第5話 フンボルトペンギンと水族館長

 ——東北東大学、海洋研究所附属水族館、フンボルトペンギン水槽にて

 ペン之介は水際でおキクの気を引こうと躍起になっていた。

 フリッパー(翼)をぱたぱたとさせて、おキクに話しかけている。

『なあ、俺、一生懸命巣作りしたんだ。一度見てくれないか?』

 おキクはぷいとくちばしを横に向けた。

『だって、あなた一度巣作りに失敗したんですもの』

 ペン之介とおキクはここ四年のおつき合いの仲でであるが、前回ペン之介が卵を巣で守ることができなかったことが尾を引いていた。

 近年、フンボルトペンギンが増えすぎるので、飼育員によって卵の間引きが行われていた。ペン之介は必死で卵を守ろうとしたが、カタクチイワシに釣られて大切な卵から離れてしまい卵を失ってしまった。プライドの高いペン之介はおキクに『巣作りが不十分で卵が転がって割れてしまった』と嘘をついていたのだった。

『今度は俺がんばるから』

 おキクはちらりとペン之介の方を向いて、またくちばしを背けた。すりよるペン之介の身体をフリッパーを使って押しのける。

『今はそんな気じゃないの』

 おキクはつれなかった。

 ペン之介はうなだれた。

 おキクがペン之介から逃げた。

 ぺたぺたと、ペンギンハウスの方へと走った。

 ペンの之介がおキクを追いかけた。フリッパーを振って身体の均衡を保ちながら追いかけた。

 ペンギンハウスの中でペンの之介はおキクに追いついた。

 おキクが立ち止まっていた。

『あなた、これは』

 目の前にはペン之介がこしらえた立派な巣があった。土は深く掘られていた。材料の小枝やわらや小石を組み合わせて、きれいなすり鉢状にまとめられていた。これならば卵がころころと転がる余地は無かった。

 ペン之介がおキクの背中をフリッパーで撫でる。

『なあ、もう一度、やり直してくれないか』

 おキクがペン之介を振り返る。

 くちばしを下に向けて、そして上に向けた。

『ええ』

 そうおキクは答えた。




第五話 フンボルトペンギンと水族館長





—一—


 小野寺真由は海洋研究所附属水族館に来ていた。

 今日の小野寺真由は千鳥柄の灰色のパンツにピンクのセーターを着て、ベージュのコートを羽織っている。髪の毛はきちんとブラシを入れられてから藍色のリボンでポニーテールにまとめられている。

 予定の時間より水族館に早く来すぎてしまったので、小野寺真由は水族館附属の喫茶店でコーヒーを飲むことにした。喫茶店は全体としては簡素な作りではあるが、水族館附属の喫茶店だけあって真ん中には大きな水槽が設置してあり色とりどりの熱帯魚が泳いでいた。

 水槽の脇の席に案内されて腰を下ろし、モカブレンドを注文する。

 今日は、相川守館長にフンボルトペンギン失踪の時の様子を聞くことになっていた。あわよくばもっとお近づきになりたいと考えていたのだが、上手い作戦が思いつけていない。

 とりあえず論文でも読んで気を紛らわそうと、小野寺真由はハンドバッグから、折り曲げて入れてあったミューターという英語雑誌を取り出した。イグノーブル賞候補を多数輩出している著名な雑誌だ。ウンサイクロペディアでの引用数もダントツで一位を誇るほど人気がある。内容も柔らかく雑誌自体も柔らかいので喫茶店で読むにはもってこいだった。今回の副題は「宇宙人の技術」ということだった。

 コーヒーが運ばれてくる。

 小野寺真由は、わくわくしながら雑誌の表紙を開いた。

 宇宙人は実は私たちの身の回りにいるけれども気づいていないだけなのだ、などといった話が統計学やパターン認識論を駆使して論述されるのかもしれない。あるいは未確認飛行物体の形状と重力場制御の関係を物理学を駆使して説明しているかもしれない。

 そんなことを期待していた。

 ——読了した。

 小野寺真由にとって雑誌の中身は期待はずれだった。

 今回の特集はミューターの名が泣くほどの至って堅い内容だったのだ。メタマテリアルを使った光学迷彩などは過去何度も取り上げられていた話題だった。ただ、そこに超電磁導メタマテリアルの階層化という新しい概念が入っていたことは彼女にとって新しい発見だった。今後の研究の参考にできるかもしれないと彼女は考えた。

 いつの間にかコーヒーカップが空になっていた。

 そろそろ相川守館長との約束の時間だった。

 小野寺真由は席から立ち上がった。



 小野寺真由は水族館の入り口でチケットを買おうとした。

 受付にはいつもの通り園田町子が座っている。丸い顔が特徴的だ。長年水族館に勤めているだけあって、もはや彼女の身体は水族館の制服と一体化している。

 今日も陽気な笑顔で小野寺真由に向かって話しかける。

「小野寺さ〜ん、またいらしたのね。うれしいわ。あら? フンボルトペンギンの大樹ちゃんは今日は来ないの? そうね。大樹ちゃんがいるとじゃまだものね。なんたって、小野寺さんのお目当ては館長だから。灰色のパンツにピンクのセーターを着て、ベージュのコートでおしゃれして」

 好奇の目で園田町子に見られて小野寺真由は慌てた。

「ちょ、ちょっと待ってください。私はフンボルトペンギン失踪の調査に来たわけであって、別に相川館長に会いに来たっていうわけじゃ」

 園田町子はにこにこしている。

「でも館長に会うんでしょ?」

「ええ、まあ」

 手を口元に当てながら、園田町子はほほほと笑った。

「ほら〜。頑張ってね、応援してるわ。ちなみに相川館長の好きな食べ物は蟹(かに)よ。食べ物で釣るときの参考にしてね。あ、チケットは学内割引で半額よ。はい、ありがとう。研究忙しくて大変ね」

「そうですね。でも、再来週末に奇之崎温泉で合宿を予定しているので一息つけるかもしれません」

 小野寺真由は料金を払って水族館の中に入った。



 附属水族館長の相川守(あいかわまもる)、三十四歳は筋金入りの独身である。

 男子校卒業、工学部地球惑星物理学科卒業、海洋研究所において博士の資格を取り、若くして附属水族館の館長になるというエリートコースである。しかし、そのコースの特徴である「女性に縁がない」という環境に育てられて、繊細な女性の感情を察するという本来動物が自然に持っている本能を退化させてしまったことは否定できない。

 すなわち、警察でも探偵でもない小野寺真由がこうも協力的にフンボルトペンギン失踪の原因追究をしてくれる理由に対して、自分への好意だという答えを導き出せていなかった。

 相川守と小野寺真由は館長室にてパッド型携帯端末を使って監視カメラの映像を確認していた。ペンギン失踪事件は決まって警備員が巡回していない時間帯に起こっていたので、犯人の目撃情報は無かった。さらに問題なのが監視カメラの映像だった。

「最近、導入した超高感度冷却型監視カメラシステムの映像です。ペンギン宿舎近辺は自然の環境に近づけるため夜間照明をしていないので、これくらいの設備が必要です。周囲にあるのは非常口を示す常夜灯の暗い緑の明かりくらいです。従って普通の人間ならば足下が不安でほとんど歩けないくらいです」

 映像が再生されている。

 フンボルトペンギン水槽の前の廊下と、フンボルトペンギン水槽を上から見たものと、フンボルトペンギン宿舎の三種類の映像が同期して映し出されている。

「ここからが、フンボルトペンギンがいなくなったと思われる時間帯です」

 とたんに映像に白い沢山の点が現れ始めた。映像がざらついて、まるで白い粉を振りまいたように見える。

「わからない点は二つあります。一つ目はこのように、フンボルトペンギンがいなくなったと思われる時間帯において急に映像の白色ノイズが増加する現象です。もう一つの点はこちらです。画像処理で白色ノイズを取り除いた映像になります」

 相川守はパッド端末を操作して映像を切り替えた。

 白い点群が消失し画像が滑らかになる。ただし、画像処理をした結果、全体的にややぼけたような映像になっている。

「あ」

 小野寺真由が声をあげる。

 フンボルトペンギンがいなくなったと思われる時間帯において、淡く緑色に光る霧のような物体が現れ、宿舎の外に一匹だけ出てきたフンボルトペンギンに近づき、フンボルトペンギンが光る霧に吸い込まれて消えた。そして光る霧はカメラの死角へと出て行った。

「このように、フンボルトペンギンが光る霧に吸い込まれて消える現象です」

 小野寺真由は喫茶店で読んだ論文を思い出す。

「光学迷彩」

 そう小野寺真由は言った。

「昔から注目を集めている技術ですがなかなか実用化に至っていません。ただ最近、超電磁導メタマテリアルの階層化によって超薄型のフレキシブル透明マントが可能だという論文が発表されています。ひょっとしたらその透明マントかもしれません。緑色の霧は常夜灯の明かりが透明マントで散乱された成分の可能性があります。透明マントとはいえど散乱を完全に零にすることはできません。ただ、最初の白色ノイズについてはよくわかりません。現場を見せていただけますか?」

 小野寺真由の発言に相川守は頷く。

「水族館の中を案内しましょう」



 相川守が小野寺真由を先導しながら、水族館の中を歩いている。

 水族館の中は青く暗めの照明で、壁にはめ込まれるような形で四角い水槽が並んでいる。

「これがイセエビの水槽です。かなり大きくなりました」

「ええ食べ……」

 小野寺真由は食べ頃ですね、という言葉を口の中で飲み込んで言い直す。

「いや、見事な肉つきですね。甲羅の色も綺麗で肉質も良さそうです」

「こちらはキンメダイです。大きな目が特徴的です。可愛いでしょう」

「そうね。食べ、いや撫でたいくらい可愛いわ」

 目の前の水槽で魚がぷくりと膨れた。

「こちらはトラフグです。テトロドトキシンという神経毒を持っています」

 皮を剥いだら白く透明な身があるに違いなかった。

「高級そうで魅力的だわ」

 相川守は先に進んでいる。

 これまでの水槽よりもずっと大きな水槽があった。

「そして、こちらが、とっておきのズワイガニです」

 大きな水槽の中に大型で足の長いズワイガニが四匹いた。水中にある岩の上をのっそりと移動してゆくその姿は、カニの王様のような風格を備えている。ズワイガニといえば冬の今が旬である。中身の入っていそうな甲羅の中には旨味がたっぷりのカニ味噌が入っており、長い足には独特の甘みをしたカニの肉が詰まっているに違いなかった。

 小野寺真由は思わず唾を飲み込んだ。

「美味しそう」

 言ってから、はっとして左手で口を押さえた。

「私もそう思います」

 相川守は笑った。

 小野寺真由は赤面する。

「いや、恥ずかしがることはありません」

 手をひらひらと振って相川守は言った。

「事実、先ほどのイセエビもキンメダイもトラフグも、みんな私の食べたいものです。それが自然な感覚だと思います。そういった自然な感覚を持っている人は素敵だと思いますよ」

 相川守が歩き始める。

「さて、次がフンボルトペンギンの水槽になります」

 壁の一面がガラス張りになっていて、フンボルトペンギンの深い水槽の中が見えた。今は餌の時間ではない。泳いでいるペンギンはおらず、陸の上で歩いたり立ち止まって羽繕いをしていたりしていた。

 二匹のフンボルトペンギンが近くにいた。一匹がくちばしを左右に振ったり、フリッパーを動かしていたりしていた。他の一匹が一匹をフリッパーで押した。一匹はくちばしを下に向けた。その隙に、他の一匹がペンギンハウスの方に逃げてゆき、一匹もぺたぺたとそれを追いかけるようにしてペンギンハウスに入っていった。

「さて」

 相川守が天井の方を指さした。

「これが、ペンギン水槽を映している監視カメラです。廊下と水槽が同時に見える角度で設置されています」

 カメラから冷却水循環系の細いホースが伸びて配管につながっているのが見えた。

「カメラとその制御基盤を冷やすための冷却系です。あまり音を立てないように空冷ではなくて水冷にしています」

 さて、と言って相川守が側の「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉に鍵を差し込んで開けた。

「水族館の裏側を紹介しましょう。普段は見られない光景が見られますよ」



 そこはまるで配管の森のようだった。太さや色の違う配管が床を這い、壁を伝い、バルブや分岐で接続されて絡み合っていた。ポンプが低い音を立てて稼働しており、水の流れる音が聞こえた。

「ここが淡水で温水の配管で、こっちから、こっちにいって、分岐して……」

 ややこしい配管の説明が始まった。

 小野寺真由にとってはちんぷんかんぷんだ。

「こちらが海水の冷水でフンボルトペンギンの水槽に繋がっています」

 パイプの種類が違うようだが、小野寺真由の眼には全く同じパイプに見えた。

「また、こちらは冷却水系統の配管です。一部は監視システムの冷却に使われます」

 まるでパイプの迷路に紛れ込んだようだった。

「ご理解いただけましたか?」

 相川守のすてきな笑顔が小野寺真由に向けられ、白い歯がきらりと光った。

 小野寺真由はどぎまぎする。

「えっとあの」

 わからないとは言えない。かと言って、何も言わないと相川守に「役立たず」と思われるかもしれない。何か言いたいが何も言えないという葛藤(かっとう)が小野寺真由の心の中に生じる。

 小野寺真由は配管を見た。配管は相変わらずこんがらがっているだけに見えた。

 こんがらがっているところの真ん中にあるバルブを適当に指し示した。

「このバルブが詰まったらどうなります?」

「えっとあの」

 相川守は急に慌てだし、パイプの系統を指さして、右に行ったり左に行ったりして、また元の場所に戻ってきた。手を頭に当てて恐縮している。

「ご指摘ありがとうございます。確かにこの冷却水系統のバルブが詰まると監視カメラや赤外線センサの冷却性能に影響が出ますね。熱雑音で信号雑音比が下がります。見てください」

 相川守が指さしたバルブの付け根には、比較的新しい傷跡が見えた。他のバルブは埃を被っているのに対し、このバルブの周辺だけは埃がとれている。近くに電気配線の切れ端が落ちている。

「きっと内通者がいて、このバルブに細工したのでしょう」

 相川守の頬が若干紅潮している、発見に興奮しているようだった。

 小野寺真由に右手が差し出される。

「さすがは小野寺さんです」

 小野寺真由はおずおずと右手を重ねて握手する。

 がっしりとした骨つきだった。手にマメがあった。仕事人の手だった。そしてその手は暖かかった。

 小野寺真由の心臓が、とくり、と鼓動した。





—二—


 園田町子は東北東大学・海洋研究所・付属水族館の受付をしている。勤務を始めてから三十年になるからもうだいぶ仕事が板についている。園田町子は水族館の顔のような存在になっている。趣味は人間観察で、特に若い二人の男女がどうのと言った話が大好きである。従って、外見の良いが鈍感な相川館長の周りで起こる出来事はすべて園田町子の知るところとなっていた。

 かなり前に幼稚園児を引き連れてきた若い幼稚園の先生が、相川館長に一目惚れした。もちろん園田町子は全面的に幼稚園の先生に協力した。館長の予定を調べ、好物を調べ、それとなく幼稚園の先生の良い噂を流したりした。しかし、鈍感な館長は数々の出会いのフラグをことごとく折り、結局のところ幼稚園の先生は相川館長を諦めることになった。

 そのあとの遍歴も数え切れないくらいある。ある時は、デパートの店員だったり、スチュワーデスだったり、学校の先生だったり、薬剤師だったり、漁師の娘だったり、新人の飼育員だったりした。しかしすべて皆、恋愛になる前に一方的な破局を迎えていた。もちろん原因は鈍感な相川館長だ。

「小野寺さんと館長を、なんとしてでもくっつけなくちゃ」

 そう、これだけは絶対に譲れない、と園田町子は決意する。

 園田町子は受付の中で握りこぶしをつくって力を入れた。

「絶対に譲らん」

「す、すみません」

 チケットを買いに来た男性がその形相を見てすごすごと引き返した。



 園田町子の行動は早い。

 受付を若手と交代すると目立たない服装に着替え、相川館長と小野寺真由が向かった水族館の裏側に急いだ。フンボルトペンギン失踪事件の調査をしていると聞いている。きっと配管周りの様子を調べているに違いない。

「あ、いた」

 園田町子が物陰から様子をうかがっていると、どうやら二人は何かを発見したようで握手をしている。

「あら〜。いい感じじゃない。今度はうまくいくかもしれないわね」

 口元に手をつけて微笑む。

「あら?」

 二人は手を離した。

「なんでそこで、押し倒さないのよ。相変わらず相川館長はウブねえ」

 小野寺真由が何かを言っている。園田町子の位置からは遠くて声がよく聞こえない。

 相川館長が返事をしたら小野寺真由が、ぶつけるように配管へ頭と手をつけた。

「ははあ。また館長が気の利かないことを言ったのね。頑張れ、小野寺さん。あたしはここで応援してるわよ」

 園田町子は独りやきもきしながら二人の光景を見守り続けた。





—三—


 水族館の配管の森で、小野寺真由はこの後どうしようかと迷っていた。

 できれば、どこか外の雰囲気の良いところでゆっくりと相川守と話がしたかった。もっと相川守とお近づきになりたいと考えていたのだ。

 軽いジャブと質問をする。

「あの、相川さん、少しどこかでお茶でも飲みませんか?」

「あ、でしたら館長室でココアがありますよ。牛乳はどのくらい入れますか?」

「あ、たっぷりが好きです。いや、じゃなくて、やっぱりいいです

 いきなり計画は挫折した。

 近くの配管に手と頭を当てて小野寺真由は反省する。

「そうよね。お茶だったら館長室よね」

「どうかしました? 気分でも悪いですか?」

 相川守に覗き込まれる。

 これは好機だ。小野寺真由は、よし、と心の中で頷いた。

「ちょっと疲れたみたい。空気のいいところで休みたいわ」

 相川守が、ぽん、と手を打った。

「ちょうど空気清浄機のついた水槽が空ですから、そこでしばらくゆっくりしますか?」

 そのような場所に放り込まれるなど論外である。小野寺真由は慌てて手を振って顔を上げる。

「あ、大丈夫です。なんだか気分が良くなってきましたわ」

「そうですか。でも、まあ、一度、館長室に戻って休みましょう。だいぶ歩きましたね」

 相川守はくるりと振り返って歩き出した。

 小野寺真由はため息をつく。想像以上の難関であった。気を取り直し、きっかけを作るのに都合の良い場所がないかを探しながら、静かに相川守の後ろ姿を追いかけ始めた。

「ちょっと、ここで水槽の上を渡らなくてははいけません。滑りやすいので落っこちないように気をつけて下さい」

 水槽の上を渡した幅一メートル程度の橋を渡る場所があった。

「私の手に捕まってください」

 相川守の手が差し出される。

 一瞬、小野寺真由は戸惑った。そして、おずおずと相川守の手を握ろうとした瞬間——

 小野寺真由の足が滑った。

 手が宙を掴む。

 身体が傾いて、そして、水槽に落ちた。

 水音がした。



 都合良くどこからともなく受付の園田町子が「あら〜」と言いながら現れた。小野寺真由はシャワールームに案内され、熱いシャワーを浴びた。

 濡れた服は脱いで洗濯したての飼育員の作業着に着替えた。

 まだ十分に濡れた髪の毛が乾いていないのでバスタオルを頭にかけて乾かそうとしている。あいにくドライヤーはなかったのだ。あまり待たすのもよくないと考え、そのまま館長室に彼女は戻った。

「すみません作業着しかなかったので」

 申し訳なさそうに相川守が声を出す。

「いえ、そもそもわたしが水槽に落ちてしまったのが問題ですので」

「これをどうぞ、温まります」

 コップが手渡された。コップから湯気がたっている。中にはホットココアが入っていた。

 小野寺真由はコップを受け取って口につけた。

「ありがとうございます」

 一息ついたものの情けなかった。





 ——小野寺真由——

 いつもこうだった。肝心の時に転んで失敗に終わる。その連続だった。

 あるバイオリン工房の男性と知り合った時もそうだった。

 彼の工房に連れて行かれた。

 暖かいココアでもてなしてくれた。好みに合わせて牛乳をたくさん入れてくれた。

 そこにはたくさんの作りかけのバイオリンが置いてあった。彼はバイオリンの組み立て方を教えてくれた。彼はバイオリンには駒と柱が立っていると教えてくれた。弦を支えているのは駒、そして筐体の中の駒の片側の足の下に魂柱という柱が立っていると言った。駒は弦と表板を繋ぐ役割を果たし、魂柱はバイオリンの表板と基板を繋ぐ柱になる。それらが一体となってあの響きが出るという。「バイオリンは素敵だろう」と髪の毛を梳くかのような優しい手つきで弓に張る毛に櫛を入れながら話した。

 いい雰囲気だと思った。彼ともっと近づこうと思った。足を踏み出した。その瞬間につまずき、そのまま彼に倒れこみ、彼の持っていたバイオリンの弓を折った。彼は激怒し、そしてそのまま別れた。自分が悪かった。彼がいかにバイオリンを大切に思っているかを理解できていなった。彼が自分の城である工房に入れてくれた意味を理解していなかった。

 悲しかった。恥ずかしかった。そして情けなかった。

 ——





 小野寺真由は我に返った。

 なぜ過去の記憶を思い出したのか疑問に思った。

 手元を見た。

 ココアがあった。

 ココアには牛乳がたっぷり入っていた。

 ココアは温かかった。

「どうしてなんですか」

 そう小野寺真由はつぶやいた。

「どうして、わたしの好みに合わせて牛乳がたっぷりなんですか」

 相川守は笑った。

「小野寺さんがそう言ったからです」

 言葉は素直だった。

 声は耳に心地良かった。

 瞳は透き通るように澄んでいた。





—四—


 小野寺真由が水族館の受付の前を通って帰ろうとしたとき、小野寺真由は園田町子に呼び止められた。

「小野寺さ〜ん。相川館長はどうだった? やっぱり鈍感だった?」

 小野寺真由は首を振る。

「いいえ、彼は鈍感ではありません」

 少なくとも暖かく牛乳がたっぷりのココアを入れてくれるくらいの気遣いはあった。

「また来ます」

 そう言って小野寺真由が立ち去った。



 小野寺真由の後ろ姿を見送りながら園田町子は考える。

 少なくとも、また来ますと言っているから一発で拒絶査定というわけではない。水族館の裏側で見た二人の雰囲気も悪くなかったが二人とも少し押しが弱いようだ。もう少し、二人の出会いを増やした方がいいだろう。そういえば小野寺真由は奇之崎温泉で合宿を予定していると言っていた。

「そう、そう、水族館の職員で懇親旅行しようってことになってたわね。いいこと考えちゃったわ」

 園田町子は口元をに笑みを浮かべ、怪しそうに笑い出した。

「ふふふふふ」

「ひ、ひゃあ」

 チケットを買いに来た男性がその怪しい笑みを見てすごすごと引き返した。





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