第19話 日常からの逃走


 十分後、俺と未妙は人の姿になって、団地の自転車置き場に隠れていた。

 ちょっとした段差をベンチ代わりにして、二人でじっと耳をそば立てている。


「たぶん、大丈夫だろう」


 未妙が言う。

 俺はほっと息を吐いた。

 頭から足まで傷だらけではあったが、致命傷は負っていなかった。

 さすがにジャージはぼろぼろで、もう使い物にならなくなっていたが、元に戻せないのはそれぐらいで済みそうだった。


「愚か者。愚か者。愚か者。この愚か者が。どうしてきた? 

 お前の知性は鬼以下だと思っていたが、それに輪をかけてバカだったとは、本当に信じがたい。お前があの場所にいた正当な理由を言ってみろ。

 そんなものがあったらの話だが」


 未妙は怒りを隠しきれていない顔で俺をにらみつける。黒のトップスとショートパンツという露出の多い姿のせいか、俺よりも体の傷が目だっている。


「その前に、前々から気になっていたんだけど、なんで未妙の服は燃えてないんだ?」

「私の炎は私の陰陽によって巻き起こされる。この服は私の陰陽に対して、影響がないように調整されているからだ」

「すげえな。それは」

「で?」


 未妙が冷めた視線を投げつけてくる。

 さすがに今の話題で話をそらすのは無理だったらしい。

 俺は観念して、素直に頭を下げた。


「すみません。俺が悪かったです。未妙を手伝えると思ってきたんです」

「そうか。ありがとう。お前のおかげで見事に神を取り逃がせたよ」


 未妙は皮肉げな口調で言う。


「でも一回は助けただろ?」

「あれこそが邪魔だったというんだ。お前は<始終>をぶち壊した。そのせいで草佩主(くさはぬし)に逃げ出すチャンスを与えた。あのまま続けていれば、あいつを和魂に戻せていた」

「でもあいつの腕が背後から狙っていたんだぞ? まず間違いなく、未妙に突き刺さっていた」

「だろうな。私は死にかけていたかもしれん。だが致命傷でなければ生き残れる。鬼の治癒力は人間の比ではないんだ」


 未妙がそう言い、不快そうに鼻を鳴らす。


「――悪かった。そこまで考えていなかった。未妙が危ないと思ったら、反射的に動いていたんだよ。すまなかった」


 俺は頭を下げる。

 未妙はなぜか不思議そうに目を丸くすると


「もういい。お前のおせっかいさを計算していなかったら、私が悪い」と手を振った。

 それから「心配してくれてありがとう。無意味だったが感謝する」と視線をそらして言った。

 その未妙の表情は恥ずかしげで、俺はつい指摘したくなったが、わざわざ地雷を踏みにいくこともないだろうと思い直した。

 未妙の怒りが落ち着いてくれたのなら、それだけで十分だった。


「ところで草佩主(くさはぬし)はなんで急に強くなったんだ?」

「強くなったんじゃない。今までが弱かっただけだ」


 未妙は指で地面に二重丸を描く。


「私は河野町一帯に結界を張った。陰陽師が<始終>と呼ぶ結界で、外からの干渉を妨げるものだ。<始>の結界で外とは違う陰陽を作りあげて、<終>の結界で、更に異なる陰陽と成す。それによって、結界内は外から断絶した環境となり、神の力は大きく制限されるんだ」

「じゃあ、俺が結界をぶち壊したから、あの草佩主(くさはぬし)は強くなったってことか?」

「そうだ。私は草佩主(くさはぬし)が現れそうな場所を洗い出しては、<始終>の下準備をしておき、やつが飛びこんできたら、はめられるようにしていたんだ」

「じゃあ、まだチャンスはあるってことか?」

「相手は神だぞ? 私の<始終>がどんな陰陽を作るのかはわかっているはずだ。どれだけ巧妙に準備したところで、もう穴に落ちてくれることはないだろう」

「そっか。すまなかった」


 未妙の説明によって、自分が何をしたのかがわかってくる。


「気にするな。時間はかかるが、<始終>以外にも手がないわけじゃない」


 未妙は言う。

 俺はその言葉を聞いて、ふと疑問を覚える。


「なあ、未妙が前に言っていたよな。儀鬼は内なる気を使って、特殊な現象を起こすんだろう。で、陰陽師は外なる気に対して影響を与えるんだろう? その<始終>っていうのは内なる気で出来ちゃうものなのか?」


 なんとなく聞いてみる。

 未妙ははっとした表情で俺を見つめてくる。

 悔しげに眉をひそめて、不快げな顔をする。


「俺の顔になにかついていますか?」

「いや、お前を侮りすぎた自分が悔しいだけだ」


 未妙は体中を使ってため息を吐いた。


「お前の言うとおり、<始終>は内なる気では使えない。陰陽師の領分であり、儀鬼の領分ではない」

「じゃあ、なんで?」


 未妙がためらいを見せる。

 何度か息を吐いて、口を小さく動かす。

 それから鋭い視線を俺に向けてくると、重々しげな口調で言った。


「私は元陰陽師なんだ」 


「ふーん」


 俺はうなづく。

 数秒の間の後、未妙が「あれ?」という間の抜けた顔をした。


「儀鬼であり元陰陽師なんだぞ。驚かないのか?」

「ごめん。驚きポイントが理解できなかった。それって珍しいんだ?」


 俺は聞く。

 未妙は頭を抱えて、自分の髪の毛をぐしゃぐしゃにしたあと、くすくすと笑いだした。


「壊れた?」

「冷静だ」


 すぐに切り返される。


「そうか。言われてみれば、そうだな。お前は魑魅魍魎の世界では生きていないし、鬼も陰陽師も知らないんだな。確かにそれで驚けと言うのは無理があるな。驚く必要はない。むしろ驚いたら、私が驚くよ」


 未妙はなぜか苦笑いを浮かべている。


「こちらの世界の話を、こちら側ではない人間に話すのは久しくなかったからな。すまん。お前のことを過大評価していたよ」

「あれ? さりげなくバカにされた?」

「いや、バカにしていない。お前の常識を気に入っているだけだよ」

「常識に気に入るとか気に入らないとかってなくね?」


 俺は言うが、未妙は「あるある」といなしてしまう。

「まあ、いい。私のことは捨て置け。特に気にすることはない」

 未妙はそう言うと、真顔に戻った。


「それよりも問題はお前なんだ」

「俺?」

「そうだ。お前は奴に目を付けられた可能性がある」

「なんで?」

「神は自分と地域の陰陽の調和を欲する。鬼は不易質であり、神からの影響を受けにくい。ゆえに神から見ると、鬼は邪魔者になるわけだ」

「俺は鬼人じゃないのか?」

「そうだ。だが神の前にいた時、お前は鬼だったろ?」

「あ」


 言われてみれば、その通りだった。


「私はこれから次の手の準備をする。悪いが、お前は連れて行けない。鬼が二人もいれば目立つし、お前が出る幕もないからな」

「じゃあ、普通に生活をしていればいいんだな?」


 未妙は首を振る。


「そうはいかない。神は愚かでも神だ。お前を狙いに来る可能性はゼロじゃない」

「どうやって?」

「人の陰陽と鬼の陰陽は別物だが、どちらにもお前の特性が現れている。神が目を凝らせば、今日出会った鬼がお前だったことに気付くだろう。一度気付けば、この地域一帯を探り出し、お前の居場所を見つけることは容易にできるはずだ」

「じゃあ、どうすればいい?」

「選択肢は二つある。一つ目は私と同じように『世界』を用いて、自らの陰陽をごまかし、探知されなくする術だ。だが残念ながら『世界』は一つしかない」


 未妙は『世界』を取り出し、またポケットに入れる。


「もう一つは?」

「私の隠れ家に来い。私が奴と争っている間、お前はそこに潜んでいろ」

「潜む? 家を出て?」


 俺は語気を強めてしまう。

 自分が今ここにいる理由。どんな状況になっているか。ほんの十数分前に命を狙われていたこと。全て分かっているつもりだったのに、家を出るとは考えてもいなかった。

 たとえ何が起きても、帰る場所は変わらないと思いこんでいたのだ。


「安心しろ。私が草佩主(くさはぬし)を和魂に戻すまでの間だけだ」

「具体的な期間は?」

「長くても十日ていどだ。勝ち負けはともかく、その間に決着はつく」

「勝ち負けはともかくって言葉は気に入らないけど……わかった。未妙の言うとおりにする」

「そうだ。それが最善だ」


 未妙が言う。

 俺はうなづくが、すぐに気になることに気付いた。


「家族は大丈夫なんだよな? 草佩主(くさはぬし)もさすがに素通りしてくれるんだよな?」


 未妙の表情が曇る。


「それは、断言できん。お前が一緒にいたほうが危険なことは間違いない。だが神がお前に関係ある者として、お前の家族や知り合いを狙う可能性は否定できない」


「じゃあ、俺はどうすれば」

「どうしようもできない。お前は神と戦えない。お前は無力でありながら、目立つ存在だ。隠れているのが一番なんだ」


 未妙が冷静な口調で言う。

 俺はその言葉に反論できず、口を開けない。

 未妙が言っていることはもっともだった。俺は草佩主(くさはぬし)と戦えさえしないし、戦ったとしても勝ち目はない。無駄に死ぬのがオチだし、隠れているのが一番なのだろう。

 俺が未妙と一緒にいても足手まといだし、遠くから手伝うすべもない。

 家族と一緒にいれば、狙われる可能性は高くなり、しかも守ることができない。

 隠れているのが正しい。

 それはわかる。間違っていない。

 でも、本当にそれでいいのか?

 何も知らない家族や友達を、俺のせいで永遠に失う。

 それをお前は受け入れられるのか?

 そうした自分を許せるのか?

 無理だ。許せない。

 俺は一生自分を恨む羽目になる。

この町で何が起こっているのかを知っているのは、俺と未妙だけであり、俺たちが対処しなくてはいけないのだ。

 未妙だけじゃ納得できない。俺も戦わなくちゃいけない。

 

「――儀鬼」


 俺は無意識の中でつぶやいた。


「儀鬼。儀鬼だ。俺も未妙と同じ儀鬼になればいい。そうすれば一緒に戦える。未妙としても味方が増えるし、俺としてもみんな守れる。いいとこばっかじゃないか」

「やめておけ。出来ない。お前には無理だ」

 未妙は拒絶するような口調で言う。

「無理ってことは、不可能ではないんだな?」

「違う。不可能だ」

 未妙は首を横に振る。

「鬼人と儀鬼は別物だ。鬼人は人間だが、儀鬼は儀式で生まれた鬼なんだ。お前は人間ではなくなる」

「それは前に聞いた。でも他の人から見たら、俺と未妙の区別はつけられないだろ?」


 俺は言う。

 未妙は大きなため息を吐き、もう一度首を振った。


「お前はわかっていない。人間の陰陽に属するか、鬼の陰陽に属するか。そこには大きな違いがあるんだ」

「違い?」

「そうだ。ありとあらゆる物には固有の陰陽がある。それによって物の性質は大きく依存する。人の陰陽の中にいる内は人間であるが、鬼の陰陽になってしまえば、もう人ではなく鬼なんだ」

「具体的な違いがあるっていうのか?」

「ああ。簡単なところからいうと、鬼は神域に立ち入れない」


 俺は神社の前で未妙が言っていたことを思い出す。


「直感が逃げ出せと言うとかだっけ?」

「そうだ。神社や仏閣など霊験あらたかな場所に行こうとすると、全身が拒否する。無理やり入ることもできないわけではないが、入ったら入ったで、今度はその領域にいる神から集中砲火を受ける」

「でも入らなければいいんだろう?」


 俺の言葉にかぶせるように、未妙が「さらに」と続ける。


「鬼の陰陽はよく研究されており、魑魅魍魎の世界に生きる奴らはたいてい感知できる。陰陽師や儀鬼と言った人間サイドはもちろん、悪魔や怨霊と言った非人間サイドにも気付かれるようになる。相手がどうでるのかは千差万別だが、人間でいた頃よりも、ずっと危険人物になる」

「危険人物?」

「お前の周りに魑魅魍魎がやってくるんだ。お前はもちろん、周りの人間も巻き込まれる」


 俺は息を呑む。

 自分のせいで家族や友人が不幸になる。

 それでは全く意味がなかった。


「他にもある。鬼の寿命は人間の3倍から5倍と言われている。もちろん老けるのも遅く、年齢不詳になる。いずれ周りの人間はお前の異常さに気付くようになるだろう」

 未妙は自分を指差し、「私の年齢を知ったら、お前は驚くぞ」と付け加えた。

「つまり、お前は一つの場所に落ち着くことを許されなくなる。仕事や家はもちろん人間関係も数年に一度は断ち切る必要がある。たとえ、彼女やお前の家族が理解してくれたとしても、お前はその地域で異端となってしまうのだ」

 未妙はそこで言葉を区切ると、あきらめに満ちた目でじっと俺を見つめてきた。


「鬼になる。それはつまり全てを失うということだ」


 重く、深い声。

 俺は何も言えなくなる。

 頭がふらつき、立ち眩みを覚えたみたいだった。

 家族。友達。学校。

 今までずっと存在していて、これからもあり続けると思っていたもの。

 その全てを失うということが、理解できなかった。


「お前は儀鬼になるな。失った物は二度と取り戻せない」 


 未妙が言う。

 俺は言葉を返せない。


「家に帰って、荷物をまとめろ。隠れ家の場所はすぐに連絡する」


 未妙が立ちあがり、俺を見る。

 俺はうなづき、その言葉にただ従った。

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