第二章
冷たく笑う女
毎朝経済新聞 二〇一X年六月ニ十一日 朝刊 社説
●暴走する鬼島政権・あの政界再編は正しかったのか?
昨年十月に異例の政界再編を経て、突如誕生した鬼島政権。
元国防軍司令官という異例の経歴をもつ鬼島総理が率いる内閣は、大胆な改革を推進してきた。
スピード感のある政治手腕は称賛に値するものだが、強引なやり方に反発も大きい。
特に内外の批判を浴びている政策は、国内の社会保障費を削減し、国防予算をかつてない規模で増額していることだ。
確かに、日本を除くアジアの軍事統合、その中心に位置するCACC(アジア大陸中央国家連合)の軍事増強には目に余るものがある。
しかし、かといって国民に過剰な痛みを強いてまで、防衛に注力する必要があるのだろうか?
鬼島首相の誕生により、国防軍の影響が過剰に大きくなっているだけではないのだろうか?
思えば、総選挙によってではなく、政界再編によって誕生した鬼島内閣は、国民の選択を得て誕生した内閣ではない。
この内閣は、本来昨年の総選挙で選択されていた民自党が分裂し、改革急進派が当時の一部野党と連立して誕生している。
急進派の中でも急先鋒だった鬼島総理は、支援組織を含めた民自党穏健派の組織ことごとくを解体に追い込む、極めて強引な方法で旧政権の影響力を一掃している。
これは極論すれば、国防軍による合法的なクーデターといえよう……
***
深夜。
新宿の雑居ビル4階にあるインターネットカフェ。
葵は周囲の異変に気が付き、パソコンのモニター電源を落とした。
葵は入口近くのブースを選んでいる。
耳を澄ませば、貸し出し雑誌が陳列されている棚を挟んで、客が受付の店員とする会話が聞こえてくる距離だ。
自動ドアが開いた音の直後、店員の「いらっしゃいませ」が途中で不自然に途切れた。
しかし、続いて客の声は聞こえない。
肌がヒリヒリするような緊張感を覚え、葵は身の危険が迫っていることを直感的に理解した。
足もとにおいたディパックを掴むと、気配を探り近くに人がいないことを確認してから、ブースの仕切りドアを静かに開けた。
そのまま、受付から見えない通路を辿って女子トイレへと向かう。
中に人がいないことを確認してから、窓を開ける。
窓に格子などがないことは、入店時に確認していた。
小さい窓だったが、葵の体ならギリギリ通るサイズだ。
至近で隣接しているビルの窓の縁に手を伸ばし、建物を脱出する。
4階の高さは、足元を滑らせれば危険だったが、店の入口の他、非常口などはすべて見張られていると考えた方が良かった。
ビルの壁と壁に手足を突っ張って、少しずつ地上へと降りる。
パーカーにミニスカートに黒タイツという格好で、もし下から見上げられたらあられもない姿を見られてしまうが、気にしている余裕はなかった。
一階分ほど降りたところで、通りから数人の男が路地に入ってくるのが見える。
――まずい!
葵は突っ張った手足を緩めた。
葵の体はおよそ3階の高さからコンクリートの地面へと急降下する。
常人なら、悪くすれば骨折でもしかねない行動だったが、葵は空中で一回転して足から着地。
強靭なバネで落下速度を相殺し、猫のような身軽さでコンクリートの地面に降り立った。
そこに、大通りから駆け込んできたスーツ姿の屈強な男が二人迫ってくる。
一人は腕をひと振りし、握っていた特殊警棒を伸ばした。
迷いなく葵の頭をめがけて、警棒を振る。
葵はすばやくしゃがみ込み、その一撃を避けた。
間髪入れずに警棒男に足払いを掛け、倒れこんだ男の鼻に体を半回転させて勢いをつけた肘を叩きこむ。
二人目の男が飛びかかってきた。
地面に伏せた形になっている葵の頭を足で踏みつけようとする。
狭い路地で、既に男が倒れていて横に避けるスペースはない。
葵は器械体操の後回りのように回転し、二人目の踏みつけ攻撃を避ける。
後回りの途中で地面についた腕を突っ張って伸びあがり、逆立ちの態勢になるとそのまま腕を交差させて、体をスピンさせた。
勢いがついて振られた黒タイツの美脚が、凶器となって男の顎を蹴り砕く。
「がっっ!」
男はうめき声を上げ、そのまま前のめりに倒れこんだ。
葵は落としてしまったディパックを拾うと、すぐに走り出す。
細い路地から人通りの多い道路に出ると、すぐに2~3人のスーツ姿の男が葵を見つけ、駆け寄ってきた。
一般の通行人が多い中で、衆目を集める乱闘騒ぎは相手も起こしたくないはずだった。
だが、これまでの逃避行の中では死人こそ出なかったものの、関係のない人を巻き込んだ襲撃も何度か経験している。
葵は、すぐに追っ手と反対方向へ駆けだした。
隠れ里への大規模な襲撃からおよそ十ヶ月間。
葵の逃避行は凄惨を極めるものだった。
山里から一番近い地方都市まで、着の身着のまま徒歩で逃れて、仲間の隠れ家に身を寄せるまではまだよかった。
一息つく間もなく、今度は正体不明のスーツの一団に襲撃された。
市街地ということもあり大型火器こそ使用されなかったものの、匿って衣服を提供してくれた仲間とははぐれ、仲間の生死は不明だ。
葵は現金や携帯電話などのまともな装備を補給することもできず、記憶していた支援組織を訪ねることにする。
葵たちを秘密裏に支援してくれる組織は、少ないながらも全国各地に点在していた。
しかし、そのほとんどが既に解散、消滅していたり、葵が着くなり敵の襲撃に遭ってしまった。
自分の所在が筒抜けになっていて、逆に支援組織の発見、壊滅に利用されている。
その可能性を恐れた葵は、今度は極力支援組織との接触は避けながら、最終目的地である東京を目指した。
東京で見つかったという、戒律にある〈英雄〉に会うために。
そして、なんとか東京には辿り着いたものの、そもそもの情報提供者との接触もままならないまま、徒に時間だけが過ぎていった。
こういう場合の為に用意されていた東京のセーフハウスで、最低限の活動資金と生活用品は得たものの、その部屋もすぐに敵の襲撃に逢い、活動拠点を失ってしまった。
こうして葵は、家出中の女子校生さながら街を彷徨うこととなった。
新宿の街を駆けまわりながら、葵はなんとか追手を撒いたようだ。
気づけば、緑の多い公園にいた葵は、公園中央にある見晴らしのよいベンチに座った。
ここなら、追手がが現れた場合でも近寄られる前に察知できる。
遠距離からの狙撃にも、殺気に反応できる自信はあった。
葵は背もたれに寄りかかり、夜空を見上げる。
長く住んでいた里とは違い、ネオンに照らされた空は明るく星は見えない。
「……なんでこんな……」
思わず呟きが漏れる。
葵はディパックからミネラルウォーターのペットボトルを取り出して一気に飲み干すと、空になったボトルを握り潰し、地面に叩きつけた。
断続的にある襲撃に、安息のない日々に、葵は精神的にも肉体的にも疲労し、追い詰められていた。
これまで多くの仲間を犠牲にしながら目的に近づくことすらできず、与えられた役目を果たせる見込みがまるでない日々。
葵は苛立ち、絶望していた。
「翠姉ぇ……」
パーカーの中に手を入れ、蒼い柄と鞘の短刀を取り出して、握りしめる。
このまま、この刀を手放して逃げてしまえれば、どんなに楽だろう。
しかし、そんなことは許されない。
葵の使命は既に自分一人の使命ではなかった。
戒律の通りなら、この力を英雄に与えなければ、日本は大変なことになる。
まして正体不明の敵、おそらく今この国を造り変えようとしている敵にこの力を渡してしまうなど、論外だった。
「不用心ね。こんなところで〈命蒼刃〉を出すなんて」
葵の背後からなんの前触れもなく声がした。
葵は弾けるようにベンチから飛び離れ、振り返る。
警戒していなかった訳ではない。
一切の気配も感じることができなかったことに、葵は驚愕していた。
「私たちの〈切り札〉の管理者が、こんなに簡単に背中を取られるなんて。不安ね」
ベンチの後ろには、ビジネススーツをかっちりと着た女性が一人立っていた。
手にはやや大きめのカバンを持ち、年は二十代半ば、ショートカットのやり手美人キャリアウーマンといった様相だ。
「誰!?」
葵は鋭い誰何の声をあげる。
その声を受け女性は薄く笑った。
葵は背筋に冷たいものが走る。
見るものすべてを蔑むような、氷のような笑顔だった。
反射的に葵は右足を引いて腰を落とし、いつでも攻撃できる態勢をとっていた。
「ちょっと待って。敵じゃないわ。〈刃郎衆〉よ」
女性は笑顔のまま、手のひらを葵に向ける。
「名前は?」
「私は諜報部の人間よ。言えるわけないわ」
「なら、私の名前は言える?」
「〈命蒼刃〉の管理者、葵ちゃんね?」
女性はにっこりと笑って小首を傾げる。
その笑顔は冷たいままの印象で、葵は女性をもう一つ信用する気にはなれなかった。
しかし、九色刃の管理者たる自分の名前は、〈刃郎衆〉の中でも中枢にいる人間以外には秘密にされていた。
その名を知る彼女は、少なくとも敵ではないはずだった。
「〈英雄〉の情報を里に伝えたのは、私よ」
女性はそれまで葵が座っていたベンチに座り、手にしていたカバンを横に置いて言葉を続ける。
「ようやく、あなたを見つけることが出来たわ。大変だったのよ。あなた居場所をころころ変えるんだもの」
「どうやって見つけたの? 私は東京に来てから、一度も組織と連絡を取ってなかった」
「あなたを襲った連中をマークしてたのよ。結構危ない橋を渡ったのよ」
「あいつらは何者なの」
「たぶん、あなたの考えている通りよ」
「……鬼島」
葵は、現在のこの国の首相の名を口にした。
「今や私たちの敵は国ってことね。このままだと、私たちは刃を奪われて消されるだけだわ」
「そんなことさせない」
葵は手にしていた短刀を強く握りしめる。
「それ、早くしまいなさいな」
女性はその短刀を指さした。
「大事な出番が控えているんだから」
「そうだ。〈英雄〉の居場所は!〈英雄〉は誰なの!」
葵は思わず声を荒げる。
「大きい声を出さないで。〈英雄〉は高校生よ。本来なら、あなたと同級……いや、いっこ上かな?」
「そんなことどうでもいい」
「私立暁学園の高校生よ」
女性は一枚の写真と、メモ書きを取り出して、葵に差し出した。
葵は受け取ると、ようやく掴んだ英雄の情報を食い入るように見つめた。
「剣道部に入っているそうよ」
「一般人なの?」
「……一般人みたいね。表向きは」
「持ってまわった言い方しないで。なに? 本当は違うの」
「調べた限りでは一般人よ。けれど、不明な点も残ってる。彼は……」
「彼が〈英雄〉なのは間違いないの?」
葵は女性の言葉を遮って聞いた。
「それは間違いないわ。〈白霊刃〉の予言通りの人物よ」
「それだけ分かれば、充分」
やっと使命を果たすことができる。
これまで、無力な自分のせいで払われ続けてきた仲間たちの犠牲が、ようやく報われる。
「はい、これ」
女性は持っていたカバンを差し出す。
「制服が入っているわ。といっても、暁学園のブレザーではないけど。かわいいセーラー服よ。きっと似合うわ」
「なんで?」
「生徒じゃないのに学園の制服着ている方が不自然でしょ? 万一見つかった時の為にね」
「そうじゃなくて。学校で会えっていうの?」
「気をつけて。敵もどうやら、〈英雄〉をマークし始めてるみたい」
「……どういうこと?」
「予言を知られているとは思えないけど。私たちにとって重要人物なら、先に手に入れてしまえということかしらね」
「……あなたの動きで悟られたんじゃないの」
「その可能性は認めるわ。私のミスを謝れというなら謝る。けど、今大事なのはそこじゃないでしょう?」
「……」
「接触は人目があるところでして。学校内が最適よ。連中もまさか学校の中まで襲ってきたりしないと思うわ」
女性は、あらためてセーラー服が入っているというカバンを葵に差し出す。
「……どうせ他校の制服なら、そんなもの必要ない」
「あなた、その格好で暁学園に入るつもり? なにしてたか想像つくけど、汚れてボロボロじゃない。碌な着替えも持ってないんじゃないの?」
確かに今葵が着ている服は、先程のネットカフェ脱出の際に汚れている。
ビルから飛び降りた際にどこか引っ掛けたのか、スカートの裾は破けているところもあった。
長い逃避行の中で、替えの服も似たようなものだ。
葵は差し出されたカバンを受け取ると、手にしていた写真とメモをそのカバンにしまい、踵を返した。
「気をつけてね。あなたが英雄と接触しようとしていると気付かれたら、間違いなく連中の邪魔が入るわ」
「私はあなたのようなミスはしない」
葵は冷たく言い放つ。
そうだ。もう少しで任務をまっとうできる。
ここで邪魔されてたまるものか。
「今後の諜報部のフォローは期待しないで。我々も一旦東京から撤退するわ」
葵は背中に女性の声を聞きながら、ようやく迎えた任務の大詰めに、はやる心抑えながら公園を後にした。
残された女性は、ベンチに座りながら葵の去った方向を見つめて微笑んでいる。
その笑顔は、変わらずに氷のようだった。
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