鬼の名を呼べ ー世界の片隅で、君を守るー

上間英

第1史 1章 神と鬼は日常を屠る

第1話 俺たちは神に出会う。

「わるい。今日は本当に悪かった」

 俺は手のひらを合わせて、頭を下げた。

「本当だよ。私だって勉強したかったんだから」


 唯は眉間にしわを寄せて、不満げな目つきでにらみつけてくる。

 俺と唯は二人で街灯に照らされた夜の住宅街を歩いていた。

 二人とも同じ学校の制服を着ていて、俺は半袖のワイシャツに紺のパンツ、唯は首元にリボンがついた半袖のワイシャツにチェックのスカートという姿だ。


 俺たちはほんの十数分前まで、学校から少し離れた場所にあるファミレスで勉強会をしていた。

 今年の春から通うことになった吹草第三高校は、俺の実力から見れば奇跡とも思えるほど偏差値の高い高校で、俺は入学三カ月にて落ちこぼれだしていた。

 そこで成績優秀で人に教えるのも上手い唯に救ってもらうと考えて、今日の勉強会をお願いしたのだ。

 報酬はファミレスでのおごりと、夏休み中の一日だけ果村空也こと俺を一日執事にできる券。

 そのチケットを使われたら、俺は「はい。喜んで」としか言えなくなる。

 唯の良識は信じている。だけど使われる日がかなり怖い。

  

「夏休みは楽しみだけどね。さて、空也にはなにをしてもらおうかな」

 唯が俺の心を読んだかのように、にんまりと笑う。

「お手柔らかにお願いします」


 俺はもう一度頭を下げる。額から汗が滴り落ちてきて、目に入りそうになる。

 今週は熱帯夜。湿度も高く、寝苦しい日々が続くでしょう。

 家を出る時に見た天気予報が頭の中で自動再生された。


「杏奈さんには夕ご飯はいらないって言ったの?」

 俺は聞く。

「もちろん。空也に奢ってもらうって言っておいた」

「返事は?」

「あいつの財布を空にするまで、手放しちゃだめよ。だって」

「そうですか。さすが杏奈さん。帰ったら、あなたの子供は教育通りに育ってますよって伝えておいてくれ」

「りょーかいです。褒め言葉として受け取っておくね」


 唯は笑う。

 残金38円の俺の財布。

 俺は心の中で大粒の涙を流しながら、両親の教育方針って大事だよねと思った。 

 唯と俺は昔からの幼馴染で、杏奈さんにもよくお世話になっていた。

 子供の頃は唯の家に入り浸っていて、一週間のうち半分ぐらいは夕ご飯を御馳走になっていた。

 杏奈さんは中々かっこいい性格をしており、

 唯のお母さんとかおばちゃんとか呼ぶと「私は杏奈。北村杏奈。杏奈さんと呼びなさい。もしぺけぺけのぺけぺけって呼びたいなら、杏奈の娘さんって唯のことを呼びなさい」と怒ってくるような人だった。

 そのせいで、俺はずっと昔から杏奈さんのことを杏奈さんと呼んでいるのだ。

 唯のことも唯と呼び捨てにしている。

 小学生高学年にもなると気恥ずかしくて、北村と呼んでいたが、

 またもや杏奈さんに「北村って、私のことを呼び捨てにしたわけ?」と脅されてしまい、結局唯の呼び名も唯に戻ってしまった。

 唯は変わらず、ずっと空也と呼んでいる。

 俺は男女の違いを意識し始めるようになったころ、

 「恥ずかしいから、やめろ」と言ったら、

 「空也は空也じゃん」と真顔で返されてしまった。

 その切り返しにも杏奈さんの教育を強く感じてしまい、

 あの人には逆らなと俺は心に強く刻んでいるのだった。

 

「なあ、提案しておいてなんだけど、俺の夏休みの予定を教えてくれない?」

「どういう意味?」

「わかってるでしょ? 唯が俺に与えるであろう苦しみについて、前もって知っておきたいんだよ」

「苦しみ? はずかしめかもよ?」

「待て。夏休みが明けても、俺が学校に行けなくなるようなことはしないよな?」

「はーい。善処します」


 唯は背中で指を組むと、早足で前に行き、くるりと振り返った。


「大丈夫。悪いようにはしないから」


 柔らかな笑顔を浮かべて、上目づかいでほんのりと俺を見てくる。

 心臓が大きく跳ねる。

 唯は学年の中でも目立つほうで、

 俺は友達から「お前の唯一の長所は北村唯と幼なじみだってことだ」と何度か言われたことがある。

 顔立ちは綺麗だし、手足もすっと伸びている。

 人に優しく、周りのこともよく見ていて、泣き虫なのに、

 すぐにけろっと元気になる。

 今までずっと肩ぐらいまで髪の毛を伸ばしていたのに、

 先月の誕生日に花模様のヘアピンを買ったら、「このヘアピンに似合う髪形になりたくて」とショートヘアにしてくれたのも、かなり嬉しかった。

 一緒にいて悪いことはひとつもなく、いい点しか見つからない。

 告白はしていないが、数年おきに好きになりかける相手だし、昔よりも可愛くなっている。

 ずっと一緒にいると、恋愛対象なのか身内なのか、わけがわからなくなるんだよな。

 俺は声には出さずにつぶやく。

 

「ん? どうしたの?」


 唯は不思議そうな顔をする。


「何も言っていない。ただお前はすごいなって思っただけ」

「褒めたってなにもでないよ。なにを褒められているのかもわからないけど」

 唯は言う。そのまま俺を見ながら、後ろ向きでとことこと歩いていく。

「あぶねえぞ」

「だいじょうぶ。私は空也を自由にする権利を使うまで、絶対に死にませんから」

「その決意はいらねえよ」

 俺は言う。

 唯は笑う。


 夜の住宅街は静かで、俺と唯の声が綺麗に響いている。


「ねえ」


 唯が立ち止まって、俺を見つめてくる。


「私が空也になにをするつもりか教えてあげよっか」


 口調の中にかすかに緊張が混じっている。


「あ、ああ。それはありがたいけど」


 俺も唯に気おされて立ち止まる。

 住宅街のど真ん中で、二メートルと少しの距離を挟んで、唯を見る。

 暗くてわかるはずもないのに、唯の瞳がじっと潤んでいくのがわかる。


「空也がずっとしてくれなかったこと。それをお願いするつもり」


 そう言って、口を閉じる。

 俺は唾を飲み込み、そっと声を出す。


「それってなんだよ」


 唯は微笑む。足を一歩だけ踏み出して、俺に近づく。

「それはね、空也に――」


 

 

 

 

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