも話す暇ぐらいはあるのか?」

「お前が言うことはもっともだが教えることはない。闘争本能は鬼の本能だ。自分を信じれば、おのずと道は開ける」

「今どき根性論じゃ誰も納得しねえよ?」


 俺は言うが、未妙はにやりと笑うだけで何も答えなかった。

 仕方ない。

 俺はゆっくりと息を吸い、その倍以上の長さで吐いていく。

 これが果村空也としてできる最後の息だ。

 もう俺は俺でいられなくなる。

 でもやめる気はしない。

 後悔だけはしたくないんだ。

 俺はそう思い、自分に別れを告げた。



「バイバイ。果村空也」



 俺は未妙を向かって、「やってくれ」とうなづいた。


「<儀鬼の式>を発動する」


 未妙が両手をさらに上げると、力強く手を握った。

 その瞬間、地面に描かれた文様が輝きだした。

 陰陽術側が白い閃光を放ち、鬼側が黒い光を放つ。陰陽術側では痺れるほどの冷風を感じ、鬼側では肌がひりつくほどの熱風を感じる。

 境界線上で二つの光が混じり合い、桜の花びらのような淡い桃色の粒子が舞い上がっていく。

 俺は光に誘われるように、視線を上に向ける。

 手を伸ばせば届くほどの高さで、桜色の粒子がゆっくりと動き、見たこともない文様を描いていく。

 桜色の粒子は留まることもなく動き続け、曲線と直線の入り混じった文様を生み出していく。

 俺はその変わり続ける図から目を離せない。

 魅入られたように見つめ続けてしまう。

 光が舞い落ち、地面に落ちてくる。

 粒の一つが俺の体に触れる。

 瞬間、二つの力が襲いかかってきた。

 外から内。

 内から外。

 押さえつける力と、引き裂く力が体を縛りつける。

 俺は歯を食いしばる。重心を落とし、吹き飛ばされまいと必死に耐える。

 体が膨張する。

 体が潰れる。

 体が破裂する。

 体が砕け散る。

 二つの痛みと共に、二つの恐怖が襲いかかってくる。

 骨と肉が音を立てる。

 粘土になったみたいに、体がねじ曲げられていく。

 歪み、きしみ、千切られて、体の作りが変わっていく。

 手が手でなくなり、足が足でなくなり、脳みそが脳みそでなくなる。

 自分を失っていく感覚。


 やめてくれ!


 そう叫びたい衝動を覚えると同時に、唯と両親のイメージが頭の中に浮かぶ。

 痛みが増していき、俺を取り囲む輝きが強まっていく。

 鬼。

 術。

 力。

 様々な色が頭の中を塗りつぶし、そのたびに殴られたような衝撃を感じる。

 唯が鬼となり、

 両親が倒れ、

 未妙が傷つき、

 俺がただ一人でいる。

 暗い映像がまるで呪いのように降り注いでくる。

 儀鬼。

 儀鬼だ!

 俺を鬼にしてくれ!。


 そう思った瞬間、光と痛みが消え去った。

 光がすっと飛び散っていき、痛みもまた幻だったかのように落ち着いていく。

 視界が広くなり、周りの風景が見える。

 俺は膝を落として、両手をついた。全身で息をして、体中に酸素を取りこんでいく。心臓は跳ねるように脈打っていて、手足は死体のように冷え切っていた。


「よく耐えた。成功だ」


 未妙が言う。

 俺は精一杯の力で笑みを浮かべて、「どうもありがとう」と言葉を返した。

 息を整えて、心の準備をしてから、自分の体を見てみる。

 手や足はもちろん、どこにも目立った変化は見当たらない。

 うまくいかなくて、何も変わりませんでしたと言われても信じてしまいそうだった。


「俺は儀鬼になったのか?」

「ああ。お前は私と同じ理性を持った化物に生まれ変わった」

「そんな風には見えないけど」

「安心しろ。嫌でもすぐにわかるようになる」


 未妙が言う。その顔色は心なしか青白くなっている。


「俺はいいとして、未妙は大丈夫なのか?」

「人間の陰陽をまねて、陰陽術を使ったんだ。それなりに疲労するのは仕方がない」

「そうか。俺はどうすればいい?」

「私はこれから〈宿返し〉を行う。もし術が終わる前に、草佩主(くさはぬし)がやってきたら、時間稼ぎをしていてくれ」

「言っていることは理解できたけど、どうやって?」

「鬼の本能に従え。そうすればどうにかなる」

「またそれか。わかった。がんばる」


 俺はそう言って、立ち上がる。

 痛みは完全に消え去っていて、体はびっくりするぐらい軽かった。

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