第7話 運命の日
あの後、唯は立ち上がると、足早に去っていった。
俺も放心状態から抜け出したあと、唯を追いかけたが、見つけることができなかった。
電話もつながらず、連絡もできず、俺は言葉をかける機会を失った。
その日の夜、唯から「今日のことは忘れて、明日からもよろしくね」というラインだけが届いてきたが、俺はなにも返せなかった。
忘れられるとはとても思えなかったが、唯の気持ちを尊重するのが一番のように思えたのだ。
次の日から、俺は鬼について調べ始めた。
わずかな可能性にかけて、図書館に通ったり、ネットを漁ったり、あの鬼を探そうと街を歩き回ったりしてみた。
鬼の資料は伝説や伝承に満ち溢れたいかがわしいものしかなく、あの鬼と運よく出くわすこともできなかった。
手かがりさえつかめない。
そんな無駄な時間に押しつぶされたまま、約束の一週間がたった。
唯は学校に出続けて、クラスメイトや友達たちと普段通りの生活を過ごしていた。俺との距離も相変わらずで、離れることも縮まることもなく、本当に全て忘れてしまったかのようだった。
もしかしたら何も起きないのかもしれない。
あの時の鬼の言葉はただの脅しで、命を大切にしろとか危険な場所には出歩くなとか、そういう言葉を遠まわしに伝えただけなんじゃないのか。
だって、あまりにもいつも通りで、何も変わらないじゃないか。
このまま何事もなく、来週になり、俺たちは笑って夏休みに入れるんじゃないのか。
俺は祈るような気持ちでそう思った。
でも俺の望みどおりにはならなかった。
異変が起きたのは、昼休み明けの古典の授業だった。
マイペースさに定評のある杉野が平安時代の文化について延々と話していて、
クラスは眠気によって穏やかな一体感に満ちているところだった。
俺はノートはもちろん教科書も見ずに、ちらちらと唯を見ていた。
唯は窓際の席でじっと教科書を見ていた。膝の上に手を置いて、ノートもまったくとっていなかった。
その態度は唯らしくなくて、俺は気になって仕方なかった。
「で、あるからに、この時代の和歌の特徴は、今の時代にも受け継がれていて、
私などがつい先日に参加させて頂いた、歌詠みの集まりである、霞の集いでは、この時代の決まりに則って語ることに――」
杉野の言葉が途中で止まった。
唯が突然立ち上がったのだ。
顔はふせたまま、勢いよく席を立つ。
椅子が倒れて、大きな音がして、クラス中の視線が集まる。
俺は慌てて近寄ろうと思うが、それよりも先に唯が話し出した。
「す、すみま、せ、せん。た、体調が悪いののので、ほけ、保健室にいっても、もういいいですか」
言葉はカタコトで、口調は平坦で、気力を振り絞っているかのような声だった。
状況を呑みこめていないのか、杉野が不思議そうに唯を見る。
「すみま、すみま、すみま、せせせんが、きもきも、きもちわわわわるいるいのででで」
痙攣しだしたかのように、唯の体が小刻みに揺れだす。
唯は机の縁をぎゅっと握りしめている。
「あ、ええ。はい。もちろん、早くいって下さい。保健委員のかた? 誰ですか? 付いていってあげてください」
「ああありがと、だだだいじょうぶ、ひとりでひとりでひとりで、いけいけいけ」
唯が机から手を離して、教室を出ようとする。
一歩、二歩、三歩。
四歩目を踏みだそうとした時に、その場に倒れこむ。
教室内がざわつき、そばにいた唯とよく喋っている神田絵里が慌てて近づく。
「来ないでっ!!」
唯が叫び声をあげながら、神田に腕を振り上げる。
神田に腕が触れて――勢いよく吹き飛んだ。
体が浮き上がり、後ろにいた真田雄一も巻き込まれる。二人は重なり合うように
ぶつかりながら、床に倒れ込む。
机が倒れて、二人の周りに教科書が散乱する。
人に殴られたというよりも、爆発に巻き込まれたかのような状況だった。
教室の中が静まり返り、二人が苦しげにうめき声をもらす。
唯は何かに耐えるように、自分の腕を強く握りしめる。
「近づかないで、近づかないで、近づかないで!!」
悲痛な声で叫び、立ち上がり、教室を見渡す。
鬼。
そこにいたのは唯ではなく、一匹の鬼だった。
肌は浅黒く変色し、瞳は金色に輝いている。額からは小さな角が生え、顔から首にかけての血管が浮き上がっている。
爪は伸び、刃物のように鋭くなっていた。
叫び声。
教室にいたみんなが、様々な声をあげながら、ドアに向かって駈け出していく。
唯の近くにいた早乙女優奈と北島透子とは恐怖のあまり金縛りにでもなったのか、そのまま席に居座っている。
「唯っ!」
俺は立ち上がって、前に出る。
クラスメイトと唯の間に入り込み、誰にも手出しをできないようにする。
クラスメイトのためじゃない。唯のためにも、人を傷つけさせるのを止めたかった。
岡村圭助・鈴木晴之・三村芳樹の成績低位三人衆が早乙女や北島たちを逃がそうとしている。
俺は場違いにも一瞬だけにやけてしまう。
鈴木が北島に片思いしていることは、このクラスの全男子が知っていることだったのだ。
付きあったら、男子全員になんかおごれよ。
俺はそう思いながら、視線を唯に戻した。
唯は俺を見ている。
感情のわからない瞳でじっと俺を見つめている。
「俺の声は聞こえているか? 言葉はわかるのか? 唯はまだ唯なのか?」
ゆっくりとした口調で声をかける。
怖くはないし、足も震えていない。
ただ息苦しくて、胸の内側がひどく痛んでいる。
一週間たてば、鬼となる。
だから鬼は期限を定めて、「殺しにくる」と言ったのだ。
「唯の寿命を延ばしたくない」「他に死人がでるかもしれない」と俺に伝えたのだ。
成績低位三人衆が神田と真田を引っ張り、早乙女たちを誘導しながら逃げていく。
教室を出る瞬間、岡村が「お前は?」という視線を送ってきたが、俺は無視した。
全員いなくなり、俺と唯は二人っきりになる。
安心したせいか、かすかに口元がゆるんでしまう。
よかった。これで少なくとも、俺以外の誰かが死ぬことはない。
唯は動かない。何かに縛られているかのように、まだ俺を見ている。
俺はその視線を正面から受け止める。
唯の心が俺からそれないように、唯の目をじっと見返す。
額の角、肌の変色、肉食獣に近づいた外見。
すべてがあの時に見た鬼にうり二つだった。
だけど、髪型だけは違う。
よく似合っていたショートヘアーに、見慣れた花柄のヘアピンがついている。
「ごめん。本当にごめんな」
できるのならば地面に這いつくばって、頭を下げたかった。
「悪いのは俺なんだ」と伝えたかった。
わかっていたのだ。何かが起こると感じていたのだ。
なのに、俺は何もできなかった。
大切だと思っていたのに。
十五年かけてようやく好きだと気付いたのに。
俺は助けることができなかった。
悔やみきれない思いが体中を満たす。
俺は拳を握りしめて、下唇を強く噛んだ。
唯がこめかみに手を当てる。
頭痛が走ったかのように、頭をおさえる。
俺から視線をそらし、足元をふらつかせる。
手を伸ばして支えそうになるが、唯のそばまでいけない。
理性よりももっと奥の部分が「あれに近づくな」と警告してくる。
唯の顔が上がる。
じっと俺を見つめる。
「クウヤ……」
唯が言った。
つぶやくような声で俺の名前を呼んだ。
「唯? 唯! 俺のことがわかるのか! 安心しろ。俺が助けてやる」
俺は自分の胸を叩いて、俺に任せろとジェスチャーをする。
唯は頭をおさえたまま、ゆっくりとした動きで一歩前にでてきて、俺に手を伸ばす。
「クルシイ……イタイ……助けて――」
「唯っ!」
俺は駆け寄る。
その瞬間――もう一方の腕が振り上げられた。
唯の拳が脇腹に突き刺さり、俺は吹き飛ぶ。
体が浮き上がり、机の上に叩きつけられる。
「っっ!」
背中に痛みが走り、衝撃で息ができなくなる。
机から落ちて、床の上に倒れこむ。
強い吐き気がこみあげてくる。涙とよだれを垂れ流す。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
浅い息を吐いて、なんとか立ち上がる。
脇腹が痛い。一度殴られただけなのに、体が痺れるように痛む。
俺は手で自分の脇をおさえながら、唯を見る。
殺されるかもしれないという恐怖はあったが、逃げだしたいとはまったく思わなかった。
唯を鬼としてしまったのはこの俺だ。
絶対に一人ぼっちにはさせない。
「クウヤ――クウヤ――クウヤ」
唯が俺を見る。両手をぶら下げて、近づいてくる。
数秒前と違って、その声には感情がない。壊れた音楽プレイヤーのように、ただリピートしている。
「唯。安心しろ。俺がそばにいてやるから」
俺は言う。
最後の虚勢を張ろう。唯の全てを受け入れて、この場にとどまり続けよう。
ここで殺されるならば、それはそれで満足だ。
そう思い、唯に向かって笑みを浮かべた時、きんと音が鳴った。
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