第1史 終章 鬼の名を呼べ

第33話 鬼の名を呼べ

「よし」

 俺は自分の部屋の中を見渡した。

 漫画は全て本棚に収まっているし、勉強机の上にあった物はすべて引き出しにしまった。

 床は水拭きをしたし、天井やカーテンレールの上の埃も払い落した。

 クローゼットの中の服は、すでに家から運び終わっていて、残っているのはもう着ることはなさそうなものだけだった。

 テレビラックの中も片付けたし、ベットの下も掃除済み。やるべきことは全部終わった。

 昨日の夜、両親を起こさないように気をつけながら、片づけをした部屋は朝の光に照らされて、俺の部屋とは思えないほど綺麗になっていた。

 俺は学生カバンから封のされた手紙を取り出して、勉強机の上に置く。

 いってきます。

 そう心の中でつぶやいて、自分の部屋を出る。

 階段を下りて、廊下を歩き、玄関で学校指定の革靴をはく。

 久しぶりの学生カバンに、白ワイシャツと紺のパンツ。

 全てが懐かしくて、胸の内側が痛くさえなる。


 俺はその場で立ち止まって考える。

 声をかけるべきか。何も言わないでいくべきか。

 父さんは仕事に行ってしまっているだろうが、母さんはまだ朝の家事をしているはずだ。

 顔を合わせることはできるし、なにげなく最後の言葉をかけることもできる。

 でも落ち着いて話せられる自信はない。

 そう思って悩んでいると、予想外の声が聞こえてきた。

「何をぼけっとしているんだ?」

 父さんがスーツを着て、リビングからやってきた。母さんもいつも通り髪を結んで、後ろからついてくる。

「どうして?」

 俺はつい聞いてしまう。

「お前はとことん親をなめているな」

 父さんは俺の頭をがしがしと撫でてくる。俺は意味がわからなすぎて、されるがままになってしまう。

「俺たちは親だぞ? お前が考えていることぐらいわかるんだよ」

 そう言って、俺の頭をぽんぽんと叩く。

「空也はどこに行くつもりなの?」

 母さんが父さんの横に並んで俺を見る。その表情は真剣で、言葉通りの質問でないことは明らかだった。

「どこって学校だけど……」

「それで嘘を吐いているつもり?」

 母さんの切り返し。俺は言葉を返せない。

「あんたの様子がおかしいのは気付いていた。昨日の夜も一人でどたばたしていたでしょ? 私だけじゃなくて、父さんでさえ気付いていたのよ。そんな態度じゃ虫一匹だって騙しとおせないわよ」

「うるさくて眠れなかったから、今日は遅刻したんだよ」

 父さんが言い訳がましく言う。

 俺は素直に頭を下げて、「ごめんなさい」と言った。自分の愚かさ、自分の厚かましさが恥ずかしかった。

「それで空也はどこに行くの?」

 母さんがもう一度落ち着いた声で聞いてくる。

「学校。それから少し遠くに」

 俺は最小限の言葉で言う。もし話しすぎてしまえば、自分の気持ちを抑えられなくなりそうだった。

「どれくらいの間?」

「当分」

「寒いところ?」

「わからない」

「暑いところ?」

「たぶんどっちも」

「海外? 国内?」

「国内だと思っている」

「連絡はできるの?」

「うん」

「毎日してくれる?」

「できるかぎり」

「お金とか生活費とかは?」

「大丈夫。あてがあるんだ」

「そう」

 母さんは小さくうなづく。指はぎゅっと握りしめられていて、息は不自然なほどゆっくりとしている。

 父さんが母さんの肩に手を置いて、そっとなでる。

 母さんの小ささ。

 父さんも昔よりも年老いたことに今さらながら気付いてしまう。

 母さんが自分の気持ちを落ち着かせるように深く息を吸う。それから顔を上げると俺を見ながら言った。


「それで、いつ帰ってこれるの?」


 俺は言葉に詰まる。

 何も言えない。何も返せない。

 母さんが目を見開いて、唾を呑む。父さんの肩にもたれかかるようにして、ぎゅっとしがみつく。

 鼻のすする音が聞こえる。

「昨日の夜、母さんと話した。唯ちゃんからも少し話を聞いた。それで俺たちは決めたんだ。お前からは何も聞かないと。お前が話したいならともかく、話さないならば聞きださないと」

 父さんが俺を見て言う。

 俺はただうなづく。

 なにか言葉を口にしてしまったら、泣きだしてしまいそうだった。

 負けるな。俺。

 もしこの気持ちに従ったら、俺は家を出られなくなる。ずっとここにいたくなる。

 思い出せ。

 それがどんな結果を生むのか。

 それがお前の本当に望むことなのか。

 弱気になるな。自分を信じろ。

 俺は息を吐き、二人に目を向けた。

「父さん、母さん。本当にごめんなさい。もう気付いていると思うけど、俺はこの家から出ていきます。こんなカモフラージュをしてみたけど、もう通学をする気はない。

 自分探しとか、俺はビックになるとか、そんなつもりもまったくない。

 だけどこの家を出なくちゃけないし、もう戻ってこれないかもしれないと思っている。

 だから最後にきちんと言いたいんだ」

 俺は言う。

 父さんと母さんがこくりとうなづいた。

「今まで育ててくれてありがとうございます。

 あなたたちのおかげで俺はここまで成長することができました。

 あなたたちの子供として生まれたこと。それは俺の人生において最大の幸せでした。

 愛しています。何にも代えられないほど感謝しています」

 そう言って、頭を下げる。

 たくさんの気持ちや言葉が頭の中でぐるぐると回っていたが、それ以上は何も言えなかった。

 もし口にしたら、この場から動けなくなりそうだった。

 

「戻ってきて!」


 母さんが突然叫び、俺を抱きよせる。

「戻ってきて! あなたは私の息子なの。どうなっていてもいい。どんな姿になっていても、どんな性格になっていてもいい。ただ戻ってきて。お願い。それだけなの。会えないなんて、絶対に無理」

 爪が突き刺さるほどの強さで、きつく抱き締められる。

 俺はただうなづく。

 この人たちの子供でいよう。

 何が起きようとも、この人たちに恥じない生き方をしよう。

 そう強く誓う。

 母さんは数分近くぎゅっと俺を抱きしめていたが、急に手を離すと、小走りでリビングに戻っていってしまった。

「お前。母さんを泣かせるなんてたいしたもんだぞ」

 父さんはそう言うと、俺の頭をぐしゃぐしゃとなでまわしてからリビングに戻っていった。

 俺は最後に頭を下げてから、家を出た。

 


 

『父さん・母さんへ


 これから俺は家を出ます。

 二度と帰ってこれないかもしれないです。

 大切に育ててくれたのに、こんなことを言ってしまい、ごめんなさい。

 でもそれはあなたたちのせいではありません。

 むしろあなたたちのおかげで、俺はこの決断をすることができたんです。

 あなたたちが俺に愛情を与えてくれたから。

 俺のことを一人の人間として扱い、きちんと接してくれたから。

 だから、俺は自分の意思でこの家を出ていくと決めることができました。

 俺はそう決心できた自分を誇りに思っています。

 全ては父さんと母さんのおかげです。

 本当にありがとうございます。


 これから俺はひとつのことをします。

 それしか方法がないと言われたからです。

 人の記憶を移ろいやすいですが、人の感覚は変わりにくい。

 一度でも罪人と言われたら、その罪が嘘でも、嫌悪感を抱かれる。

 人の頭がそういう風にできている以上、その感覚をねじ曲げるしかないらしいです。

 記憶を書き換えても、その呪いはずっと降りかかる。

 だったら呪われてもいい人間が、呪いを受け入れるしかない。

 そう思っています。

 意味がわからないと思いますが、俺はそう考えました。

 その考えによって、父さんにも母さんにも迷惑がかかるかもしれません。

 近所で噂になったり、奇妙な目で見られるかもしれません。

 本当に申し訳なく思っています。

 最後の最後まで迷惑をかけてしまい、謝っても謝り切れないです。

 でも、もしできるならば、そんなだめ息子を誇りに思ってください。

 そう考えた俺のことを「やるじゃん」と思ってくれると嬉しいです。


 あとお願いがあります。

 唯に何かを聞かれることがあっても、

 この手紙のことは話さないでもらえると嬉しいです。

 なぜかと聞かれると難しいのですが、かっこつけたい、それだけな気もします。

 唯は何も悪くないですし、彼女は何も知りません。

 だから唯には、手紙の中身について、話さないでもらえると嬉しいです。


 この手紙の終わりとして、最後に言わせて下さい。

 父さん、母さん。

 体には気をつけてください。

 無理をせず、長生きしてください。

 本当に今までありがとうございました。

 感謝しています。

 全てはあなたたちの愛情のおかげです。

 ありがとうございます。

 愛しています。

 さようなら。

 お元気で。

                            空也より』



 お昼のチャイムが鳴り響く。

「よし」

 俺は頬を叩いて、校舎の中に入る。みんなにまぎれて、目的の場所に進んでいく。

 通いなれた廊下。

 見慣れた光景。

 全てを横目で眺めながら、足早に向かっていく。

 目的地は一つ。

 今まで何度も通った場所。

 記憶はもちろん、体が覚えている。

 階段を上り、廊下を曲がり、顔を隠しながら進んでいく。

 運がいいことに、誰にも話しかけられないまま目的地にたどり着く。

 教室。

 俺のクラス。 

 安心感さえ覚えるその場所に立って、俺はドアを見る。

 さて。いきますか。

 息を大きく吸って、ドアを開ける。

 教室の中は授業が終わったばかりで、まだざわついていた。

 お弁当を広げている生徒に、教科書を閉まっている生徒。

 俺の顔を見て、何人かが不思議そうに見る。


 窓際の席。

 唯が座っている。

 周りには誰ひとりいなくて、誰もが唯を無視していた。

 教室での事件の後、このクラスは奇妙な状態になった。

 草佩主(くさはぬし)が和魂となり、唯が鬼という記憶は消え去っていたが、唯を迫害したという記憶は全員に残っていた。

 クラスメイトが鬼。それはいくらなんでも馬鹿げている。

 でも北村唯という生徒は危険かもしれない。

 いくつもの事件に関係していて、近づくべきではないかもしれない。

 鬼。

 本当は鬼のような人間かもしれない。

 本当に鬼なのかもしれない。

 それは馬鹿げている。

 馬鹿げているけど……。

 じゃあ、あの時の騒ぎはなんだったんだ?

 あの北村唯を殺そうとした気持ちはなんだったんだ。

 自分は正しい。間違っていない。

 だったら、おかしいのは自分ではなく、あのクラスメイトじゃないのか?

 疑心暗鬼。

 唯は苛められるのでもなく、クラスの異物として、いないものとして扱われていた。

 その違和感は学校全体に広がっており、唯は完全な孤独に陥っていた。

 俺はそれを知ってしまっていたのだ。

 教室を横切って、黒板の前に立つ。

「ちょっと聞いてほしいことがある!」

 俺は手を叩いて、注目を集める。

 クラスメイト達が驚きあきれたような顔で俺を見る。

 空也じゃね。なにしているんだ、あいつ? 

 そんな声が聞こえてくる。

 唯は俺を見て、目を丸くしている。

 唇がかすかに動き、くうや、という名前を形作る。


「最近このクラスでは色々と騒ぎが起こっていたが、それは全て鬼のせいなんだ!」

 ざわつき。みんなの顔が硬直する。

「だけど、安心していい。このクラスには鬼はいない。誰も鬼ではないし、みんな普通の人間だ」

 何人かがあからさまに唯を見る。

 唯は目を潤ませながら、俺を見ている。

「今からそれを見せてやる!」

 俺は顔の前でもう一度手を叩き、じっと自分の心を眺める。

 これで本当に最後だ。

 ばいばい。果村空也。

 俺は鬼の血に意識を向けて、自分を解放する。

 爪が伸び、角が生え、体が大きくなるとともに、肌が灰色に変わる。

 息を呑む音。

 恐怖の声。

 先ほどの倍以上のざわめきがクラスの空気を震わせる。

 俺は意識して凶悪そうな笑みを浮かべながら言った。

「鬼はこの俺だ」

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