第2話 フンボルトペンギンと仲間達
——増川美保の記憶——
パンづくりは母から教わった。
最初は手伝っていただけだったけれど、次第に作るのが面白くなった。
我が家のパンづくりは天然酵母をつかったもので、比較的本格的ながら簡単に作れると母は自慢している。
「本を参考にしたけれど、作りやすくするように色々改良したのよ」
そう母は説明する。
パンづくりは酵母を起こすところから始まる。酵母を起こすとは休眠状態にある酵母菌を活性化させることだ。
まず、酵母を活性化させるジャムの空き瓶を用意する。雑菌が入ることを防ぐために瓶を煮沸消毒する。そして、酵母を混ぜるために使うためのはしと金属製のカップも煮沸消毒しておく。
そして、消毒した瓶の中に天然酵母の小袋を一袋あける。計量カップで水を計って瓶の中に入れ菜箸でぐるぐると混ぜる。調合は母の仕事で、おもに混ぜる仕事を担当した。最初は調合の分量は覚えられなかったけれど、何度もパンづくりを手伝っているうちに自然と頭の中に入り、調合の分量は暗記してしまった。
酵母と水をジャムの瓶の中でおから状になるまで混ぜたら、保温用の鍋を用意する。
保温用の鍋は中くらいの大きさで、数センチメートルくらいの水をいれ、煮沸したお湯を入れ合わせて温度が四十度くらいになるように調整する。お湯の量は、先ほどの瓶の口がつからない程度の量になるようにうまく調整する。そして、混ぜた酵母の瓶ごとお湯の入った鍋に入れる。瓶のふたは半閉めくらいで空気の入るようにする。鍋は毛布に巻いて断熱してゆっくりと酵母を暖める。
一日くらいで酵母は発酵していい匂いになる。
酵母が発酵したらいよいよパンをこねる作業だ。
材料を計って大きめの鍋に入れる。材料は酵母と、強力粉麦粉、ぬるま湯、砂糖、塩で、全部合わせて混ぜ合わせる。ぬるま湯を使って酵母の温度を冷まさないようにするのが大切だと母は言っていた。人肌くらいのぬくもりが良いらしい。
小麦粉を足しながらしっかりとこねる。ごつごつだった生地が、だんだん滑らかになってゆく。
生地がこねあがったら鍋の底に適当に押し広げる。鍋を弱火で十秒間加熱したあと、鍋の下に『ウサギさんの内臓』を敷く。『ウサギさんの内臓』とは我が家の隠語で、ウサギ型の湯たんぽの中身のことである。ウサギ型の湯たんぽは、ぬいぐるみの内臓がプラスチック製の湯たんぽになったもので、パンづくりではその内臓部分のみを使うのだ。『ウサギさんの内臓』を鍋の下に敷き、鍋の上から膝掛け毛布を被せ鍋をすっぽり覆い、六時間放置して一次発酵させる。
一次発酵が完了すると三倍くらいに膨れる。
次は、二次発酵とパン焼きに入る。
フライパンを出してくる。生地を七等分にして、一つ一つ丸めながらフライパンに花形に並べる。フライパンの底を弱火で十秒加熱して暖かくし、一時間半〜二時間放置して二次発酵させる。
二次発酵が終わったらそのままフライパンに火をつける。弱火で八分焼いて裏返して七分焼くとパンができあがる。
——
第二話 フンボルトペンギンと仲間達
—一—
フンボルトペンギンこと小林大樹は時報の音で目が覚めた。
台所の方からラジオからニュースが流れている。いつもの通り、いろいろなところで交通事故が起こったり、政治が不安定だったり、経済の先行きが不透明だったり、失業率が上がったり、近くの海洋研究所附属水族館でペンギンがいなくなっていたり、国際的な密輸組織の指名手配がされていたりしていた。
大樹は毛布から抜け出してぴょんと立った。首をくるくると回して己の身体を確認する。身体が小さかった。黒い羽毛が生えていた。手はフリッパー(翼)だった。口はくちばしだった。相変わらずフンボルトペンギンの身体だった。
下を見た。綺麗なクリーム色をしたふかふかのカーペットだった。
香ばしい匂いがする。
大樹はぴょこぴょこと寝室からリビングの方へ歩いて行く。
増川美保の賃貸マンションは鉄筋造りの2LDKだ。リビングダイニングの床はフローリングになっている。真ん中には丸い木のテーブルがあり、椅子が二つ向かい合うように置いてある。
匂いの元はどうやらテーブルの上にあるようで、床にいる大樹からは死角になって何があるかわからない。
「あ、小林くんおはよう」
朝ごはんの準備をしていた美保が歩いてきた大樹に気がついた。
『おはようペン』
「ふ、ふ、ふ。小林くんに驚きの事実を教えよう。なんと、パンを焼いたのです」
じゃあん、と口で効果音を出しながら美保はテーブルの上に置いてあったパンを手で持ち上げた。
それは握りこぶしくらいのパンが、一つのパンを中心に放射状にしてさらに六個のパンが連結された大型パンの形状をしていた。
「フライパンで焼いたんだよ。上手く焼けているといいんだけど」
そう言いながら、美保はパンを少しちぎり、しゃがみこんで大樹の口に差し出した。
「はい、あーん」
大樹がかぱっと口を開ける。
そしてパンをあむあむと飲み込んだ。
「どう?」
『美味しいけど、味が薄い気がするペン。フンボルトペンギンになって味覚が退化してしまったかもしれないペン』
美保がパンをちぎって自分の口に入れた。
「塩と砂糖を入れ忘れた」
美保はぺろりと舌を出した。
—二—
——増川美保の記憶——
ペンギンについて勉強するために大学に進学したいと言ったら母に拒否された。
「ペンギンはあの人で懲りたの」
そう母は言った。
「美保に、あの人のようになって欲しくない」
母は疲れた顔をしていた。
「美保が大学でペンギンについて勉強したら、きっと南極へ行きたくなるでしょう。そして、その頃には、きっと思いの人を見つけているでしょう。生き別れになる可能性も高いでしょう。私も覚悟していたつもりだった。あの人がいなくなる可能性があるってことを知っていたはずだった。でも、いざ、会えなくなると、辛いのよ。私みたいに哀しい思いをする人が増えるのは耐えられないの」
母の姿が小さく見えた。
母はこれまで父のいない家を支えていた。パートに出て生活費を稼いでいた。家は狭かった。冬は光熱費を節約するために暖房は使わずに厚着をしていた。高校の学費は奨学金でまかなった。貯金はもう無くなった。
「もう、限界なのよ」
独りで家計を支え続けていた母は、強そうに見えて実は弱さを秘めていた。
「わかった」
そう言った。
母を支えよう。そう思った。
大学は就職先が多くある工学部に進むことにした。
ペンギンのいる附属水族館がある東北東大学を選んだのは、未練だったかもしれない。
附属水族館にはたくさんのフンボルトペンギンたちがいた。フンボルトペンギンは温帯ペンギンだ。南米に住んでいる。イメージはサボテンの間を歩くペンギンたちだ。
何度も附属水族館に通って彼らを観察した。
そこには何かしらの秩序があるようで、まるで人間のような仕草もしていた。彼らは同じ地球に生きる仲間だった。彼らは単に可愛いというだけでなかった。そこにはひとつの小さな社会があった。
——ペンギンにも社会がある。
それは父からもらった言葉のように思えた。
——
入学試験シーズンということもあり土日は研究室もお休みだった。
「大学の附属水族館に行こう。小林くんの仲間たちがいっぱいいるよ」
『面白そうペン』
増川美保の提案をフンボルトペンギンこと小林大樹が断る理由はなかった。
美保の家から大学の構内を通ってしばらく歩くと砂浜に出る。
美保は抱いていた大樹を砂浜に下ろした。
「冬だから人がいないね」
『ペン』
砂浜は閑散としており人は誰もいなかった。
研究室にいるときはジーンズにセーターといったラフな格好をしている美保だったが、今日はキャメルのチェスターコートに上は白ニットで下は黒のスカートと黒タイツを合わせていた。タイツのデニールは冬なので厚めの値である。
風が少し吹いていた。
美保のスカートが歩くたびに揺れる。潮の匂いが心地よかった。
大樹がぺたぺたと砂浜を進んでゆく。
砂浜を南へ進んで行くと、東北東大学海洋研究所附属水族館の白い建物が見えてくる。こぢんまりとした建物で、周りを防砂林が覆っているのであまり目立たない。もともと商業利用を目的に建てられたものではないためにイルカショーもない。そういうわけで休日でもあまり混んでいない。
美保は入り口で学生証を呈示する。東北東大学生は学生証を見せれば通常価格の半分で入れるのだ。
入り口にはまん丸い顔をした受付のおばさんがいた。髪の毛は短めで、制服の胸には「園田町子」という名札がついている。
にこにことしながら「いらっしゃいませ」と言った。
何度も美保は水族館に来ているので、受付の園田町子とは知り合いになっている。
「美保ちゃ〜ん、また来てくれたのね。うれしいわ。あら? そこにいるのは?」
「学生一枚、フンボルトペンギン一枚」
美保がそう告げると園田町子は目を丸くした。
「通常価格の半額、二枚で六百円よ」
一人と一匹は中に入った。
水族館の中は少し暗くなっていて、小さな水槽がたくさんあった。
「あ、見てみて大きなヒトデだよ。こっちのウニもとげとげしいね。これはナキオカヤドカリって言うんだよ。小林くんも見る?」
美保は大樹を持ちあげた。目の前のヤドカリとガラス越しに対面する。ヤドカリはぎょっとした感じでかさかさと逃げた。
『逃げられたペン』
大樹がうなだれる。
「びっくりしたのかもね」
美保はくすりと笑った。
通路を進んで行くと部屋の壁全面がガラス張りになっている大きな水槽が目の前に現れた。一階から二階まではあるような深い水槽で上は屋外に開いていた。そして、水槽の中をフンボルトペンギンが何匹も泳いでいた。フンボルトペンギンが水面に到達するたびに水しぶきが上がり、水面が揺らぎ、外光がきらめいた。
飼育員が生きたカタクチイワシを撒いている。
フンボルトペンギンがそれを食べようと泳いでいる。
餌の時間だった。
美保は感嘆する
ペンギンは水の中を泳ぐのではない。ペンギンは飛ぶのだ。美保の父は本にそうに書いていた。美保はその通りだと思った。フリッパーは力強い推進器だった。かわいい尻尾と柔らかい体は方向舵だった。つぶらな瞳は魚を探す探知機だった。鋭いくちばしは魚を捉える道具だった。どの機構も人間が作る装置よりも効率的で美しく構成されていた。
手の中で大樹の身体が動いた。
大樹の目を見た。その目はガラスの向こうのフンボルトペンギンが泳ぐ姿を見ていた。
美保は不安になる。
「あっちに、行きたいの?」
『いや』
大樹が言った。
『こっちがいいペン』
「よかった」
美保はほっとした。大樹がフンボルトペンギンたちの集団に取り込まれてしまうかと思ったのだ。
どたどたと人の走る音がした。
「こっちです」
現れたのは、複数の警備員と、一人の作業服を着た飼育員だった。
「君たちか、最近フンボルトペンギンを盗んでいるのは」
ぬれぎぬだ。
美保は首を振って否定する。
「違います。このフンボルトペンギンは、小林くんなんです。わたしの同期です。大学三年生です。実験の手違いでこんな姿になったんです」
警備員の一人が飼育員に耳打ちした。
「多分、勉強のしすぎで頭がおかしくなったのでしょう。かわいそうに。多分、あのお嬢さんは関係ありません。先ほど入り口でペンギンの分までチケットを買っていたそうです。犯人ならばあんな堂々とするはずがありません。おそらく、砂浜で逃げたペンギンを拾っただけでしょう」
飼育員は思わせぶりに頷いた。
「お嬢さん、ちょっとだけそのフンボルトペンギンの健康診断をしたいだけなんだよ。少しだけ貸してくれないかね」
美保は大樹を抱きしめて後ずさった。
「嫌です」
飼育員はやれやれといった表情で警備員に言った。
「ペンギンを取り戻してください。それから、お嬢さんは丁重におかえりいただくようお願いしてください」
「はい」
美保が走ろうとした時には、すでに警備員に両腕を確保されてしまった。手の中に抱いていた大樹を剥ぎ取られる。大樹の首に巻いてあったペンリンガルは取り払われ、その場に落とされた。
「小林くん」
「ムゥオーウ」
大樹は大きな声を上げる。しかしそれはすでに日本語ではなかった。
大樹を手渡された飼育員が、そのまま大樹を連れて奥に行く。
「待って」
美保は叫んで近寄ろうとする。けれど警備員に阻止されて、大樹が連れて行かれるのを見ていることしかできなかった。
飼育員が奥に消えてから、美保は身体を解放された。
床に落ちていたペンリンガルを拾い上げた。
それはほのかに暖かかった。
研究室に戻った増川美保が向かったのは、小野寺真由助教の部屋だった。土曜日にもかかわらず助教は在室との表示がされている。
「小野寺さん、ひどいんですよ」
そう言いながら、ばん、と扉を開けた美保を小野寺真由はたしなめる。
「あら、あら。部屋に入る前にはノックを三回するって教わらなかったかしら」
そう言って小野寺真由は机の上においてあったコーヒーカップに口をつけた。香りの高い種類であるモカ種である。コーヒー豆の質が良いためか、香ばしい匂いが室内に漂っている。
つかつかと小野寺真由の机に歩きよると、美保は右手で、ばん、と机を叩いた。
「小林くんをフンボルトペンギンと間違えて、それで、水族館で保護しようなんて」
「あら、今の小林くんはフンボルトペンギンじゃなかったかしら?」
「そうだけど……」
一瞬、真由は迷った。
「そうだけど、ちがうの。小林くんはフンボルトペンギンで人間で、それでわたしの大切な……」
続けようとして、真由は止まった。
「それで?」
小野寺真由はカップを机に置きなおす。
その先の言葉を真由は飲み込んだ。
「ともかく、小林くんを取り戻したいの」
「そんなの簡単よ」
小野寺真由は細い眼鏡に手を当ててかけ直す。
「大人の武器を使うの」
—三—
小林大樹はまさか自分が展示されるとは思ってもいなかった。しかし、今の現実はまさにその通りの状況だった。ごつごつとした岩肌の露出したところに立って水面を見下ろすと、水面の向こうにガラスの壁が見えた。その壁は、なるほど、確かに先ほど美保に体を抱えられて見ていたガラスの壁のようだった。
『おい、兄弟』
後ろから声をかけられたような気がした。
首を回して振り返る。
目の前にフンボルトペンギンがいた。
「ムゥオーウ」
思わず声をあげた。
『おい、ペン吉どうした。兄のペン太郎が分からないのか? 同じ親の卵から生まれた兄弟じゃないか』
ペン太郎と名乗ったフンボルトペンギンは怪訝そうな顔をしている。
冷静に考えてみるとフンボルトペンギンが日本語を話すのはおかしい。おそらく話している言葉はフンボルトペンギン語なのだろう。脳細胞も含めた身体がフンボルトペンギンになっているため自動的に意味を解釈して変換されているものと推定される。するとこちらが発生する言葉も自動的にペンギン語に変換されるに違いない。そのように大樹は考えた。
『ぼくはペン吉じゃないペン。大樹だペン』
ペン太郎は目を丸くした。
『お前のフンボルトペンギン語、なんかおかしいぞ。ペンペン言っている』
ぺたぺた、とまた二匹ペンギンが駆け寄ってきた。
ペン太郎がフリッパー(翼)でその二匹をばしばしと触る。
『ペン二郎、ペン三郎、見てくれ。外見は末っ子のペン吉だが変なんだ。おい大樹と言ったな。お前は一体何者だ』
かくかくしかじかと大樹は説明した。自分は大学に通っていて、実験をしていて、フンボルトペンギンが紛れ込んで、自分が装置に巻き込まれて、そして精神がフンボルトペンギンと入れ替わってしまったと説明した。
時には身振り手振りを交えながら、フリッパーを上げたり下げたりしながら熱演した。
——結果
『『なるほど。よくわからん』』
ペン太郎も、ペン二郎も、ペン三郎も首をふるふると横に振った。
小林大樹は項垂れた。
大樹は水面を見つめていた。お腹がきゅう、と鳴いた。
餌の時間である。飼育員が生きたカタクチイワシを水面に撒いている。他のフンボルトペンギンたちは次々に水面に飛び込み、カタクチイワシを食べている。
大樹は躊躇していた。深い水が怖かった。
『お兄ちゃん、飛び込まないの?』
フリッパーで突かれた。横にいたのは少し小柄なフンボルトペンギンだった。くちばしの周りの赤い部分と胸の黒い縞がなかった。
羽毛はふわふわとしていた。
いい匂いがするような気がした。
『お兄ちゃん、行こう』
どーん、と身体をぶつけられた。
ぼちゃん、と水面に落ちた。
夢中でフリッパーを動かした。身体が前に進んだ。体全体に水の流れを敏感に感じる。身体を動かすと思うように曲がる。息は苦しくない。目の前に光るものがあった。口を開いた。食べた。反転。明るい水面を目指す。
跳躍。
そして、陸地に立った。
すぐ横にさっきのフンボルトペンギンがいた。
すりすりと身体を寄せられた。
『お兄ちゃん、おかえり』
そのフンボルトペンギンは「ペン吉」の妹なのだろうと考えられた。でも、いまここにいるのはペン吉ではなくて大樹だった。このフンボルトペンギンを騙しているようで申し訳なかった。だから大樹は言った。
『ごめん、ぼくはペン吉じゃないペン』
『え?』
そして説明した。
かくかくしかじかと大樹は説明した。自分が人間だったこと、大学というところで実験をしていたこと、装置に巻き込まれて「お兄ちゃん」と心が入れ替わったこと、それらすべてをフンボルトペンギンに丁寧に説明した。
時には身振り手振りを交えながら、フリッパーを上げたり下げたりしながら熱演した。
——結果
『うん、わかった』
『ペン?』
『お兄ちゃんの言うことだから信じるよ。だから、もし、お兄ちゃんが、いつものお兄ちゃんじゃないなら、いつものお兄ちゃんを返して欲しいな』
そうフンボルトペンギンは言った。
—四—
フンボルトペンギンの繁殖期は定まっていないが、産卵は四〜五月と九〜十月に多く見られ、卵はおよそ四十日ほどで孵化する。したがって、二月〜三月あるいは八月〜九月ごろにカップルが仲良くなると逆算される。
夜のペンギンハウスではあちこちでカップルがすりすりと身体を寄せあっていた。
大樹は行き場がなくなって、ペンギンハウスから外に出て、水面の脇の石に所在無く立っている。
独身のペンギンが横をちょこちょこと歩いてきて大樹を見た。
『まあ、いい男』
『いや、ぼくはちがうペン』
『あら、まあ。つれない男』
そのままフンボルトペンギンが去っていく。フンボルトペンギンは男が巣作りをして女を誘い込むものなのだ。家とか資産があったほうがもてやすいのは人間と同じだ。
ふう、と大樹はため息をついた。
『お兄ちゃん』
ペン吉の妹のフンボルトペンギンがまた近寄ってきた。
身体をまた寄せてくる。フリッパーとフリッパーが触れ合った。
とくん、と大樹の心臓が鼓動する。
『ぼくは、お兄ちゃん、じゃないペン』
『お兄ちゃんは、いつものお兄ちゃんじゃなくても、お兄ちゃんだからいいの。ねえいつもみたいに「おペン」って呼んで」
和風な名前だった。そういえば、ペン太郎、ペン二郎、ペン三郎、ペン吉、と全て和風な名前だった。ここの水族館の飼育員が名前に統一性を持たせているのかもしれない。
『おペン』
大樹がそう言うとおペンの身体がぶるっと震えた。
『お兄ちゃん、大好き』
おペンが言った。
ふと大樹は疑問に思った。
『どんなところが好きペン?』
『初めて見た時に一目惚れしたの。わたしが卵の中にいて、もうでなきゃいけないのに引きこもっていたら、そとからぴしぴしって音がしたの。卵の殻が割れてそとの光が眩しかったの。そこにお兄ちゃんがいたの』
刷り込みであると大樹は気づく。
おペンはまだ幼い鳥なのだ。やがて一人前の成鳥になったとき、おペンは真の恋人を見つけるのだ。したがって、近づいて来たのは単に「お兄ちゃん」に甘えたい年齢ということだけなのだ。今は本当の兄であるペン吉はいない。だから、今は大樹がおペンの「お兄ちゃん」をしなければならない。
大樹はおペンのフリッパーを撫でた。
おペンはきゅう、と喉を鳴らした。
物音がした。
『水に飛び込むペン』
反射的に大樹とおペンは水に飛び込んだ。
水中のガラス越しに館内の様子が見えた。暗い非常灯の緑の明かりにぼんやりと三人の人影が動いていた。しかしその姿はおかしかった。ぼんやりと光っているように見えるのだが、身体全体が幽霊のように透けていた。ヘルメットのような双眼鏡のような器具を頭につけている。暗視ゴーグルだと大気は気づく。フンボルトペンギンが失踪しているというニュースを大樹は思い出した。あの暗視ゴーグル半透明三人組は犯人たちにちがいない。
危険だ。
旋回、反転、跳躍。
水面に上がった。
『ハウスに帰ろう』
ぺたぺたと歩いてペンギンハウスに戻る。
藁の上で一息ついた。
『へんな人間なの。それで、あの人間たちがここに来るようになってから、仲間が減っていくの』
おペンが悲しそうに言った。
ここから出る。そして、フンボルトペンギンを攫っていく悪い人間を捕まえる。そして、おペンに本当のお兄ちゃんを返す。
そう小林大樹は決意した。
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