第3話 美しき鬼

 その瞬間、風が吹いた。

 強烈な熱風が体にふりかかり、目の前の影が消える。

 別の存在が現れて、俺は息を呑む。

 鬼。

 俺の目の前に鬼が立っていた。

 熱せられた鉄のように赤い肌、額からは二本の小さな角。

 黒のショートパンツに、胸元だけ隠れているような黒のトップスという出で立ちで、肌のほとんどが露出している。

 その体には見たこともない文様が描かれており、息をしているかのように淡く輝いている。

 背中には小さな羽。

 根元からへし折られたかのように、体には不釣り合いの小さな翼がついている。

 体つきは女性的で柔らかかったが、余分な肉は一切なく、一流のアスリートのように研ぎ澄まされていた。

 髪は銀色。夜空と外灯の光を受けて、微かに輝いている。

 芸術品。そう思ってしまうほど、その異形さは洗練されていた。


「神が人にちょっかいを出すな」


 その異形なる鬼は静かな声音で言った。

 道路のずっと先で、あの影がうごめいてる。

 影が奇妙な鳴き声をあげる。

 腕らしきものを地面につけて、四つん這いの姿で、こちらを睨みつけてくる。

 鬼は短距離走のスタートをする時のように、指を地面につけて、前屈みになる。

 空気が引き締まり、一瞬の静寂があたりを包み込む。

 奇妙な叫び声とともに、影が飛び出した。

 鬼も同じタイミングで駆け出す。

 風が舞い上がり、一瞬で二人の距離がつまる。


「炎・転・消」


 鬼が言う。

 同時に鬼の全身から、炎が吹き出した。

 巨大な火炎となって、影を飲み込もうとする。 

 影は甲高い声をだすと、ほぼ垂直に飛び上がった。炎の中に入り込み、

 鬼の背中を飛び越える。

 歯の隙間から空気を出しているような、摩擦音を響かせながら、走り去っていく。

 影の姿が夜の闇に消えて、すぐに見えなくなる。


「珍しい。逃げてくれたか」


 鬼がそうつぶやく。

 体から吹き出していた炎が小さくなり、すぐに消えてなくなる。

 急激に空気の温度が下がっていき、俺は自分が体中に汗をかいていたことに気付いた。


「助かったのか?」


 ため息に似た声で、俺はつぶやく。

 体中から力が抜けていき、意識が遠くにいきそうになる。


「ああ。お前は運がいい。荒魂あらみたま迷神まよいかみと出会って無事ですむなんて、百人に一人ぐらいのものだ」


鬼はそう言うと、悲しげな目つきで唯を目を向けた。


「ゆいっ!」


 俺は地面に手をつけて膝立ちになる。

 全体に痛みが走り、思わずその場に倒れこみそうになる。

 心臓が痛い。

 体の痛み以上に締めつけられる。

 忘れていた。

 自分だけが助かり、無事にすんだ。

 そのことに安心し、唯のことを忘れていた。

 気が抜けてしまい、嬉しいと思ってしまったのだ。

 唯があんな姿なのに、俺は自分のことだけしか考えられていなかった。


 両手両足に力を込めて、四つん這いの姿で唯に近づいていく。

 唯は赤い血だまりの中で、目を閉じていた。

 肌からは生気が抜け落ち、見慣れた制服はどろりとした血液で汚れている。

 短くしたばかりの髪の毛には、俺があげたヘアピンがついていた。


「唯、唯、唯、唯」


 俺はズボンのポケットからスマホを取り出そうとする。

 ああ! くそ!

 手が震えて、うまく取れない。

 俺は一方の手で、もう一方の手首を押さえて、スマホをとる。

 ディスプレイはひび割れていたが、それ以外は問題なさそうだった。

 いつも通りの画面があらわれる。


「待ってろ。いま助けてやるからな。電話して、すぐに救急車に来てもらうからな。大丈夫。俺がいるから、俺がなんとかしてやるから」


 手が震えて。受話器のボタンを押せない。


「くそ!」


 俺は手を地面に叩きつける。

 勢いよく振り下ろし、震えを止まらせようとする。

 唯の血がねちりと肌にこびりつく。


「やめておけ。無駄だ。彼女はもう助からない」


 鬼が言う。

 その目は遠くを見ていて、俺の無様な姿を見たくないかのようだった。

 血が逆流し、頭の芯から熱くなる。


「言うな! 知るか! そんなの知らねえよ! 

 今日唯がここにいるのは、俺がお願いしたからなんだぞ! なのになんで唯が死んで、俺が生きてなきゃいけねぇんだよ!」

 俺は地面を殴りつけて、鬼を睨みつける。

 鬼は憐れむような目で俺を見る。

「なあ、助けてくれよ。あんたが何者かは知らないが、俺のことを助けてくれたろ。

 さっきみたいに魔法の力でも、何でもいいから唯を救ってくれよ。頼む。頼むよ」

「無理だ。私にはできない」

「できないってなんだよ! あんたは俺を救ってくれたじゃないか! 一人だって、二人だって、変わらないだろ! あんたの力でどうにかしろよ!!」


 無茶を言っているのはわかっていた。

 理不尽な物言いだとはわかっていた。

 それでも叫ばないことには、どうしようもなかった。

 鬼は俺を見る。その表情は普通の人間と変わりなく、悲しみと同情に満ちていた。

 感情がないわけでもなく、冷静なわけでもなく、ただ事実として鬼は無理だと言っているのだ。

 手から力が抜けていき、スマホが血だまりの中に滑り落ちた。

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