嘘は言ってない

「もう! いきなり過ぎるんだよ! ワンワ……ハジメは!」

「いちいちワンワンと言いかけるのはやめろ」


 剣道場を出るなり、武士はハジメを軽く殴り、ハジメは笑いながらそれを受け止める。


「じゃあ、帰り方は分かるよね? 私はここで」


 芹香が立ち止まる。


「え?」

「おお。じゃーなー」


 ハジメは一言いうと、芹香を意に介さず歩き出す。


「ちょっと待ちなよハジメ。ああ、ええと……シュバルツェンベック……さん? 今日はありがとう」

「ふふっ。なにそれ」

「礼なんていいんだよ、武士。その女が勝手についてきたんだから」


 ハジメは振り返らずに言う。

 芹香は薄くほほ笑む。


「うん。それに、こっちこそ御礼を言わなきゃだから。今日はありがとう」

「いや……そんな、なにもだよ」


 ホームルーム前の出来事を、武士は思い出した。


「シュバルツェンベックさん、なんて呼びにくいでしょ。芹香でいいよ。武士君」

「う……うん」

「顔赤くすんな、こっちが恥じい。行くぞ武士!」


 イライラするようにハジメは武士の腕を引っ張った。


「ハジメ君も、ありがとね! また明日!」


 背を向けたままのハジメに芹香は手を振る。

 ハジメは仕方なく、とでもいう風に。


「おう。またな、芹香」


 吐き捨てるように言いながら、背を向けたまま片手を挙げた。

 武士も芹香に手を振ると、ハジメと肩を並べた。


「結局、ハジメも優しいんだよね」

「何の話だ」

「やっぱりハジメは、ワンワンだ」

「やめろよそれ。あのハンドルネーム実は後悔してんだからよ…」


 芹香は仲良さそうに去っていく二人が、緑道に隠れて見えなくなるまで見送っていた。

 二人の姿が見えなくなると、柔剣道場を振り返る。

 建物の入口には、直也が先程の面だけ外した防具姿で立っていた。


「お兄ちゃん」

「芹香」

「来ちゃった」

「心臓に悪いんだよ、君は」

「もっと心臓に悪いのが、一緒にいたみたいだけどね」

「『御堂』……ね。芹香、君は知ってるのか?」

「何を?」

「……いや、なんでもない」

「お兄ちゃんが教えてくれないから、何も知らないよ」

「嘘つくんじゃないよ」

「本当だよ」


 溜息をつく直也。


「君は昔から、こっちのことに首を突っ込んで……」

「これからはもっと突っ込むのでヨロシク!」

「駄目だ。君に何かあったら、おばさんに顔向けできない」

「母さんは、お兄ちゃんからは離れるなって言われてるよ」

「あの人は……しかたないな」


 直也はまた、深い溜息をついた。


「お兄ちゃんが、もう危ないことしなければいいんだよ?」

「あの御堂とは同じクラスなのか?」


 直也は強引に話を変える。


「……うん。そうだよ」


 不服そうに、だが芹香は頷いた。


「できるだけ、アイツには近づかない方がいい」

の人なの?」

かは分からないけどね。普通の高校生じゃないことは確かだよ」

「なんで?」

「ちょっと気当たりしたら、えらい反応してたからね。懐に手を入れるなんて、相当な筋の人間だ。可哀想に。まだ若いのに」


 気当たりとは、剣道で立ち会ったときに、相手の出方や反応を見るために掛け声などの活気を発することだ。

 直也はそれを、声も出さずに行った。

 言い換えれば、殺気を発したわけだ。

 普通の人間なら感じることもないそれに、御堂ハジメは敏感に反応して懐に手を入れた。

 あの着崩した制服の下に、いったい何を持っていたのか。


 そんなハジメを「可哀想に」と憐れむ発言をした直也を、芹香は笑った。


「なにが可笑しいんだい?」

「だって。お兄ちゃん、いくつも違わないのに……まだ若い、って」

「年寄りだよ。もう俺はね」


 そう言うと、直也は遠くを見るように視線を外した。


「とにかく」


 すぐに、視線を芹香に戻す。


「あの男には不必要に近づいたらいけないよ」

「悪い人には見えないけどね。武士君は? 近づいてもいいの?」

「武士君……? ああ、一緒にいた彼ね」

「昔、助けてあげたことがあるんでしょ?」

「去年ね。こっちのトラブルに彼が巻き込まれていたんだよ」

「どんなトラブル?」

「だから首を突っ込むなって」

「武士君に直接聞くよ?」

「彼は言わないと思うよ。まあ、中途半端には喋っちゃったみたいだけど」

「御堂君の前で聞くよ?」

「……この、策士」


 直也が睨みつけると、芹香は小首をかしげて笑った。


「とある重要人物がいてね。これまたとある連中に追い詰められて、自殺しようとしてたんだ。それを、たまたま居合わせた彼が止めてくれた」


「……へえ」


 自殺を止める。

 いかにも彼らしいと、芹香は今日の教室での武士を思い出した。


「そういえば、すごいダッシュだったな。その自殺しようとしてた人が、急にビルの屋上から飛び降りようとしたんだ。そのとき彼は結構遠い場所にいたのに、ばーっと走っていって止めたんだよ」

「見てたの?」

「俺は隣のビルにいたんだ。俺は間に合わなかったんだよ」

「ふーん」


 直也は、重要なことは伏せながら、その後の出来事もかいつまんで説明する。


「まあでも、彼は優しいだけの子だよ。普通の人だ」

「ハジメ君の古い友達みたいだよ」

「その辺はまた調べ直すけどね。さっきまた会ってみても、本当に平凡な子だったから、きっと御堂が利用してるだけだろう」

「利用?」

「多分、御堂が俺にプレッシャー掛ける為に連れてきただけだ。俺の正体を知ってるぞ、ってね。まあ、監視と牽制ってとこだと思う」

「よくわからないけどさ。二人ともいい子だよ。私のことも助けてくれたし」

「助けた?」

「あ、いや」


 芹香は慌てて目を背けた。


「何かあったのか?」

「……」

「芹香、君は隠すのかい? 俺には喋らせるくせに」


 芹香は俯いていたが、ぱっと顔を上げると、まるでふわっと氷が解けるように微笑んだ。


「ごめん。なんでもない。これは私が解決しなくちゃいけないことだから」

「芹香。話してさえくれれば、俺はなんでも解決してやれるんだよ」

「それじゃ意味がないんだよね。昔のまんまだから」

「芹香」


 芹香はタタッと小走りに駆けると、直也と距離を取って振り返った。


「もう高校生だから。お兄ちゃんに迷惑かけたくないんだ。本当に困ったら相談にいくよ」


 ブロンドの美少女は、春の柔らかい日差しが降り注ぐ緑道をバックに花が咲くように微笑む。


「芹香……大丈夫なのか?」

「うん」

「そうじゃなくて、その……」


 らしくなく口ごもる直也に、芹香は彼の言いたいことを察する。


「大丈夫。最近は本当に、調子がいいんだよ」

「……そうか」


 直也はついっと目を逸らした。

 この話題になると、彼はいつもの自信たっぷりの彼でなくなる。

 こんなことで、自分に無力感を感じることはないのに、と芹香は思う。


「じゃあまたね。これからもよろしく、お兄ちゃん」


 芹香はもう一度微笑むと、スカートの端をつまみ芝居ががったお辞儀をした。


「ああ」


 直也の唇の端を少しだけ持ち上げたささやか笑顔を確認すると、芹香は小走りに去っていった。

 走るたびにピョンピョンと跳ねるダークブロンドの後ろ髪を見ながら直也は芹香を見送ると、深く息を吐き出した。


「……待っていてくれ、芹香」


 懇願するように、直也は呟いた。


  ***


 柔剣道場を後にした武士とハジメは、教室に鞄を取りに戻った後、帰宅の途についた。

 ちょうど正午過ぎの時間で、比較的空いていた井の頭線に一緒に乗り込む。


「強引だよね。ナインでもそうだったよね。君は」


 とはいえ、座れるほどは空いてなく、二人は並んでつり革に掴まった。

 二人はそれぞれの携帯電話を近づけて、操作している。

 連絡先の交換をしていた。


「僕は僕のタイミングで、剣道部に行こうと思ってたのに」

「余計なことしたか?」


 携帯電話の登録が終了して、二人は操作を終える。

 ハジメはポケットに携帯をしまいながら、低めの声で呟いた。


「え?」

「俺は余計なことしたか? 武士にとって迷惑でしかなかったのかよ。そうかよ……」


 武士と反対の方へ、顔を背けるハジメ。

 さっきまでの軽口がまたくると思っていた武士は、困惑する。


「べつに、余計なことって言ってるんじゃないよ。いや、正直なとこ言うと、助かったよ。剣道部に入部しに行くまで、僕ひとりだったら一週間、いや一ヶ月はうじうじ悩んでたと思うから」

「それでも武士は一人で決断したかったんだろ。俺はそれを邪魔したんだ」


 ハジメは顔を背けたままだ。

 両手でつり革にぶら下がり、腕の間に頭を挟んで、表情が見えない。

 武士は焦った。


「違うって。背中を押してもらったんだよ。剣道部に入る決断は、とっくにしてたんだから。行く前にハジメが言ったとおり、日を置く意味なんてないんだから」


 ハジメはぐるんと武士に顔を向けた。その表情は、目を細めたニヤリ顔。


「だよなー」

「このっ……」


 武士はハジメの肩を拳で軽く叩く。


「ほんと、ナインのままだ。その態度というか、感じというか…」

「そりゃそうだ」

「まったく」


 武士も笑った。

 自分のペースを乱されたという気持ちは正直あったが、ハジメがいなければ、これから更に入部を悩む時期がしばらく続いただろう。

 ハジメが武士の決める道を後押ししてくれる。

 ネット上でやりとりしているときも、そういうことは往々にしてあったのだ。


「それにしてもさ」

「なんだよ」

「マネージャーってなに? ていうか、そもそもハジメ、剣道に興味なんてあった?」


 武士は、剣道場でのハジメの発言が引っ掛かっていた。


「ねーよ。今もない」

「なら、なんで入部するの。マネージャーなんて、きっと道着洗ったり、防具とかの整理したりとか、そんなだよ? ハジメには激しく似合わないと思うんだけど」

「そんなんもちろん、武士が入るからだよ」

「キモイ」

「うるせえっての」

「本当はなんなの?」

「……本当なんだけど」

「はあ?」

「剣道部の部員っていうか、お前のマネージャーになるんだよ。俺は」

「……マジでキモイんだけど」

「そろそろ本気で傷つくぞ俺は」

「本気で言ってるの?」

「俺はよ。感謝してんだよ。〈サムライ〉にさ」

「サムライって……ナインの話?」

「俺ん家はさ、ほら、特殊だから。小学校の高学年ぐらいから、家のことがバレると友達がどんどん離れていってよ」

「……」

「そしたら、ネットん中とはいえ、家のこと話しても態度変わらない奴がいて」

「……」

「嬉しかったんだよ。実家がヤクザ屋の俺なんかと、マジで話してくれて」

「そんな。僕の方こそ、僕みたいな引きこもりと仲良くしてくれて……」


 ハジメは、ナイン・サーガで親しくなった武士に、自分の親が広域指定暴力団、いわゆるヤクザの組長であることを告白していた。

 武士は最初は確かに驚いたものの、そもそもヤクザというものをテレビドラマでしか知らず、まるでピンときていなかった。

 そんな武士にとって非現実な〈ワンワン〉の親の職業よりも、気が合って忌憚なく話ができる〈ワンワン〉自身の方が大事だった。

 もちろん、ネットを介した友人という、実社会での縁遠さが武士の懐を深くしたという面はあった。

 しかし、一度は断ってしまった〈ワンワン〉とのオフ会を、ナイン・サーガ卒業の日に武士から切り出した時。

 〈ワンワン〉の親がヤクザの組長であることなど、武士は思い出しもしていなかった。


「だから、最初に俺の方からオフ会しようぜって言って断られたとき、結構ショックだったんだぜ」

「あれは……ごめん、あの時は僕に勇気がなくて。僕自身が、直接会ったら嫌われるんじゃないかって……」

「ま、言っといてなんだが気にすんな。臆病なのは俺も一緒だ」

「え?」

「こんなまわりくどいことして、この学校に来て、お前に会った」

「……本当に、僕なんかに会うために?」

「なんか言うな。まあ、それだけじゃないけどな」

「……?」

「ま、それはおいおいな」

「おいおいってなに」

「また今度話すよ。ああ、それはそれとしてだ。俺の目的はな」

「うん」


「お前の応援をしてーんだよ。親父さんに強制されて、嫌な思いした剣道にもっかいチャレンジして。憧れの先輩に会うために、自分を変える為に頑張ろうっつーお前をよ」


「そ、そんなすごいもんじゃ……」

「すごいことだろ。強い信念みてーなのがなきゃ、たった一年足らずで猛勉強して、暁学園に合格するなんてできねーよ」

「それは、たまたま運も良くて…」

「武士の力だ」


 ストレートな発言を繰り返すハジメに、武士はどこを見ていいのか分からなくなった。

 照れて視線が定まらない武士に、ハジメの方は武士の目を見て言葉を続ける。


「だから、自分を変えるために頑張ろうとする武士を応援する。そうすることで、俺は自分も変えられる気がしてんだ」


『次はー、神泉、神泉―。お降りの方は、お忘れ物にご注意くださいー』


 車内アナウンスが響くと、電車は駅に着き停車する。


「じゃ、武士。俺ここだから。昼飯一緒に食えなくてわりーな。ちょっと今日、用事あんだ」


 ハジメは開いたドアから電車を降りた。


「う、うん……じゃあ、また明日」

「おう」


 ドアが閉まって、釈然としない表情の武士を乗せたまま、電車は発車した。

 ハジメはホームに立ったまま、電車を見送っていた。

 電車が完全に走り去ると、まいったな、といった表情で頭をかく。


「……嘘は言ってねーよ。武士」


 踵を返して、改札へと向かう。

 ホームに転がっていた缶コーヒーの空き缶に気づき、ハジメはそれを拾い上げると、片手で握り潰した。

 掌に隠れるサイズまで。底の部分も含めて。

 ほとんど球状になるまで潰された空き缶を、ハジメは放り投げる。

 弧を描いてゆっくりと飛んだ空き缶は、自動販売機横の口の小さい空き缶専用ごみ箱にホール・イン・ワンした。

 居合わせた電車の降客が驚いてハジメを見る。

 ハジメはやや俯き加減で、足早に歩いていった。


 自宅に帰った武士は、やがて大学から帰ってきた姉の遥と、おそい昼食にラーメンをすすりながら、剣道部に入部することになったことを話した。

 お父さんにも話しなよ、と遥は言ったが、それは遥から伝えてくれとお願いした。


 まだ、高校生活は始まったばかりだ。

 剣道部に関しては、まだ正式に入部してもいない。

 続けていくつもりはもちろんあるが、自信があるわけではなかった。

 また、逃げ出したくなるかもしれない…

 父親の顔を見て、話す勇気はなかった。


 こうして、武士の高校生活は始まった。

 武士にとっては波乱の幕開け。

 しかし、一般的に見たらそれほどでもない平凡な幕開け。

 ただ入学式の日に剣道部に見学にいっただけだ。

 彼の周囲に、様々な思惑が蠢いているのは事実だったが。


 そして、日々は流れ始める。


 季節は、初夏を迎えようとしていた。

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