第9話 血まみれの幼馴染

 俺は腕を使って、ゆっくりと前に進み、唯のそばに近寄る。

 額の角も、浅黒い肌も全てそのままだったが、すぐに唯が唯であることがわかった。

 憑き物が落ちたように、暴力的な雰囲気が消えているのだ。

 鬼がいなくなり、唯になっている。

 俺はそのことを感じとり、急いで鬼に視線を向けた。

 鬼はゆっくり首を振る。

 

「無理だ。彼女は私の炎で瀕死の状態になっている。

 一時的に陰陽のバランスが戻り、人のものとなっているだけだ。もし彼女の傷が治れば、また鬼の陰陽となる」

「なんだよそれ。どういうことだよ」

「陰陽はそういうものなのだ。陰と陽は不易でありながら流行でもなり、一度根付いたものは直せないんだ」


 鬼が言う。

 俺はその言葉の意味がほとんどわからなかったが、鬼が無理と言っていることは理解できた。

 唯に視線を戻す。

 服はもちろん皮膚も焼けていて、ところどころが黒ずんでいる。体の大部分は露出していて、鬼に呑み込まれていることがわかる

 骨も筋肉も想像できなかったほど張り詰めていて、肉食獣の体付きのようだった。

 静かに手を伸ばして、手のひらでその頬に触れる。

 熱い。ざらついている。

 人の肌というよりも、サメやワニのような手触りだ。


「ゆいっ、ゆいっ、ゆいっ」


 俺はその頬を撫でながら、声をかける。

 なにを言えばいいのか、どんな言葉をかければいいのか、まったくわからない。

 ただ声だけは聞いてほしくて、唯の名前を呼びつづける。

 

「ん――く、くうや?」


 唯が目を開ける。俺を見る。

 人とは違う金色の瞳で、俺を見つめてくる。


「ゆいっ! 大丈夫か?」


 言った瞬間、自分を殴り飛ばしたくなった。

 全身を炎で焼き尽くされているのだ。なんて馬鹿なことを聞いているんだ。


「んっ」


 唯は小さく笑って、ほんの少し頷いてくれる。

 俺はつばを飲み込み、唯の手を取り、両手で握りしめた。


「大丈夫。安心していい。俺がお前を助けてやる。

 今すぐにでも治してやるからな。救急車は呼んだ。警察も呼んだ。

 もう全部終わったんだ。だから安心して、俺に任せておけ。

 お前はゆっくり眠っていていいから。目を覚ましたら、全て終わっているから。

 休んでいろ。ちゃんと眠って、明日は学校に行こう」


「んっ。そう、だね」


 唯が言う。

 俺は息をつまらせて、言葉を返すことができない。


「だい、じょう、ぶ。いたく、ない、よ。もう、わからない」


 俺の顔を読んだのか、唯がまた笑おうとする。


「無理するなよ。それにもうわからないじゃねえよ。

 痛くないのは傷がないからだよ。何もかもが悪い夢だったんだ。唯はずっと唯だ。ガキの頃からずっと一緒にいただろ? 俺の言葉を信じろ」

「うん。空也は、空也だ」

「ああ。俺は俺だ。お前が寝るまで、ここにいてやる」

「あり、がとう」


 唯が手を握り返そうとしてくる。俺は精一杯の力で、その手を握りしめる。


「悪いが、まだ終わりじゃない」


 鬼が俺のそばに寄ってきて、囁き声で言う。


「この程度では鬼は死なない。傷が塞がったら、また鬼となるだろう」


 俺は鬼の目を見返す。


「その前に彼女の心臓をとめる。それが私の使命だ」

「お前っ!」


 俺は鬼を睨みつけた。鬼は動じず、俺の視線を受け止める。


「空也――」


 唯が言う。

 俺は慌てて視線を戻し、その手を握りしめる。


「大丈夫。気にするな。今のは下手な冗談だ。唯は休んでいればいい。何も心配することはない」

「ちがう、ちがう、の」


 唯は首を振る。


「まえがり、したい、の」


「前借り?」


 唯がこくりとうなづく。


「なつやすみ、の、やくそく。おぼえ、てる?」

「もちろん。まだ俺は何をさせられるのかってびびってるよ」

 唯が口元をかすかにあげて、笑みに似た表情をする。

「あれ、つかわせて」

「何に?」


「空也。あなたが、わたしを、ころして」


「え?」

「わたしは、しに、たい。おわりに、したい。空也に、ころして、もらいたい」

「なんだよ、それ。そんなことを言うなよ」

「ころして、わたしを」

「なんだよそれ。なにが死にたいだよ。なにが殺してもらいたいだよ。

 頼むから、そんなことは言わないでくれ」


 俺は唯の手をぎゅっと握りしめる。

 唯は俺を見ながら、そっと握り返してくる。

 胸の内側がぎゅっと締めつけられる。

 俺は歯を食いしばって、その苦しさに耐える。


「おねがい」

「無理だよ。嫌だ。できない。俺は唯が大切なんだよ。失いたくない」

「でも、空也が、いいの」

「いいの、じゃねえよ。選ぶなよ。俺がお前を助けてやる」

「ありがと。でも……」


 唯が痛みにたえるように顔をしかめる。


「もう、空也に、みせたくない。こんなすがた」

「いいよ。気にするな。俺はまったく気にしていない」


 唯は首を振る。


「わたし、が、きにする、の。みせたくない。はやく、ころして」

「いやだ」

 俺は頭を下げて、唯と自分のおでこをくっつける。

「悪いが時間がない。お前がやれないならば、私がやる」


 鬼が言う。

 俺は答えない。

 唯の体温を感じることだけに、気持ちを集中させる。

 昔から一緒だったのだ。母親の中にいる時からの知り合いだったのだ。

 俺よりも俺のことを知っている相手だったのだ。

 大切で、大切で、大切で。

 愛おしくて、愛おしくて、愛おしくて。

 初恋だった。

 ずっと好きだった。

 生まれてから、ただ一人だけ好きになった人なのだ。

 息を呑み、歯を食いしばる。

 目の奥から涙があふれてくる。

 俺は唯の手を握りしめてから、顔をあげる。


「わかった。俺が唯を殺してやる」

「ありがと」


 唯は笑みをもらす。

 柔らかい視線を向けながら、俺の目をじっと見つめてくる。


「空也、大好き。生まれてから死ぬまでずっと好きだったよ」


 小さな息を吐き、もう一度笑顔を向けてくる。

 それから安心したように目を閉じると、静かに気を失った。

 

 

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