第27話 大切な実家

 電話を切ると、見慣れた自分の家が見えてきた。

 唯と別れたあと、未妙から連絡が来て、今まで電話していたのだ。

 未妙は草佩主(くさはぬし)をなんとかまいたらしく、これから隠れ家に戻ると言っていた。

 俺は学校での出来事を伝えて、どうすればいいかと相談した。

 未妙が言うところ、草佩主(くさはぬし)は未妙が行った<混沌>の数段上の術を行い、学校全体を取り巻く陰陽を変化させたのだそうだ。

 それによって学生や教師たちに鬼が存在するという意識を植え付けた。

 草佩主(くさはぬし)を倒せれば、人の陰陽の性質によって、その意識は消し去られるだろうが、それまでは今のままだろうというのが未妙の考えだった。

 神の御業は陰陽師でもどうにもならない。そういうことらしい。

 俺は自分の無力さに苦いものを感じながらも、電話を切るしかなかった。

 息を吐き、気持ちを切り替えて、五日ぶりの家を見る。

 懐かしい。

 父さんや母さんの実家に帰った時など、もっと離れていたことは何度もあるのに、すごく久しぶりな気がする。

 俺はカバンの中からキーケースを取り出して、ドアの鍵を開けようとする。

 ノックをしたほうがいいんじゃないかという考えが頭をかすめるが、いやここは自分の家なんだから正々堂々とノーノックでいこうと思い直した。

 

 鍵を開けて、家の中に入る。


「ただいま」

「お金を返してくれる?」


 母さんが立っていた。いつも通りの冷静な表情で、手のひらを突き出している。


「あ、ああ。ごめん。今は手元になくて。残ってはいる。あとでちゃんと返す」

「そう。じゃあ、いいわ。お腹はすいている? 久しぶりに帰ってきたんだから、ご飯でも食べなさい」


 母さんは手を下ろすと、リビングに歩き出した。

 俺は靴を脱いで、母さんのあとを追う。

 目慣れた壁紙に、見慣れたドア。階段も、天井のしみも、床の汚れもすべてが懐かしい。

 まだ五日しかたっていないのに、なに浸っているんだよ。

 俺は心の中でツッコミを入れてから、リビングのドアを開けた。


「ん? え? なんで?」


 父さんがいた。

 リビングのソファーに座って、リモコンのボタンをせわしなく押している。

 ノーネクタイでくたびれた黒のスーツ。髪は楽だからと短く刈られており、お腹はほどほどに丸くなっている。昔は母さん以上のスポーツマンだったらしいが、俺が生まれて以来、おじさん化を一途を辿っているのだ。


「平日の昼間は面白いものがやってないな」


 父さんはリモコンをテーブルの上に置くと、ぞんざいな動きで俺の前にやってきた。

 視線の高さはほとんど変わらない。

 ただ、父親の眼差しでじっと見つめられる。


「このバカ息子が! どこをほっつき歩いていたんだ!」


 聞いたこともないようなどなり声。

 俺は反射的に首をすくめて、頭を下げてしまう。


「まったく! 俺に何も言わないで! お前はまだガキなんだよ! 勝手に出ていくなら、自分で生活できるようになってからいけ! 俺が、母さんが、どれだけ心配したと思っているんだ。この馬鹿野郎が!」


 肩を掴まれ、ぎゅっと握りしめられる。


「ごめんなさい」


 俺は心の底からその言葉を口にした。


「お父さん。もういいでしょ? ごはんが冷めちゃうから」


 母さんがいつもの口調で言う。父さんは何事もなかったかのように「ああ。そうだな」とうなづくと、ダイニングに向かって歩き出した。

 

 うちのリビングはダイニングと床続きになっていて、引き戸でさえぎられているだけだった。大勢の人が来たりする時は引き戸を外して、一つのスペースにするのだ。今は冷房を使っているためか閉まっている。

 父さんが引き戸を開ける。

 俺は父さん越しにダイニングを見て、さらに驚いた。

 ダイニングテーブルには、お祝い事でもあったかのように、たくさんの食べ物が並べられていた。

 ハンバーグ、ポテトサラダ、お寿司、お味噌汁、山盛りのサラダ、ポテトフライ、エビフライ、天ぷら、エビチリ。

 俺の好きな食べ物が、四人がけのテーブルの上にぎゅうぎゅうに並べられている。


「時間がなかったから。全部お惣菜なの。連絡をしないあんたが悪いんだからね」


 母さんが小皿を用意しながら言う。


「なんで?」

「唯ちゃんが教えてくれたの」

「それで買ってきたの?」

「そう。近くにスーパーがあって助かったわ」


 俺は父さんを見る。

 父さんはいつも通りテレビの見やすい席に座ると、ポテトフライをつまんで口に入れた。


「母さんが『今すぐ帰ってこい』って連絡があったからな。午後休を取って戻ってきた。こう言う時、暇人なのは得だな」


 もぐもぐと食べ物を口に入れながら、しゃべる。


「でも、いや、その、なんて言えばいいんだっけ……?」

 俺はイスに座って、テーブルの上に目を向ける。十六年かけて好物となった食べ物が端から端まで並べられている。

 母さんが取り皿とお箸を用意してから、席に座る。


「いただきます」


 母さんが言う。


「いただきます」


 父さんと俺は母さんにならって言う。


「空也。食べる前に教えなさい。あんたが言っていた問題は全て終わったの?」

「いや、まだ。でももう少しで終わると思う」


 俺は手を合わせたまま返事をする。


「そう。ならいいわ。もし中途半端なところで逃げ出したんだったら、一口も食べさせるつもりはなかったんだけど」

「あ。まじで?」

「ええ。まじで」


 母さんが力強くうなづく。


「それじゃあ、これはお祝い事って意味?」

「そのつもりで準備したわ。ちょっと早かったみたいだけど」

「息子の問題が終わったからって、やりすぎじゃない?」

「空也のお悩みはどうでもいいわ。十代の日常なんて、別に興味ないし」

「じゃあ、なんで?」

「私たちの子供がちゃんと帰ってきた。そのお祝いよ」


 母さんがさらりと言う。

 恥ずかしさと嬉しさが込み上げてきて、俺は言葉を詰まらせてしまう。


「つまらない子供ね。なにを感動しているの?」


 母さんが余裕に満ちた表情で言う。父さんはにやにやとした笑いを浮かべている。


「してねえよ。母さんが母親っぽいことを言ったから、びびっただけだよ」

「空也は俺と似て、表情が顔に出やすいな」

「出てねえし」

「二人とも少しは落ち着きを学んだほうがいいと思うわよ」

「あれ? 俺にも火の粉が降りかかってきた」


 父さんがきょろきょろと俺と母さんを見る。


「もちろん。私の頭の中では、あなたの悪い癖は十年後の空也の癖になり、空也の悪い癖は昔のあなたの癖を思い出させる、という形になっているの」

「悪い癖ってあたりが、母さんの性格の悪さを感じさせるな」


 父さんがぼやき、母さんがにたりと笑う。

 俺は思わず、二人をじっと見つめてしまう。

 聞きなれたやり取りが聞けることが嬉しくしてたまらなかった。


「なにをみているの?」

「別に。二人とも老けたなって」


 俺は慌ててごまかすと、エビフライを頬張った。

 母さんは不愉快げに俺を睨みつけ、父さんが不満げに唇を尖らせる。


「すみません。勘弁してください。冗談です」


 俺はエビフライを呑みこんでから、二人に頭を下げた。

 そのままの体勢で、声には出さずにつぶやく。

 父さん。母さん。

 ありがとうございます。

 あなたたちのおかげで、俺は十六年間生きていくことができました。

 本当に、本当に、心から感謝しています。

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