第3話 フンボルトペンギンの大脱走

第三話 フンボルトペンギンの大脱走





—一—


 翌日の朝、フンボルトペンギン水槽は大騒ぎになっていた。

 独身ペンギン、おウメが行方不明になったのだ。

 そして調査の末、最重要容疑ペンギンとして挙動不審だったペン吉こと小林大樹がお白州(しらす)に引き出されることとなった。お白州とは現代で言えば法廷の場である。

 ペン岡越前守(ぺんおかえちぜんのかみ)が水際の一段と高い岩に居直っている。裁判長の役目である。

『一同、控えおろうか』

『『ははぁ』』

 一同が頭を垂れる。

 ペン岡越前に向かって左側には検察側としていかつい顔をした中年のペン形、右側には弁護側としてすらっとした美形で若手のペン平が控えている。

 一段と低い塗装コンクリートの上にムシロが敷いてあり、ペン吉こと大樹が立たされている。

 その後ろには取り巻くようにして傍聴フンボルトペンギンたちが多勢いる。

『皆の者、苦しゅうない。表をあげよ』

 一同が首を上げた。

 ペン岡越前の通る声が開廷をつげる。

『では裁きを始める。ペン形、その方の訴えを述べよ』

 ははぁ、と一礼してからペン形が陳述を始める。

『最近、わがフンボルトペンギンの群れから、若いペンギンが人間どもにさらわれているのは目撃証言から周知の事実です。昨日から挙動のおかしかったこのペン吉が、おウメをさらった人間に寝返ったにちがいありません。厳正な処罰を望みます』

 ペン岡越前は弁護側にくちばしを向けた。

『今の陳述に異論があれば述べよ』

 ペン平はフリッパー(翼)を広げて格好をつけた。

『今の議論は乱暴ですねえ。挙動不審で仲間を容疑ペンギンに仕立て上げていたら、容疑ペンギンが何匹いても足りませんよ。現に、私も独り身なもんで昨夜にどこへいたか保証してくれるペンギンはいませんしねえ』

 証拠がある、とペン形がフリッパーを挙げる。

『発言を認める』

 ペン岡越前が鷹揚に頷いた。

 検察側の証人として傍聴席からペン太郎が呼ばれた。

『ええ、昨日、ペン吉が逃げ出した外から帰ってきたときから変なんですよ。「ぼくは、ペン吉じゃない、人間の大樹だ。大学で勉強している」なんて訳のわからない人間みたいなことを言うんですよ。それに、俺は見たんですよ。昨日の晩、あいつがふらふらと外に行った後に、あいつを追いかけておウメが外に行ったのを。そのあとおウメが帰らなくて、そしてペン吉だけが帰ってきたんですよ。絶対あいつ、怪しいです。あいつ、人間に寝返ったんじゃないかなあ』

 ペン形が促す。

『その人間は、おウメを攫った人間どもですか?』

 すかさずペン平がフリッパーを挙げて発言する。

『意義あり、誘導です』

 ペン岡越前は頷いた。

『誘導を認める。今の質問はなかったことにせよ』

 引き続きペン次郎が呼ばれた。

『昨日の夜の話じゃないんだけどね。この前に似たような事件のあったときだよ。何度も話したと思うけどさ。いやさ、おれっち夜に厠(かわや)に行ったんだよね。用をたしたかったんだよ。そしたらさぁ、見ちゃったんだ。なんか、おっきな機械を持った人間がいてさ、反射的に隠れたさ。そしたらさ、おトミさんがさ、その機械に吸い込まれちゃったんだ。おれっち怖かったさ』

 その発言を聞いて、ペン形は満足げに頷いた。

『この通り、犯人は不思議な機械を使います。皆の知っての通り、人間は大学で不思議な機械を作っています。そして、先ほどのペン太郎の証言にあった通り、ペン吉は大学に通っている人間だと自分で言っているのです。以上のことから、私は確信したのです』

 びし、とフリッパーがペン吉こと小林大樹に向けられる。

『犯人はお前だ』

『控えおろう。裁きの場であるぞ』

 ペン岡越前が制止した。

『ペン平、反論があれば述べよ』

 ペン平はくちばしを大仰に左右に振って、やれやれという表情をした。

『まったく、先ほどから、論理の飛躍が大きすぎますねえ。まずはペン太郎の発言ですが、ペン吉とおウメが順番に外に出てそれからペン吉だけが帰ってきた様子しか見ていません。従って、直接ペン吉がおウメがさらわれる事件に関わったという証拠にはならないわけです』

 傍聴席から『なるほど』という声が漏れる。

『また、犯人は機械を使う。大学では機械を作っている。ペン吉は大学に通っている。よってペン吉は犯人だ。というのは典型的な三段論法ですね。それを認めたら、犯人は空気を吸う。ペンギン全ては空気を吸う。したがってペンギン全てが犯人です、ということになってしまうではありませんか』

 ぐぬぬ、とペン形がくちばしの先を擦り合わせた。

 ペン平は言葉を続けた。

『こちら側も証人を用意してあります』

『証人を認める』

 ペン岡越前に認められ、おペンが連れられてきた。幼くてあどけない顔をしたフンボルトペンギンである。

『お兄ちゃんは、おウメちゃんをさらうなんて、そんなことはしないよ。だって、昨日の夜、あたし、お兄ちゃんとずっと一緒にいたんだもん。お兄ちゃんは外の世界が見たいって言っていたんだよ。それで、お兄ちゃんは、ペンギンパレードの隙間をかいくぐって、外の世界に行って、やっと昨日の夜に帰ってきた。あたし、お兄ちゃんを尊敬している。お兄ちゃんを信じているから』

 ペン形がフリッパーを挙げ、発言を認められる。

『親族の発言はまったく信用できないことは周知の事実と知りながら証人に起用するとは、ペン平先生も何を考えているのやら。今の発言は参考にもならんということでよろしいですかな』

 ペン平は首を振った。

『さらなる証人がいます』

 おペンの父、ペン之介が呼ばれた。

『実は、おペンは実の娘ではないのです。その事実を知るのは、私と、私の妻と、おペンのみであります』

 傍聴ペンギンたちからどよめきがあがった。

『全て私が悪いのでございます。私が妻に告白するのを焦ったあまり、巣作りをおろそかにしてしまい、妻の生んだ卵がころころと転がって割れてしまったのです。そして、卵を産みすぎて困った知り合いから、卵を分けてもらい私たちの子供として育てたのでございます』

 おペンは俯いている。

『おペンには、ペン吉を本当の兄として慕うようには言っております。けれども、しっかりと事実は伝えておりますので、本当の兄弟ではないのです』

 ペン平は、ペン吉こと小林大樹をフリッパーで指し示した。

『被告の証言を求めます』

『証言を認める』

 小林大樹はくちばしを上げた。

『信じてもらえないかもしれないけど、ぼくは人間で、大学というところの実験で間違ってペン吉の体に心が入っています。ぼくは、ペンギンを全然知りませんでした。でも、大海泰造(おおうみたいぞう)さんという人のペンギンの写真集を見て知ったんです。ペンギンもこの地球に生きている仲間だって。人間と同じように生きている生き物だって。いや、むしろペンギンは、人間よりも素直で、人間よりも社会的で、人間よりも命を大切にしている。そう思ったんです。ぼくは、ペンギンを尊敬します」

 大樹は息を吸った。

『ぼくは、ここを出て、会いたい人が二人いるんです。一人は、大海泰造さんというペンギンの写真をとった人です。そして、お礼が言いたいんです。ペンギンを教えてくれたことを、普通の日常が大切なことを、生きているってことがそれだけで貴重なことを。もう一人は増川美保っていうんです。彼女は、ペンギンになったぼくを守ってくれました。そして、人を好きになるって、どういう気持ちなのか教えてくれた人なんです。だから、どうか』

 大樹は目を上げる。

『どうか、ぼくを、ここから出してください』

 一瞬の間。そして、傍聴席からフリッパーを身体にぶつけて鳴らした拍手が沸き起こった。

 ペン平の求めに応じて最後の証人が呼ばれた。南米帰りのロナウジーペンだ。言葉が少し南米訛(なま)りで聞きづらいが意味はわかる。

『ペン吉の言っているタイゾーに会ったぞー。あいつはおかしなことを言っていたなー。なんでも人間の間では俺たちが高値で取引されるんだとかー。そんで、タイゾーはそれを阻止したいぞーと言っていたなー』

 ペン岡越前守がすっくと背を伸ばして声を上げる。

『あい、わかった。裁きを申し伝える。一同、控えおろう』

『『ははぁ』』

 一同が頭を垂れる。

『ペン吉その方おウメを攫(さら)いし罪で訴えられうるにその罪証拠不十分にて無罪放免とする。されどその方、過去のペン吉と違いし発言はなはだしくなりうるに、周囲との軋轢(あつれき)生じうる可能性大なり。したがって、その方に以下の命を申し付ける。

 皆の者よく聞け。

 ペン之介の息子ペン吉、その方に、おウメ失踪の原因追求を命じる。

 ペン吉はこの水族館を出(い)でて人間(じんかん)に混じりおウメを取り戻せよ。

 皆の者はペン吉を助けこの水族館から出でさせよ。

 裁きは、それまで。一同の者、立ちませい』

 ペン岡越前が、ばし、とフリッパーを打ち鳴らした。

 一同の首(こうべ)が上がる。

 ペン岡越前が大樹に声をかけた。

『ペン吉、いや、大樹と言ったか。水族館は狭い卵の殻のようじゃ。殻を破って外の世界に出てみたいものだ。そうしたら視界が広がるよのう。水族館は卵の中、お主はそれをわかっておるな』

 ペン岡越前がにやりと笑う。

『孵(かえ)してやるぞ』

 大気は一礼する。

『おかげで外へ出られます』





—二—


 ——小野寺真由の記憶——

 実家からそろそろ身を固めてはどうかと縁談の話を持ち込まれたのは何度目だろうか。日記を見返すのも面倒くさくなるくらいの回数になった。

 結婚願望はある。でも、どうせ結婚するなら人並みに恋愛がしたかった。

 徹夜で実験をして論文を締め切りに間に合わせて、学生の指導をして、レポートの採点をして、設備の発注をして、予算のつじつまをあわせて……。

 助教とは教授の手下である。この前もそうだ。自分の有機ニューラルネットワークサーバがウイルスに感染して動かなくなったのでどうにかしてくれと言われた。きちんと抗体を注射しておかないからだと何度言っても理解しない。未だにノイマン型プロセッサ時代の、ネットワーク経由でソフトアップデートすれば万全だという迷信を信じ込んでいるのだ。今の時代、有機型の計算サーバへウイルスが空気感染するということは常識中の常識だ。バックアップから培養して復旧するのに丸一日が費やされた。佐藤教授の論文の一部の情報が外部に漏れた形跡があるが、どこへどの程度漏れたかまでは追跡できなかった。

 研究室の机でため息をつく。

 いったい、この生活のどこで恋愛の要素をいれろと言うのか。

 それでも、付き合っていた彼氏は……昨日までいた。

 学会で知り合った気の良さそうなスポーツマンで、一般企業の研究所に勤めていた。はっきり言って上玉だと思っていた。たまにしか会えないけれど、会った時には優しく慰めてくれた。そんな関係が半年くらい続いた後、昨日、実験で久しぶりのデートをすっぽかした後、あっさりと電話口で「別れよう」と言われた。

 いろいろ反論した。今までどれくらい、会うために時間を費やしたかとか、デートに使ったお金の総計とか、統計的に何回ぐらいデートをすっぽかす可能性があるかとか、ありとあらゆる理論を使って彼を引きとめようとした。けれど、そのどれも彼の気持ちを変えるに至らなかった。

「君は、理屈っぽいんだよ。僕には合わない」

 そう言うんだったら半年も付き合うな、とは言わなかった。彼との微妙な関係をある意味で利用していたのは私だったからだ。それ以上の関係にできなかったのは私の責任だからだ。論理的にはそうなる。人間が制御できるものは自分しかない。自分を制御して環境を変えることができなかっただけだ。だから、そのまま電話を切った。

 今までに何回もあったことだから、もう慣れた。


 たまには土曜日も休みになる。というより休みにする。働きたいと思えばいくらでも働けるが、定期的に休みを取らないと人間は精神的に壊れるようにできているのだ。だから、研究者として強制的に休暇を入れるのも仕事だと思っている。

 喫茶店でコーヒーを飲みながら、最新の論文を読む。

 題目は『ピコブラックホール(PB)における事象の地表線の非局在化が生体の自己意識に及ぼす影響』という、思考実験を主体とした理論論文だ。ある程度、先行的な理論を頭に入れておかないと研究が進まない。もっとも、論文は読まずにオリジナルにこだわれという先生もいるが私はそれほどの知恵を持っているわけでないことは自覚している。

 整髪剤の匂いがした。

 匂いの方向に目を向けると見知った顔が喫茶店に入ってくるところだった。

「あら、あれは佐藤教授じゃないかしら」

 その後ろに目を向けて驚いた。

 金髪で長身の外国人女性を引き連れているのだ。横顔ながら、青い目と高い鼻が特徴的だ。黒いボディスーツはぴったりと体に合っている。出るべきところが出ていて、出なくていいお腹は引っ込んでいた。

 負けたと思った。今の体型ではあれを着れない。

 悔しかった。


 二人は奥の席に座った。ちょうど今座っている席は向こうの席から観葉植物を挟んで死角だ。二人の姿は見えないが声は聞こえる。

 いつもハンドバックの中に入れてある超小型指向性マイクのスイッチを入れ、録音機材に接続し、二人の会話を録音を開始した。イヤホンを耳につけて二人の会話に集中する。

「ねぇ〜ん。あの約束、いつ守ってくれるのん」

「いや、前にも、少し待ってくれと言っただろ」

「待ちくたびれたわ」

「でも、なかなか手強くてね。一筋縄じゃいかないんだ。なんせ、秘密にしなきゃいけないんでね」

「今晩はどう?」

「うん、実は今日はうまい具合に彼女が留守なんだ。うちに来いよ。結合させよう。どうやら君のとは相性がいいらしい。どきどきするな。若い頃を思い出して血が騒ぐよ」

「あたしもたくさんお手伝いしちゃうわん」

 喫茶店みたいな他人に聞かれるところであからさまにしていい会話には思えない。

 録音を確かめてから、気づかれないように席を離れ、会計をして家に帰った。

 ボスの奥様は恐妻で知られている。ボスに対していい切り札ができた。





——





 ——佐藤正教授の記憶——

 喫茶店で一息ついた。

 正面には金髪美人の女性が座っているのだから、男としては悪い気持ちはしない。しかし内心冷や汗ものだった。妻は恐妻で、その嫉妬の度合いは通常の嫉妬の度合いではなく、マッサージ椅子がいつの間にか超高電圧電気マッサージ椅子に変えられているくらい陰湿な嫌がらせを受けるからだ。

 前回は、もしもの時に備えて防電スーツを着てアース線を垂らしていたから最悪の事態は避けられたが、何もしていなかったら大変なことになっていたはずだった。

 正面にいる女性は国際警察の捜査官で名はマリリンという。最近のフンボルトペンギン失踪事件の捜査をしている。

 ワシントン条約で絶滅危惧種の取引は禁止されており、フンボルトペンギンもそのリストの中に含まれる。しかしながら、特に最近フンボルトペンギンの密輸量が増えているというのだ。特に日本からが多いという。

 野生のフンボルトペンギンは約一万羽いるが、日本のフンボルトペンギンの飼育数は千五百羽を超えており、野生の生息数のうち一割以上の数が日本にいるという。その事実を知らない人も多い。

 机の上には書類が広げられている。

 マリリンの捜査の結果である。東北東大学由来のフンボルトペンギンが多いという情報だ。捜査の甘い大学研究所附属水族館が狙われているらしい。そして、その手口が『ピコブラックホール(PB)を用いた空間圧縮によるペンギン吸引装置』というから協力を依頼してきたのだ。あくまでも強烈に吸引するだけでPB自体にペンギンを閉じ込めるのではないので原始的ではあるが、PB研究者としては研究の悪用を見過ごすことができない。

 ちなみに「佐藤教授が関与していないことは調査済みよ〜ん」とあっさり言われている。マリリンの日本語はイントネーションや語尾がおかしい。漫画を読んで日本語に憧れた世代だというからしかたが無いのだが。

「ねぇ〜ん。あの約束、いつ守ってくれるのん」

 大学の実験室の装置を貸して欲しいという要望だ。

 小野寺真由助教の実験や、学生の実験が入っているからなかなか空き時間が無い。しかも極秘という依頼だから誰にも漏らすことはできない。

「いや、前にも、少し待ってくれと言っただろ」

「待ちくたびれたわ」

 特に小野寺真由助教が問題だ。彼女は研究の鬼だから土日もなかなか休みを取らない。たまには休みを取ってデートにでも行って欲しい。三十に足がかかる年齢なのだからそろそろ身を固めてもいい頃だ。そういえば、海洋研究所附属水族館の館長も独身だったな。二人が結婚でもして幸せになれば、小野寺君の棘も取れて丸くなるだろう。

「でも、なかなか手強くてね。一筋縄じゃいかないんだ。なんせ、秘密にしなきゃいけないんでね」

「今晩はどう?」

「うん、実は今日はうまい具合に彼女が留守なんだ」

 今日は小野寺真由助教は休みだ。

「うちに来いよ。結合させよう。どうやら君のとは相性がいいらしい」

 マリリンの装置と大学の装置では、装置間の相性問題があるかと思ったが、調べたところうまく結合できそうで問題はなさそうだ。

「どきどきするな。若い頃を思い出して血が騒ぐよ」

 久しぶりに実験ができる。若い頃に徹夜で実験したことを思い出して血が騒ぐ。

「あたしもたくさんお手伝いしちゃうわん」

 どうやらマリリンも手伝ってくれるらしい。

——





 増川美保に小林大樹を助けて欲しいとつかれた後、小野寺真由助教は佐藤正教授の部屋に向かった。教授室の扉を三回叩き、返事を確認してから「失礼します」と入室する。

「何か?」

 佐藤教授は机の上の書類をさっと隠した。

 一瞬、小野寺真由は訝しく思ったが今回の件はそれではない。

「海洋研究所は予算不足で工学部からお金をもらっているそうですね。工学部の中でも十本の指に入る先生を見込んでのお願いです。海洋研究所附属水族館の館長に圧力をかけてください」

「な、なんだね急に」

 ちょうど今、考察していた事案だったので佐藤教授は戸惑った。隠した書類は、こっそりと入手した海洋研究所附属水族館の相川守(あいかわまもる)館長の履歴書である。履歴書を見る限りは三十四歳の素性の良い若手に見える。海洋研究所の所長と佐藤教授は同期であり、館長の履歴書をこっそり手に入れたのだった。

「フンボルトペンギンになった小林大樹君ですが、誤って海洋研究所附属水族館に保護されてしまいました。もともとあそこから逃げたフンボルトペンギンだったようです。色々と面倒なことになる前に、手っ取り早く上から圧力をかけて小林君を回収したほうが良いというのが私の意見です。教授から根回ししていただければ私が回収に向かいます」

 佐藤教授は小野寺真由を見た。

 顔立ちはよく、細い眼鏡をかけていることもあって知性があるように見える。ただし、服装は研究所の作業着である薄水色のツナギである。この第一印象では、恋愛対象として見られない可能性がある。このまま小野寺真由助教を行かせるのはまずい。そう佐藤教授は判断した。

「私が直接行こう」

「先生が直接行くとあからさまな圧力にみられます。後で問題になる可能性があります。ここはあくまでも私がお願いに行ったという形が良いと思います。それとなく教授の影を私がちらつかせますので。先生は予算削減の可能性を示唆する情報をあらかじめ海洋研究所の関係者に流しておいてください。実際検討されているのは事実ですから何の問題もありません」

 正論だった。

「それはいかん。いいか、小野寺、君は行ってはならん」

 小野寺真由はポケットからボイスレコーダを取り出した。

「本当は、この情報は使いたくなかったのですが止むを得ません」

 ボイスレコーダからあの日の佐藤教授とマリリンの会話が流れ出す。

「そ、それは」

 佐藤教授としてはなんらやましいことはしていないのだが、国際警察の秘密とあってはそれを説明することができないのが辛いところだった。さらに言えば、説明できたところで、万が一に妻に漏れた場合には単に外で女性と会っていたという情報だけでも、それこそ、この世の地獄であった。

 佐藤教授はがくりと首を落とす。

「わかった。君の案を採用しよう。君は私の名代として行きなさい。そうすれば低く見くびられることはないだろう」

「ご理解いただけて幸いです。では、明日の朝に水族館へ向かいますので、今日のうちに根回しをお願いします」

 小野寺真由は一礼して、そのまま部屋を出ようとする。

 扉を閉めかけた小野寺真由を佐藤教授は引き止めた。

「まて、第一印象が重要だぞ。その作業着の服装では駄目だ。まず、風呂に入って体を綺麗にし、服はしっかりとしたスーツで、髪の毛も美容室でセットして行きなさい」

 佐藤教授の変な忠告に小野寺真由は怪訝そうな顔をする。

「まあ、私の話を聞きなさい。海洋研究所附属水族館の相川守館長は若手で独身だそうだ」

 ばたりと部屋の扉が閉まった。





—三—


 小林大樹がお白州で裁きを受けているとき、水族館の応接室には小野寺真由助教と増川美保がいた。通常、研究室で小野寺真由は作業着を着ているのが、今日はびしっとしたスーツを着ている。

 館長との面会まで少しだけ時間があるので二人で水族館の中を歩きながら会話している。

「大人の武器って、こういうことですか。佐藤教授のすごいところは、お腹の太り具合と、態度の大きいところと、整髪剤の匂いだけじゃなかったんですね」

 美保はなるほどと頷いた。

 小野寺真由は細い眼鏡に手を当ててかけ直す。

「そうよ。海洋研究所は予算不足で工学部からお金をもらっているのよ。それで、いちおう佐藤教授も工学部の中じゃ偉い方でしょ。ここで融通をつけてくれないと来年度の予算はどうなるかわかりませんよってね」

「でも、なんで佐藤教授が小野寺さんの言うこと聞いてくれるんですか?」

「そこは大人の事情よ。こっち関係のね」

 小野寺真由が小指を立てる。

「大人の事情ですね」

「そうそう。あまり深追いしないほうが佐藤教授の身のためよ。この前なんて感電死しかけたんですもの」

「あと、どうして今日の小野寺さんはいつもみたいに作業着じゃなくてスーツで、しかも化粧もばっちり決めて髪の毛も念入りに編み込まれているんですか?」

「私だってきめる時はきめるのよ」

 横の水槽のイセエビを小野寺真由はちらりと見た。

「あら、このイセエビ美味しそうだわ」

「水槽を見た最初の感想がそれですか」

 美保が呆れた表情をしているのを、小野寺真由は手のひらをひらひらとさせてあしらう。

「いいじゃない。本当のことなんだから。あ、そろそろ時間ね。残念ながらペンギン水槽までは行けなかったわね。まあ、すぐに出してもらって対面できるんだからいいか。戻りましょう」

 二人は館長室に向かった。

 館長が立って出迎える。

「館長の相川守です」

 さわやかな笑顔だった。

 登場した相川守館長を見て、増川美保は小野寺真由助教がおめかしをしていた理由を納得した。館長は身長が高く端正な顔をしていて、しかもよく見るとつくべき筋肉もしっかり付いている様子だった。相川館長はイケメンだったのだ。年の頃は三十半ばに見えた。三十近くでこの前に彼氏を失った小野寺真由はこの館長を狙っているに違いなかった。

「あの、くれぐれも今回のことは穏便に」

 圧力が効いているのか相川館長は協力的だった。

「いえ、いえ、我々も彼のことは内緒にしていて申し訳ありませんでした」

 ソファーに座って手をもみながら相川館長のご機嫌を伺っている小野寺真由は、いつものつんつんした姿とかけ離れており、美保はかなりの違和感を感じる。

「なにぶん、彼、小林君のことは我々の秘密の研究に関することでして、ご容赦いただければありがたいです」

 あくまでも小野寺真由は下手(したて)に出ている。いつもだったら冷たい表情で「さっさと小林くんを出したら」くらいは言いそうである。

「いえいえ。まあ、大事にならないで何よりです。ははは」

 相川館長は営業スマイルを浮かべている。

「こちらこそどうも。ほほほ」

 小野寺真由はしおらしく手を口に当てて微笑している。

 違和感丸出しだ。

 この雰囲気に美保は耐えられそうになかった。





—四—


 ——小林大樹のお白州における裁きが終わったころ


 お客が少ないといっても休日のお昼前である。館内は親子連れで賑わっていた。

 歳の頃三歳くらいの男の子が、フンボルトペンギン水槽の脇に張り付いている。

 ちょうどこの場所からは水の上と水の中の両方がしっかりと見えるのだ。

 それほどフンボルトペンギンに興味のない子供のママはスマートフォンのゲームに夢中で子供は放置状態である。

「ママー、ペンギンさんがあつまってなにかしているよ」

「はいはい。ペンギンさんお集まりね」

 子供が何を言っても視線と指はスマートフォンである。

「ママー、ペンギンさんの一匹がね、てをふってなにか叫んでるよ」

「はいはい。ペンギンさんお元気ですね」

「ママー、ペンギンさんがね、てをぱちぱちってやってるよ」

「はいはい。ペンギンさん拍手ね」

「ママー、ペンギンさんがロケットの発射台作ってるよ」

「あらあら、そんなはずあるわけないじゃない」

 そう言って水槽の方を振り返った子供のママは、あんぐりと口を開けた。


 ペンギン水槽のフンボルトペンギンたちが、組体操のように三段の階段を形成していた。

 階段の登り口でペン吉こと小林大樹が発射準備をしている。

『ペンギンロケット発射』

 号令に合わせて大樹は一段目に飛び乗る。

『ホップ』

 一段目のペンギンたちが動き大樹の体を二段目に送る。

『ステップ』

 二段目がさらに勢いをつける。

『よし、今だ、飛び出せ」

 最上段に飛び乗った大樹は号令に合わせて足を踏ん張る。

『ジャーンプ』

 最上段の大樹は精一杯ジャンプした。フリッパーを広げた。

 空を飛んだ。

 綺麗な放物線軌道を描いてガラス製の柵に向かう。

 そして人間の子供の身長ほどある柵を飛び越えた。

 アプローチ。

 着地。

 大樹は柵の外に立った。

『やった』

 フンボルトペンギンたちが騒ぎ立てる。

 要領を得て、次々に三段ロケット方式でペンギンたちが水槽から飛び出して廊下に走り出す。

 予定にないペンギン行列で館内は騒然となった。



 柵から出たフンボルトペンギンは大樹以外に八匹いた。

『兄弟、ここの廊下を突き抜けて階段を下り、正面から抜けるのが最短ルートだ。紡錘隊形で中央突破を図る。ペン吉を中央に』

 ペン吉こと小林大樹を中心に、ペンギンたちはぺたぺたと爆進した。

 食堂で冬のアイスクリームを食べていた人が、それを床に落とした。ジュースを飲んでいた人は吹き出した。焼きそばを食べていた人たちは麺をこぼした。ピザは宙を舞い、フライドポテトは散乱した。

 フンボルトペンギンたちは、カップルの股の間を通り抜け、子供の目の前を通り抜け、階段を駆け下り、一階の展示室まで到達した。

「待て」

 警備員が一人がフンボルトペンギンたちの進路に立ちはだかる。

『ここは俺に任せろ』

 ペン太郎が前に出る。

『ペン二郎、ペン三郎、フォーメーションデルタだ』

 三角形上の頂点になるように、ペン太郎、ペン二郎、ペン三郎が展開する。

『ブレイク』

 いっぺんにフンボルトペンギンは三方向に散らばって行く。警備員はペン二郎を追いかけた。

『いまだっ』

 警備員がペン二郎に気を取られている隙に、再びフンボルトペンギンの集団は錘体隊形を回復し、正面に突き進んだ。

 ペン太郎がつぶやく。

『ペン二郎は犠牲になったのだ。俺はお前を忘れはしない』

 もはや、玄関は目の前だった。

 しかし、そこに、最後の障壁が立ちはだかっていた。

 小野寺真由助教が仁王立ちに腕を組んで立っていた。濃い化粧は隈取のように顔を覆い、その形相が憤怒の表情をしていたので、フンボルトペンギンたちにとってはまるで巨立する般若像だった。

 その迫力にフンボルトペンギンたちは恐怖する。

『全隊、止まれ』

 ペン太郎の号令で、フンボルトペンギンたちは急ブレーキをかけた。鋭い爪による動摩擦力は彼らの速度を一瞬にして静止させるに足る力積を生じせしめた。しかし、慣性の法則が支配する回転モーメントがフンボルトペンギンたちに働き、復元力の限界を彼らは感じた。

『『ムゥオーウ』』

 牛の悲鳴のような声が上がり、そこにフンボルトペンギンたちの倒れた山が形成された。



 館長の応接室で小野寺真由助教はお怒りだった。

 部屋には館長、小野寺真由、増川美保、そしてフンボルトペンギンの小林大樹がいた。

「小林くん、なんてことをしたのよ」

 美保はペンリンガルをつけた大樹を膝の上に置いている。

 大樹は項垂れた。

『ごめんなさいペン』

「せっかく私が丸く収めようとしていたのに、フンボルトペンギンを引き連れて脱走劇だなんて、これじゃあまとまる話もまとまらないじゃない」

「その件ですが」

 相川館長が口を開いた。

「今回の件で、多少、水族館も被害を受けましたが、結果的にはフンボルトペンギンたちも戻ったことですし問題はありません。むしろ明日の新聞には『水族館でペンギン脱走騒ぎ』ということで観客数増が見込まれるでしょう」

「そ、そうですか」

 小野寺真由は少し声の調子を落とした。

 相川館長は向かい合って座っている小野寺真由の手を取った。

「小野寺さんを見込んでお願いしたいことがあります」

「え、あの?」

 どぎまぎしている小野寺真由をよそに、相川館長は話を進める。

「最近、この水族館でフンボルトペンギンが失踪する事件が多発しているのです。付近でフンボルトペンギンが発見されないことから盗まれたとしか考えられないのですが証拠がありません。防犯カメラの映像も明確でなく、赤外線センサにも反応していないのです。どうにかして犯人を捕らえたいのです。ご協力をお願いできないでしょうか?」

「え、あの、そんなに、お願いされたら、その、私は」

 相川館長の目がきらきらとして小野寺真由を見つめている。

「わ、わかりましたわ」

「ありがとうございます」

 館長が深々とお辞儀した。



 帰り際も小野寺真由は館長にご執心だった。なんせ久しぶりの獲物である。ここで確保しなければ次の機会はないかもしれないのだ。

「あの、これから連絡する機会も増えますし、携帯端末のアドレスも教えていただけな……」

「あ、連絡でしたら水族館のアドレスにお願いします」

 しかし相手も筋金入りの独身だ。相手の意図を察しないセンスはこの上ない。

「今晩空いてますか?」

「あいにく今日は片付けで忙しいですので」

 会話がすれ違っている。

 小林大樹は小野寺真由と館長と交互に見るように首を振った。

『なんだか小野寺さんが変ペン』

「大人の事情よ」

 美保が大樹に耳うちした。

『ペン』

 まだ大樹には大人の事情はわからなかった。





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