3-5.ヘンシツシャ
愛しい妹の幻聴を掻き消すかのように、嫌らしいあの男の声が。
『今夜ですね、真依ちゃんと僕はひとつのベッドでラブラブ♡初体験!をしちゃう予定ですから。邪魔だけはしないでくださいね。オ・ニ・イ・サ・ン』
「おまえの好きにさせてたまるかああああ!!!!!」
最後の力を振り絞る。
持っていた
俺に抱きついてくる虫に、強くハグしてやるような形で、鍬を内側へ内側へと押し込んでゆく。
まだ力が足りない。もっとだ。
ギリギリと音を立てて鍬は虫にのめり込み、やがて刃先は虫を貫通し、自分自身の胸へと到達する。
まだ、足りない。俺が俺自身に向ける憎しみは、こんなものではないはずだ。自己嫌悪だの自虐だの言って、臆病に自分の殻に閉じこもっていた俺の。
壊せ。壊してしまえ。何もかも。
たとえ自分を殺しても、俺は変わりたい。変わらなきゃいけないんだ。
鍬が虫を巻き込んで俺自身を貫き、やがて地面に深々と突き刺さった。虫は苦しそうな悲鳴をあげて暴れ回っていたが、やがてその動きも静かになっていく。
串刺しになって仰向けに、まるで虫の標本になったよう。思いのほか悪い気分ではなかった。
空が見えるのだ。雲ひとつない青空が。
空なんて、数年ぶりに見た気がする。就活中は、ずっと下ばかり見て歩いてたもんな。下ばかり、見て。
「ギチチ、ギチチ、ギチチ」
俺に抱っこされるようにして、しがみついている虫が、弱々しい声で何かを呟く。
「
「ああ、そうだな……」
俺は真依にとっての、偽りの父を演じようとしてきた。高望みして、格好つけて、無理をし続けてきた。
両親がいない。兄と妹だけの家族。
ギャルゲーならよくあるパターンだが、現実にはこんなに
俺は不安なんだ。就活はうまくいかなかったし、このまま妹と二人だけで生きていけるのか。未来が見えない。真っ暗な道を手探りで歩いている。現実が重すぎる。
「チチチチチチ」
虫が泣いている。
この虫はきっと、俺自身だ。
怒り、哀しみ、諦め、苦しみ、嫉妬、怨恨、不安、ありとあらゆる負の感情が形となって、ウンゲツィーファーは生まれたに違いない。
「おいで、俺のなかへ」
「チチ」
虫はそう言って、俺のなかへ溶け入っていく。受け入れる、自分自身を。
胸の奥に、熱くてドロドロとした感情が流れ込んでくるのが分かる。それがどんなに不快な感情でも、きっと手放してはいけないものだったのだ。
《嗚呼、我が忠実なる眷属よ。昏き漆黒の闇に溺れたる、我が愚兄に真実の覚醒めを齎さんことを。最終術式、解。狂気と混沌の神、ディオニューソスの加護のもとに、呪え》
虫と一体化する。
土の中から朝顔の
滴る血液を蔦が吸い取り、やがて謎の植物は葡萄らしき果実をつけた。
頭に手をやると、例のカブトムシのツノが俺自身に生えているのが分かった。虫と俺とが、完全に合体したのであった。
「あははははは」
身体の内側から生命力が溢れ出してくる。
今の自分になら何でもできる、という万能感。
もしも俺が何でもできるというのであれば、やるべきことはただひとつ。あの男をぶっ殺して、真依を救い出すんだ。
俺はウンゲツィーファー!と叫びを上げて地面に立ち上がり、空を見上げる。
「飛べる」
確信し、ひとっ跳びでブロック塀の上に跳び乗った。
家から出ることを恐れ閉じこもっていた心は、もうどこにもない。痛みに怯え動けなくなっていた身体は、もうここにはない。
史上最強の虫人間へと変身した俺は、何でもできる!
塀から外の道へと飛び降りる。およそ三ヶ月ぶりに家を出た。
「久しぶりだなぁ」
辺りを見渡す。
道を歩いてきた、買い物帰りの主婦らしき人と目が合ってしまった。
「ひっ」
女性は長ネギの入った買い物袋を取り落とし、まるでバケモノにでも出くわしたかのような顔面蒼白で、腰を抜かした。
一瞬のことで俺のほうが驚いてしまった。どうしたのかな。俺がイケメンすぎて、目が眩んでしまったのだろうか。
スーツを来た若い男性が車道を走って渡り、倒れ込んでしまった女性を介抱する。
「大丈夫ですか、しっかりしてください奥さん」
俺も手伝えることがないかと、近づこうとする。
「立ち去れ!!」
男がビジネスバッグから折り畳み傘を取り出して、威嚇するようにこちらへ向けて構える。
「もしもし、緊急です緊急です。不審者が……場所は、……とにかくすぐに!!」
振り向くと、別の若い女性が、青ざめた顔でこちらを見ていて、スマートフォンで誰かと話しているようであった。
とにかく、俺はここにいてはいけないらしい。
それより真依のところに行かなければ。
結婚式が始まってしまう。
走り出す。
遠くにパトカーのサイレン音を聞こえ、心なしかその音はこちらに近づいているような気がしたが、俺には関係がない。
アスファルトを踏み、跳躍する。
足の裏にちくちくと刺さる小石の感覚で、そうか俺は靴を履き忘れていたなと気づく。
風を切り、駆け抜ける。
肌を撫でる生暖かい空気の感触で、そうか俺は服を着ていなかったなと気づく。
朝顔のような蔦が全身に巻き付いてくれているおかげで、さすがに全裸とは言い切れないが、蔦と葉っぱが隠していなければ素っ裸そのものだった。
「あっはっはっはっは、俺はウンゲツィーファーだ」
ターザンのように叫び、爽快な気分で疾走する。俺を見た人々が目をまんまるにして固まってしまうのが、面白くて仕方がない。
走れメロスもこんな気持ちで走っていたのかな、と思う。(いや、そんなはずはない)
とにかく今は、真依のところに行くんだ。
『あー、そこの人……人? 今すぐに止まりなさい』
パトカーが並走し、拡声器で呼びかける。誰が止まるものか。俺はもはや何者にも止められないのだ。
進行方向を先回りして停車したパトカーから、屈強な警察官が降りてくる。警察官らは両腕を広げて、俺のゆく道を阻もうとする。
「変質者を舐めるなよ!!」
棒高跳びの背面跳びの要領で立ちふさがる警察官らを飛び越すと、俺は高笑いをして道を駆け抜けてゆく。
ただ、俺がやらなくてはならないこと。
妹を奪い去ろうとする憎き男をぶっ殺す。
真依を守るため。
真依を助けるため。
真依を取り戻すため。
俺の愛しい妹よ。
待ってろよ、いま、向かうから。
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