第2話 幼馴染の死

 俺の目から唯が消える。

 闇、闇、闇。

 暗く巨大な何かが俺と唯の間を遮っている。

 俺は動けない。

 この何かがなにを意味しているのか。俺はなにもわからず、思考停止に陥ってしまう。


「空也――これ――なに――」


 影が動く。

 鋭い刃物のような腕が表れて、大きく振り上げられる。


「唯、逃げろ!」

「空也、助けて!」


 俺と唯の言葉が混じり合い――

 影の腕が振り下ろされた。

 鈍く、鳥肌が立つような音。

 唯が吹き飛ばされて、ブロック塀に叩きつけられる。

 血が一気に逆流し、体が勝手に動きだす。


「どけっ!」


 俺は影を押しのけるように、唯の元に駆けだそうとする。

 影の腕が風を切る音。

 衝撃。

 脇腹を包み込むように、激しい痛みが襲いかかってくる。

 視界が一瞬暗くなる。浮遊感が体を覆い、気がつくと地面に倒れている。

 痛みのせいなのか、体が痺れて動かなくなっている。


「ゆい……」


 俺は力を振り絞って顔を上げる。

 黒い影は、俺ではなく、唯を見ていた。

 唯も動かない。

 目さえ開けず、気を失っている。


「ゆい……起きろ……逃げろ……」


 俺は言う。唯は息さえしていないのか、微かにも動かない。

 黒い影がゆっくりと唯に近づいていく。

 俺は腕を伸ばして、地面を掴み、一ミリでも近づこうとする。

 影と唯の間に割って入り、あの化け物を止めなくちゃいけない。

 殴るなら、俺を殴ってくれ。刺すなら、俺を刺してくれ。殺すなら、俺を殺してくれ。だから唯には近づかないでくれ。


「ゆい……ゆい……ゆい……」

「ん」


 唯がかすかに動いた。

 口元から息が漏れ、まぶたがゆっくりと開いていく。

 俺は胸にえぐられるような痛みを覚える。

 唯に恐怖を感じてほしくない。痛みに苦しんでほしくない。

 絶望に叩きのめされてほしくない。

 まだ目を覚ますな。もう目を開けるな。

 もしどうしようもないなら、そのまま眠り続けていてくれ。

 数瞬前とは正反対の感情が心の内側に沸き起こる。

 唯が影を見る。

 なにもわからない瞳でじっと影を見つめている。


「ゆい……ゆい……ゆい……」


 俺は腕を伸ばす。崖を這い上がるかのような速度で唯との距離を縮めていく。


「くうや……?」


 唯の唇が動く。

 俺の名を呼び、俺を見る。


「これ……なに……?」


 影が腕を折り曲げる。

 拳を放つボクサーのように、腕が小さく畳まれていく。


「やめろ……やめてくれ。ゆい、逃げろ……」


 俺は前に進む。

 全身が痛むのも構わず、爪が割れるのも無視して、影を邪魔しようとする。

 距離が遠い。

 腕を伸ばしても届かない。

 唯は俺を見て、状況を察したらしい。

 体がこわばり、目が大きく見開かれる。

 口が半開きになり、肩が激しく上下する。

「くうや」

 唯と俺の目が合う。


「ごめんね――空也――」


 影の腕が唯に伸びる。

 その胸に突き刺さる。

 唯の体がびくりと跳ねた。口元から泡が湧き出し、目の色が白くなる。

 手足が痙攣したように震えて、ばたばたと震える。

 胸の内側から血が流れ出し、唯の周りを染めていく。


「ゆい――ゆい――唯っ!」


 俺は必死になって前に進む。

 腕を伸ばし、足をばたつかせて、唯のそばに近寄ろうとする。

 衝撃。

 脇腹が歪み、地面の上を吹き飛ばされる。

 コンクリート塀にぶつかって、息がつまる。

 唯が遠くなり、また手の届かない場所にいってしまう。

 俺は痛みのあまり吐きそうになりながらも、影を睨みつける。

 唯に触れることさえできていない。

 それが憎かった。

 唯に興味を失ったのか、影がずるずると俺に近づいてくる。

 動けない俺をいたぶるのを楽しんでいるのかのように、わずかな距離をゆっくりと詰めてくる。

 痛みのせいなのか、手足に力が入らない。

 憎しみもある。恐怖もある。悲しみもある。

 だがその全てを覆いつくすように、あきらめの思いが強まっていく。

 胸の内側に穴が空いたかのように、すっと気持ちが沈んでいく。


「唯、ごめん」


 俺は言う。

 影は唯を刺した時のように、腕を折り曲げる。

 ぎゅっと引き締めて、力を蓄える。

 俺は目だけを動かして、唯を見た。

 唯は血の中で横たわっていた。

 恐怖も痛みも忘れて、ただ眠っているだけのように見えた。


「ごめん。本当にごめん」


 影が腕を伸ばす。

 俺は息をとめ、体を強ばらせた。

 自分が死ぬ。

 唯を一人にはしない。

 二つの気持ちがわき起こり、俺は自分の死を覚悟した。

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