第28話 鬼人と儀鬼の境
夕方。
日が暮れかけた頃、俺は未妙の隠れ家に戻ってきた。
すでに未妙は帰ってきていて、ベッドで横になっていた。
「無事に戻ってきていて、よかったって……大丈夫か?」
俺はベットで寝ている未妙の顔を見て、思わず駆け寄ってしまう。
顔色は真っ青で、額には汗をかき、重度の風邪を引いているみたいだった。
未妙はゆっくりと目を開けて、俺の顔を見る。
こいつは誰だとでも言うような表情をしていたが、すぐに思い出したのか、小さくうなづいた。
「気にするな。寝ていただけだ」
「嘘を吐くな。そんな生やさしい状況には見えなかったぞ。手痛くやられたのか?」
「<始終>の時に喰らったダメージ×三倍と言ったところだな。肉体的なダメージはもちろん、自分の内なる気を絞り出した」
「最悪じゃねえか」
「安心しろ。肉体的なダメージは回復するし、内なる気は無限に近い。休めばどうとでもなる」
「そうか。わかった。今は休め」
俺がそう言うと、未妙はなぜか鼻で笑った。
「内なる気は無限に近いという意味を理解できたのか?」
「いや全然」
「らしくないな。いつもなら質問攻めにするだろう?」
「俺だって時と場合ぐらいわかる」
未妙はなぜかくすくすと笑い、上体を起こした。熱が出ているのか、目の焦点は合っておらず、体を動かすのも億劫そうだった。
「内なる気と外なる気は一対一の関係になる。正確に言うと、無数の一対一が存在するわけだが、内なる気は外なる気と同様に宇宙を生み出すほどの力を持っているんだ」
「後で聞くから寝てろ」
「そう言うな。教えてやっているんだ」
未妙がせき込む。俺は手を伸ばそうとするが、どうすればいいのかわからない。
「だが我々のような存在では内なる気を全て使いこなすことはできない。器が足りていないんだ。
井戸から水をくみ上げるのを想像してみろ。井戸の底には大量の水が存在している。だがお前は小さな桶でくみ上げることしかできない。その上、井戸は深く、何度も水をくみ上げていると腕が疲れてしまう」
「つまり今の未妙は腕が疲れているだけって言いたいんだな?」
「今はずいぶんと物わかりがいいな。いつもそうだと助かるんだが」
未妙がにやりと笑う。
「ああ。これからは物わかりがよくなるように心掛ける。だから今は休め」
「悪いが、それはできない」
未妙が言う。今までと違って、真剣な口調だった。
「どうして?」
「今日の夜。私は<宿封じ>を行う」
「なんで?」
「草佩主(くさはぬし)をなめていた。私はやつに負けた」
未妙が天井をあおぎ見る。
「ここに戻ってきてから気付いた。草佩主(くさはぬし)は私の体に草を埋め込んでいた。奴の草は少しずつ私の体を侵しつつある」
未妙が布団から右腕を出す。
その瞬間、全身に鳥肌が立った。
未妙の腕から大量の草が生えていた。
丁寧に管理された芝生のように、手の甲から肘にかけて、たくさんの草が繁殖している。
「戻ってきた時は手の甲に生えていただけだった。生命力はずいぶん強いらしい」
未妙は他人事のような顔つきで自分の腕を見ている。
「大丈夫か? 燃やせないのか? 痛くないのか?」
俺はベッドのふちに腰掛けて、未妙の肩を掴んでしまう。
「痛みはないが、違和感はある。燃やしても刈り取っても元通りになる。草佩主(くさはぬし)はなかなかの術者のようだ」
未妙は俺の手を払い、「寝起きなんだ。静かにしてくれ」と不快げに言った。
「この成長速度を見ると、明日までには全身を覆うだろうな。それよりも早く、草佩主(くさはぬし)を倒す必要がある」
「勝てるのか?」
「荒魂の神との戦いで、今まで負けたことは一度もない。まあ、こんな気色悪い腕で戦ったことも一度もないがな」
未妙は自分の腕を眺ると、愉快そうに鼻で笑った。
俺はその余裕めいた態度を見て、平手打ちを喰らわせてやりたくなる。
なに余裕ぶっているんだよ。
なに落ち着いているんだよ。
自分の命だろ?
お前が守らなくて、誰がお前の命を守るんだよ。
そんな思いが湧き上がってくる。
俺はゆっくりと息を吸って、自分を落ち着かせる。
違う。俺が未妙に言っていい言葉じゃない。
未妙はそれだけの生き方をしてきたんだ。親や友達に守られて、ぬくぬくと育てられてきた俺とはわけが違う。
「どうした? 何を考えている?」
未妙が可笑しげに見てくる。俺は首を振り、自分の頬を両手で叩いた。
「ひとつお願いがあるんだ」
「この疲労困憊で草が生えている私に?」
「そうだ。申し訳ないとは思うけど、未妙にしかできないことなんだ」
「私にしかできないこと? それはなんだ?」
未妙はなにかに気付いたかのように、鋭い目つきで俺を睨みつけてくる。
俺はその視線に気圧されながらも、自らの意思を口にした。
「儀鬼にしてくれ。俺も草佩主(くさはぬし)と戦わせてくれ」
未妙の視線がさらに鋭くなる。
俺はその圧力に負けないように、目を合わせ続ける。
数秒の間の後、未妙は冷めた声で言った。
「その話は終わったはずだが?」
「状況が変わったんだ。 俺は唯のためにも草佩主(くさはぬし)を倒さなくちゃいけない」
「馬鹿を言うな。素人は黙っていろ」
「その手で草佩主(くさはぬし)と戦えるって言うのか?」
俺は未妙の腕を見る。
未妙は腕を上下に動かすと「使える。問題ない」と言った。
「死人みたいな顔をしているのに?」
「もとからこんな顔色だ。夜になれば体力は戻っている」
「さっきと言っていることは全然違うじゃねえか。数秒前に疲労困憊って言っていたのはどこのどいつだよ?」
未妙は視線をそらすと、「――忘れた」とふてくされたように言った。
「別に、未妙にとって悪い話じゃないだろう? 単純に戦力が増えるんだ。これまでみたいに足もひっぱらないですむ」
「そんなことは問題じゃない」
未妙は手を振って、俺の言葉を追いやってしまう。
「はっきり言って、お前の提案はありがたい。お前が戦力になってくれれば、草佩主(くさはぬし)を倒せる確率は非常に上がる。その点では間違っていない」
「だったら問題ないだろう?」
「いや違う。草佩主(くさはぬし)を倒すのは私の目標であり、私の義務だ。お前にはお前の生き方がある。
それを捨てるのは、間違っている」
未妙は俺の目を覗きこむと言葉を続けた。
「いいか? もし儀鬼となったら、お前の人生は全て失うんだ。ありとあらゆる化物に狙われる。人として生きられなくなる。
家族や友人を一人残らず失う。過去も未来も全て鬼の手に奪われるんだ。それがわかって言っているのか?」
「ああ。わかっているつもりだ」
「愚か者。お前はわかっていない。お前は素晴らしいものをもっているんだ。唯一無二であり、一度失ったら二度と手に入らないものを。お前はそれを手放すって言っているんだぞ?」
未妙が身を乗り出してくる。
俺は首を振り、「手放す気はない」と言った。
「逆だよ。俺は自分がどれだけ幸せだったのかを知った。どれだけ愛されているのかを知った。どれだけ守られているのかを知った。だから、その大切な物を守りたいんだ。そのために儀鬼となって、草佩主(くさはぬし)と戦いたいんだ」
「その大切な物を全て失うことになったとしても?」
「そうだ。俺がその中にいなくても、俺は自分を大切にしてくれていた人たちを守りたいんだ」
「駄目だ。あきらめろ」
未妙は固い声で言う。
「いいか? 仮に私が負けたとしても、この町が大変なことになるとは限らない。私との戦闘で草佩主(くさはぬし)が満足して和魂に戻ることもあり得るし、別の儀鬼や陰陽師が来るまでの間、何もしないことも考えられる」
「でも荒魂の草佩主(くさはぬし)が俺の大切な人たちを襲うこともありえるんだろう? 鬼人である俺をターゲットとして、今日の学校みたいに、俺の周りを狙うことは」
「そうだな。それはありえるだろうな」
「だったら俺は儀鬼になる。大切な人たちを守りたい」
「愚か者。お前の気持ちは買うが、儀鬼にはできん。もしお前が儀鬼になったら、お前の人生は確実に失われるんだ」
「それはわかっているつもりだ」
「いいや。わかっていない。儀鬼になるということは、鬼になるだけじゃない。
神との戦いに身を投じるだけでもないし、明日死ぬかもしれないなんて話だけでもない」
未妙は言葉を区切ると、俺に理解させるためなのか、ゆっくりとした口調で言った。
「儀鬼になる。それは果村空也が死ぬことを意味しているんだ」
「死ぬ?」
「そうだ。お前の人生は儀鬼になった瞬間に終わる。儀鬼となれば、もはや人としては生きられない。今までの人生で培ったありとあらゆるものを失うんだ。環境や知り合いはもちろん、好悪や善悪の基準、考えや思いといった心に関するものも失う」
「でも俺は俺だろ?」
「違う。儀鬼になれば、こちらの世界に踏み込むことになる。それはお前の生きていた世界とは全く別の世界だ。断言してもいい。お前が儀鬼になったら一年もたたずに、この町に帰れなくなる。両親や友達に合わせる顔がなくなる」
「なぜ?」
「倒す相手は不死身の神様だけじゃない。鬼になりかけた人間を殺すことだってある。お前は人殺しとなった自分を見せられるのか?」
俺は言葉に詰まる。
儀鬼になること。家族や唯に会えなくなること。神や鬼を倒すこと。
そのことはわかっていたが、自分が人殺しになるとは思ってもいなかった。
「儀鬼になれば、お前は誰かの大切な人を殺すことになる。お前はそれに耐えられるか?」
未妙が言う。
俺はうなづくことができない。体から力が抜けていくのを感じる。
誰かの大切な人を殺す。
俺にとっての唯や家族を自分の手で殺さなくてはいけない。
そんなことが俺にできるのか。
人の命を秤にかけて、未来の犠牲者を守るために、誰かの大切な人を殺す。
そんな振る舞いをし続けられるのか。
俺はつい首を振ってしまった。
「わかったか? それが儀鬼になるということなんだ。お前にはできない。やめておいたほうがいい」
未妙が諭すような口調で言う。俺は未妙を見て、別の質問を口にする。
「どうして未妙は儀鬼になったんだ? それだけのリスクがあるっていうのに」
「たいした理由じゃない。それに私には帰るべき場所がなかったし、誰のことも考えなくてよかったからな」
「帰るべき場所がない?」
「そうだ。私は帰る場所を失った。儀鬼にならなければ、できないことがあった。だからこの道を選んだんだ。もしどちらかの理由が欠けていたら、私は儀鬼になどならなかった」
未妙が言う。
「そうか。そういうことか」
俺はつい独りごとを言ってしまう。
未妙の言葉を聞き、自分が何を思っているのかに気付いたのだ。
「駄目だ。やっぱり俺は儀鬼になる」
「お前はどれだけ愚か者なんだ? 私の話を聞いていたのか?」
「聞いた。理解した。その上でわかったんだ。俺は帰る場所を失いたくないんだ」
「例え二度と戻れなくなるとしても?」
「ああ。俺は一生帰れなくなったとしても、唯や家族を守りたい。守れたかもしれない過去を悔んで、一生を生きるよりも、帰る場所があるという希望を持って、一生を生きていきたい」
俺は言う。
未妙が睨みつけてくるが、俺は負けずに見返す。
「もし守れなかった時の地獄に比べれば、儀鬼となることはたいしたことじゃない。そうなんじゃないのか? 未妙はそう思うんじゃないのか?」
視線を合わせたまま、俺は聞く。
未妙は言葉を返さずに、俺を見つづける。
一分近くの間、無言の時間が続き、先に未妙が目をそらした。
「お前は愚か者だ。救い難い阿呆だ」
「かもな。でも未妙には俺の気持ちがわかったんだろう?」
未妙はため息をつくと、かすかに頷いた。
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