どんなに頑張っても強くなれないんだよ
武士は、英雄ナインになりたいわけではなかった。
ただ「ナイン・サーガ」の〈サムライ〉のように、英雄ナインの役に立てる従者になりたかった。
情けない自分は剣道から逃げ出し、父親の期待にも応えられなかった。
しかし、現実のこの世界で英雄のような九龍直也に出会った。
彼の力になりたい。
それは、実際に彼の仲間になって悪の秘密組織と戦いたいという意味ではなく、そうなれるだけの男になりたい、自分に自信を持てるようになりたいということだった。
剣道部に入って、3ヶ月が過ぎようとしていた。
「おらあ! 田中ァ! 他の一年が出来てるのに、なんでテメエだけ出来ねえんだ!」
「……す、すみま、せ……」
息があがって、まともに声を出すことも出来ない。
今年、一年生は武士を含めて十五名ほど入部した。
マネージャーで入部したハジメを除いた全員が経験者で、そのうち中学時代に剣道部でなかったものは、武士だけだった。
その為、すぐに上級生たちと同じ稽古内容をこなすこととなったが、勘を取り戻すことだけでも精いっぱいだった武士に、全国レベルの練習内容は拷問に等しかった。
「気合入れろ、田中ァ!」
特に、副部長の大山のしごきは武士には拷問そのものだった。
「打ち込み稽古」という練習がある。
一対一で、片方が元立ちとなって、実戦形式を取りながらも相手に打ち込ませる部位を示し、掛かり手がそれを見極め、打ち込んでいくというものだ。
通常「打ち込み稽古」では元立ちが頻繁に打ち込んでいくことはない。
しかし大山は、元立ちの時にも掛かり手の打ちこみが甘かったり、気勢が足りない時には遠慮なく相手に打ち込んだ。
そして武士と相対したときに限っては、どちらが掛かり手か分からない程、一方的に大山が打ち込んでいた。
「オラぁ! 今小手が空いてただろ、小手がぁ!」
「声出せ、声! そんなんじゃ入っても一本貰えねえぞ!」
「竹刀落ちてんぞ! ちゃんと構えやがれ!」
傍から見ている他の部員たちは、大山のしごきは武士の友人ハジメの態度が気に入らない八つ当たりだと、噂していた。
ただ、それがなくとも武士は剣道部の稽古について行きかねていた。
稽古は今のところ、すべての部活が休止となる中間考査の時期を除き、平日は休みが無く行われていた。
日々の稽古の後も、武士は少しでも周囲に追いつく為、巡回に来る警備員に追い出される夜遅くまで素振り稽古を繰り返していた。
その為、帰宅する頃には武士はすべての体力、精神力を使い果たして、碌に夕食も口にすることができない程に疲労する日々が続いた。
心配した姉の遥が「大丈夫か、無理をするな」と声をかけても、会話をする気力もなく、とにかく休ませてくれと家では寝てばかりいた。
昼間の授業でも、とにかく疲れが抜けない武士はしばしば居眠りをしてしまい、そのせいで、もともと学力的にも学校でギリギリの水準だった武士は、あっという間に授業についていけなくなった。
「武士君。中間考査、どうだった?」
「芹香ちゃん、それを聞く……?」
「だよねー。……大丈夫?」
「なにが?」
「授業で寝ちゃうのって、部活のせいでしょ? 剣道部、まだしんどい?」
「慣れたいとは、思ってるんだけどね……僕なんかには、レベルが高過ぎる部活だから」
入学式以来親しくなった芹香だが、その後変わったこともなく(初日にあった中傷事件がまたあるのではと心配したが、その後は一切無い。少なくとも武士は気が付かなかった)、淡々とした友人関係が続いていた。
初めのうちは剣道部の様子、特に直也の様子を聞きたがっていた芹香だった。
しかし武士が剣道部でかなりキツい思いをしていることが分かると、部活の話題には触れなくなった。
傍から見ていて分かるほどに、武士にとっては辛い部活動だった。
それでもすぐに辞めたりしなかったのは、たまに会う父親に「続けているか」と聞かれ、「続けている」と答えた時の笑顔が嬉しかったからだ。
そして、その笑顔が再びの失望の顔に変わることが怖かったからだ。
「ほら! 打て! 面だ面! ……ぬるいんだよ! 声も出てねえ!」
耐え忍んで剣道部を辞めずにきた武士だったが、そもそも自分が剣道を止めたきっかけを思い出した。
打ち込みが苦手なのだ。
剣道で一本を取る為にはいくつかの要因がある。
竹刀の有効部位で、面、小手、胴、突きなどの部位に正確に、足の踏み込み、声による気勢と同時に打ち込んで、そして打ち終えた後に残心の構えを取る。これらのすべてが揃って始めて一本となる。
武士は、人に打ち込むときに気勢を上げて打つということが、どうしても苦手だった。
素振りや、型は好きだった。
道場の隅でひたすらに素振りをすることは小学生時代から好きで、お陰で竹刀の振り自体は人並み以上に速く、褒められもした。
しかしそれが、試合や打ち込み稽古で人と相対すると、どうしてもできない。
「メェーーン!」
と大きな声を上げて、素振りの時と同じように鋭く打ち込むということができない。
剣士にとって、これは致命的なことだった。
マネージャーの仕事も碌にせず、武士や直也の稽古をいつもじっと見ているハジメは、そんな武士の欠点にいち早く気づいていた。
「武士。お前は下手じゃないのに、どうして打ち込まねーんだ」
「打ち込んでるんだよ。僕なりに」
「俺は素人だけどよ。一本って気合的なのも入ってねえとダメなんだろ。武士の剣には気合いが、殺気が足りないんだよ」
「殺気なんてそんな。剣道は自分の心を鍛える武道だよ」
「んなぬるいこと言ってるから、大山なんかにバカスカ打たれるんだ」
「……あれは、ハジメのせいという話も……」
「とにかく、殺らなきゃ殺られるくらいの気持ちで打てよ。お前は素振りは結構鋭いんだから、気持ちの面さえクリアできたら、かなりいい線いけると思うぜ」
それが一番の難題なんだ、と武士は自覚していた。
同じようなことは、昔の道場で師範に何度も言われてきた。
しかし、とうとう克服できなかった点でもあった。
ある日。
いつものように疲労しきって帰宅し、部屋で眠っていた武士のところに、深夜に父親が突然入ってきた。
「おう……武士。ちょっと起きろ。いつも寝てるじゃないか、お前…いっく…」
ひどく酔っていた。
父親はもともと深酒はしない人物だったが、年に何回か、極端に酔って帰宅することがあった。
仕事のストレスが溜まってきたときにあるようで、素面の時には決して話さない仕事の愚痴や、不平不満を子供にぶつけていた。
大抵は遥が慣れたもので、ハイハイと聞き父親に喋るだけ喋らせてから寝室に誘導していた。
しかし、この日はたまたま姉が友人宅へ泊りに行っており、父親は武士の部屋へと入ってきた。
「お前は気楽だなあ。家じゃ寝てばっかりで」
無理やり起こされた武士はベットに座り、父親はパソコンデスクの椅子に座り、酒を飲み続けている。
「この前までは家にいる間はパソコン、パソコンで……高校入って少しはマシになったかと思ったら、今度は寝てばっかりか。そんなんでいいのか、お前の人生は」
遥からは、こうなった時の父親は普通じゃないから、言われることはいちいち気にするな、と言われていた。
しかし、武士は酔ったときの父の言葉は、すべて本音なのではないかと思っていた。
酒によっているからこそ理性のたがが外れて、本心がでるのではないかと。
そして父は心の底では自分を馬鹿にしているんだと。
「おまえは、〈武士〉なのになぁ……全然〈武士〉じゃないなあ。怠けてばかりのお貴族さまだなあ」
武士は父親の暴言を、黙って聞いていた。
黙って聞いていることしかできなかった。
自分だって頑張ってるんだと言うことができなかった。
一度逃げ出しているから。
やり続けて、なにか結果を出してからしか、文句は言えないんだと思っていた。
「剣道部、続けてるのか」
武士は頷いた。
しかし、普段の父親はそれだけで笑ってくれるが、深酒で泥酔していたその時は、笑ってはくれなかった。
「で、うまくいってるのか。強い学校なんだろ。大会に出る選手とかにはなれたのか」
なれているはずはなかった。
五月には地区大会があったが、暁学園からの団体戦は当然直也、大山のほか上級生たちのチームが出場している。
比較的出場枠の多い個人戦のエントリーでも、名門暁学園の名前で出場する以上、一年生でなおかつ人に打ち込むことが苦手な武士に枠を回してもらえるはずもなかった。
武士が黙り込んでいると、父親は深いため息をついた。
「そりゃあ、そうだよなあ……。これからは、なれる見込みはありそうなのか」
武士は俯いて黙り続ける。
「……そうか。なあ武士。無理はしなくていいんだぞ」
驚いて、父親の顔を見る。
「人間、向き不向きがあるんだ。武士、お前はその程度の人間だったんだよ。所詮侍にはなれないんだよ。俺がそうなようになあ……。俺も、全然業績を上げられてないって、本部のエリアマネージャーにボロクソ言われたよ。お前なんか辞めちまえ、ってよお……。なあ、武士……世の中には、強くなれる奴と、なれない奴がいるんだよ……俺やお前みたいな人間は、どんなに頑張ったって……強くなんかなれねえんだよ…」
父親は弱い人間だった。
しかし、自分の子供の努力を悪し様に罵るような男ではない。
だがこの日は、本当にたまたま、仕事で大きなストレスを受けてしまった。
弱気になり、誰かに愚痴を言いたかった。
本当にそれだけだったが、武士の暁学園に合格するまでの受験勉強、そして入学してから三ヶ月間の努力と忍耐。
それらのすべてを、酔って漏らしてしまった父親の不用意な言葉が、粉々に破壊した。
それから、父親が何を話したのか、武士は覚えていない。
父親はそのまま酔い潰れ武士の部屋で寝てしまい、武士は朝まで一睡もできなかった。
翌日、睡眠不足のまま迎えた放課後の部活でいつも以上に動きの悪かった武士は、打ち込み稽古でいつも以上に大山に打たれまくっていた。
「やる気ねえのか、田中ぁっ! だったら出て行け! 辞めちまえ!」
大山は倒れこんだ武士に蹴りを入れる。
しかし、武士は動くこともできなかった。
「大山、やりすぎだよ。大丈夫かい? 田中君」
いつもは他の部員とは別メニューの稽古をこなしており、武士たち一年生とは稽古することのない直也。
だが、この日はあまりの大山の稽古に見かねたのか、武士に手を差し伸べてきた。
「す……すみません、九龍先輩! 大丈夫です」
久しぶりにまともに話す直也に、武士はあわてて飛び起きた。
「なんだよ。動けんじゃねえか田中。おし、じゃあもう一本いくぞ」
「ちょっと待って、大山」
「なんだよ」
「武士君、俺と掛かり稽古をしてみないか?」
「えっ……」
「おい、ちょっと待てよ直也」
武士は驚いた。
一年生で直也と稽古をした部員など、本当に上手いごく一部の部員しかいなかったからだ。
掛かり稽古とは、打ち込み稽古とは違い、元立ちも積極的に打ち込んでくる、比較的実践に近い稽古だ。
「直也。それはまずいだろ。他の一年に示しがつかねえよ」
「大山の稽古が極端すぎるんだよ。それに前から、彼は気になっていたんだ」
自分が気になっていたと直也に言われ、武士はどきりとする。
「一人で竹刀を振っている時と、人と稽古している時があまりにも違うからね。一度立ち会ってみたかったんだ。部長として、部員の練度は把握しておかないとね」
直也は、武士を立たせた。
「いいかな? 田中君」
「は、はは、はい、もちろんです。おお恐れお多いです。よろしくお願いします」
「じゃあ、俺はこの後集中掛かり稽古だから、その後にね。少し休んでて」
武士は剣道場の隅に外れ、面を外した。
直也は例の四対一の変則稽古を始める。
相変わらず切れのいい動きで、切れ目なく打ち込まれる四人の打ち込みを躱しながら、綺麗に一本を決めていく。
見惚れている武士に、ジャージ姿のハジメが近づいてきた。
「武士、チャンスだ」
「チャンスって、なんの」
「ここで奴を相手に一本決めれば、お前の株は一気に上がるぞ。先輩との距離が縮められるぞ」
「一本なんてそんな……。胸を借りるだけだよ」
「バカ、そんな弱気でどうすんだよ。いいか武士。俺、ずっと見ててわかったんだけどよ、あいつの剣道は、基本的に〈後の先〉なんだ」
「ゴノセン?」
「要は、相手に先に動かせるんだ。そこを見切って、先に打ち込む。例えばほら」
集中掛かり稽古で、直也の相手が入れ替わった。
新たに入った相手は、構えながら直也との間合いを計る。
直也が僅かに前に出て、相手の竹刀を軽く払う。
相手は払われた竹刀をすぐに戻して今度は直也の竹刀を払う。
直也の構えが崩れた。
「ヤアアァ!」
好機とみた相手が竹刀を振り上げ、面を狙って打ち込んだが、その瞬間に直也は消える。
いや、消えたと錯覚させるほどの素早い動きで間合いを詰め、竹刀を横に打ち抜く。
「ドオオォォォ!」
鮮やかな抜き胴が決まった。
「ほら。打ってこない相手にはああやって隙を作って、先に打たせてるんだ。そうやって相手の防御が薄くなったところを、更に早く動いて、先に一本を決める」
「九龍先輩だから出来るんだよ」
「確かに、あいつの動きは速いけどよ。あれは体のスピードだけじゃない。相手の打ち気を、殺気を感じて、それに反応して先に打ち込んでんだ」
「もう天才の域だよね」
「だから、お前にも勝機はある」
「そんな、勝機って……」
「いいか、前に俺はお前の剣に殺気がないから駄目だって言ったけどよ。逆に殺気のない武士に、九龍は反応できないんだ」
「そんなマンガみたいな」
「無心で打て。素振りだと思って。面とか小手とか胴とかの、最短距離を素早く打ち抜くんだ。声なんて出なくていい」
「声出さなきゃ一本にならないよ」
「試合をやるわけじゃないんだ。九龍に打ち込むってことが大事なんだ」
「ハジメ、何を言ってるの?」
話している内に、直也の集中掛かり稽古が終わった。
直也は相変わらず汗ひとつかかないまま、武士に歩み寄ってきた。
「じゃあ、始めようか」
「よ、よろしくお願いします」
武士は面をつけ、剣道場の真ん中に出た。
他の一年生も稽古の手を止めて、二人の稽古に興味を示している。
中心線へ歩を進め竹刀を構えて蹲踞する。
タイミングを合わせて双方立ち上がり、掛かり稽古が始まった。
武士は、初めて直也に正面から相対した。
面の向こう側に見える直也の瞳は、まっすぐに武士を見据えている。
直也と竹刀を交わすことは武士の夢でもあった。
「メェェェッ!」
直也の鋭い気勢が道場に響く。
気づけば、武士の前から直也の姿は消えていた。
頭に鈍い痛みを残し、彼は既に武士の後ろで残心の構えを取っている。
真正面からの面打ち。
武士は反応するどころか、それと認識することも出来なかった。
「まあ……無理か」
ハジメは呟く。
あまりにも実力差があり過ぎて、殺気が云々、という次元ではなかったというわけだ。
武士は慌てて振り返り、竹刀を構え直す。
しかし直也は竹刀を下ろしてしまった。
「わかった。もう止めよう」
「え…」
直也は中心線に戻り、蹲踞する。
武士は戸惑ったが、動かない直也に仕方なく合わせて蹲踞し、竹刀を納める。
掛かり稽古はわずか一合で終わった。
「先輩……」
立ち尽くす武士に直也が近づいてきた。
「田中君。君には、勝とうという気がない。いや、強くなろうという意思が感じられない」
「そ、そんなことは……僕は、僕なりに……」
「向いてないのかもしれないね。まあ、田中君のペースで、ゆっくりやるといいよ。大山には、俺からあまり無理な稽古をするなと言っておくから」
そう言うと、直也は武士から去っていった。
武士は、自分の足元がガラガラと崩れて自分の居場所がどこにもなくなったような、暗い気持ちの渦に叩き落された。
武士は、稽古途中で道場を出る。
更衣室で半袖シャツの夏の制服に着替えると、自分の教室へと戻った。
教室には誰もいなく、武士は一人自分の机に座った。
机の中から、一通の封筒を取り出す。
表書きには、退部届けの文字。
眠らずに夜明けを迎えた今朝、書いて持ってきたものだ。
机の上に雫がこぼれ、退部届けも濡らす。
武士は声も出さずに泣いた。
日は落ちて外が暗くなる。
教室の外から聞こえてきていた運動部の声も、静かになった。
武士は一人机に座り、退部届けを握り締めて動くことも出来なかった。
ハジメは直也との掛かり稽古の後、武士が静かに剣道場を出て行くのに気付いていた。
気付いていたが、すぐに追う事ができなかった。
マネージャーとして入部しロクに仕事もせずに、九龍直也を監視しながらではあるが、武士の努力をハジメはずっと見てきた。
苦しい部活の稽古が終わった後に、誰よりも多く素振りをくり返す武士をずっと見てきた。
確かに武士は、相手に勝とうという意思は弱いかもしれない。
しかし、強くなりたいという気持ちは誰より強かった。
それを一番憧れている、武士の努力の原動力にもなった九龍直也に全否定された。
ショックは測りしれないだろう。
どう言葉を掛けていいか分からず、結局部活が終わるまで、ハジメは剣道場を出ることができなかった。
全体での稽古が終わると、ハジメは半袖シャツの制服に着替え、肩から学校指定のカバンを下げ教室に向かう。
なんとなく、まだ帰ってはいないだろうと思っていた。
「武士」
ハジメがドアを開けると、想像通り武士がまだ残っていて、声を掛けた。
返事のない武士に歩み寄ると、彼が封筒を握り締めていることに気付き、ハジメは全てを理解する。
「……早まんなよ」
武士はなおも無言だった。
「気持ちは分かる……いや、本当の意味じゃ分かんねえのかもしんねーけどよ。お前、本当に頑張ってきたじゃねーか。お前がどんだけ努力してきたか、俺は知ってるよ」
「……」
「九龍の言ったことなんて、気にすんな。あいつに弱え奴の気持ちなんて分かんねえんだよ。いや、武士は弱いわけじゃねえんだ。人より……そう人より、優しすぎるだけなんだよ」
「それじゃ、駄目なんだよ」
武士は立ち上がった。
「ハジメ、ありがとう。せっかく、僕の応援してくれてたのに。こんな形になって、ごめん」
「いや、俺は……」
「剣道場、まだ人は残ってるかな?」
「もう稽古は終わったけど、九龍の奴は、型の稽古で一人で残ってるぜ」
九龍の名前に僅かに顔を歪める武士に、ハジメは気付いた。
「そう……。ちょうどいいかな。ケジメ、自分でつけに行くよ」
「なあ武士。もう少し頑張らねえか? 俺、お前は絶対強くなると思うんだ。今は、ショックなこと言われて、気が動転してるだけなんだよ」
「ハジメ。ごめん。昨日、父親にも言われたんだ。お前は強くなれる人間じゃないって。努力しても無駄なんだってさ」
「なっ……!」
絶句したハジメを残して、武士は退部届けを握り締めたまま、カバンを持って教室を出た。ハジメは慌てて追いかける。
「武士待て、親父さん、本当にそんなこと言ったのか?」
「酔っ払ってだけどね。大人は酔ったときに本音が出るんだろ」
「なんてこと言いやがる……」
「ハジメ。ついて来なくていいよ」
「……武士、俺は」
武士は、無言で離れの柔剣道場へ向かう。
ハジメも掛ける言葉が見つからないまま、それでも武士の後をついて歩いた。
すっかり暗くなり足元も覚束ない緑道を歩く。
一瞬、妙な気配を感じたハジメは足を止めてあたりを見渡した。
「……なんだ、気のせいか?」
しかし、すぐ何も感じなくなり、武士も歩みを進めていたので、慌てて武士を追いかけた。
緑道を抜けて建物に着くと、一階の畳敷きの柔道場の明かりは消え、二階の剣道場も一部分だけを残して明かりは消えていた。
武士たちが剣道場に上がると、残った明かりの下、直也は防具を外し道着姿のままで、剣の型の練習していた。
直也は武士とハジメに気づいたようだったが、黙って型の動きを続けている。
持っているのは、竹刀や木刀ではなかった。
一見して真剣のように見えたが、きっと居合い用の模造刀なのだろうと武士は思った。
二人は直也の近くまで歩いていく。
武士は少し手前で止まり、直也の型を終わるまで見ていた。
美しい動きだった。
持っているのが刀でなければ、それはまるで舞踏のようだった。
しかし張り詰めた空気は冷たく、舞ではなく武であると思える。
改めて、九龍直也とは武士には手の届かない孤高の存在であるのだと実感した。
型の稽古を終えた直也は、刀を鞘に納めると武士たちの方に向き直った。
「どうした? こんな時間に」
武士は思わず俯いて視線を逸らす。
憧れの直也を目の前に、手にした退部届けを差し出すことに躊躇いを覚えたが、もう意思は固い。
「九龍先輩、型、かっこいいっすねえ。それ、模造刀じゃなくて真剣じゃないすか?」
ハジメは思わず、違う話を口にした。
「ああ、許可は持っているよ。見ただけでよくわかるね」
「いやあ。はっはっは」
「で? そんなことを聞きにきたのかい?」
「あ、いや……」
ハジメは武士を見る。
武士は俯いたままだ。
長く思えた沈黙の後、武士は口を開こうとした。
その時。
運命が交わるときがきた。
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