最終話 フンボルトペンギンの帰還


 山下圭吾はフンボルトペンギン誘拐幇助による威力業務妨害および電子計算機損壊等業務妨害の罪で執行猶予のついた判決を受けた。

 東北東大学、海洋技術研究所附属水族館からは解雇通知を受け取った。

 解雇通知を受け取った日、山下敬吾は最後にフンボルトペンギン水槽を遠くから一目だけ見た。そこではいつものようにフンボルトペンギンたちが元気良く水槽を泳いでいた。

 入り口で園田町子に呼び止められる。

「山下さん、餞別よ。寄せ書きと、一通は私から、もう一通は相川守館長からよ」

 一枚の寄せ書きと、書類の入った封筒が二通あった。

「ありがとうございます」

 一礼すると、圭吾は水族館を後にした。

 浜辺を歩いた。

 不思議と寂しさはなかった。

 トーマスたちの遺留品からフンボルトペンギンたちの行き先がわかり、取り返すことに成功していた。

 自分の役割は終わったと思っていた。

 もうここには自分は必要とされていない。

 浜辺に大きな岩が前と同じようにあった。そこに座った。

 そして書類を開いた。



 ——園田町子からの書類

 おめでとうございます。

 あなたのトロシックスが当選しました!

 一等前後賞あわせて3億円ですよ。

 きゃー。うらやましい。

 ——


 ——相川守館長からの書類

 北海道ペンギン保護研修センターへの推薦状

 ——



 山下圭吾は立ち上がった。

 そして浜辺の向こうにある道へ向かって歩き出した。









最終話 フンボルトペンギンの帰還





—一—


 久しぶりに父である泰造が戻ってきた増川美保の家は、家族全員そろってレストランでランチを食べることにした。

 そこは落ち着いた小さなレストランで、大きな樫の木のテーブルは昔と変わらずにそこに置いてあった。

 モーツァルトのピアノ曲が流れていた。

 暖かい雰囲気のする店である。

「懐かしいな、幸子」

 泰造が妻の幸子に声をかけた。

「あなたの声が聞けるなんて嘘みたいだわ」

「お父さんの声、まえより渋くてかっこ良くなった」

「そうかな?」

 美保の言葉に泰造は白髪の増えた髪の毛に手を当てて照れた。

 三人はテーブルに座って、お昼のハンバーグ定食を頼んだ。

「ハンバーグ定食か。久しぶりだな」

 感慨深げに泰造が言葉を発する。

「美保は小さい頃、ハンバーグ定食のハンバーグだけ食べて、キャベツは食べなかったな」

 にこにこと泰造が笑っている。

「今は食べるよ」

 美保は手を振って泰造の言葉を打ち消した。



 肉の焼けたいい匂いがしてきた。

「ハンバーグ定食でございます」

 ウェイターがハンバーグ定食を持ってきた。

 生焼けでもなく焦げすぎでもない絶妙な焼き加減で見事な焼き色である。

「美味しそうだな。そういえば、昔、美保がお母さんのハンバーグ作りを手伝ってハンバーグを消し炭にしてしまったこともあったな」

 美保が頬を膨らませる。

「消し炭じゃないよ。ちょっとだけ焦げさせちゃっただけだもん」

 泰造は優しく笑った。

「料理は上手くなったか?」

「上手くなったよ。それにパンもつくれるようになったんだよ。時々失敗するけど。でも成功した時は小林君も褒めてくれたし」

「小林君?」

「えっと」

 美保は小林大樹について話した。

 大学の研究室見学で見かけたこと、一緒の研究室になったこと、大樹がフンボルトペンギンになってしまったこと、そしてフンボルトペンギンの誘拐犯人を追いかけて、佐藤教授たちのおかげで大樹はもとの身体に戻ったことを話した。

 泰造は、それら全てを頷きながら聞いた。



 食事のアイスでひとごこちついたとき、泰造がこれまでの話をした。

 泰造は南極のペンギンの写真を撮ったあと、吹雪に巻き込まれて一時は生死の狭間を漂ったという。運良く南米からのペンギン保護活動を行うチームに発見されて一命をとりとめた。

 その後、南米に渡りフンボルトペンギンの写真を撮りつつ、ペンギン保護活動を彼らと一緒にするようになったという。大きな街に着いて日本と連絡をとろうとした矢先、ペンギン誘拐事件に巻き込まれ、ペンギン誘拐組織ペンカイダに目をつけられるようになってしまったという。

「日本がペンギン王国で、ペンギン誘拐組織ペンカイダのターゲットになっているという事実は日本人にはあまり知られていないので警戒心は低い。けれど、日本にいる幸子と美保にペンカイダの手が伸びるとまずいと助言を受け私は身を隠した。そのときに、お世話になったのが国際警察のマリリンだ。だがペンカイダの首領格のトーマスが捕らえられた以上、もう身を隠す必要はないだろう」

 泰造はそこまで語ってから、一息ついた。

「私は南米に帰ってペンギン保護の活動を続けたいと思う。幸子は一緒に来ると言っている」

 美保の母——幸子は頷いた。

 泰造が美保に視線を向ける。

「美保はどうする?」

「あたしは」

 一瞬、美保は考えた。

 目を閉じた。

 佐藤研究室とそこにいる同期の小林大樹のことが頭に浮かんだ。

 目を開ける。

 迷いはなかった。

 美保は言う。

「大学を卒業するまでは日本にいる」

「そうか。美保はもう大学生だからな。大学の友達もいるだろうし、親から独立していい年だ。無理はしないで困ったことがあったらすぐ連絡しなさい」

「うん」

 美保は大きく首を縦に振った。





 —二—


 久しぶりの休日に増川美保と小林大樹は、十字山バニーランドへ一緒に出かけた。この前のフンボルトペンギン誘拐事件解決のお礼に、水族館からペアチケットを貰ったのだ。

 入り口のゲートをくぐった後は下りの坂道になっている。白いカーディガンを身につけピンクのフレアスカートに黒いタイツを穿いている増川美保が、足取り軽くスキップ気味に坂道を下っていく。

 そんな美保を大樹が小走りに追いかけてゆく。

 振り返りながら美保が大樹に話しかける。

「ねえ、小林君、マゼランペンギンがいるんだって」

「そうなの? フンボルトペンギンとどこが違うのかな」

「それは、着いてのお楽しみ」

 二人はマゼランペンギン舎に到着した。

 柵の中にマゼランペンギンたちがうじゃうじゃとしている。

「あ、違いがわかったよ」

 大樹がマゼランペンギンの喉元を指さした。

「マゼランペンギンには黒い縞が二本ある。フンボルトペンギンは一本だけど」

 美保が柵に手を置いて身を乗り出しながら、にこりと笑った。

「そうだよ。それに、住んでいるところも違うの。フンボルトペンギンは南米の西海岸、マゼランペンギンは南米の東海岸に住んでいるんだよ」

 マゼランペンギンの一匹がくちばしを大きく開けて、鳴き声をあげた。ほかのマゼランペンギンたちは、ひなたぼっこするペンギンあり、ばしゃばしゃと泳ぐペンギンあり、ぺたぺたと歩くペンギンありといった感じでいろいろな行動をしている。

 大樹は右に左にとペンギンたちを目で追った。

「フンボルトペンギンたちより自由気ままって感じだね」

 柵の向こうに視線を送る大樹を見ながら美保がつぶやく。

「フンボルトペンギンだった小林君が、マゼランペンギンを見て感想を言っているなんて、ちょっと不思議な感じ」

 大樹が美保にまじめな顔をして返事をする。

「いやいや。フンボルトペンギンだってマゼランペンギンと会ったら『やや、なんだか俺たちににているけど違うやつめ』くらい言うかもしれないよ」

 美保はくすりと笑った。



 マゼランペンギンを見てから、二人はジェットコースターに乗り、UFOキャッチャーで大樹が小さいペンギンのぬいぐるみを手に入れ美保にプレゼントし、大きなコーヒーカップに乗って二人でぐるぐる回った。コーヒーカップから下りたころには二人はすっかり疲れていた。

「だいぶ遊んだね。少し休める場所は……あった」

 小林大樹は喫茶店を指さした。

 美保は、こくりと頷いた。手には大樹にUFOキャッチャーで取ってもらったペンギンのぬいぐるみを大切そうに持っている。

 喫茶店は和風なつくりで窓は格子窓になっており、椅子に置いてある座布団は赤かった。天井の照明はぼんぼりのように竹籤の枠に和紙が貼り付けられた構造になっていて、暖色系の明かりが柔らかく室内を照らしていた。

 和服の店員さんに席へ案内された大樹と美保は、グリーンティーと抹茶ロールケーキを頼んだ。

 机の上にはペンギンのぬいぐるみがちょこんと置かれた。

 美保はぬいぐるみを右手の人差し指でつんつんとつついた。

 ぬいぐるみは左右に少し揺れた。

「唐突だけど」

 美保が、やや上目遣いに大樹を見る。

「父さんと母さんが南米に行くって。フンボルトペンギンの保護の仕事をするんだって」

 大樹はペンギンのぬいぐるみの頭を撫でた

「そうか増川さんが研究室からいなくなると寂しくなるよ」

 大樹の表情が少し陰る。

 美保は首を左右に振った。

「あたしは残るよ。少なくとも大学を卒業するまでは、日本に残ることにしたの。大学は卒業したいし、それに」

 美保は大樹から視線をずらし、そしてもう一度、大樹に目を向けた。

「それに、興味のあるフンボルトペンギンを見つけたし」

 大樹はまっすぐに美保を見た。

 ふんわりとした髪の毛の中に柔らかそうで少し紅潮した頬があった。

 つぶらで透明感のある瞳は照明光を反射してきらきらとして見えた。

 研究室見学の時、初めて会ったときのように美保は愛らしくて綺麗だった。

「ぼくは」

 大樹は言う。

「気づいているかもしれないけれど、ぼくは、増川美保さんが好きです」

 美保は大樹を見返した。

 大樹の瞳は澄んで見えた。

 美保の目が細まる。

 美保は微笑した。

「あたしも、小林君が好きだよ」



 喫茶店を出てから二人は観覧車に乗った。

 観覧車は白い骨組みにピンクやブルーのゴンドラがつり下げられていて、ゆっくりと回転していた。

 二人は観覧車の入り口に並び、チケットを買ってゴンドラに乗り込み、向かい合わせに座った。

 ゆっくりとゴンドラがあがってゆく。

 外に先ほど乗ったコーヒーカップやジェットコースターが見えた。

 さらに高度が上がる。

 ゴンドラの側面に景色が広がっている。

 十字山の木々の向こうに市街地が見え、海の近くに東北東大学のキャンパスが広がっていた。

 大樹が右手をガラス窓につけて右側面に体をひねりながら、左手の人差し指で海側の一角を指さす。

「あれが、海洋技術研究所附属水族館だね。ここから見ると水族館は小さく見えるよ」

 美保が頷く。

「うん」

 美保の視線が水族館の先に動いた。

「海が見えるよ。海は大きいね」

 水族館の向こうに海があった。

 海はずっと先まで続いていた。

 海の向こうを二人は見つめた。





 —三—


 多田健一はマリリンを助手席に乗せて海岸をドライブしていた。

 金髪美人で国際警察官を名乗るマリリンの「わたしは国に帰るよーん。お別れにここら辺をドライブしたいわん」という希望を叶えるためだ。

 ひとときの恋ということは多田健一は理解していた。

 けれど一点だけ聞きたいことが残されていた。

 車は海岸沿いの松林を抜けて、横目に海洋研究所を見ながら十字山の山道にさしかかる。

 この近くのラリーコースで多田健一はマリリンと出会った。

 ハンドルを切りながら多田健一はマリリンに話しかける。視線は前を向いたままだ。

「なあ、マリリンの国ってこの地球にあるのか?」

「にょ?」

 マリリンが変な声を出す。

「どうしようもない仮説だ。その仮説ではマリリン、君は現在のこの地球の科学力とは別次元の世界の人間ということになっている」

 エンジンの音は通奏低音のように会話のバックに重なっている。

「その仮説に至る道に二つの疑問があった。一つ目の疑問は、スキーのジャンプ台から飛び立ったときに背負った超小型ハンググライダーだ。あとで航空研究所の博士課程の友達にスパコンで解析してもらった。あの翼面積と体感していた速度ではどう考えても人間の体重を支えるだけの揚力は確保できないはずで、あの高度と対空時間は異常だった」

 山道のカーブを車は左に曲がる。

 インにある障害物を見るタイミングで、健一はマリリン表情を伺った。

 見たところ表情はいつものマリリンと変わらずに、少しとぼけたような笑顔を見せている。

「もう一つの疑問は反物質リアクタの制御だ。俺は反物質リアクタの制御性について試した。実際に反物質リアクタで二十四時間風呂を作ってみた。その結果が爆発事故だった。あれは、現在の技術で簡単に制御できるものではない」

 ラリーコースの入り口が見えた。

 ブレーキ。

 車が止まった。

 健一は首を回し、助手席のマリリンの目を見た。

「マリリン。君はいったいどこの誰なんだ?」

「にょーん」

 ——一瞬の沈黙

 マリリンは上を向いて、下を向いて、それから健一の方を向いた。

 マリリンの青い目が健一の目を見た。

「そうねん。あくまでもたとえ話なのだけどねん。たとえば珍しいペンギンがたくさんいる島を人間が見つけたとして、それを密漁する人が出てきたとするよん。そしたら、それを守る人も出てくるにょん。守る人はたとえばそこの住民にょん。住民だけで守りきれなかったらその島の警察が出てくるにょん。さらに規模が大きくなるとたとえば国際警察になったりするにょん。あたしは、その上の……もうちょっと上のレベルにょん」

 車のエンジンがかかった。

「俺は」

 クラッチが入る。ギアがシフトされる。

「俺は、たとえ、マリリンが地球人じゃないとしても好きだよ」

「ケンイチ」

 ハンドルが切られアクセルが踏まれた。

 車はラリーコースに突入した。

 激しい運転だった。

 見通しのきかない登りを超え、きつい右のカーブをインコースを保ったまま曲がり、ギアをシフトし登りを一気に超える。長い直線で加速した後、長い左カーブに突入する。

 そこで、車は止まった。

 車の扉が開き、健一とマリリンは外に出て、並んで立った。

「ここだな。ここで、俺はマリリンと会った」

 マリリンが扉を開けた。

「ここでお別れにょーん」

 マリリンはうるうると健一を見上げた。

「さよなら。ケンイチ」

「さよなら。マリリン」

 健一の顔がマリリンの顔に近づく。

 そのまま二人の唇が合わさった。



 その日の夜、空に向かう未確認飛行物体の光の目撃情報が多数天文台に寄せられた。





 —四—


 ——東北東大学、海洋研究所付属水族館、フンボルトペンギン水槽

 穴掘り四姉妹の、おマツ、おタケ、おウメ、おペンは柵の脇にある穴掘りをさらに進めていた。サボテンの陰にあるのでまだ飼育員には見つかっていないようである。

 おマツが先頭に立って足でげしげしと土に攻撃を繰り返している。

 残りの三姉妹は、後ろの方でフリッパーや体をつかって穴を固めたりして、穴の形を整えている。

 おマツが声をあげる。

『ほら、みてごらんなさい。トンネルが開通しますわよ』

 後ろを振り返って、おタケとおウメとおペンを見る。

 前に向き直り、最後の一蹴りを壁に向かって放った。

 すると、土がばらばらと崩れ、外の光がトンネルに広がった。

『さあ、いきますわよ』

『『はい、お姉様』』

 四匹は外の道に飛び出した。

 ちょうどそこはペンギンパレードで歩く道だった。

 水族館の入り口近くまでの経路は覚えている。

 四姉妹は外の道をぺたぺたと駆けだした。

 来場人間たちの黄色い叫び声が聞こえる。

「きゃー」

「わー」

「出てきたよ」

 なぜか、今日も外の来場人間たちは、きれいに四姉妹が走るための道を空けてくれている。

 来場人間たちの歓声の中、四姉妹はペンギンロードをぺたぺたと駆け抜けた。

 もう少しで水族館の入り口だ。

 そこに、飼育員のお姉さんが仁王立ちで立っていた。

「はい—。フンボルトペンギンさんたち、ここまでですよ—」

 四姉妹はあっけなく捕らえられた。

 飼育員のお姉さんが会場の人間たちに向きなおる。

「はい。以上で、フンボルトペンギンさん大脱走のイベントは終わりです。また、見に来てくださいね。がんばったフンボルトペンギンさんたちに大きな拍手をお願いします」

 周りからぱちぱちと拍手がわき起こった。

 おマツはため息をついた。

『また捕まってしまいましたわ。そういえば、捕まってペン岡越前様に島流しにされた、彼らはどうしているのかしらね』

 おマツは空を見上げた。



 ——チリ南部の沿岸に位置するチロエ島

 チロエ島にはフンボルトペンギンなどの海鳥や、オットセイ、ウミカワウソなどの海獣類たちが多く生息している。さらに、周囲の海域にはシロナガスクジラを含む大小の鯨類が集い、豊かな自然が残されている島である。

 フンボルトペンギンになったフンボルトペンギン誘拐事件の犯人、トーマスたち三匹は海岸の岩の上でおなかをむき出しにしてひなたぼっこをしている。

 フンボルトペンギン保護区なのでえさはたっぷりあり、生活に不自由はしていない。

『むにゃむにゃ』

 エミリーはすっかり順応して満足げに眠っている。

 そんなエミリーを横目にタケシが声を出す。

『こうしてフンボルトペンギンになったが命が助かったからよしとするか』

 くちばしがトーマスの方向へ向いた。

『いや、なんとかしてあいつらを脅して、元に戻るのでーす』

 そう言って空を見上げたトーマスは、空の果てに光点を見た。

 ずんずんと、光点が大きくなる。

 上空に巨大な飛行物体が現れた。シリンダー型に分類される長細い形で、音もなく空中で垂直に静止している。

 フンボルトペンギン語の音声が聞こえる。

「宇宙警察のマリリンよーん。皆さんお迎えですにょーん」

 黄色く輝く光線がトーマスたち三匹に照射され、そのまま三匹はシリンダー型飛行物体に吸い込まれた。

 そして飛行物体は再び空の向こうへと飛び去り、空の果てで点となってきらりと光った。





 —五—


 小野寺真由助教と相川守館長はフンボルディアホテルの最上階にあるレストランでディナーをともにしていた。東北東大学近辺においては最上級のホテルであり、給仕をしてくれる人間たちや料理の質なども二人を満足させるものだった。

 今回のディナーは相川守館長がフンボルトペンギン誘拐事件のお礼にと、小野寺真由を誘ったものだった。

 食事もデザートまですんで一段落し、二人はワイングラスを片手に夜景を見ながら会話していた。

「小野寺さんのおかげで今回の事件は解決しました。ありがとうございます」

 小野寺真由の頬はワインを飲んだせいか、赤く上気している。

「私のおかげなんて。ぜんぜん、たいしたことしてないですよ」

 小野寺真由は右手を頬に添えて、そして離した。そのままワイングラスを手に取ると一口、飲んだ。

 二人は窓の方を見た。

 外には夜景が広がっていた。

 下界に広がる光点の海の中に二人はいた。

「きれいです」

 相川守が小野寺真由に声をかけた。

「そうですね相川さん。さすが最上階ですね」

「私は小野寺さんのことを言ったのです」

「え?」

 小野寺真由の顔が相川守の方へ向き直った。

 相川守が小野寺真由を見ていた。手には黒く小さい箱を持っていた。

「私は小野寺さんのことが好きです」

 相川守は箱を開いた。

 中にはプラチナ製のリングに大きなダイヤモンドがついた指輪が入っていた。

「私でいいのですか?」

「あなたでなくてはいけないのです。私と結婚してください」

 相川守の目はまっすぐだった。

「はい」

 小野寺真由は頷くと左手を差し出した。相川守はリングを小野寺真由の左薬指にはめた。





 —六—


 —東北東大学工学部、応用物理学科、亜空間技術研究所、佐藤研究室

 四月第一週の定例研究会の時間である。正面の佐藤教授はいつもと同じだ。でっぷりと超えたお腹がスーツの上からもはっきりわかる。頭は規則正しいバーコードを形成し、どこからともなく整髪剤の独特の匂いがたちこめていた。金髪美人の疑惑が解消されて妻からの圧力も低下したせいか、整髪剤の匂いもいつもよりたっぷりだった。

 ロの字に並んだ机には正面に佐藤教授と小野寺真由助教、正面から見て左側に増川美保と小林大樹がいて、右側には多田健一が座っていた。

 増川美保と小林大樹は無事に学部四年生へ進み、多田健一は修士二年に進んでいる。

 今日は新年度のオリエンテーションということで小野寺真由が研究室の状況について報告している。

 小野寺真由は細い眼鏡に左手を当ててかけ直した。薬指で指輪がきらりと光るのが見えた。

「先生、装置の改修が終わりましたので、ピコブラックホールを使った実験が可能になりました。小林君も元に戻ったことですし、また、カタクチイワシのピコブラックホール投入実験をしましょうか」

「うむ、では……」

 途中まで言いかけた言葉を飲み込んで、佐藤教授は首を振った。

「いや、やっぱりカタクチイワシはやめておこう」

 佐藤教授は肩をすくめた。

「またフンボルトペンギンが来るといけない」


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