第4話 呪われたこどもたち
***
――僕の話をしよう。
「よぉ、みさちゃん。ちょっと昼飯買ってきてくんね?」
「おれ菓子パンならなんでもいいから」
昼休みになるといつも決まってクラスメイトの男子がこちらにやってくる。最初こそクラスの女子が見かねて間に割って入ったりしてきたが、今はもうそんなこともない。
「いつも〝みさちゃん〟やめろっつってるよね?」
「お、おう……相変わらずのキラースマイル」
「こいつマゾで変態だから〝みさちゃん〟に笑顔で罵られるの期待してるんだよ」
「お前もだぞ?」
「こ、こえぇ……っ」
ぶるっているふたりに実咲は手を差し出した。それぞれ財布を取り出し五百円玉を実咲に渡す。昼食代だ。
相手の柄が悪く見えることもあって傍目からだと実咲がパシリに使われているように映るそうだが、その実態は異なる。
「あら実咲ちゃんいらっしゃい」
「おばさん、こんにちは」
実咲が笑顔でやってくると待ってましたとばかりに購買のおばちゃんは取り置きしてくれていた惣菜パンなどを出してくれる。お金を払いそれを受け取ると、実咲は笑顔でお礼を言ってから、昼食の確保を巡って大勢の生徒たちがもみくちゃになっている戦場のような購買を後にした。
これが実態。持ちつ持たれつ利害の一致。実地まで赴き昼食を調達する実咲はたしかにある意味パシリだが、実咲の昼食代はあのふたり持ちだ。それに、
「そういやみさちゃん、聞いた?」
手ぶらな実咲の後ろを歩いている荷物持ちが何気ない口調で話しかけてくる。
「うん? というか、お前もちゃんと聞いてる? みさちゃん言うなって」
まあこのやりとりはいつものことだ。実咲も心底嫌いというわけではない。実際この容姿で得をすることもある。今がそうだ。
これでも一応父親似と言われているのだが、その父親もまた女性的な顔立ちをしているから困りものだ。両親ともに女性的で、昔は美男美女と呼ばれていたらしい。お陰で妹は可愛く育ったが、兄である自分までそうなりたくはなかった。小学校の時は容姿のことでからかわれ、その経験があって逞しく成長することにはなったものの、今でもちょっとしたコンプレックスだった。
「それで? なんの話?」
「いや、なんか今朝、幽霊が出たっぽいぜ?」
「幽霊……?」
そういうものを信じるとか信じないとか、特にこれといった関心はなかったが。
(幽霊……ね)
いるのなら、会ってみたい。最近、強くそう思うようになった。
今なお目覚めない妹はもしかすると、その魂とやらが肉体を離れ現世をさまよっているからではないか、なんて。ふと目にした心霊特番を観ている時に思い至った。
とはいえ、さすがに学校に出たという幽霊が妹ではないかなどと都合のいいことまでは考えたりしない――
「わぁー……購買はまるで戦場ですねぇー」
………………。
「ん……っ!?」
この間延びした能天気そうな声は。
喧騒の中かすかに届いたその声に振り返るが、生憎と背後は戦場。飢えた生徒たちが群れを成し肉の壁を築いている。声の主の姿は見つからない。
立ち止まった実咲に気付かず、何か言いながら荷物持ちの友人が横を通り抜ける。
「それでさ、飯食ったら二年の教室いって――あれ? みさちゃん? え? うそ、もしかしてついに正体現した……!?」
「は?」
「やっぱみさちゃん女の子だったんだ……!」
「またお前は何言って……、」
つい顔を向けてしまってから、そこにいる――そこにいたはずの友人の姿がどこにもないことに驚く。思わず人違いに頭を下げそうになったが、いや、待て。この声は間違いない。
しかし、どうして――少女なのか。
「て、うおっ、みさちゃんがいっぱいいる……!」
その日の昼はなんだか分からないがみんながみんな同じ人物の姿になるという怪奇現象が起こっていろいろとうやむやになってしまったのだが。
どうにかこうにか情報を集め、例の幽霊が現れたという二年生の教室を突き止めた実咲は翌朝、そのクラスを訪れた。
そして、意外な人物と――あるいはもっとも納得のできる人物と、出くわした。
***
「――僕は、謝りたいんだ」
実咲に連れられやってきたのは、学校からバスで数分いったところにある市内の総合病院だった。待遇など悪い思い出があるわけではないが、良い思い出もない、出来れば二度と世話になりたくないと思っていた場所だった。
その病室の一つで、彼女は眠っていた。
「……謝りたいって、どうして」
苦しげに表情を歪める実咲を視界の隅に映しながらも、諒真の視線は目の前のベッドに横たわる蓮延
腰まで届きそうな長い黒髪に、シャープなラインを描く顔立ち、細くすらりとした四肢は力なくベッドの上に置かれている。その身を覆っているのは見覚えのあるあの患者衣。
そこにいるのは紛れもなく、レンカ――蓮延憐果だ。
ただ、その姿は諒真の知る彼女とはどこか似て異なる。
ずっと日に当たっていないせいか冷めるような青白い肌をしていることや、こちら側に向けられた左手の甲にある火傷の痕と思しき傷もそうだが――何より。
あのうるさくてやかましくて騒がしく、煩わしい――そして、悩んでいた自分が馬鹿らしくなるような、抱えていた闇を柔く溶かしてくれるような、そんな彼女らしさが。
時に自らの痛みを隠すように堪えるように浮かべる――彼女の笑顔。
表情もなく目を閉じる彼女は不思議と大人びて見える。いつもの能天気そうな感じが失われれば、こんなにも印象は変わってしまうのかというほど、今の彼女はまるで別人のようだった。
音のない、ふとすると気付けないほど微かな呼吸。上下する胸。
枯れ枝じみた腕は吊り糸が切られたかのように力なく。
そこに在るべき何かが消え、損なわれた生気。
確かに生きているはずなのに、死んだように眠って目を覚まさない。
熱を感じさせないその姿に少しだけ寒気を覚える。
「ひどいこと……言っちゃったんだよね」
「…………」
たとえ些細な言葉でも、それが最後に交わしたものになればいつまでも心に残り、抜けない棘のように、いばらのように自分自身を傷つける。
その気持ちは諒真にも痛いほど、分かる。
最後に交わしたやりとりがなんだったかなんて分からなくても、それまで自分の告げた言葉の一つ一つが、その全てが、あの少女を死に追いやった要因なのではないかと。
痛いくらいに、想うから。
「お前は――呪われてるんだ……って、そう言った」
重い鉛を呑み込もうとするように、罪を告白するかのように、実咲は吐き出した。
「……呪い」
「あ、あぁ、うん……さっき、少し話したよね。他にも昔、いろいろ、あったんだ。それで、つい、かっとなって」
「…………」
レンカの……憐果の両親はその当時、離婚の危機にあったという。
だから。
呪い――不仲の原因は、お前だと。
実咲にそう思わせるだけの〝いろいろ〟を彼女は負っていたのか。
……では、自分はどうだったのだろう。
少しだけ考えてしまう。
「妹は……れんかは、家を出た」
ふと、引き戻される。
「それっきりだ。どこか、誰かの、たぶん友達の家に泊まってたんだろうけど……次に会ったのは、あの火事の後。ここで、病院で、今の状態だった」
声は途切れ途切れで、うまく言葉をまとめられないようだった。当時のショックや悲しみを思い出したというよりもそれは、今になってようやく打ち明けることの出来た後悔から、溢れる感情が抑えられないかのようで。
「……別に、とくべつ仲が良かったわけでもなかったし、たまにうるさいなって思うこともあって、まあ、その、普通の兄妹だった。だけどなんだろうね、やっぱ家族だからかな。こうなって初めて――もし、妹をこんな目に遭わせた〝誰か〟がいるのなら、そいつを殺してやりたいって……そういう激情が自分の中にあると気付いた」
だけど、他でもない。
「何より、僕自身が……妹が事件に巻き込まれるきっかけを作った、その〝誰か〟なのにさ……!」
笑っちゃうよね、なんて――笑えない。
拳を震わせ項垂れる姿に何を想ったのだろう。
「いや、あの……何してるんですかね? ひとの頭に手を置いて」
「……別に」
気付いたら、まあ、そうしていた。
溢れ出す感情を堪えているように見えたから。
「……泣きたければ、泣けばいいんじゃないか」
「な、泣かないよ……高校生だよ、これでも。束原くんの先輩だからね? 一応」
「…………」
それならそれで構わないが――
無理に押し込んで溜め込んだ感情は澱になって、心を内側に沈ませるだろう。
枷のようなそれは進む足を重くさせ、日常の中、ことあるごとに後悔の記憶を呼び起こす。
振り返るばかりで、
まるで罪人のように、後悔という檻の中に囚われ続ける。
どうして、あのとき――と。
「――――」
もっと他に何か、優しくはなくとも、とげのない言葉を返せなかったのだろうか。
思い返すたびに想う。
今更どうしようもなくとも。
それでも〝これから〟は変えられるのに、どこか投げやりになって、また過ちを繰り返し後悔を重ねるのだ。
誰かに打ち明ければ楽になれるとは限らない。改善されるかは分からない。でも少しは軽くなるだろうと思う。
共有は出来なくても、その苦しみを知っている誰かの存在が救いになると。
もしかするとその誰かが、自分ひとりでは導き出せない答えのようなものを示してくれるかもしれない。
そう思うのはきっと――自分自身が、そういう誰かを必要としていたからなのだろうか。
結局これまで誰にも何も打ち明けずに、いろいろな想いを抱えてきたから自分は、
――いや。
ベッドの上に横たわる少女へ目を向ける。
どういう形であれレンカに親のことを打ち明けたあの夜。あのときは言い方もあって気まずい想いをしたが、それが今に繋がっているように思う。
諒真が抱えているものを知ったから、彼女はあんなことを言ったのだろう。
(……幸せじゃないもの同士、なんて)
そんなのはご免だ。
自分のせいで、幸せになれるかもしれない誰かの――なれたかもしれない誰かの行く道を妨げたくはない。
だから、ここに来た。
「少なくとも――、」
実咲がこれまでひとり抱えていたのだろう本音を吐き出し、少しでも楽になれたのならここに来た意味はあるし、
「お前があいつのことをそれだけ想ってるのなら」
ここはきっと彼女にとって帰る場所となりうるはずだ。
目覚めた先に希望はある。
後悔は次の一歩を確かなものにできるはずだから。
(……大丈夫だ)
きっと。
「家族なんだから」
***
――まるでもやがかった世界の中にいるかのよう。
先はかすんで見通せず、振り返ればさっきまでの景色さえおぼろげだ。
自分には、今しかない。
今いるこの場所だけがすべて。他には何もなく、あったとしてもそれはすぐに見えなくなる儚いものだ。
そういう場所に立っている。
いや、そもそも自分がそういう存在なのかもしれない。
存在を自覚してから今までの記憶はある。些細なことであれば忘れることもあるだろうが、自分が在る限りこの心に残り続けるものだ。
――じゃあ、私が消えたら?
写真にも写らず、記録にも残らない。存在の痕跡を残せない自分は誰かの記憶の中にしか留まることが出来ない。
その誰かにさえ忘れられてしまったら。
自分なんて最初からこの世界に存在していなかったように思えて不安になる。
ふとした瞬間に消えてしまうかもしれないから、普通の、当たり前のように生きている人たちよりも人一倍、恐ろしくなる。
だって――私は。
蓮延憐果という〝
だから、刻み付けたい。
忘れられないように。
忘れられないほどに、私のいた時間を心に刻みつけたい。
……そう思ってしまうのは、自分の我が侭だろうか。
「諒真さん、今頃どうしてるかなぁ……」
ぷかぷかと宙を漂いながら、なんとなしに――自分の存在を確かめるようにつぶやいてみる。
今頃はもう放課後だろう。家に帰ったのだろうか。それともどこか別の場所……たとえば病院なんかにいるのかもしれない。なんとなく、そのように感じる。街を俯瞰できる上空にいるからか、普段よりも〝人の気配〟を感じることが出来るのだ。
諒真からは家にいるよう言われていた。外出するなとは言われていないが、学校には来るな、と。昨夜の様子から何か自分について調べてくれるつもりなのだろうと察しはつく。そういう、自分のために働いてくれるところを陰からこっそり見るのもいいものだが、帰ってきた諒真のぐったり加減からその日の彼を想像するのもまた乙なのである。
ただ、待っている間は暇だ。
今日はなぜか肌身離さず持っていた
「わたくしは諒真さまからレンカさまを監視するよう言われてますが……ちょっとおつかいをしてきてくれたら、多少の外出は見なかったことにしてもいいかと思っております」
「?」
「実はわたくし、諒真さまから任されている案件がありまして……」
破片だけとはいえ、どうしてあんなに疎ましがっていた鏡野を部屋に置いているのか、ところで本体である手鏡の方はどこにいったのかと常々不思議に思っていたのだが、その疑問が氷解した。
諒真は鏡野を使って、束原
ただ、相手は〝鏡野の存在〟に感づいている。というか、鏡野いわく緋景はどうも〝こっち側の人間〟らしい。単に〝こっち側〟ではなく、〝生きている人間〟なのがポイントだ。
名字もそうだが、たぶん誰より諒真に近しい相手なのである。
感づかれている以上、ある程度の警戒はされる。鏡野の目的に気付いているとは限らないが、緋景が手鏡を使っている間は当然勝手な真似は出来ないし、使い終えれば緋景はまるで鏡野を閉じ込めるように手鏡を伏せてしまう。
そういうわけで鏡野は思うように調査を進められず、このままでは諒真の機嫌を損ねてしまいかねない。そこで、レンカの出番というわけだ。
(実地調査です……!)
なので現在、レンカは事務所を離れ、鏡野が突き止めた束原緋景の実家を目指している。
あまり人目につくのもどうかと思うので、頭上を仰がなければ気付かれない程度の上空をぷかぷか移動する。
こうしていると、前に地中だとか宇宙だとか話したが実際はそこまで飛べそうにないことがよく分かる。恐らく人間の生活圏内までしか移動できないのだろう。あまり上空に行き過ぎると自分の存在が不安定になるような、それこそ掻き消えてしまいそうな焦燥に駆られた。
「あ……あれかな?」
街の郊外近辺にある別荘地。その中でも一際目立つ洋館のような建物。
「なんていうか……」
大きいのも目立つ理由の一つだが、一番の理由は、
「ホラーだ……」
寂れた印象がある。周りの別荘が普段は無人でも小ぎれいなのに対し、本当に人が住んでいるのか――いやどちらかというと何か魔物とか魔女のようなものが棲んでいそうな雰囲気だ。
汚いというわけではないし、敷地を囲う塀に蔦こそ這っていても庭が雑草で荒れ放題というわけでもない。
何か、こう……うまく言い表せないが、近寄りがたい。自分が泥棒ならこの家にだけは入るまいと思わせるような――独特の、なんだか呪われそうな空気。
「私が言うのもあれなんですけど……」
まあ、あの束原緋景の実家なのだから、普通の一軒家だと逆にしっくりこないかもしれない。
こんなところに住みたくはないが。
「あれは……」
なんとなく侵入に躊躇ってその辺を漂っていると、屋敷の扉が開いた。誰かが出てきて中庭を足早に突っ切っていく。
少女だった。離れているので詳しくは分からものの、諒真や緋景とそう歳は変わらないように見える。緋景の姉だろうか。とすればあるいは――
(諒真さんのお姉さんの可能性も……!)
携帯片手に誰かと話しているようだ。耳を澄ませてみる。相手にこちらの存在が気付かれない程度には距離があるにもかかわらず、集中すればその声が届くから不思議だ。
「いつもの時間に帰ってこないから何かと思えば……!」
ぶつぶつがみがみ。どうやら電話の相手は緋景のよう。
「ダメよ、これ以上勝手なことしちゃ。特に今日は……、なんで怒ってるかって? それはあれよ、今朝のあの不幸の手紙のせいに決まってるでしょう。〝あの人〟がいるのよこの街に。あなたに何をされるやら――、」
ちらり、と。
「……!」
今、〝彼女〟の視線が一瞬こちらを捉えた。
「……とにかく。迎えにいくわ」
すぐに視線を切ったものの、今のは故意に見逃されたのだ。
少女は何事もなかったように門を出て足早に屋敷を離れていくが、レンカは完全に無人になったと思われる屋敷に立ち入ることに躊躇いを覚えた。
この場所は、マズい。
……………………、
入りたければ入るといい。
私はそのことに関知しないし、咎めもしない。
ただ、〝それ〟を見てあなたが後悔したとしても――
消えてしまったとしても
あなたの存在は無駄にはしないわ。
……そう、声が聞こえた。
***
「……まさか、な」
実咲と別れて病院の廊下を歩きながら、諒真は頭の中を整理してみる。
意外な収穫というか、情報を得たのだ。
今日はレンカに伝える前に蓮延憐果の現状を知ろうと思っていただけだったのだが、まさか――
「さすが束原くん、目敏いね」
「目敏いって、いや……悪趣味だろ、これ」
ぬいぐるみがあった。クマのぬいぐるみだ。しかしテディベアというには抵抗がある。まずそいつは薄い紫色をしていて、全身にミイラ男のような包帯を巻いている。加えて、その左目だ。黒い眼帯に覆われている。一応ここは病室なのだから、こんなぬいぐるみはやや不謹慎じゃないかと思った。
病室に飾られていたその奇妙なぬいぐるみをなんとなく見ていたら、先日誰かがお見舞いに持ってきたものなのだと実咲が教えてくれた。
「誰かは知らないけど……看護師さんの話じゃうちの制服を着た女の子だったらしいから、たぶん
「玖純……?」
どうしてここで、その名前が。ついさっき、病室までの道中に彼女の話を聞いたばかりだからつい考え込んでしまった。
「あ、妹さんの方ね。仲良かったんだ。よく……なんか分かんないんだけど、機嫌を損ねると家を飛び出して、玖純さん家に行ってたみたいで――」
思い返せばレンカが初めて教室に現れたあの日、直前まで居眠りしていた玖純妹がかなり驚いていたような覚えがある。その後は自分のことに手いっぱいで気にかけている余裕はなかったが、もしかするとレンカの様子を窺っていたのだろうか。
しかし、お見舞いに来たのはその後ではなく、それ以前。
(……日曜の午前中。レンカが現れた日だ)
これは何かの偶然だろうか?
(それに、玖純は赤コートの件とも間接的に関わりがある)
さらに言えば、諒真自身、その姉とは知らない仲じゃない。
そして――
「これまで、ずっと……束原くんに、お礼を言いたかったんだ。というより、謝るべきかもしれない」
――実咲から聞かされた、自分と蓮延憐果の接点。
(何か……、)
偶然という言葉では片付けきれないような〝つながり〟があるように感じる。
まだそれは〝謎〟と呼べるほど明確なものではなく、強いて言うなら、〝引っ掛かり〟、〝違和感〟といったところか。
この釈然としない感覚はいったい何を指し示すのか。
答えもなにも分からないまま、一階の待合室を通り過ぎて病院を出ようというときだった。
「……?」
以前お世話になった看護師や見覚えのある顔がちらほらあってこれまでなんとなく目を伏せながら進んでいたのだが、ふと視界の隅に映り込んだ〝もの〟が気になって顔を上げた。
思わずそうして振り返ってしまうような容姿だった。
待合室の席に座るその人物は骨折でもしているようで、右腕を三角巾で吊っている。それだけならここは病院だしなんら不思議なことでもない。
キャスケットとかハンチングと呼ばれる種類の帽子を目深に被っていて、気になったのはその頭髪――
(……あんまり見るのもな)
周りもじろじろと視線を向けていて、そのせいか浮いてしまっている。だから諒真の目にも入ったのだろう。当人も目立っていることを気にしているように見えるし、諒真自身そういう野次馬みたいなことはしたくない。
歩みを再開し、病院を出た。
「ふう……」
重い空気から解放されたような感覚。
病院には死者の霊が夜な夜な現れるとかなんとかよくその手の話を聞く。諒真も入院中それっぽいものを見たような気もするが、近づかなければ生きた人間だか死霊だか判別できず、近付けば憑かれるかもしれないからなるべく目も合わせないようにしているため、実際そういうものがいるのかどうかはよく分からない。
なんにせよ、院内には外とは異なる空気が流れているように思う。
特に蓮延憐果の病室がある入院患者の多い一帯はそうだ。
けがや病気で入院している人間がいるのだから空気が重いのも仕方ないだろう。
生きてるとか死んでるとか関係なく、他人のそうした強い感情、想いというやつは苦手だ。
苦しんでいる誰かがいても、自分にはどうしようもない。病を治せるわけでもないし、怪我を肩代わりすることも出来ない。
どうにもならない現実のようなものがそこにはあって、ここではそれがテレビの向こうで起きた悲劇よりも身近に感じられてしまう。
でもだからこそ、自分にどうにか出来ることがあるなら何かをしたい。
今思えば、実咲に手を伸ばしたのもそういう心情に起因したのだろう。
「……出来ること」
それはなんだろう。
まずはレンカを――蓮延憐果を目覚めさせる方法を探すことか。
あるいは……赤コート。
その次なる犠牲者を出さないようにすることもそうだが、何より、その裏にあるかもしれない誰かの想いを終わらせることだろうか。
「…………」
とりあえず、今は帰宅しよう。
(帰りに夕飯の食材でも買って……、)
顔を上げると、進行方向に意外な人物を見つけた。
「お前……」
目を細めると、向こうからこちらに近付いてきた。
そしてすぐ目の前で立ち止まると顎を上向けるようにして顔を寄せ、前置きもなしに問いかけてきた。
「何してたの」
「……ストーカーかよ、お前は」
束原緋景だった。制服姿で、いつも通りのぼんやり顔でこちらを見つめている。
(まさか……学校からずっと後をつけてきたのか?)
病院に用があったというより、病院の敷地の入口前に立ちつくし、自分が出てくるのを待っていたかのような様子だ。
「身体、どこか悪いの」
「……別に」
緋景を避けて早足に彼女から離れる。
別に、どうして心配されるのかとか、もしかして本当に後つけてきたのかとか疑っているわけじゃない。
いろいろと謎めいているが、こちらに向かって躊躇いなく真っ直ぐくる感じが諒真は苦手だった。
「……はあ」
足元に伸びた影ふたつ。前にもこんなことがあったような、なかったような。
(なかったな)
後ろの彼女には影が出来る。
訳の分からない少女だが、一応〝こっち側〟の〝人間〟だ。
「ついてくんな」
「……物騒だから、いろいろ」
「~~~っ」
それを言われると――緋景をひとりで帰すのも躊躇われる。
もどかしい想いに葛藤していると、不意に追跡する足音が聞こえなくなった。
住宅街に入り、その十字路を過ぎたところだった。
なんとなく振り返って、すぐ後ろにいた緋景の視線の先を追って――、
「は……?」
自分の目を疑った。
少し先に、誰かいる。高校生くらいの少女の姿。でも、いや、まさか……?
よく似た別人のはず。
ただ、その考えを呑み込むには……昨日の、たまたま思い出してしまった情景が邪魔をする。
緋景とその人という組み合わせが、どうしても昨夜の記憶と符合するのだ。
緋景に目を向けた。
「――――、」
何かを口にした彼女の唇がゆっくりと笑みを形作る。自然な綻び。花開くような、内側から溢れた感情が表情にこぼれ落ちたかのような、つい見惚れてしまうくらいには可憐な笑顔だった。
「おい……、」
少女の方へと足を踏み出した彼女の手を思わず掴み、引き留めてしまった。
緋景がこちらに顔を向ける。不思議そうにジッと見つめられる。諒真は何か言おうとしたが、自分でも何が言いたかったのか分からず、結局開きかけた口を閉ざして緋景から手を放した。
緋景はしばらく逡巡でもするように少女と諒真とを見比べてから、まるで少女に急かされでもしたかのように突然諒真に背を向けた。
「何なんだよ、ほんと……」
去っていく二人の姿が見えなくなるまで、諒真はその場から動けなかった。
***
「……もう、ダメでしょう」
ため息が漏れる。思わず前を歩くその人の顔を見つめた。
「後をつけるような真似なんかして。気味悪がられたらどうするの……」
「…………」
緋景は後ろを振り返る。離れてからすぐに角を折れたためもう彼の姿は見えない。
「どうして……」
「何?」
「せっかく、近くまで来たのに」
「…………」
その人は緋景の言葉に難色を示すように表情を強張らせた。
言っちゃいけないことだったろうかと、緋景は俯いた。
「妙なものがいるのよ」
「……?」
顔を上げて〝彼女〟を見た。
「私がいったら、何をされるか分からないわ」
言い訳じみた言葉。
「……諒真くんは」
「大丈夫よ、〝あの人〟のことだもの。ただ……まあ、気味悪がられるといいわ」
くすりと楽しそうに、しかし邪悪な魔女のように笑う。
その笑みの意味が分からず、緋景は再びうつむいた。
「…………」
足元から影が伸びている。
後ろに向かって、ふたり分――風に煽られるように、時折いびつに揺らめいた。
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