第6話 フンボルトペンギンと飼育員
——東北東大学、海洋研究所附属水族館、フンボルトペンギン水槽
水際にいる一匹のフンボルトペンギンが首をぐっと伸ばして背中に回して、しきりに羽繕いをしている。
おしゃれ好きなおマツである。
フリッパー(翼)の付け根から背中にかけて念入りにお手入れをしている。艶やかな羽が昼下がりの光を反射して煌めいている。
ぴょこぴょこと隣に姉妹ペンギンのおタケがやってきた。
『あら、姉さん。また羽繕いなさっているの?』
おマツはひょいと首をあげるとおタケを見た。
『ええ、ほら、最近水が汚れてるでしょ。羽毛に汚れが残ってしょうがないのよ』
『そうよねえ。ほら、飼育員のヤマシタさん、最近掃除が雑なのよ。なんだか上の空であたしたちを見ていないし。それに、ペン之介さんと飼育員のヤマシタさんもギクシャクしてるのよね。ペン之介さんは「男は黙って」みたいな感じのペンギンだから、あまり理由を喋ってくれないのよね。あら?』
ペンギンハウスの扉が開いた。
噂をすれば影がさす。
飼育員の山下圭吾が姿を現した。
おマツとおタケは少し山下圭吾から遠ざかるようにして様子を伺う。
デッキブラシを持ってごしごしと岩の掃除を始めたが、そのブラシ捌きには力がなく、岩の汚れも十分に取れていなかった。
『『やっぱり、ヤマシタさん、なんか変なのよねぇ』』
おマツとおタケは顔を見合わせてため息をついた。
第六話 フンボルトペンギンと飼育員
—一—
山下圭吾がフンボルトペンギンに出会ったのは、中校生の時に海洋研究所付属水族館に美術の写生大会で行ったときである。それは中学一年生の時のことだった。引率の先生につれられて水族館の館内をぞろぞろと歩いた。
様々な海洋生物がいた。色とりどりの熱帯魚がいた。大きなカツオや柔らかそうなイワシがいた。サザエやシジミなどの味噌汁の具になるような貝や、茹でたら美味しそうなタラバガニやズワイガニがいた。人魚のモデルだがそうは見えないジュゴンがいた。
それらの中で、山下圭吾が惹かれたのがフンボルトペンギンだった。
つぶらな瞳、愛らしいくちばし、ピンク色のふちどり、丸みをおびたお腹の曲線、鋭い足の爪。それら全てが美しかった。ぺたぺたと歩く様子、首を伸ばす仕草、羽繕いをする所作、それら全てが可愛かった。
山下圭吾はフンボルトペンギン水槽の前に陣取って携帯型の椅子に座り、大きなスケッチブックを抱えてフンボルトペンギンの絵を描き始めた。デッサン用の鉛筆を一心不乱に動かし始めた。
丸いお腹の曲線をスケッチブック一杯に描いた。しなやかなフリッパーの陰影を丁寧に描いた。まるく愛らしい瞳には光が入れられた。鋭いくちばしは力強い線で表現した。前景の水槽には、ほかのフンボルトペンギンが飛び込んだ時の水しぶきが加えられ、背景にはごつごつした岩と緑色に茂るサボテンが入った。
ほう、というため息が聞こえた。
圭吾が振り返ると、髭を生やした校長先生にスケッチをのぞき込まれていた。校長先生の体は恰幅がよく、お腹周りはペンギンのように膨らんでいた。おでこから頭頂部にかけてはつるつるとした肌が見えていて水族館の照明を反射してきらきらしていた。
校長先生は、うんうんと頷いた。
「上手いな」
「ありがとうございます」
そう山下圭吾は答えた。
校長先生はフンボルトペンギンの方に視線を向けた。
「彼らの生き生きとした姿を見ていると、我々が生きているのに死んでいるようだと錯覚することがあるよ。彼らは我々に見られているわけだが、実は我々の方が彼らに見られているのではないかと思うことがあるよ」
校長先生の視線は水槽の中を泳ぐフンボルトペンギンの動きを追っている。
しばらくそのままで立っていた。
校長先生が圭吾の方へ向き直った。
唐突に言われた。
「君はフンボルトペンギンを愛しているかね」
「はい」
圭吾の心に不思議と迷いは無かった。
「では、フンボルトペンギンの仕事をしなさい」
その時から、圭吾はフンボルトペンギンの仕事をしようと思うようになった。
—二—
山下圭吾の家は貧しかった。
母子家庭で母親はパートに出ており貯金はなかった。
消費者金融からの借金が重なって取り立てが厳しくなっていた。
高校に行くのに奨学金を取った。
美術部に所属した。題材はもちろんフンボルトペンギンを選びたかった。けれど、生活費を切り詰めていた山下圭吾には水族館に行くための小遣いすらなかった。学校の裏山から水族館のフンボルトペンギン水槽を小さく見ることができたので、山の上から水槽を覗いてフンボルトペンギンの絵を描いた。
用意するのは鉛筆一本で良かった。
スケッチブックは美術部の先生に買ってもらった。
ペンギンの絵ばかり描いていたので周りの人にペンギン野郎と呼ばれた。背中に「ペンギンの仲間」と張り紙をされた。
ある時は、スケッチブックを隠された。
ある時は、スケッチを引き裂かれた。
ある時は、汚い泥水にスケッチブックを放り投げられた。
それでも、山下圭吾はフンボルトペンギンの絵を描くことを止めなかった。
そんな山下圭吾が美術コンクールで入賞したのは、高校三年の春だった。
美術部の女性の先生は「おめでとう」と言いながら、山下圭吾に賞状を手渡した。
「ねえ、山下君。美大に行かないの?」
「いいえ。うちにはそんな学費はありません」
圭吾は即座に否定した。
高校を卒業したら就職して親を助けるつもりでいた。
「早く稼いで親を助けたいので」
美術部の先生は首を左右に振った。
「親を理由に使わない方がいいわよ。あなたにはあなたの人生があるんだから。奨学金という手もあるんだし、お金のことは心配しないでいいのよ」
先生の髪の毛はセミロングで綺麗にリンスがされており手入れが行き届いていた。薄緑色のカーディガンはカシミアらしくしっとりとした表面状態だった。首元には銀の首飾りがされており、左手の薬指にはプラチナの指輪をつけていた。
先生は綺麗で美しかった。
住む世界が違うと圭吾は思った。
——お金を持っている人間は「お金のことは心配しないでいい」と言うが、実際にお金のない人間のことは永遠に理解できない。
日々の食費を切り詰めている生活を知っているのかと言いたかった。
服は何回も繕って新しい服を買えないことを知っているのかと言いたかった。
借金の督促に頭を下げる生活を知っているのかと言いたかった。
言えなかった。言っても無駄だと知っていた。言っても現状がなにも解決しないことをわかっていた。諦めていた。
唇を噛み締めた。お腹の中がひっくり返るように苦しかった。胸の内には哀しい叫びが渦巻いていた。胸をかきむしりたいように無念だった。悔しさに絶望へひきずり込まれるような気がした。悔しくてたまらなかった。そして、何より、苦労して自分をここまで育ててくれた親を軽視するような発言をされたこと許せなかった。まるで土足で頭上から踏みにじられたような気持ちがした。
圭吾は心の中でため息をついた。
そして、もう一度、首を左右に振った。
—三—
東北東大学、海洋研究所、附属水族館のフンボルトペンギンの飼育員募集があると高校から紹介があったので山下圭吾は応募した。履歴書にフンボルトペンギンのスケッチをつけたら面接まで通った。
水族館長と面接をした。
館長は相川守と名乗った。
灰色のスーツ姿で、応接室の椅子に座っていた。
応接室の窓にはレースのカーテンが掛かっていて、カーテンの隙間から紅葉している楓の葉が見えた。秋の日差しがカーテンで散乱されて柔らかい印象となって室内に差し込んでいた。
相川館長は穏やかな表情で喋り始めた。
「野生のフンボルトペンギンは約一万羽にまで減少しています。日本の水族館と動物園のフンボルトペンギンは約一五〇〇羽ということで、野生の一割以上の数がいます。その意味で、フンボルトペンギンを飼育しているということは大きな意味を持ちます。我々は、フンボルトペンギンに責任をもたねばなりません」
その声は落ち着いていた。静かに話していたが声には芯があった。
「フンボルトペンギンは実は臆病です。飼育員をよく見ています。飼育員の不安はフンボルトペンギンの不安につながります。ただ、フンボルトペンギンと心がつながれば、彼らに助けてもらえます。フンボルトペンギンの喜びが、私たちの喜びになります」
相川館長が、いったん言葉を切った。
館長が圭吾を見た。
「我々は、フンボルトペンギンを愛している人を募集しています」
問いが投げかけられた。
「あなたはフンボルトペンギンを愛していますか」
「はい」
迷わずに答えた。
「では、フンボルトペンギンの仕事をしてください」
そう相川館長は言った。
後日採用通知が届いた。
山下圭吾は就職してもらった初任給をすべて母親に渡した。そして、相川館長の勧めに従って、消費者金融からの借金は銀行からの融資に借り換えを行って、過払い金の返還も受けた。生活は少しずつ楽になっていった。
飼育員の仕事はやりがいがあった。
掃除、餌やり、水替えといった一つ一つの作業から仕事は始まった。館長の言っていたとおり、フンボルトペンギンはやや臆病な性質を持っていた。
新人の圭吾の挙動不審な動きに、フンボルトペンギンたちは怯えて逃げまどった。
ちょっとしたぎこちない行動がフンボルトペンギンたちの不安につながる。フンボルトペンギンたちが怖がらないように丁寧に仕事をするようになった。
圭吾が仕事に慣れた頃に一つの課題が与えられた。
ペン之介というお年頃の雄フンボルトペンギンのお見合いである。おキクという名前の雌を別の水族館から借りてペアリングを試みていた。遺伝子が近すぎると良くないので、ペアリングはできるだけ離れた地域のペンギン同士で行う。
一回目のお見合いはうまく行かなかった。
ペンギンハウスの中の個室でおキクとペン之介を見合わせた。
おキクはペン之介をちらりと見て、そして横を向いてペタペタと逃げてしまった。ペン之介もどうして良いのかわからずに、フリッパーを広げた形で硬直していた。
環境が違うのかもしれなかった。圭吾は先方の水族館に飼育の様子を聞いた。
「そうですねえ。単に気分の問題かもしれません。うちは自然な雰囲気を出すためにお見合いの時にはサボテンをそばに置いていますがそちらはどうですか」
「いいえ、なにも植物はありません」
「サボテンがあった方がいいかもしれませんねぇ」
二回目のお見合いは場所を変えた。フンボルトペンギン水槽の一角を余裕を持って区切ってお見合いの場としたのだ。
当時、フンボルトペンギン水槽のコンクリートは水色の塗装がされていたがお見合いの場所には茶褐色の敷布を敷いた。背景に大きなサボテンの植木鉢を置いた。プールにつながる道も確保した。さながら荒野の脇にある、二匹だけのプライベートビーチだった。
ペン之介とおキクはそこでお見合いをした。
二匹はお互いを見つめ合った。
ペン之介がフリッパー(翼)を広げ首を伸ばして自分の存在を主張した。ラッパのような鳴き声でクアーと鳴いた。おキクはペタペタとペン之介に近づいて、自分のくちばしでペン之介のお腹から喉元をなぞるようにしてそれに応じた。何度かその動作を繰り返した後、二匹は身体を寄せ合い、フリッパーを絡み合わせた。
相川館長にカップルの成立を報告した。
「よくフンボルトペンギンたちの気が変わったね」
「サボテンのおかげです」
ペン之介とおキクは一緒に水際を歩き、一緒に食事をし、一緒に夜を過ごした。
しばらくして卵が生まれた。ペン之介とおキクは巣の中でかいがいしく卵を暖めた。飼育員の中では卵を取り上げて孵卵器(インキュベータ)に入れようという意見があったが、圭吾は反対した。
「一方でインキュベータで強制的に孵化させながら、一方で卵を間引くというのは矛盾しています。ペン之介とおキクにまかせるべきです」
フンボルトペンギンが繁殖しすぎるのを防ぐために卵を間引きするという事実はあまり知られていない。
相川館長はペン之介とおキクに卵を任せることを認めた。
それは夜明け早くのことだった。圭吾は卵の様子を見にペンギンハウスへ行った。まだ薄暗い朝の光がペンギンハウスの中に差し込んでおり、ペン之介とおキクの立つ姿を浮かび上がらせていた。ペン之介とおキクは卵を暖めるのをやめていた。そして静かに卵を見守っていた。
音がした気がした。
殻にひびが入ったのが見えた。
ペン之介は殻を優しくくちばしで撫でるようにつついた。
殻の一部が割れた。
卵の中からくちばしが現れた。
何回も動いて割れ目が広がっていく。
長い時間をかけて孵化した。
生まれたばかりの雛を挟むようにして、ペン之介とおキクが守った。
圭吾はペンギンハウスの外に出た。すでに日が昇っていた。朝日がまぶしかった。
圭吾は雛をペン太郎と名付けた。
ペン之介とおキクの連れ合いは卵をよく産んだ。一年目にペン太郎とペン次郎が孵化し、二年目にペン三郎、三年目にペン吉が生まれた。そのころにはペン之介はすっかり大人のフンボルトペンギンになっていて、古株の貫禄を醸し出すようになっていた。
圭吾がフンボルトペンギンたちに怖がられることはもうなくなっていた。
—四—
就職して三年がたち、山下圭吾の生活は安定してきた。
家の借金はまだ残っていたが、給料で利子と元本の返済を計画的に行えばあと二十年で借金はなくなるはずだった。給料から天引きしてためていた定期預金が満期を迎え、百万円の現金が手元にできた。
——余裕資金を為替取引へ投資しよう
そんなあおり文句の宣伝に圭吾は乗った。
外国の投資会社が宣伝している外国為替証拠金取引(FX)の口座を開いた。口座は高額の取引が可能なアメリカの口座にした。ちょうどそのころ景気が回復して、米ドルは強気の相場で値上がりが続いていた。その波に乗って、圭吾は資金を二倍にすることに成功した。
——よし、いける。
圭吾はレバレッジを最大の百倍に上げた。レバレッジとは自分のお金を証拠金として預け入れることで、証拠金の数百倍の金額で取引できる仕組みである。実際の資金以上の掛け金を使った取引を行えるため上手くいけば高い利益をあげられる。
最初はうまくいった。
ドルの値上がりに追随して、相場換算で三千万円まで圭吾は儲けることに成功した。
しかしそこまでだった。
相場の下落は唐突に起きた。
最初は何が起きたのかわからなかった。
一気にドルが一円値下がりした。相場換算で一千万円失った。これだけ下がれば回復するだとうと、買い立てに資金を投入した。しかし、さらに一円値下がりした。
あとは同じことの繰り返しを三回ほどやった後、ドルが滝のように急落した。一瞬で十円下落した。強制ロスカットされたが、間に合わずその下落の損失の直撃を受けた。
画面には圭吾の口座の評価額として「マイナス三億円」と表示されていた。
——三億円の負債
血の気が引いた。
頭が真っ白になった。
後に圭吾は、サトウ・アーントショックという単語を知ることになった。これは、ピコブラックホール理論を応用したエネルギー貯蓄技術の発表に起因する経済ショックのことである。エネルギー貯蓄技術の進展により、自然エネルギーの本格普及が期待された。このことにより、相対的に原油の重要性が低下する。原油価格が急落した。そして、シェールオイルによって産油国となっていた米ドルはそのショックに巻き込まれたのだった。
圭吾の元に、再び負債の利払いの督促状や督促の電話が届くようになった。
集中して仕事ができなくなった。
ペンギン水槽の掃除がおろそかになった。禁止されているアルバイトにまで手を出した。アルバイトの水仕事は寒かった。手が荒れた。残業で夜遅くなった。寝不足が続いた。
フンボルトペンギン水槽の手入れがおろそかになった。
「ママー。なんだか、ペンギンさん、よごれてるみたい」
「そうね。あまりお風呂に入らないからかな」
「ママー。水槽の中に変なものが浮いているよ」
「そうね。ペンギンさんの食べ残しかな」
見に来る人のそういった言葉が目立つようになった。
それでも身体が追いつかなかった。
負債の取り立て業者からの督促の映話が家に来るのは日常茶飯事になった。
「山下圭吾さん。困りますね。返済が止まってますよ。いい加減払ってくださいよ。ああ、そうだ。あなた、フンボルトペンギンの飼育員なんですってね。それならばいい取引がありますよ」
取り立て業者からもうけ話を提案された。
映話着信があった。
映話機に顔は表示されておらず、黒い背景に白い文字で『T』とだけ表示されていた。
「フンボルトペンギンの卵を横流ししてくれたらお金を上げまーす。五百万円でーす。破格の取引だと思いまーす」
彼はトーマスと名のった。アメリカでペンギンに関する取引をしているという。
フンボルトペンギンの卵は高値で取引されているという。
水族館においてはフンボルトペンギンが繁殖しすぎるのを防ぐために卵を間引きする。
結局は捨てられる卵なのだから問題ないと自分に言い聞かせた。
「フンボルトペンギンの卵を売ります」
そう、圭吾は言った。
後日、暗視ゴーグルと卵梱包の箱が送られてきた。特殊な箱のようで、中に卵を置くためのクッションと穴が設けられていた。保温用の装置のようなものがついていて、回路基板に接続されていた。
いったいどういう組織なのか疑問に思った。
山下圭吾は夜中にフンボルトペンギンの卵を取りに出かけた。
石膏の偽装卵を二つと、カタクチイワシを小さなバケツに入れて、ペン之介とおキクのいるペンギンハウスに向かった。卵を抱いているカップルということでほかのペンギンとは隔離されたペンギンハウスにいる。
月が出ていた。満月だった。静かな夜で、空気は冷たかった。
ペン之介のペンギンハウスは静かだった。
送られてきた暗視ゴーグルを使い、開いている扉の外から中の様子をうかがった。
ペン之介は巣にじっとうずくまって卵を暖めていた。おキクは別の場所で寝ている様子だった。
中に入る。
カタクチイワシの入ったバケツを巣の脇に置く。
左手をペン之介のお腹の下に入れようとした。
ペン之介の首が上がって見られた。
鋭い瞳だった。
圭吾は一瞬ためらった。しかし、心を鬼にした。左手をペン之介のお腹の下に入れる。
ペン之介のお腹の下に卵は二個あった。
右手を使ってバケツからカタクチイワシを取り上げ、ペン之介の頭の上にぶら下げた。一瞬、ペン之介がカタクチイワシに気を取られた。その隙に卵を一つ取った。素早く偽装卵をペン之介の身体の下に押し込む。
ペン之介がフリッパーを動かした。
もう一つの卵が巣から転がって外に出た。そして、そのまま少し傾斜がついていたでこぼこの地面を転がり、柱にぶつかって、割れた。
「ムォーウ」
ペン之介が鳴いた。
叫び声は悲痛だった。
脳裏に焼き付いて忘れられなかった。
ペン之介の眼は哀しそうに見えた。
その瞳が言葉を発しているように思われた。
苦しかった。
卵を一つ持って逃げた。
専用の容器に卵を入れて指定の業者経由で卵を送った。
五百万円の振り込みがあった。負債の利払いに充てた
振り込みがあった翌日にトーマスから映話があった。
相変わらず映話機に顔は表示されておらず、黒い背景に白い文字で『T』とだけ表示されていた。
「つぎも頼みまーす」
「もうできません。勘弁してください」
そう言った瞬間にトーマスの態度が豹変した。
「あなたとの会話は録音してありまーす。卵を引き渡すときの映像も専用ボックスに仕込んだマイクロカメラで撮影済みでーす。もし、私がこれを世の中に公開したらどうなると思いまーすか? あなたは社会的に抹殺されまーす。あなたのお母さんも社会的に終わりでーす。それに、どうですか? あなたの三億円の借金があなたのお母さんに降りかかりまーす。それであなたはいいですか? あなたにはもっと働いてもらいまーす」
ずるずると引きずり込まれた。
次は、卵ではなくてフンボルトペンギンが欲しいと言われた。
断ることができなかった。
その日、初めてトーマスたちに会った。
資材搬入用通用門のセキュリティロックを解除しトーマスたちを水族館の中に入れた。
全員、黒い覆面をしていた。
トーマスたちは怪しい器械を持っていた。一見すると掃除機のようだったが、吸い込み口がペンギンが入るくらい大きかった。そして、マントのようなものを羽織ると彼らの姿が見えなくなった。そのままフンボルトペンギン水槽の方へ歩いていった。反応するはずの赤外センサが反応しなかった。
しばらく時間が経った。
急に彼らが目の前に現れたので帰ってきたことがわかった。
「フンボルトペンギンを一匹、回収しました。怪しまれないように、一匹ずつでーす」
どうやらペンギンを回収したらしかった。
そのまま、トーマスたちは帰って行った。
後日、一千万円が振り込まれた。
一匹、また一匹とペンギンを引き渡し、累計三匹のフンボルトペンギンをトーマスに渡した。若いペンギンが多かった。
圭吾には罪悪感があった。だんだんと、フンボルトペンギンたちを直視できなくなった。
さすがに三匹もフンボルトペンギンが行方不明になると問題になる。
圭吾は警察の事情聴取も受けた。国際警察を名のる人物の調査も受けた。そして、彼らが国際指名手配中の犯人だと知った。けれど圭吾は誰にも話せなかった。話したら自分の悪事がばれてしまうことが怖かった。
館長が動いて警備体制が盤石になるという話を聞いた。そのことをトーマスに話すと「考えまーす」と言われてしばらく連絡が無くなった。
もう、フンボルトペンギンを横流ししなくてすむ。
圭吾は心の中で安堵した。
しかし、それはつかの間の安堵だったことを圭吾は知ることになる。
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