第20話 母親からの餞別
「あんた、なにしてんの?」
家に戻って、修学旅行の時に使ったボストンバックに服をつめていると、後ろから声が聞こえてきた。
俺は息を呑み、ゆっくりと吐き出す。
服は着替えたし、傷口も表には出ていない。外から見ただけでは、何が起こったのかを知ることはないはずだ。
時刻はすでに深夜の十二時を過ぎている。
父さんが母さんが眠っている間に出ていこうと思い、この時間まで外にいたのだが、どうやら母さんは母さんで俺が帰ってくるのを待っていたらしい。
声にも雰囲気にも眠気は感じない。
俺はひそかに深呼吸をしてから振り返った。
母さんは変な柄のパジャマにぼさぼさ頭と完全に寝る前の姿をしていた。ただその目は鋭く、俺のわずかな動きも見逃さないようにしているのは明らかだった。
「なにって服をつめているんだよ」
「なんで?」
「さっき友達のところにいってきたじゃん? そこで夏休みをたっぷり遊ぶために、みんなで合宿して宿題を終わらせようって話になったんだよ」
「もっとましな嘘をつきなさい。あんたバカなの?」
母さんが呆れた声で言う。
俺はため息をつき、「わかったよ」と返事する。
「友達がやばい奴らに狙われているらしい。警察にいっても意味がないから、話がつくまで隠れなきゃいけないんだ。俺はそいつの付添をすることにしたんだ」
「はい。嘘。母さんの情報網をなめないでもらいたいわ。ご近所のみなさんからそういう怖い話はだいたい教えてもらっているの。友達の名前と悪いやつらの名前を教えなさい。すぐに調べてあげるから」
一刀両断。
二段構えの嘘を作ってみたのに、一瞬で見破られてしまった。
想像の通りと言えども、母さんを騙すのはやはり難しそうだった。
俺は何も言えず、顔をそらして、服をつめる作業を再開する。
世の中にはコインランドリーという便利な仕組みがあるので、数日分の服さえあればいいはずだ。
「女?」
「なんでだよ」
母さんの言葉に、俺は思わず手を止めて振り返ってしまう。
「あんたみたいな子供が思い詰めた顔で家出の準備をしているんだから、それが理由かと思っただけ」
「ちげえよ。そんなんじゃねえから」
「ふーん」
母さんが疑わしげな目つきで俺を見る。
俺はその目を見返しながら言った。
「言っておくけど、母さんに止められても、俺はいくからな。これが俺がしなくちゃいけないことなんだ」
「あんたみたいなお子様には、責任なんてない。親でも学校でも頼れるものにはなんでも頼るべきなのよ」
「それじゃあ、無理なこともあるんだ」
俺は首を振る。
胸が急に痛くなり、歯を食いしばる。
もし草佩主(くさはぬし)が俺や両親を見つけ出して、殺してしまったら。これが最後の会話になるかもしれないのに、言い争わなくちゃいけないなんて。
俺はなにをしているんだろう?
そんな思いがかすめて、力が抜けそうになる。
「空也。大丈夫?」
母さんが急に心配そうな声を出す。
心臓の痛みが更に強くなる。
小さな子供の時のように、母さんにそばにいたい。頭をなでてもらい、「だいじょうぶ」といってもらいたい。
そんな衝動が膨れ上がってくる。
俺は唾を呑み、気持ちを抑えつけて言った。
「大丈夫。誰にも迷惑はかけないし、俺も危険なことをする気はない。約束する」
「約束、ね」
「そう。ちゃんと守るから、安心して」
「わかった。わかったわよ」
母さんが寂しげに言う。そのままくるりと振り返って、俺の部屋から出ていく。
俺は目をつぶって、息を止める。そうやって自分の気持ちを落ち着かせてから、再び服を詰め込んでいった。
十五分後、俺は最後のチェックを終えて、ボストンバックを肩にかけた。
階段を下りて、玄関に向かうと、母さんが座っていた。
「寝てなかったの?」
「もちろん」
母さんは立ち上がって、俺を見る。その表情はいつもと変わらなくて、まるで学校に行く前の朝のようだった。
俺はバックを肩にかけ直してから言う。
「いってくる。ちゃんと毎日連絡はするし、誰にも迷惑はかけない。状況が変わったら、すぐに帰ってくるから」
「そんなことはどうでもいい」
母さんは手に持っていた封筒を突き出してくる。
「十万入っているわ。帰ってきたら、お釣りはちゃんと返しなさいよ」
「え? なんで?」
俺は戸惑いながらも、封筒を受け取る。
「あんたは馬鹿? 私の息子が困っているの。なにもしないなんてできるわけある?」
母さんが言う。
俺は唇の裏側を噛んで、ゆっくりと頭を下げた。
「あ、ありがとうございます」
ボストンバックを下ろして、チャックを開けて、服と服の間に大切にしまう。
金額よりも何よりも、母さんがそう言ってくれることが嬉しかった。
「さっきのとは別に、もうひとつ約束してくれる?」
俺が立ちあがるのを待って、母さんが言う。
「なにを?」
「ちゃんと帰ってくること。お父さんも私も待っているから」
柔らかな声でそう言われる。
俺は息を呑む。
胸の内側が痛いほど熱くなるのを、ただ頭を下げる。
「約束します。ちゃんと帰ってくる」
「そう。約束を破るんじゃないわよ。いってらっしゃい」
母さんが一歩わきにそれる。
俺はその前を通って、靴を履き、ふりかえる。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
母さんが寂しそうに微笑み、俺は目をそらす。
この人と、この人が愛する人たちが誰も傷つきませんように。
俺はそう思いながら、家を出た。
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