幻聴ではないらしい


 蚊取り線香と芳香剤の匂いと、水に濡れたコンクリートのような匂いを嗅ぎながら、晶生は女子トイレの中をうろうろしていた。


 個室のドアを開けてみても、被害者の生き霊も現れない。


 うう。

 どうしたら……と誰も入ってこないのをいいことに晶生が中を歩き回っていると、誰も居なかったはずの個室から声がしてきた。


「そんなところを探しても無駄だ、晶生」


 よく響く男の声だ。


「……なんで此処にいるの? 仕事は?」

と晶生は閉まったままの個室にドアに向かい、言った。


 おそらく、相手は個室の中にある窓の外から話しかけてきているのだろう。


「終わった。

 遠藤は今日も暇そうだったぞ」

と姿を現さない男の声が告げてくる。


「作業員の中に、他に遠藤の姿が見えるものはいないが。


 なにかの気配を感じるのか、あのホテルの霊の話を聞きつけたのか、此処は気持ちが悪いと言っている奴が何人か居たがな」


 それを聞いて晶生は笑う。


「気持ち悪いとか言われたら、お前の方がな、と遠藤なら言い返しそうね」


 まあ、古い建物だ。

 遠藤程の存在感はないにしても、他にも何体か霊がいるのは確かなのだが。


「現場監督なんかはまるで信じていない。


 俺も昔は霊とか信じてなかったしな。

 見えなかったし。


 お前に殺されるまでは」


 そう男は言った。


「……死んでなかったじゃない」

と晶生は笑って言った。


「貴方、死んでなかったじゃない、


     ――田中一郎さん」





「晶生は?」


 仕事が終わり、沐生は家に戻ってみたが、晶生はまだ帰っていないようだった。


 女子高生が遅い時間にうろうろしているというのに、この母親は呑気なもので、冷蔵庫の前にしゃがんで、なにやらゴソゴソしている。


 晩ご飯はまだらしく、米の炊けるいい匂いがキッチンに漂っていた。


 母は振り返らずに言ってくる。


「そうだ、沐生。

 この間、晩ご飯にシュウマイ食べてたわよね。


 あれ、あんたが持ってきたの?」


「いや、晶生が温めてくれたんだが」


 そうなの? 変ねえ、と言いながら、母は冷凍庫の中を漁っているようだった。


「おかずが少なかったから晶生が気を利かせて、冷凍庫のシュウマイ温めて出してくれたのかと思ったんだけど。

 あるのよね、シュウマイ」

と言いながら立ち上がる。


「……あのシュウマイ、冷凍じゃなかったと思うが」

と言いながら、沐生は母が今、まさに温めんとしている、よく見る派手なパッケージの冷凍シュウマイを見た。


 あのシュウマイ、大きさは変わらないが、手作りのような味がした。


「そうなの。

 変ねえ。


 晶生、何処かでシュウマイ、買ってきたのかしら。


 ああ、食べるわよね、ご飯」

と言いながら、母はスリッパの音をさせて、電子レンジの方に歩いていってしまった。


 何処からか湧いてきた、謎のシュウマイか……。


 などと考えながら、沐生は電子レンジの中で、オレンジの光をスポットライトのように浴びた冷凍シュウマイを見つめていた。




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