File:4.5 ある少年からの問い




 蕗二はすぐさま鑑識に連絡を取ると同時に、芳乃、野村、片岡の三人とシグマを覆面パトカーに押し込んだ。

 ≪ブルーマーク≫とは、犯罪者予備軍だ。

 将来、犯罪者になる可能性が高い人物に着けられる要注意人物の≪目印≫。事件現場に居れば問答無用、三人が事情聴取されるのは目に見えている。時間の無駄になる上、【特殊殺人対策捜査班】についても説明しなきゃならなくなる。部署については、あまり気分は良くないが、柳本警視監からの圧力によって部署の詳細や捜査痕跡は揉み消されるだろうし、今までも水面下で何かしらの抑制力が働いている。だが、人の口に戸は立てられない。極力知られないようにするのも、班長である自分の役目だろう。

 大家やアパートの住人に事情聴取をしていると、警邏隊けいらたいのパトカーがやってきた。

 事情を簡単に話せば、ブルーシートと黒い文字で『立ち入り禁止』とプリントアウトされた黄色いテープで規制線が張られ、次々と応援のパトカーや鑑識が到着し、騒ぎを聞きつけた野次馬が現れ、アパート周辺は瞬く間に騒然そうぜんとした。

 蕗二は鑑識の現場保存が終わるのを、今か今かと落ち着きなく待っていた。

 すると、ブルーシートの中から出てきた青年が目に入る。見覚えのある青年は、蕗二と目が合った途端、機敏な動作で走り寄って来た。

「お疲れ様ですッ!」

 よく通る声とともに、青年が背筋を伸ばして敬礼する。

「久しぶり、桑原さん。早速だが状況を聞いても?」

「申し訳ありませんッ! 動物については、まだまだ勉強不足でありましてッ! 私では判断できず、結果をお伝えすることができませんッ! 東検視官の検視が終わるまで、今しばらくお待ちくださいッ!」

 直角に腰を折った桑原に、蕗二は慌てて顔を上げるように促す。

「あー、大丈夫だ。念のため、俺から専門の人に依頼かけさせてもらった。とりあえず、わかることだけ教えてくれるか? あ、あとちょっと声抑えて」

 声を抑えつつ、口の端に手を添える蕗二につられ、桑原も同じポーズを取る。

「はいっ。部屋にあった冷蔵庫の中から、三日前製造されたスーパーの惣菜そうざいやレシートなどが見つかったため、住人は三日前までは部屋に居た模様っ。また、貴重品の類は見つかっていませんっ。それから部屋にあったパソコンから、このようなものが」

 桑原は脇に抱えていたタブレット型端末を、蕗二に差し出す。画面に映っていたのは、例の犯行予告があったネット掲示板の画面。

「検索履歴からは、通販サイトでナイフを探していたようでしたっ。購入物などの解析はこれから行いますっ」

 汗をかくほど暑いのに、突然体が冷えた気がした。ナイフと聞いて、ストンと何かが胸の奥に落ちていく。ああ、畦見聖人は本気で人を殺すんだな、と他人事のように思うあたり、頭が現実逃避を選んだようだ。そして、怒りよりも先に事実を確認したいらしい。ふいに犬のことを思い出す。

「部屋で殺されていた犬たちは、二匹だったな」

「いえ、恐らく五匹ですっ」

「恐らく?」

 蕗二が眉間に皺を作ると、桑原は唇を一文字に結ぶ。不味いものを噛み締め、無理やり喉奥に流すように口を動かした。

「部屋の天井より、吊り下げられていた二匹の犬種は腐敗が始まっていましたが、犬種などの特定は可能でありますっ。ですがっ、台所のシンクと、風呂場に何か動物らしき肉塊にくかいがあり、頭部が三つあったのですが……その、原形を留めていない為、現地点では……」

 冷房が一切入っていない真夏の一室は、熱気と動物の臭いとアンモニア臭、それに錆鉄てつさびの臭いと腐臭が混じり、満ちていた。周辺に悪臭を撒き散らすわけにも行かず、早々に部屋を出てドアを閉じたのだが、まさか他にもあったというのか。

 罪悪感と言うべきか、自分の弱さに嫌気を感じる。

 小さく舌打ちをすると、ふいに肩を突かれる。首を傾ければ、竹輔が耳打った。

「多田羅と言うかたが呼んでますが……」

「来たか。竹は初めてだよな? その人は、犯罪心理カウンセラーの多田羅先生だ。通してやってくれ」

 頷き、離れる気配。振り返れば、黄色と黒の縞模様を描いたアコーディオン式ゲートのところに予想通りの人が警官に止められている。迎えに行った竹輔が一言二言説明し、多田羅がゲートを通される。竹輔に連れられてきた多田羅は首の包帯はそのまま、前回会ったときよりも、より人間味のない表情を浮かべていた。

「挨拶ははぶかせて頂きます。事件をおうかがいしても?」

 多田羅はブルーシートで隠された部屋を観察するように視線を向ける。

「以前お話した畦見と接触を図りました。が、真犯人は畦見の息子でした。家を訪ねたところ、息子は不在。代わりに、惨殺ざんさつされた動物の死体がありました。恐らく、捜索届けの出ている犬たちだと思われます」

 そう長く観察していたわけではなかったが、それでも凄惨せいさんな部屋の様子はフラッシュをたかれたように脳裏にしっかりと焼きついていた。

 1LKの部屋。寝室とリビングを兼ねたその一室に、二匹の犬が首を吊られていた。首輪とリードはそのまま、天井に取り付けられた金具に繋がっていた。吠えたり噛まれないようになのか、口はガムテープが巻きつけられ、体は刃物で何度も突かれたらしい。元の毛の色がわからないほど血色に染まり、傷口からは内臓が溢れ出し、フローリングに垂れ下がって赤黒い染みを作っていた。

 人の遺体を見たときとはまた違う、むごたらしい光景だった。

 知らず知らずのうちに寄せた眉間が痛む。深く刻まれた皺を指先でほぐしながら、舌打ちをする。

 竹輔が多田羅に渡したのだろう、犬たちの捜索届けリストの文字を目で追っていた多田羅が、蕗二に真っ直ぐ視線を向けた。

「一度、犬たちの傷を拝見してもよろしいですか?」

「はい、鑑識が撤収した後になりますが」

 視線を向けた先、目隠しのブルーシートが派手にまくり上がった。

「アッツ! まったく、真夏の現場なんて二度とごめんだわ」

 顎にしたたる汗を乱暴に拭い、苛立いらだちを隠そうともしない女性に蕗二は頭を下げた。

あずま検視官、お疲れ様です」

 そこでやっと東がこちらに気が付いた。ハンカチで汗を押さえつつ、顔をしかめる。

「相変わらず、コンビそろって暑苦しいわね……で? そっちの人は、あんたの部署とこの新顔?」

 多田羅に鋭い視線を向ける。威嚇いかくに似た眼光は、一般人なら震え上がるほどだ。だが、多田羅は動じることなく、慣れた動作で名刺を取り出した。

「心理カウンセラーの多田羅と申します。とくに犯罪心理にたずさわっております」

 多田羅から名刺を受け取り、視線でひと撫でした東はスラックスの後ろポケットに仕舞いこんだ。

「犯罪心理ねぇ……私はあずま。ぜひご教授願いたいわ。イカレた人間の思考なんて全くわからないもの」

 東と多田羅は握手を交わし、蕗二に視線を戻す。

「私も検視官としてエッグい現場をたくさん見てきたけど、残念ながら動物は専門外。とりあえず、今わかることは、動物はナイフ状の刃物で殺されてること。殺されて最低三日経ってること。人間の死体がないこと。それだけね。一つ言うなら、今まで見てきた現場の中でも、ワースト5に入る胸糞の悪さかしら」

 ブルーシートの向こう側を睨みつけ、派手に舌打つと、蕗二のスラックスの中で液晶端末が振動する。真っ黒い通話画面に、菊田の名が白く浮かんでいた。

「東検視官、実は勝手ながら獣医に連絡を取っていまして。警視庁へ来ていただくように、お願いしています」

「あらそう? なら、死体だけでも先に運んだほうがいいみたいね? 桑原」

 東が親指で現場を指す。桑原は姿勢を正して一礼すると、機敏な動作で現場に走っていく。

 蕗二は竹輔に車へ向かうよう手で合図し、液晶端末に指を滑らせた。











 警視庁の地下駐車場に車を置き、さらに地下の検死ルームへとエレベーターで下る。

 そこにはすでに東と桑原、菊田に黒縁眼鏡の青年が待っていた。

「すみません、お待たせし」

 突如、大きな吠える声とともに隣をすり抜ける白い塊。あっという間もなく、加藤に突進する。シグマだ。狙ったように下腹を頭突かれた加藤は呻き声とともに派手に尻餅をついた。

「加藤さん、大丈夫ですか?」

 竹輔が助け起こそうとするが、シグマは加藤の肩に手をかけ、顔面をしつこく舐めて離れない。

芳乃ほうの、あいつ何やってんだよ」

 リードを引くが、シグマはビクともしない。それどころか、激しい勢いで左右に振られる太い尾が腿を叩いて痛いぐらいだ。力ずくで首が絞まるほどリードを引いてもいいものか、勝手が分からず逡巡しゅんじゅんしていると、強くはっきりした声が鼓膜を叩いた。

「ステイ!」

 加藤がシグマにてのひらを突きつける。すると、先ほどまでの勢いが嘘だったように、シグマは大人しく座った。加藤は半身を起こし、その顔を確認するようにずれた眼鏡をかけ直す。

「やっぱり、シグマじゃないか! なんでここに?」

「あ? なんでシグマを」

「つ、露兄つゆにぃ!?」

 蕗二の疑問を遮ったのは芳乃だ。信じられないものを見たとばかりに呆然と口を開け、加藤を見ている。その加藤も芳乃を穴が開くほど見つめていた。

れん! あれ? なんでれんがここに?」

「いや、ぼくは、その……」

 芳乃は視線を左右上下にさ迷わせ、手をズボンのポケットに入れたり出したりせわしない。

「お前ら、知り合いなのか?」

 蕗二の声に正気を取り戻したのか、芳乃は気まずげに視線をらした。その頭頂部を見ながら、蕗二は記憶をひっくり返してみる。

「そういやお前、獣医の友達がいるとか言ってたな? 加藤先生がそうなのか?」

 垂れた目尻を吊り上げて下から睨んでくる様子から、どうやら正解だったらしい。唇を一文字に結んだ芳乃を裏切るように、あっけらかんと加藤が答える。

「友達と言うか、兄弟みたいなもん出すよ。蓮とは、二軒隣の近所なんで、こんな小さいときから知ってて……あっ、ちなみにシグマは俺の犬なんですけど、夏休みの間とか休みのときは蓮にお世話お願いしてるんです」

露兄つゆにい

 芳乃が睨みつけても首を傾げているあたり、悪気はないようだ。

 ひとしきりシグマの頭を撫でた加藤は、静観せいかんしていた多田羅に気がついたらしい。驚いた表情を浮かべたのも束の間、戸惑ったように眉を寄せる。

「多田羅先生まで呼ばれたということは、またネコちゃんが……?」

 問われた多田羅は静かに頷いた。

「ええ、今回は猫ではなく犬ですが……しかも、前より酷い殺され方をしています」

 はっと息を飲み込む加藤に、蕗二は深く下げる。

「すまない加藤先生、動物の検死は検視官じゃできない。だから、猫の検死をしてくれた加藤先生の力を借りたいのですが」

 加藤は呆然と蕗二を見つめていたが、下唇を噛み締め、悲しみを強く滲ませうつむいてしまった。

 気分を害しただろうか。無理もない、獣医といえば動物の病気を治すのが仕事だろう。警察と違って、死体をいじくり回すようなこともない。人間だろうと動物だろうと、気分は良くないはずだ。

 が、芳乃が加藤を覗き込むと、小さな溜息をついた。

露兄つゆにい、大丈夫ですか?」

 蕗二は首を傾げる。その声は、心配よりも呆れたような声音だった。

「芳乃?」

 蕗二は片眉を上げれば、芳乃は加藤を指差した。

露兄つゆにいは獣医さんですけど、すごく血が苦手なんです」

 非難と驚愕の悲鳴が辺りに響き渡る。「ばらすなよ」と顔を引きつらせる加藤に、蕗二は思わず詰め寄った。

「おま、あんた、虐待された猫の検死したんちゃうんか!?」

「えーっと、あれは、院長が主にやっていたので……俺一人では、ない、です……」

 体ごと視線を逸らし、誤魔化すように眼鏡を何度も鼻上に持ち上げる加藤に、思わず溜息を吐き出した。

「じゃあ、その院長は?」

「子宮蓄膿症が悪化したワンちゃんの緊急手術オペに入ってます。子宮が破れて、腹腔内が膿で汚染されているので、終わるまでかなり時間がかかりますし、なるべく早く戻ってこいと言われてます……」

 動物の病気について全く詳しくないが、大変な時に呼び出してしまったらしい。

 蕗二は胸の前で腕を組む。口から息を吐けば、唸り声が漏れてしまった。

 ここは犬の検死を一度諦めて、加藤を帰すべきだ。検死ができないからと言って立ち止まれば、動けなくなる。時間は待ってくれない。それなら動け。できることからやればいい。

 思考が次に向けて動き出す。すると、加藤が突然「あー」だか「うー」だかにごったうめき声を上げて、頭を激しくむしった。そして盛大な溜息を吐き出す。

「やります」

 はっきりとしたその声は、一瞬誰が発したものなのか分からなかった。

「いや、無理すんな」

「無理をしているかどうかなら、無理をしています。ですが」

 加藤は髪を掻き集めるように後ろでたばね、手首に付けていたゴムで固定する。

「やらせてください。呼ばれたからには、責任を持ってやります。捜査と言うことですので、お急ぎでしょう。補助してくれる方を二人お借りしたいのですが」

 加藤の呼びかけに、野村が勢いよく手を上げた。

「せんせー! 私、お手伝いしていいですかぁ? 大学で動物の解剖やったことあるんでぇ」

「では、お願いします。もう一人」

「じゃあ、私がやるわ。桑原、あんたは私の隣にいなさい。で、全部頭に叩き込んで覚えなさい。次はあんたにやらせるわよ」

「えッ!?」

「えっ、じゃない。とっとと行く!」

 青褪あおざめて肩を跳ねさせた桑原の首根っこをひっ掴んだ東は、検死ルームに引きずり込んだ。その後に野村が続く。加藤が扉を通り抜ける直前、多田羅が滑り込んだ。

「私もそばに。結果を引き継ぎますので」

「助かります」

 検死ルームの扉がスライドする。ぴったりと扉が閉まったのを見送った蕗二は、脱力するようにかたわらのベンチに腰を落とした。

 つばを飲み込む音が、大きく響いた気がした。ああ、これがプロかと納得する。

 加藤の顔色は決してよくなかった。だがそれよりも、眼鏡の奥で眠たげだった目は、強い意思を持って見開かれていた。今まで目の前に立っていた優しげな青年は、瞬く間に一人の獣医に変化してみせたのだ。

 獣医としてのプライドだけではない、犠牲になった動物のためだろう。

 膝の上に置いた手が、拳を作った。

 加藤が意志を固めたんだ。それに答えなければいけない。

「蕗二くん」

 声に頬を叩かれる。いつの間にか、隣に菊田が座っていた。

「何か掴んだか?」

 慌てて背筋を伸ばし、菊田と正面から向かい合った。

「メールで報告した通り、監視していた畦見は間接的に関与していましたが、動物虐待犯はその息子・畦見聖人あぜみきよとが犯人だと判明しました。すぐさま自宅に行ったんですが、もぬけの殻。置き土産に、捜索願の出ている犬と思われる死体がありました。またパソコンから、殺害予告のページにアクセスした痕跡こんせきがあったようなので、現在鑑識に解析をお願いしています。そして、畦見聖人の足取りは不明」

「三輪警部補、今わかったことがあるのだがいいかね?」

 壁に寄りかかって立っていた片岡が、精密な機械のように真っ直ぐ右手を上げた。左人差し指にまっている端末から、空中にいくつか画面が展開されている。

「畦見聖人だが、≪リーダーシステム≫に一切引っかかってこない。三日前、自宅付近から途絶えたままだ。もし、徒歩で≪リーダーシステム≫を避けるなら、畦見の自宅から半径10キロで手詰まりになる」

「10キロか……」

「蕗二くんから報告を受けた、犬たちが誘拐されたポイントの範囲内だな」

 蕗二が頷くと、菊田は片手に持ったままの液晶端末を持ち上げる。

「君から報告を受けた時点で、私も畦見の潜伏範囲を予測した。勝手だが、うちの捜査員でその10キロ範囲をシラミ潰させてもらっている。もちろん、監視カメラで顔認証をかけている。だが、今のところ何も上がっていない」

 端末を不満げに睨みつけ、菊田はスラックスの後ろポケットに端末をじ込んだ。

「こちらの状況も伝えよう。警視庁に対策本部が立ち上がった。が、サイバー課もなかなかIDを探れず、有力な情報は手に入っていなかったが、君たちのおかげで犯人は判明した。人海戦術は我々の十八番おはこだ。すでに大勢の捜査員が投入された」

 菊田が不意に背を丸めた。唇に沿う指、煙草を吸う仕草。

「殺害予告どおり無差別殺人が行われる可能性が高いなら、我々は手段を選ばない」

 菊田の眼が細められる。怒りを露にした肉食獣に似た眼光だ。

 日本でも、過去に無差別殺人は何度も起こっている。その度に警察は対策を講じてきたが、犯人の行動はこちらの予測を超えてやってくる。世間が悲しみ怒り、その矛先には必ず警察がいる。

 なんで事件が起こったのか。防げなかったのか。役立たず。無能。税金の無駄遣い。

 だが、一番悔しいのは警察である自分たちだ。血の臭いが強く残る現場で、亡くなった人たちや悲しむ親族、そして殉職した仲間を見て、何もできなかった無力さを感じる。

 菊田は何度喪服に身を包み、白い花に埋もれる仲間たちを見送ったことがあるだろう。

 ショックが大きかったせいか記憶が曖昧あいまいだが、父親の葬儀にも菊田の姿があったのを覚えている。

 眉間に力が入り、鈍く痛んだ。

「見つからなかったら、芥子菜が使った手段を考えたほうがいいですね」

 芥子菜の捜査はかなり手こずったのも記憶に新しい。なにせ、芥子菜がハッカーだったこともある。

「そういえば、片岡。同士集めはどうなんだ?」

「ある程度集まったんでね、すでに攻防戦をさせて頂いてるよ? だが正直、一進一退だね。一つ朗報があるとすれば、君たちが懸念していた、犯行予告の掲示板の拡散はもうすぐ収集しそうだ。あとは、警察の動き次第じゃないかな?」

「加藤先生の検視が終わったら、畦見が自動車を所持しているか調べてくれ」

「そこからNシステムを洗えばいいんだろ? すでに検索中だ」

「おいおい、それは報告してくれよ」

「今報告した」

 悪ガキのように歯を剥いて笑う片岡に「結果が出たら教えてくれ」とだけ言って、猫を追い払うように手を振った。溜息を吐いた先で、検死ルームのドアがスライドする。

 思わず立ち上がると、げっそりした加藤がふらりと出てくる。

「加藤先生、大丈夫か?」

「大丈夫、です……それより、検死の、結果ですが」

 うっ、と嘔吐えずいた加藤の顔面は青を通り越して真っ白だ。続いて検死ルームから出てきた多田羅が加藤の体を支え、背を擦る。

「貴方は休むべきです。説明は私から致します」

「ですが……」

「あんたよくやったよ、だから休んでくれ。竹、確か休憩室かなんかあったよな?」

「はい、このフロアにあります。加藤先生は僕が介護するので、蕗二さんは先に結果を聞いてください」

「ああ、すまない。頼む」

 多田羅と代わるように竹輔が加藤に肩を貸す。反対側を、いつの間にか芳乃が支え、シグマまで加藤にぴったりと寄り添っている。目の端で検死ルームが再び開閉した。

「早速だが、どうだった?」

 三人の背を見送り終え、視線を戻すと東たちが立っていた。蕗二の問いかけに、素早く反応したのは野村だ。

「ぶっちゃけー、ワンコたちは生きたまま殺されたぽいねぇ?」

「生きたまま……?」

「そう。ワンコたち全員、一回吊るされて生きてるうちに、ブスッ!」

 宙に向かって拳を何度も突き出す野村に、思わず蕗二は首を否定的に振った。

「いや、首を吊られたら犬でも死ぬだろ?」

「それがねぇ、子供と一緒で小型犬・中型犬は体が重くないから、吊られ方によってはぁ、首を吊られても簡単に死ねないんだよねぇ。首を吊られて一週間くらい生きてたとか聞いたことあるしー?」

 片頬を膨らませて、肩を大きく上下させる。子供のような仕草とは裏腹に、首に縄がかかったような圧迫感に息を詰まらせる。自分を安心させるように、顎から首元を撫でる。

「ひとつ補足」

 東が腕を組んで、わずかに顎を上げた。

「確かに、犬たちは全員めった刺しなんだけど、原型が残っていた中型犬の方は、ほとんど同じ場所、正確に言えば心臓と肝臓をねらって刺されていたわ。加藤先生が言うには、犬や猫も人間と同じ哺乳類だから、大きさや骨格は違っても、内臓の場所はほとんど大差ないらしい。それを踏まえると、……あとはわかるでしょ?」

 東が口の端を吊り上げて笑う。蕗二の脳裏をかすめたことが正解だと言わんばかりに。否定が欲しくて多田羅に視線を投げつければ、瞼を下ろし首は横へ振られる。

「その推測は、間違いではないと思います。でなければ、ここまで用意周到な行動はできません」

 化け物。

 うつむいた畦見の姿を思い出す。そして、それを見下ろす凍えるほどの氷の眼。

『化け物の卵が生まれていた。そして、それを羽化させたのは……』

「多田羅先生。その……虐待を、されていた人は、他人に暴力を振るうことはあるんですか?」

 掠れた声は多田羅に届いたらしい。こちらの視線と問いかけた内容で察したのだろうか、多田羅は躊躇ためらうように視線を伏せる。

「必ずしも、そういう訳ではありませんが、十分きっかけになり得ます。アメリカで実際逮捕された連続殺人鬼シリアルキラーのほとんどは、幼少期に親から殴る蹴るの暴行や近親間での強姦、育児放棄、さらには人格否定などの子供をコントロールする過干渉・過保護など何らかの虐待を加えられていたそうです」

 多田羅の両手が分厚い資料の本を開き、目を通すように視線が揺れる。

「子供は、親からの無償の愛によって心を満たし、満たされた心は誰かへ愛として注がれます。ですが、満たされなかった場合、子供の心は大人になっても満たされない。むしろ、親から受ける精神的・肉体的暴力によって削られ、気がつかないうちに心に大きな穴が開いてしまう。それを自分で直すことはできません。穴を広げる親と決別し、周りの人から埋めてもらわなければいけません」

 ぱたん、と多田羅の両手が合わさる。多田羅は自分の首を掴んだ。いや、掴んでいるのは包帯だろうか。

「愛で満たされなかった心は、満たされたくてたまらない欲求に駆られます。そして、心の穴を埋めるべく他人に求めるんですが、愛を知らないからこそ、間違った方法で穴を埋めようとする。それが、他人を傷つけることです。最初は言葉かもしれません、暴言を吐いて、周りを傷つけて、受け入れられなくて……さらに過激になる。他人への殺意は、心の傷に比例しているんだと思います」

 多田羅の無機質だった表情が崩れ、涙を流す直前のように歪んだ。その表情を見ていられず、蕗二は視線を伏せた。

「だからって、何も関係ない人を巻き込んでいいのかよ。言い方は悪いけど、そんなの八つ当たりじゃねぇか……」

 吐き捨てる。多田羅が困ったように肩をすくめた。

「そうですね、本当はそうです。ですが、人間は情を持っています。また、親への殺意は、自然と刷り込まれた親不孝と言う禁忌にあたいします。だからこそ、顔見知りではない誰かをターゲットにする。顔見知りではない、誰かなら……」

 誰でもいい。自分には関係ない、風景として溶け込んだ誰か。

 話したこともない、素性も知らない、だから後腐れなんかない。

 知らないから情も湧かない。

 そんな、簡単に奪えるものなのか?

 だって、命じゃないのか。血が通って、心を持って、話せる同じ人間なのに?

 夢があり、仕事があり、仲間があり、家族があり、何気ない日常を過ごす、罪もない人。

 それが石ころのように、粗末に扱われていいのか?

 なぜ、そんな事ができる。

 ああ、違う。粗末に扱われてきたからだ。

 石ころのように扱われてきたからこそ、それが正しいと思うんだ。

 殴られ蹴られ罵られて。それ以外を知らないから、それしか知らないから。

 誰でも良かった。何でも良かった。罪悪感などあるわけがない。

 だから、殴り蹴り罵り、目の前で笑う人が許せなくて。

 だから殺すのか。石ころを蹴るように、簡単に、気晴らしのように、なんとなく。

 そうやって、父は殺されたのか。

 いや、あいつが殺したかったのは俺だ。俺だった。

 愛を教えてくれなかった父親と言う存在に、愛され、笑って、幸せそうにしていたから、目障りだった。

 愛されている俺が憎かった、そして、羨ましかった。

 うらやましくて、羨ましくて、目の前から消したくて……

 あの時、父親にかばわれなかったら、俺は死んでいた。

 父親は俺を庇った。守ったんだ。だから、俺は生きて……本来、あの日死んでいたのは……

「三輪さん」

 肩が跳ね上がる。酸素が急に薄くなったように、なんだか息苦しい。ネクタイを緩めようとして、指先に力が入らない。足掻くようにシャツを掴んで引っ張る。

「三輪さん、私を見てください」

 声に促されるまま、目の前の人物を見ようとするが、酔ったように視線がふらついている。思考がまとまらず、目の前に居るのは誰だったか。分かるのに分からない。

「そうです、次に私の手を見て、そう、そのまま私の手を見続けて」

 揺れて定まらない視線の先、男が人差し指を目の前に持ち上がる。それがゆっくりと右に動く。焦点ピントがぶれて定まらないが、なんとか目で追える速度だ。食らいつくようにただひたすら視線だけで追い続ける。左右に振り子のように揺れるそれに、さらに酔うんじゃないかと思っていたが、追っているうちに焦点ピントが合い、人差し指の指紋を捉えられるようになる。指が顔の正面で止まった。人差し指が、てのひらへと変化し、目の前に差し出される。

「手を握って、そうです。ではひとつ質問です。今日は何年何月何日ですか?」

「にせん、よんじゅう……にねん。はち月、29日」

 言葉を吐き出すうちに、もやのかかっていた思考が晴れる。手を握られる感覚によってさらに鮮明に、はっきりと多田羅の顔を認識する。多田羅は子供を労わるような優しさで、こちらの二の腕を叩いた。

「辛いことを思い出しましたね、もう大丈夫ですよ」

「すみません、突然、その……」

 いつの間にか、ベンチに座り込んでいた。一体自分はどうしたのだろうか。

 額を押さえると菊田に軽く肩を叩かれる。

「蕗二くん、坂下くんとともにしばらく休みなさい。私は捜査本部にさっきの情報を渡してくる。上の判断によっては、これから無理を強いるかもしれない。今のうちにできるだけ休憩きゅうけいを取っておいてくれ。東検視官、君も捜査本部に来てくれ」

「ええ、嫌でも引っ張り出されるでしょうし。桑原は片付けお願い」

「はいッ!」

 桑原は機敏な動きで検死ルームに飛び込み、菊田はもう一度蕗二の肩を叩いて、東とともに駆けていった。

 その背を見送っていると、かたわらに屈んでいた多田羅が身じろいだ。

「三輪さん、一度私の元に来ていただけませんか?」

 多田羅がつむいだ言葉の意味が分からない。眉を寄せるが、多田羅は引く気がないらしい。

「自覚はあると思うのですが、貴方にはトラウマがありますね。その記憶全部を、その時感じた怒りや悲しみ、後悔などの記憶に無理やり蓋をしてしまっている。今まではその蓋が頑丈で、自分で対処できたのかもしれませんが、今上手く蓋をできていない状況です。このままでは、トラウマに飲み込まれてしまいます」

「大丈夫、まだ……」

 多田羅と目が合う。強い視線に、言い逃れはできない。

「この事件が終わったら、行きます」

 観念するように両手を上げれば、多田羅は母のような優しい笑みを浮かべた。

「お待ちしていますので、必ず」

「ああ、ありがとう多田羅先生」

「いえ、皆さんの健闘を祈ります」

 多田羅が立ち上がり、頭を下げる。離れていく足音とともに訪れた沈黙は居心地が悪い。

 様子をうかがうように視線を向けてくる片岡と野村に、手を上げる。

「すまない。ちょっと、先に竹の所に行っといてくれるか。なんだか喉が渇いちまって、飲みもん買ってから行く」

 片岡と野村は顔を見合わせる。視線で一言二言会話した二人は、蕗二の言葉に頷いた。

「お言葉に甘えて、先に行くよ。そろそろ立ちっぱなしも辛くてね」

「ゆっくりでいいからね、三輪っち」

 待ってるね、と野村が手を振り、片岡とともに歩き出した。

 白い廊下に一人になる。肺から空気を出し切るように大きく溜息を吐いて項垂れる。

 できるなら、このまま寝てしまいたいと思った。

 落ち着いてはいるが奥底でくすぶっている感覚が気持ち悪い。

 多田羅の言うとおり、それはあの日のことで何か蓋をしてしまった感情や記憶かもしれない。何かを忘れているような、そんな感覚は時々あった。その、『何か』が分からない。思い出したくないとも思う。

 溜息を吐き出す。なんだか溜息ばかり吐いている気がした。

 いつまでも座っていそうな自分を叱咤しったするように腿を叩き、立ち上がる。

 スラックスのポケットに手を入れて歩くが、足に何か重いものをくくりつけて引きっているような気だるさを感じる。足を上げるように意識しながら歩いていると、左手の続いていた壁が途切れる。

 突然壁をくり抜き現れたスペースには、ガラスで覆われた喫煙室と手洗い場、自販機が二種類と、背もたれのついたベンチが三つ置いてあった。

 この地下には確か霊安室もあったはずだ。休憩しなければ、精神的に持たないだろう配慮からか、警視庁内にある休憩スペースの中でも、やや充実している。

 先ほど片岡と野村を追い払う口実として使った台詞どおり、何か飲んで気分を買えるべきだろうかと、つま先を休憩スペースへと向ける。自販機の前に立つと照明がついた。まるで光りに寄せられる蛾のようだ。手を入れていたポケットから銀色のマネーカードを取り出し、ディスプレイの下、青く光る部分にカードをかざせば、飲み物が映っていたディスプレイが変わり、音声ガイドがオススメだという新作のコーヒーを説明してくる。十秒ほどでCMは終わり、再び飲み物の並んだディスプレイと購入ボタンが並んだ。ぼんやりと紹介された新作商品のボタンへと指を伸ばす。

「それ、砂糖入りですけどいいですか?」

 突然聞えた声に悲鳴を上げて飛び上がる。いつの間にか隣に立っていた芳乃がこちらを見上げていた。

「び、っくりした……居たのかよ」

 驚きすぎて、激しく鼓動が脈打っている。痛みに胸元を擦っていると、芳乃が不満げに眉を寄せた。

「ずっと後ろに居ましたし、声をかけるのは二回目です。少し驚きすぎじゃないですか?」

「あー、悪かったよ。ついでだ、なんか買うか?」

「いえ、大丈夫です」

「そうか」

 蕗二は自販機の隅、無糖の缶コーヒーのボタンを押した。重たい音ともに黒いラベルの缶が落ちてくる。缶を拾い上げ、プルタブを起こす。開いた小さな口から、黒く揺れる水面とられたコーヒーの香ばしい匂いが立ち上る。口を付ければ、予想通りの冷たさが喉を過ぎて、苦味がほどよく舌に残った。

「加藤先生、大丈夫か?」

「はい、もう少ししたら落ち着くと思います」

「そうか」

 もう一度コーヒーを口に含み、苦味を堪能しながらベンチに腰掛ける。病院の受付にあるような合成皮革ごうせいひかくのベンチはわずかに沈み込み、柔らかく腰を受け止めた。深く座りなおし、背もたれに体を預ける。と、芳乃はまだ背を向けていた。身動きひとつすらもしていない。

「ひとつ、質問していいですか?」

 首を傾げた蕗二に、芳乃の背が問いかける。

「ああ、どうぞ?」

「刑事さんは、なぜ刑事を目指したんですか」

 手の中でコーヒーが揺れる。握りこんだ缶の表面、浮かび上がった水滴がてのひらをじっとりと濡らした。

「視たろ。復讐だよ。≪ブルーマーク≫を見ると、時々あの日を思い出してな。≪ブルーマーク≫なんて居なくなればいい、そう願うだけで何もできない自分が嫌で、刑事になった。それだけだ」

 あの日、たくさんの大切なものを失い、俺の人生は大きく変わった。

 あんな思いは二度とごめんだ。

 怒りを、憎しみを、全て注いで警察の道へと踏み込んだ。

 だから、ここにいる。

「本当に、それだけですか?」

 はっきりとした静かな声。顔を上げれば、芳乃はまだ背を向けていた。蕗二が口を開くより先に「いえ、何でもありません」と呟く。頭痛がして、コーヒーを口に運ぶ。先ほどより苦味が増したコーヒーを唾液で薄め、喉奥に押し込んだ。

「なあ、芳乃。お前は人を、恨んだ事はあるか?」

 気がつけば、言葉が零れ落ちていた。そこで、やっと芳乃が動く。片足を引いて体をひねり、青い光越しに視線が刺さる。

「どういう意味ですか?」

「そのまんまだよ……」

 視線は合わせない。芳乃の黒い目は、こちらを見ているようだ。うつむいたまま、ちびちびと意味もなくコーヒーを啜る。

「恨みですか」

 小さな呟き。恐る恐る視線を上げると、芳乃が自販機に視線を投げていた。

「恨むというか、悔しいというかうらやましいというか、ぶっちゃけムカつく事だらけですよ。電車で座ろうと思ってたら割り込まれたとか、好きなパンが目の前で売り切れたとか、明らかに相手が悪いくせに因縁つけられたりだとか。でも、いちいち怒るのもめんどくさいですし、真面目に相手するほうが馬鹿らしいんです。目の前に小さな虫が飛んでたとして、追い払うでもなく殺すでもなく、目触りだって一人怒り狂ってる人みたいで、正直かっこ悪いと思いませんか? いつまでも愚痴ばかり垂れてる時間があるなら、ムカつく事を回避できるか考えたほうが、よっぽどマシですよ」

 自販機のディスプレイに流れる商品CMをつまらなさそうに見ている。

 その姿に、目の前で手を叩かれたような驚きがあった。

 問いかけておいて、一体この少年に何を言って欲しかったのか自分でも意味が分からない。

 だが、拍子抜けたというのか、逆立っていた毛並みが元に戻るような不思議な感覚だった。

「それより刑事さん、その小さい缶コーヒーを飲むのに、一体何分かかるんですか? まさか空なのに飲んでるとか、そんな事言いませんよね?」

「んな訳ねぇだろ! 味わってんだよ」

 疑いの眼を向けてくる芳乃に缶を突きつけ、音が鳴るように左右に振る。だが、あまり中身はないらしく、コーヒーが缶の側面に当たる音は間抜けなほど軽い。

 芳乃は「はあ」と言葉にして息を吐く。お手上げだとばかりに首を振って、きびすを返した。そのまま休憩スペースの角を曲がろうとして、思い出したとばかりに立ち止まる。

「あまり遅いと、坂下さんが迎えに来ますよ、たぶん」

 ちらりと蕗二を見て、返事をする間もなく芳乃は角の向こうに消えた。

 あーだかいーだか、変なうめき声が口から漏れ、頭を掻きむしる。缶コーヒーをあおって、雫の一滴まで飲み干し、備え付けのゴミ箱に放り込んだ。見事な放物線を描いて缶はゴミ箱に吸い込まれる。

 勢いよく立ち上がり歩き出せば、あれだけ重かった足は滑らかに前へと進んだ。










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