風吹けば

hibana

風吹けば

 テーブルに肘をついて携帯電話を手に取った。部屋は暖かい。でも、そろそろ暖房を止めようと美代子は思っていた。一人でこんなに暖かい部屋にいるのが無駄だと思うのは、一人じゃない暮らしをしているからだ。

 携帯電話をいじくっても、液晶画面は何も解決してくれない。こういう時、世の女たちはどんな風に過ごすのだろう。男が他の女に会いに行っていると知って、待つ女というのは。

 不意に携帯のメール画面を開いて、すらすらと打つ。よくも一言一句忘れなかったものだと自分に呆れながら。


“風吹けば 沖つ白波 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ”


 学生時代に友達と言い合いになったっけ。この奥さんが夫の浮気を知っていたのか知らなかったのか。

 あの男、どうせこんなの知らないでしょ。

 頬杖をつきながら、美代子はそっと送信のマークを押した。

 返信は来ない。暖房はついたままだ。美代子は、いつのまにか浅い眠りに落ちていた。

 目を覚ましたのは、腕の中の携帯電話が温かく光り始めたからだ。暖房は止まっている。美代子は目をこすりながら携帯を見た。


『どういう意味?』


 ムカつく、この男。今までにないほどの早打ちで『事故に合っちゃえばいいのにってこと』と送る。返信はなかった。その代わり、玄関のドアが開く音がした。ドクンと心臓が高鳴る。


「ただいま」


 ただいまじゃねーよ。

 まるで悪びれた様子のない信治に近づいていき、美代子は腰に手をあてた。


「馬鹿」「うん」

「クズ」「うん」

「帰ってくんな」「うん」「殴るよ?」


 何も言わずに信治は頭を差し出してくる。黒い短髪に隠れた、つむじが見えた。犬みたいだと美代子は思う。叱られてしょんぼりする犬みたい。信治は身構えるでもなく、ただ美代子からのアクションを待っている。


「なんで出ていかないわけ? 向こうの女の事、好きなんでしょ」


 返事はない。考えるような素振りもないし、きっとこの問いはなかったことにされた。

 どっちが好きとか嫌いとかじゃないんだろう、この男は。それならここで憤っている私は、今までこうして過ごしてきた私たちは、一体何なのよと思う。恋でも愛でもなけりゃ、何でつながっているの? と。

 黙って信治のつむじをつつく。ハゲろ、と思う。ようやく、信治は顔を上げた。


「殴らないの?」


 たとえば、

 こんな風に自然に、呼吸をするように人を裏切る男を、美代子は知らない。

 それと同時に、こんなにもナチュラルに、人を信じる事ができない人間も美代子は知らなかった。


「あんた私にどうしてほしいわけ?」


 微かにため息をつきながら、美代子は問う。吐き出すようにゆっくりと続けた。


「捨ててほしいの? 許してほしいの? 私と一緒にいることって、あなたにとって何なの?」


 何も答えないまま、信治はただ美代子を見ている。考えている事はまるでわからない。深い沈黙が辺りを包み込んだころ、美代子は静かに口を開いた。


「何も言わないなら、私の個人的な意見を言ってもいい?」


 うなづきながら信治が「どうぞ」と言う。


「私はね、もちろん浮気男なんて最低と思うし、いつも私だけ好きでいてほしい。でもそれ以上に、浮気症だろうが人でなしだろうが、あなたのことが好きよ」


 不意に信治が、ひどく痛そうな顔をしたのがわかった。今にもうずくまってしまいそうなほど沈痛な表情で、信治はうつむいた。

 だからね、と言いながら美代子は微笑む。

 思い出していた。風吹けば、と歌った妻の事を。彼女は夫の浮気を知っていたのか知らなかったのか。どちらでも大して変わらない、と今なら思う。

 どちらにせよ、一人で待つのは辛かったでしょうね。いつの時代も、辛いのは待っている方よね。


「だから、一つだけ要望に応えてくれる? 毎日無事に帰ってきて」


 うつむいたままで、信治は「努力するよ」とだけ言う。何を努力するのか、美代子にはわからなかったけれど。犬みたい、と思いながら美代子は今度こそ信治の頭に手を伸ばし、めちゃくちゃに撫でてやった。

 次の日から、信治の帰りが早くなったり、暖かい部屋にいることが無駄だと思えなくなった、というのはまた別の話である。

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風吹けば hibana @hibana

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