一章「三番通りにて、雷雲」

一章 前編

ガヤガヤとまるで昼間のような喧騒が辺りをつつむ。

妖の街、古都街恒例の朝市だ。

毎週決まった曜日に行われる一番通りの朝市では、街に住む多種多様な妖達の手作りの品や、人間界から持ち込まれた珍しいものなどあらゆる商品が売買されている。

欲しい物があって露店を覗く客、手放したい物があって物々交換を望む商人など多くの妖達で通りはごった返していた。

そんな一番通りの喧騒から逃げるように一人の女が裏道に駆け込む。

「サライ」と刺繍の入った白い着物を着て、黄髪を高い位置で一つに束ねたその女はなにやら慌ただしい様子で、しきりに通りの奥を見ていた。

四番通りと名付けられたその通りにはたった一軒、古い診療所が建っている。

女は迷うことなくその診療所の前に行き、スパーンと音を立てて古ぼけた扉を開けた。開けた時の振動で木片がパラパラと舞う。光取り用の障子も閉まり真っ暗な室内に向かって女は声を上げた。

「きぃちゃん!!朝です!!起きてください!」

返事はない。


「きぃちゃん!!!もう朝市も始まっていますよ!お日様も昇りました!いつまでも寝ていたらミノムシになっちゃいます、早く起きてください!!」

もう一度声を荒らげると、暗闇の中で動くものがあった。

「…んん~…うるせぇよ爽生…」

もぞもぞと動いたそれはほんの僅かな身じろぎののち、再び動かなくなった。

「だめっ!二度寝禁止です!」

刺繍のとおり爽生と呼ばれた少女は、暗闇の中にずけずけと入っていくと繭のように丸まった布団を引っ張った。

すると布団の中から手が伸びてきてぐぐぐ、と布団の端を引っ張りかえす。

「無理…まだ無理…患者もいねぇんだ…寝かせろよ…。」

「そんなこと言って!また昼まで寝るつもりなんでしょ……あら、いーちゃん。もう来たんですか?待っててくれたらきぃちゃんと迎えに行ったのに。」

「なにっ!?」

ぐぐぐーっと布団を引く爽生の手が止まり、扉の向こうに向かって話しだした。

その口から「いーちゃん」という言葉が出た途端、布団がガバッと浮き上がる。

起き上がった鬼の視界に入ったのは、そこにいるであろう人間はおろか誰もいない玄関口だった。

「やっと起きましたか?ねぼすけ鬼の紀辺さんっ!」

「おい、爽生…また小生を騙したな?」

爽生の吐いた嘘を信じて起き上がった鬼、もとい紀辺は辺りを見渡した後ため息をついた。

いーちゃんと爽生が呼んだのは紀辺を迎えに来たあの少女、伊桜である。

この紀辺という鬼はいつまで経っても伊桜に甘いのだ。

「私が嘘吐いたって怒る前に、いーちゃんを迎えに行ってあげてください!あの子起きてからずーっと待ってますよ!大体、今の私の声はあの子には聞こえないんですからねっ!」

飛び起きた紀辺をさぁさぁと急かしながら爽生は掃除を始める。どうやらこれが彼女の仕事らしい。

「お、おぅ…。」

雇い主の自分をも掃いてしまいそうな爽生の勢いに押された紀辺は、近くにあった羽織を引っ掛けると急ぎ足で診療所を出ていった。



「ただいま~。」

「……。」

四半刻ほどして紀辺は伊桜を連れ戻ってきた。

日の光に弱い伊桜を労わってさしてきたのか、その手には紅い番傘が握られている。

「おかえりなさーい!」

紀辺の帰宅を知らせる声に、診療所の奥から爽生の声が帰ってくる。その声に先に反応したのは伊桜だった。

「…主、爽生が奥にいるようだ。」

「水槽にでも入ってんだろうな。呼んできてくれねぇか?飯の準備をしよう。」


「…よし、揃ったな。じゃあ…いただきます。」

「いただきまーす!」「いただきます…」

3人が飯にありついたのは丁度明け四つの前頃。洋街風にいうなら9:00を少し過ぎた辺りだった。

ひつに入った雑穀米は爽生が炊いたもの。

野菜を切ったのは紀辺で、二人分の魚を焼いたのは伊桜だ。

魚を食べない爽生の盆には、昆布で出汁をとった煮染めが置いてある。

三人はそれをみな好きなように口に運んだ。湯気の立つ味噌汁が体を芯から温める。

「ふー…。」

「おいしいですか?いーちゃん。」

「……。」

「そうだ、おいしいか?」

「…ん。」

口数の少ない伊桜のもとへ、紀辺と爽生の両側から問いがかかる。

そのほとんどは爽生の問いを紀辺が鸚鵡のように反芻して聞くだけなので、

伊桜も聞かれるたび一度だけあぁ、だのんー、だの返事ともとれない返事をする。

すいすいと進んでいく紀辺の箸が最後の一口をとらえた時、かんかんと鐘の音が鳴った。

「朝市が終わりましたね!」

「終わったみたいだな、朝市。」

「…そうだな。」



カチャカチャと食器の音を鳴らして、爽生が茶碗を洗っている。

その台所と壁を一枚はさんだ向こう側では、紀辺がようやくまともな仕事をし始めたところだった。


と、いっても。

「ほら、伊桜…口開けろ。」

「あー…。」

妖力さえ足りていれば病気なんてしない妖たちにとって、診療所は不必要なものである。

そんな診療所では今日も朝一番の伊桜の検診が行われていた。

異様な見た目ではあるものの純粋な人間である伊桜は、妖たちと違って繊細で病気や怪我の治癒に時間がかかるのだ。

そんな伊桜の異変をいち早く察知して処置を行うのも紀辺の仕事である。

「よし、喉風邪は引いてねぇな。痛いところはないか?日焼けはしてないだろうな?水膨れになったら大変だ。あとは…」

「きいちゃんは心配症過ぎますよ。そんなに干渉するから過保護な旦那だって笑われてるんですからね。」

しかしいかんせん過干渉過ぎて、街の笑い者になっているのだが。

「小生は旦那じゃねぇよ、保護者だ。大体旦那だの嫁だの、小生は年端もいかない小娘に無体を強いるつもりは一切ないからな。」

「あら、年端もいかない娘じゃなければ働くのですか?ご無体な。」

「まさか、そんなことできやしねぇよ。お前さんもしっているだろ?よし、伊桜もう服着ていいぞ。寒かっただろう。」

途中から服を脱がせて診察していた紀辺が伊桜に服を着るよう促した時、表の方から大きな悲鳴が聞こえてきた。

「あん?なんだ…?」

紀辺がそちらに意識を向けると、悲鳴の後に空を割くような雷鳴と多方向に散る足音が続いた。喧騒の中晴れ渡る空だけが何事もないかのように広がっている。

文字通り晴天の霹靂である状況に、紀辺と爽生は目を合わせた。

「大通りの方角ですね。何か催し物でしょうか?」

「いや、それにしちゃ様子がおかしい。今の悲鳴は間違いなく何かに怯えたものだ。怪我人がいるかもしれねぇ。爽生、留守を頼む。」

正義感が強いと言えばいいのか、面倒事に首をつっ込みたがると言えばいいのか。

ともかく早口で爽生に用件を告げた紀辺は、緊急の診療道具の入った木箱を背負って診療所の扉を蹴り開けるようにして出ていった。


「もう…1回言ったら聞かないんだから…。」

主のいなくなった診療所で、爽生のため息だけが大きく響いた。

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