File:1 君は引き金を引けるのか
2042年4月7日月曜日。AM09:55。
捜査一課と彫られた銀色のプレートが、壁に埋め込まれている。
その横、くり貫かれたようなドアのない部屋への入り口から、目つきの鋭いスーツの男たちが働き蜂のように出入りしていた。
そこに
見知らぬ男。
背が高く、
四方からの視線に動じることもなく、目的の机の前にたどり着いた男・
「
A4サイズの液晶タブレット端末を差し出した蕗二に、パソコンに向かっていた菊田は顔を上げた。
受け取ると早速液晶タブレット端末を広げる。画面を指でスライドさせ目を通すと深く頷いて、通りかかった男に「本部長に渡しといてくれ」と液晶タブレット端末を手渡し、蕗二と向かい合った。
「先日の、
蕗二は安心したように深い溜息をついた。それとほぼ同時に、菊田は声と共に立ち上がり、腰を伸ばす。
「ああ、一つ終わったところで三輪、息抜きにコーヒーでも飲まないか」
蕗二が答えるよりも先に、部屋を出るように促された。
一言も言葉を交わすことなく、捜査一課の事務所から出る。菊田の後ろをついて廊下を進むと、ベンチと自販機の並ぶ
『おはようございます。コーヒーですか?』
「えーっと、蕗二君。ブラックは平気か?」
「はい」
「ブラックコーヒー二つ」
『ありがとうございました』
連続する鈍い落下音。菊田は半身を
「菊田さん」
蕗二の声が聞こえていないのか、菊田は再び歩き出したか思うと、隣接する喫煙所のスライドドアに手をかけていた。蕗二は慌てて閉まりかかったドアの隙間から身体を滑りこませる。後ろでドアが閉まると、さきほどの空間から切り取られたように、無音の空間が広がっていた。男が十人は入れるほどのスペースには、菊田と蕗二以外いない。菊田は慣れた動作で壁にもたれかかると、蕗二とスモーキングスタンドを挟んだ自分の正面を交互に指差した。素直に従うと、菊田はスーツの内ポケットから手のひらに収まる小さな箱を取り出し、その上部を指で叩く。数本飛び出した茶色い棒の一本を引き抜いた菊田はそれを口にくわえると、箱ごと蕗二に向けた。
「吸えるか?」
「付き合う程度なら……」
「いや、君のように付き合おうとしてくれる気遣いは感心するよ。昔はたいがいの刑事が酒と煙草を覚えさせられたもんだが、最近は健康志向で煙草自体吸う奴が少ない。寂しく思うがまあ、言ってる間に私も定年だ。そろそろ禁煙を始めてみるか」
「……定年は法改正で70歳まで上がりました。まだ20年はあるでしょ」
「もう体が付いてこないんじゃあ10年も20年も大差ない。気だけ若いのは、邪魔なだけだよ」
菊田は上を向いた。細く吐き出された煙は、しばらく漂って空気に溶けた。蕗二はコーヒーをもう一度口に含んで、舌を湿らせる。
「菊田さん。そろそろこんな小芝居までして、俺を誘った訳を教えてくれませんか?」
蕗二は指先で挟んだ煙草を目の前に持ち上げる。菊田は観念したようにうつむくと、スーツの内ポケットから細いプラスチックの棒を二本取り出した。
安いライターに見えたそれは、USBメモリーだった。
「
「そんなに隠す必要あるんですか?」
「ああ、【特殊殺人対策捜査班】は世間に露出できない。もし存在がばれれば、特にメディアがこぞって『最速で逮捕できる部署があるくせになぜ使わない、警察は
掲げてみせていた菊田は、不意に無骨な手でUSBを握りこんだ。蕗二に渡すことを躊躇しているようにも見えた。
「あの≪三人≫の詳細情報も入っている」
突き出された拳の下に手をそえると、軽い音を立ててUSBは蕗二の手のひらに落ちた。おもちゃのように小さなソレが、ひどく重いものに感じる。
金属の部品を押し擦る小さな音に視線を上げると、菊田が缶コーヒーをあおっていた。最後の一口だけ口に含み、味わうようにゆっくり飲み干すと、大きな溜息をつく。
「あとひとつ、悪い知らせがある」
蕗二の眉間の皺が深くなった。
「君たちの快挙に、柳本警視監は
「さらなる?」
「解散どころか、ますます捜査が回ってくるだろうな……」
菊田は小さく舌打ち、空の缶コーヒーをあおった。蕗二は煙草を口だけで吸い、吐き出す。菊田よりも白い煙が広がった。
「≪あいつら≫を、さらに利用するってことですか」
菊田はそれに答えず、折り曲げられた茶色い封筒をスーツの外ポケットから取り出すと、先ほどより荒く手渡してきた。蕗二は皺だらけの封筒から手触りのいい紙を引き出す。
三つ折にされた紙を広げると、やけに白い紙と赤い割印が目に染みた。
そこにシンプルな文面が淡々と印刷されていた。
【許可状 所属するブルーマークが人に危害を加える可能性が極めて高い、又殺傷犯罪を犯した場合、
強く
見れば見るほど不快感が強まり、静かに煙草をふかす目の前の上司を睨みつけた。
「なんですか、これ」
自分のものとは思えない低い声だった。菊田は短くなった煙草を肺一杯に吸い込むと、溜息と共に大量の白い煙を吐き出し、煙草を灰皿で揉み消した。
「≪ブルーマーク≫は犯罪者予備軍だ。いつ、犯罪を犯してもおかしくない。最悪、射殺もやむを得ないということだ」
「“保険”ですか、俺と坂下は」
「否定はできない」
紙を握り締める。拳の中で抵抗する紙が、手のひらに角を立てた。
「俺は……ブルーマークを、許せません。でも、与えられた【この仕事】は
「『これも仕事だ』……そう言われれば、君は引き金を引けるのか?」
蕗二は強く目を閉じる。
脳裏にチラつく青い小さな光。名前を呼ぶ父の叫び声。血溜まり。笑い声。
途方もない怒りが込み上げてくる。
≪あの三人≫の顔を思い浮かべた。
ナイフを持っている。人を殺していた。血塗れの刃物を手に、青い光越しにこちらをみる視線。
蕗二は一瞬も
スーツの内側、脇下のホルスターから拳銃を抜き出し真っ直ぐ頭部に向ける。
相手が動くよりも先に、引き金を引いた。
腕全体に響く衝撃。
火薬が焦げる香ばしい匂いを
ゆっくりと目を開ける。
ブルーマークは憎い。
もし、あの三人が人を殺めるようなことがあるのなら、俺は
だが、
情からの悲しみじゃない。犯罪を止められたと言う安心感でもない。
じゃあ、これはなんだ。
「囚われるな」
手の中で潰れた白い紙に視線を落とす。
菊田の言葉をどう捕らえるべきかさえ、わからなかった。
過去にか、ブルーマークにか、感情にか……
答えはでない。
指先で灰柱を作り続ける煙草を灰皿に擦りつけ、小さな穴に落とした。ゆっくりと深呼吸する。息を吸ってもほんのりと煙の臭いがして、まったく気分が晴れない。
口に残る苦味と、腹底に
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