ささやくもの

「居るね」

「うん、居るね」

「今夜も居るね」


 ドア越しに聞こえてくる、子供のような高い声。


「居るね」

「居るね」

「残念だね」


 そう囁き交わして、やがて静かになる。

 私は家族と折り合いが悪いから、最初は悪戯だと思った。部屋から出ない私を揶揄やゆして、そんな会話を聞かせるのだと。

 でも囁きの最中に不意を打ってドアを開けても、うちの馬鹿犬がきょとんとするばかりだった。大型犬のくせに家の中で飼われている、甘え切って邪魔で邪魔で仕方のない犬だが、当然これが喋るはずもない。

 それによくよく考えてみれば、家電もろくに扱えないくらい耄碌もうろくしている父母に、私でもどうやっているのか見当のつかない、こんな手の込んだ悪戯を仕組めようはずもない。


 であるならば、これは心霊現象というものだろう。

 けれど私にどうこうする意図はなかった。

 向うは私が部屋に居るのを確認して、それを残念だと言う。それだけの事なのだ。ならば勝手に残念がらせておけばいい。私は私でいつものように、したいようにするだけだ。

 かくて私は変わらず部屋に引き篭もり、親に食事を運ばせては当り散らし、やはり邪魔くさく寄って来る犬を蹴飛ばしては追い払った。

 夜更けに声が聞こえる時だけ鬱陶うっとうしくその存在を思い出したが、それ以上は特に気にもしなかった。



 秋口になって温泉旅行に行くと伝えられたので、当然ながら不参加を表明した。すると母は煩わしくも私に、馬鹿犬の世話を押し付けようとする。当然ながらこれも拒絶した。

 結局ペット同伴が可能な宿泊先を探しての旅にしたらしい。無駄金を使うものだ。

 食費としてそれなりの額をふんだくったので、私は自由を満喫する事にした。自分だけの家というのは、実に開放感に溢れている。


 やがて、夜が来た。

 いつも通りパソコンのモニターに向かっていると、またいつもの囁き声がした。


「居ないね」

「うん、居ないね」

「今日は居ないね」


 ──え?


 違う。

 いつもと内容が違う。

 本能的な何かが警鐘を鳴らした。わっと肌に粟が生じた。

 しかし私が何をする暇もなく、囁きは続く。


「居ないね」

「居ないね」

「今夜、犬は居ないね」


 嬉しそうな声。声。声。

 ノブの回る音はしなかった。

 けれどそれはもう、ドア越しに聞こえるのではなかった。

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