第4話 フンボルトペンギンと多田健一

第四話 フンボルトペンギンと多田健一





 ——多田健一の記憶——


 エンジンが唸りを上げる。

 ——十一大戦、名門十一大学の頂点を競う体育会系総合大会だ。その中でも自動車ラリーは未舗装道路を自動車が土埃をあげて走る迫力のあるレースになっている。

 一台ずつ走ってタイムを競うレースは佳境に入っていた。東北東大学郊外の山道を超えて港に抜けるコースだ。ホームレースの利があるので、ここまではいい感じで運転できている。タイムも伸びそうだ。

「フラット、シックスライト、オーバクレスト」

 先は登りで見通しが効かない。助手席にいるナビゲータの声によると次のカーブは右だ。

「カット、キープフラット」

 ナビゲータの声を信じハンドルを右に切る。コースをインに保つ。ギヤをシフトしアクセルをふかす。

 よし、登りを超えそうだ。

「キンクス、80」

 曲がり角の先は平らで直線になっている。ギヤを高速にシフトしさらに加速する。

「ロングファイブレフト、オーバー80、キープミドル」

 長い左のカーブが続く。内側には溝があったり岩が転がっていたりするのでコースどりは中央を保持だ。

 ハンドルを操作する。

 その、瞬間、目の前に物体が現れた。

 非常識にもコース内駐車だ。

「ダブルコーショ」

 急制動。前に体が押し出される。

 ナビゲータの声の前に急ブレーキを踏み急ハンドルを切っていた。

 スピン。なんとか止まった。

 すかさずエンジン再始動。

 すぐに発車、と思った瞬間に後部座席の窓を叩かれた。

 レーススーツに金髪美人がそこに立っていた。

「国際警察のマリリンにょーん」

 後部ドアが開けられ、後部座席にそのマリリンと名乗った女性が居座った。

「犯人の車がダートコースに今ちょうど紛れ込んだところなのよーん。追いつける?」

 こちらにはナビゲータがいる。犯人がこのコースの素人ならば、こちらが有利だ。

「発車する。シートベルトを締めて」

「はいにゃん」

 エンジン始動。加速。車は走り出した。

「スティルファイブレフト、オーバー40、タイトゥンイグジット」

 カーブの走行距離を覚えていてくれた。カーブの出口は狭いので注意しよう。頼もしいナビゲータの声が心地よかった。



 ——





—一—


 多田健一が国際警察の捜査官を名のるマリリンに出会ったのはラリーレースの最中だった。結局、犯人は捕まえられたのだが、それ以来、健一はマリリンと付き合うようになった。半分はマリリンのアッシー君なのであるが、車を運転するのが好きな健一は喜んでマリリンの運転手を勤めた。留年組なので大学の講義にも空きが多く予定の調整はしやすかった。付き合ううちにお互いを名前で呼び合うくらい親しくなった。

 マリリンは日本のアニメに興味があるようで、健一が遠距離ドライブがてら本場の夏葉原に連れて行ったら目を輝かせて喜んだ。

 両手を握りこぶしにして口元に寄せて、眼がうるうるとしていた。

 ウェーブのかかった長い金髪が感動にゆらゆらと揺れていた。

「おお、これが夢にまで見た夏葉原にゃーん」

 屋上の立体ホログラム映像ではパステルカラーのアニメキャラクターが歌って踊っており、街角ではカラフルでふわふわな衣装を着てお店の宣伝をする売り子たちが立っていた。

 初心者向けの『イモメイト』や『虎の子』といったお店で本や立体映像を買いあさり、執事喫茶で一息ついたときにはさすがの健一も疲れ切っていた。

 店内は落ち着いたゴシック風の様式に整えられていた。出窓には白いレースのカーテンが掛けられており、柔らかい光が射し込んでいた。部屋の奥には大きな置き時計が設置されていて、振り子がゆっくりと左右に揺れていた。店内の机は円形の木製で、周囲には複雑なレリーフが刻んであった。

 店内には優しいモーツアルトのピアノソナタが流れている。

 整った服装をした執事に一礼をされて出迎えられた。

「お帰りなさいませ、ご主人様、お嬢様」

 執事に席へ案内された健一は椅子にどっかりと腰を下ろした。机の向かいにマリリンが座る。

 二人は執事にアフタヌーンティーセットを頼んだ。

 マリリンは買い込んだ袋を、大切そうに机の脇にあるかごに入れた。

「結構、買い込んだな」

「多分、夏葉原に来れるのはこれが最後だからよん」

 健一の感想にマリリンは少し寂しそうに答えた。

「またくればいいじゃん」

「そういう訳にもいかないのよん。こう見えても結構仕事がたてこんでいるにょん。日本での仕事が一段落ついたら国に帰らなきゃいけないのよん」

「また日本に来ればいい」

「簡単に来れればいいんだけれどねん」

 執事がワゴンを押してやってきた。

「アフタヌーンティーセットでございます」

 机の上にティーセットが並べられる。

 お菓子のタワーは三段になっていた。

 一番上にはクッキー、ゼリー、ミニシュークリームと色とりどりのマカロンなどがところ狭しと盛りつけられている。二段目にはケーキが並んでいる。イチゴショート、ブルーベリータルト、パイ、ムース、モンブラン。チェリーパイ、ヨーグルトムースがあった。一番下の段にはサンドイッチとスコーンが並べられており、ジャムとバターが添えられていた。

 執事がティーカップに注いだ紅茶は上品なバラの香りを漂わせている。

「ごゆっくりお楽しみください」

 執事は一礼してからワゴンを戻しに帰った。

 マリリンがティーカップを手に取った。

 指は細くしなやかだった。腕は長くすらりとしていた。肩から首筋にかけての曲線は滑らかだった。白い肌に青い眼をしていた。長い金髪は頭頂から流れるようにして肩に掛かり、髪の表面で光が柔らかく反射している。

 異国情緒があった。

 マリリンが紅茶を一口飲んでカップを下に置いた。

 瞳を閉じて開いた。

 マリリンの眼が健一の眼を捉える。

「ケンイチは遠くの異民族の年上の女性に興味はあるかにゃん?」

 唐突だった。

 健一は心の準備ができていなかった。

 反射的に質問から逃げた

「マリリンて何歳?」

 一瞬、虚を突かれたように眼を見開いたマリリンは、すぐに表情を元に戻して言った。

「二十四万歳よん」

「本当に?」

 健一はマリリンの年齢を考えた。二十代くらいに見えるが、実はもっと年齢が上かもしれない。

「乙女に年齢を聞くとは野暮よん」

 マリリンは手の甲を上向きにして指を組み合わせた。

「で、ケンイチはさっきの質問にどう答えるのかにゃん?」

 一瞬考える。

 年齢は気にならなかった。

「俺は」

 もう一度考える。

 遠い国の異民族でも関係なかった。

 答えは変わらなかった。

「俺はマリリンが好きだ」

 マリリンは笑った。

「あたしもケンイチが好きよん」



 健一とマリリンは仕事と勉強の合間に近場へ一緒に出かけることが多くなった。時には十字山バニーランドに行き、時には海洋研究所附属水族館に行き、時には植物園に行った。

 その日はメディアパークと呼ばれる公共ホールで行われていた写真展に出かけた。ペンギン写真家の写真展だった。それほど混んでいなかったので、並ばずに中に入れた。

 入り口近くにプロフィールが掲示されていた。

 マリリンが立ち止まった。プロフィールを眺めている。

 大海泰造という名前があった。年表の最後に南極大陸で行方不明とかかれてあった。

「知り合いか?」

「南半球で仕事をしていたときに会ってるよん。でも……にょん」

 マリリンは哀しそうな顔をした。

 健一はそれ以上、聞かなかった。

 二人は奥に進んだ。

 黒い壁に南極大陸のエンペラーペンギンの写真がたくさん飾られていた。

 白い氷の上にエンペラーペンギンたちが立っていた。

 寒い吹雪を耐える雛たちの姿があった。

 そして、崩れ落ちる流氷の上から跳躍して海に逃げようとするエンペラーペンギンの姿を捉えた写真があった。

 展示の最後に、白い板に黒い文字だけが書かれたパネルがあった。

「あなたはペンギンを愛していますか」

 そう書かれていた。

 健一は帰るときに『Love ペンギン』という大海泰造の写真集を買った。





 —二—


 多田健一が自動車部に入ったのは大学に入学してからだった。高校まで健一はスキー部に所属してジャンプ競技に出場していた。

 大学に入ってから、健一はスキー部の勧誘を断り自動車部に入部した。スキー部にいた健一の先輩は残念だと言ったが、健一には未練は無かった。高校時代はそれなりの成績を残せていたと思うが、スキー部には体力造りのために所属していた。

 もともと健一は車が好きだった。父親は耐久レースのドライバーで小さい頃はよくレースを見に行っていた。そのダイナミックな車の動きに惹かれ、クラシカルな内燃機関の構造に魅了された。高校一年のときに小型限定普通二輪免許を取り、高校三年で普通自動車の免許を取った。東北東大学に進学したのも、十一大戦で上位に入る有名な自動車部があったからだ。

 ただ自動車部に打ち込んだ分、学業は振るわなかった。

 通常は三年生で研究室配属となるが、健一は単位が足りずに留年した。翌年の配属の時期になっても、成績上位者優先で研究室に配属されていくので、成績の良くない健一は単位は足りているもののまだ行き先が決まっていなかった。ブラック研究室と呼ばれる研究室は空いていたが、そこに行ったら自動車部の活動ができなくなることは目に見えていた。

 大学の海洋研究所付属水族館に健一が行ったのは、なんとなくだった。

 健一は水槽の前に置いてあるベンチで、ぼんやりとフンボルトペンギンたちが泳ぐ姿を見ていた。流線型で整った体型をしていた。曲がる時のフリッパー(翼)の動きに無駄が無かった。最小半径で曲がり、最短時間で獲物に到達し、最短距離で水中から地上に戻っていた。

 ——それと比べて己の身のなんと無駄な動きの多いことか。ラリーのコーナリングも、大学の学業も。

 健一は心の中でつぶやく。

 伸び伸びと泳ぐフンボルトペンギンが羨ましかった。

 しばらくそのままフンボルトペンギンを見ていた。



 人の気配がした。

「君は確か、私の講義を受けていたね」

 健一が横を向くと工学部の佐藤教授が立っていた。

 佐藤教授は最近になって外部から入ってきた教官だ。健一は亜空間理論の講義で教わっており顔は覚えられている。研究室はまだ持っていないと聞く。

 佐藤教授はフンボルトペンギンの方を見た。

「私はフンボルトペンギンが好きなんだ」

 フンボルトペンギンが佐藤教授を見つけ、興味津々といった眼でガラスの向こうから佐藤教授を見ている。

「フンボルトペンギンは素直な眼をしている。これが研究者の目指す眼だ。物事をまっすぐと見つめる眼だ。水中における彼らの動体視力はすさまじい」

 佐藤教授が多田健一を見た。

「ただ、地上における彼らの目の視力は約〇・三と低いのだがね」

「どうして、俺に声をかけてくださるんですか?」

「君がまだ配属先が決まっていないと聞いてね。よかったらうちに来ないか。これから研究室を作るんだ」

 はい、と健一は答えた。



 亜空間理論は難解だった。

 定例の研究会における佐藤教授の指導の言葉はきつかった。

「そんなんじゃできないよ。いったい理解しているのか? 考えようとしているのか? 君の思考が感じられないよ」

 教授は右手をフレミングの法則の形にして上下に振りながら健一を責めた。

 教授に考えを求められたが、健一は理解が追いついていなかった。

 ピコブラックホールを記述するサトウ方程式とアーント方程式の、事象の地平線における接続問題が課題だったがその接続は困難を極めたのだ。

 逃げるようにして健一が行った先は海洋研究所附属水族館だった。

 受付の園田町子はいつものように陽気だった。

「あら〜。いらっしゃい。学生割引ね。あんまり気を張らないでね。楽にしてた方がいいことがあるわよ」

 にこにこと笑ってチケットを健一に渡した。

 健一は少し気が楽になった。

 水族館を健一は歩いた。そしてフンボルトペンギン水槽の前に座った。ここで佐藤教授に研究室に誘われたのだ。

 フンボルトペンギンはいつもと同じように泳いでいた。 水中を泳ぐフンボルトペンギンの軌道は美しかった。水面で巧みにフリッパー(翼)を動かして、ばちゃばちゃと水をはねとばして遊んでいた。水滴が飛び跳ねて水槽のガラスにぺたぺたとついた。

「あ」

 健一の脳の中で神経細胞が衝撃電位を発した。

 ——フリッパー境界問題

 多田健一は小野寺真由助教から紹介された論文を思い出した。それは数学的な手法で水滴をとばすように境界を互い違いに接続する方程式の接続方法だった。

 確かにそれは使えそうだった。

 ヒントは与えられていた。

 意味を考えていなかったのは自分だ。

 フンボルトペンギンが水中から飛び出した。水面から地上に出るときのジャンプが巧みで、きれいに着地していた。

 健一は、心の中で何かが吹っ切れた気がした。



 健一の考察を元に佐藤教授は一本の論文を発表した。サトウ・アーント理論の誕生である。しかし、有名な佐藤教授の陰に隠れて、その論文の共著者に小野寺真由助教と多田健一の名前が入っていることに気づく人は少ない。

 この理論によってピコブラックホールに膨大なエネルギーを蓄えることが可能になった。

 それまで太陽光発電や風力発電や波力発電といった自然エネルギーはその不安定な発電特性により大規模なエネルギー源として使用しにくいと考えられていた。

 しかし、一立方メートルで発電所一カ所一日分のエネルギー貯蓄ができることを理論的に示したサトウ・アーント理論を用いれば、その不安定性を解消できるめどが立つことになる。すなわち、発生した電気を溜め込んで電気が不足する時間に放出することで発電量の安定化が行えるのだ。

 ——エネルギー革命が起こる。

 その期待感は大きかった。

 原油先物価格が暴落し、為替相場が大きく動いた。

 世界は地球温暖化を防止するために自然エネルギーに大きく舵をとることになった。





—三—


 フンボルトペンギンこと小林大樹が増川美保の家に泊まった日の一ヶ月前、健一とマリリンはスキーのジャンプ旅行に出かけていた。

「まさか、本当にジャンプすることになるとは」

 その日の夜、二人はスキーのジャンプ台の上にいた。

 今回のマリリンの任務はスキーのジャンプ台を利用して、エンペラーペンギンを閉じこめている建物へ屋上から潜入し、エンペラーペンギンを取り戻す任務だ。

 二人は背中に小型の全自動ハンググライダーを背負っている。目的地まで自然に誘導してくれる機能を持つ。

「小型なので滞空時間は短いのん」

 金髪で青い眼をしたマリリンが健一を見た。

 健一はジャンプ用スキー板の感触を確かめるように、足を上げ下げした。

「ジャンプは高校生のとき以来だな」

「大丈夫なのん?」

「多分」

 高校総体で優勝していた。

「滞空中はオートパイロットだからほぼ制御がいらないけど、踏み切るタイミングを間違ったらどうしょうもないよーん。じゃ、行こうかしらん」

 二人は夜の空へ飛び出した。



 マリリンは優秀だった。

 あっという間に監視している人員にスタンガンをくらわせて気絶させると、手際良く仲間にエンペラーペンギンと犯人を引き渡した。

「スタンガン防止の防電スーツを着ていないなんて、今時のテロリストにあるまじき失態よーん」

 そういうマリリンは強化絶縁プラスチック繊維を組み合わせた薄型防電スーツを着込んでいる。至近距離でスタンガンをくらってもダメージは受けない。このスーツは防電効果のほかに防弾効果もあるのだ。無論、健一も同じスーツを着込んでいる。

「俺って、いらなかったり?」

 健一は不審の目をマリリンに向ける。

「ジャンプするケンイチの姿をみたかったのよーん」

 マリリンがうるるとして両手を握りこぶしにして健一を見ている。

「来月は、仕事じゃなくて、プラベートでケンイチと旅行に行きたいわん」

「わかった。今度ジャンプスキーに行こう。予約しとくよ」

 健一は約束した。

「ありがとにゃん」

 マリリンが健一に抱きつく。

 しばらくそうしていた後、マリリンは健一の体から離れ「にょーん」と犯人の遺留品に向き直った。

「というのもあるけど、本当はこれをみてほしかったのよん。機械系はケンイチの専門にゃん」

 そう言ってマリリンが見せたのは、犯人が使っていたペンギン吸引機だった。大型の掃除機のような形をしていて、太いホースのようなちょうどペンギンが入るくらいの吸い込み口があった。

 健一は機械を確認する。

「こいつはピコブラックホール(PB)を使った吸引機だな。俺の先生が詳しいと思う」

「ケンイチの先生、信用できるのん?」

 健一は研究室配属で路頭に迷っていたとき拾ってくれた教授を思い出した。

「悪い人じゃない」

 あのときフンボルトペンギンを眺めていた佐藤教授の眼は子供のような眼をしていた。あの教授がフンボルトペンギンを盗むようなまねをするとは考えにくかった。

「まあ、念のため佐藤教授の素行調査はするのだけどねん。結果が白だったら協力を依頼するわん」

 そうマリリンは言った。

「あ、教授の奥さんはかなりの恐妻で嫉妬が激しいから、できるだけ気をつけて」

「わかったよーん。できるだけ気をつけて振る舞うわん」

 健一は安堵した。

 ただ、金髪美人のマリリンが近づくだけで、教授の身の安全が脅かされる可能性が高い。何らかの対策は打っておいた方が良いかもしれない、そう健一は考えた。



 ——後日

「ばっちり、教授の愛人に見えるように振る舞ってきたわん」

 そう言われたときに、健一の背筋が凍った。

「あ、あの、俺は『できるだけ気をつけて』って言ったんだけど」

「だから、できるだけ気をつけて愛人に見えるように振る舞ったわん」

 危急存亡の危機と考えて、健一は研究室に急行する。

「あの、佐藤先生、今晩はどこにお泊まりですか?」

「どこにって、多田君、家に決まっているじゃないか」

「佐藤先生の家にマッサージ椅子があると聞いたのですが」

「うむ」

「マッサージ椅子に座る際は、万が一、漏電したときに備えてこの防電スーツをきておいてください。念のためアース線も確認してください」

 健一はマリリンからもらってきた強化防電スーツを手渡した。

「おお、多田君。私の健康を心配してくれるのは多田君くらいだ。君には期待しているぞ。ありがとう」

 健一は「佐藤先生の命の心配をしている」とは言えなかった。



 ——さらに後日

「今度、妻とお茶の会に行くんだ。久しぶりで楽しみだな。ゆっくり話ができる」

 健一は頭を抱える。しびれ薬でも盛られるかもしれない。中和剤を用意したほうが良さそうだった。

「先生、お茶でアレルギー症状が出るかもしれません。この薬をお持ちください」

 健一はマリリンからもらってきた万能中和剤を手渡した。

「おお、よく気がきくな。ありがとう。持っていくことにしよう」

 健一の心労は尽きそうになかった。





—四—


 佐藤研究室には午後のティータイムがある。砂糖をたっぷり入れた紅茶を飲みながら雑談を交わすのが習わしだった。その席に佐藤教授は同席しない。「俺がいないほうができる話もあるだろう」との談である。

 談話室のカウチに座って、小野寺真由助教と増川美保とフンボルトペンギンこと小林大樹がティータイムのおしゃべりを楽しんでいる。

「最近シュガーが怪しいのよ。私に隠し事してるの。それに女に会っている。たぶん浮気だわ」

 シュガーとは佐藤教授の隠語である。

「え、あの年で浮気ですか? そんなことある訳ないですよ」

 増川美保は、首をぶんぶんと左右に振る。

『頭禿げても浮気はやまぬと言うペン』

 美保が隣に座っている大気のお腹を、左手の人差し指でつんつんとつつく。

「小林くんがそんなこと言うなんて信じられない」

『こ、国語の授業で習ったことわざペン』

 美保はつんつんを強化した。

「こんな純真なフンボルトペンギンの姿をしているのに」

 つんつんはくすぐりに進化した。

『くすぐったいペン』

 大気はお腹を上にしてカウチの上に横になり、足をじたばたとさせている。

「まあ、そのくらいにしておきなさい。それはそうと、ここにいない多田君の謹慎が早く解けるといいわね。彼がいないと研究がはかどらないわ」

 小野寺真由がティーカップを持ち上げて口につけた。

 ダージリンの芳しい香りがした。

 小野寺真由はふと思いついた。

「研究室の学生も増えたことだし、今年の春休みには合宿をやろうかしら。お泊まりで温泉に行って勉強をするの」

 小野寺真由が目を丸くする。

「お、温泉ですか?」

 身を乗り出して、小野寺真由に確認する。

「ほんとうに、ほんとうで、温泉ですか?」

 小野寺真由は頷いた。

「本当に、本当で、温泉よ」

 美保は大樹を持ち上げてばんざいした。

「やったぁ。温泉に行ったら、あんなことや、そんなことや、こーんなこともするんだ」

 大樹が美保にぐるぐると宙で回される。

『ペン』

 大樹はまだ温泉の魅力を十分には理解していなかった。

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