第9話 美依篇三 気配を掴む




               ***




諒真りょうまさんご無事だったんですね!」

「なんで戻ってきてるんだよ!」


 あの場を緋景ひかげに任せてレンカを追いかけようとした直後だった。

 レンカの方からこちらに戻ってきたのだ。


「え、えぇっと……なんといいますか、その……」

「まさか見失ったのかお前」


 詰め寄るだけ無駄とは分かっているが、思わずそうしたくなるほどの焦りがあった。


 あの赤コート――その特徴に覚えがある。

 唐突過ぎてすぐには思い出せなかったが、全身を覆う赤いコートに金属バット、そして女子高生を狙った犯行――最近この界隈を賑わせている通り魔事件こと連続暴行事件における犯人の目撃証言と一致する。


 どうしてそんなものが学校内にいるのかとか、狙っていたのは美依みいではなく鏡野きょうのだったのではないかとか、いろいろと頭の中を駆け巡るものはある。


 だが今は考えている場合ではない。

 いくら苦手な相手とはいえ、緋景に殺人犯を押し付けてきた。

 彼女からは何か人ならざるものの気配を感じたが、それでも――敵も正体不明である以上、何が起こるか分からない。


 一刻も早くこの状況を解決しなければという焦りが募る。

 どうせあの場にいても足手まといでしかないのなら、自分にやれることはあの手鏡をどうにかすることくらいだ。それで赤コートが消える、目的を失って退散するという保証はないが、美依化現象が起こり、直後にその原因である美依と鏡野を狙って赤コートが現れたことが単なる偶然とは思えない。

 緋景もそれらしきことを言っていた。あれはつまり、美依化が解ければ赤コートも消えるという意味ではないか。


 ならば自分のすべきことは一つ。

 しかし。


「この役立たずが」


 頼みの綱だったレンカが失敗した。恐らく心配して戻ってきたのかもしれないが、今はそれが状況を不利にしているから構ってやる余裕なんてもてない。


「ひどいです……。そんなんだから逃げられるんですよ!」

「お前まさか……あいつらとグルじゃないだろうな。あ?」

「ち、違います、言いがかりです……!」


 いまいち信用ならなかったが――こちらの焦りや不安が伝わったのか、


「安心してください、私、観詰みつめさんの現在地ちゃんと分かってますので!」


 そう言って胸を張ってみせる。


「……どういう意味だ? どっかに潜伏してるのか?」

「実はですね……出来れば教えたくなかったんですけど」

「なんだ」


「私、観詰さんの気配みたいなものが分かるみたいで……実は今朝もそれで諒真さんの居場所が分かったと言いますか……」


「…………」


 言いたいことはいろいろあったものの。


「最初から言え」

「だって言ったら諒真さん、私のこと都合よく使うじゃないですか! それならまだ普通に追いかけてた方が頼ってもらえると……!」


 まあたしかに……居場所が分かるなら聞き込みなどさせず、さっさと案内しろと使うだけ使って、用が済んだら無視していただろう。否定は出来ない。


「それに……やっぱりその、居場所が分かるって知られたら困るじゃないですか、ねえ……? 今よりいっそう疎んじられるといいますか……」


 そう言ってうなだれたかと思えば、


「でもこれからは観念してくださいね! いくら逃げようたって私には諒真さんの居場所が手に取るように分かるんですから! 大人しく一緒にいてください!」


 怒りなのかなんなのか、不意に顔を上げたレンカは赤くなって怒鳴った。


「……はぁ……」


 その姿に思わず重いため息がこぼれた。


 何がこいつにそこまでさせるのかは分からない。

 だが、ここで機嫌を損ねたままでは埒が明かないことくらい嫌でも分かる。


「今は……お前だけが頼りなんだ。手伝え」


 なんとか言葉を絞り出してみたのだが――それで調子に乗ったのか、レンカは上目遣いにこちらの様子を窺いながらも、


「ま、まあ……? 見失っちゃったのは私の落ち度ですし? ここはそうですね、私のこと名前で呼んでください。それで妥協してあげましょうっ」


 私のことも、と言ったか、こいつ。って。


 別に緋景を下の名前で呼んだことに特別な感情はない。単純に自分と同じ名字で呼ぶことに違和感があっただけだ。


「……一つ確認しておくが、お前のそれは鏡野の正確な現在地が分かるんだな?」

「鏡野さんというより、観詰さんの気配のようなものを感じるといいますか……気配を掴むことが出来る……みたいな? なんとなぁくこの辺にいそうだなぁ、という感じで。漠然となんですけど、この学校のどこに人がいるかが分かるんです」


 同じオカルト同士だから何か感じるものがあるのではと思っていたのだが、どうやら把握できるのは人の気配のみで、鏡野やあの赤コートについてはいまいちピンとこないらしい。それでも学校中に効果が及ぶのは驚きだ。


「今は下の階の廊下を――って! そうやって聞き出そうたって言いませんからね!」

「別に考えてねえよ。ていうかほんと、そういうこと出来るならな……」


「い、一応……最初から出来たわけじゃないんですよ? 今朝、諒真さんのこと探そうと思ってたらどこにいるのか分かって……今だって、さっき赤いのに襲われてるところ見つけるまで、ハッキリとは観詰さんの気配も分からなかったんです」


 美依化が始まった当初はまだ彼女の気配も不明瞭で、自分の能力についても判然としていなかった。だから実際に聞き込みして居場所を探る必要があり、能力のことも隠したかったから怪しまれないように目撃者の証言を得てきた、らしい。


「だから別に、わざと隠してたわけじゃなくて……ちゃんと気配を掴めるって確証があるまでは無闇に言わない方がいいんじゃないかなぁって……怒られそうだし」

「……その慎重さは評価しないでもないが」


 なんにせよ、こいつの中である程度の確証が立ったわけだ。


「ついでに聞く。渦野かのの居場所も分かるな?」

「それはもちろん」

「この学校の地図というか、どこにどの教室があるかは」

「え? まあ、今朝だって一応ちゃんと校内はざっと見てきましたし。食堂いきながら言梨ことりさんにも案内してもらったので……」

「そうか……。分からなくても渦野を使えばいいとして――」


 なら、うまく美依を確保することが出来るかもしれない。


「渦野と合流しろ。それから俺の言う教室まで観詰を追い込め。キツネ狩りだ」


 我ながら名案だ。思わず唇が歪む。


「お、おぉう……諒真さんが凶悪な笑みを……。それにしても追い込むって……なんだか私が協力すること前提で話が進んでますけど」


 腕を組んでぷいっと顔を背けるレンカである。舌打ちしそうになった。

 レンカに構わず歩き出す。


「……お前の力が必要だ。協力しろ――レンカ」


「あ……はい――!」




               ***




 飛んで火に入るなんとやら、だ。


(よし……!)


 自ら教室――光が入らないよう薄暗くした家庭科準備室に飛び込んできた美依を見て、思わず拳を握った。彼女が戸惑っている間に準備室の扉を閉め、後ろ手に鍵をかける。


「これで終わりだ」


 思った通りだった。

 媒体となる光を失ったからか、見下ろせば自分の制服も男子のそれに戻っている。恐らく校内の美依化現象もこれで収まったはずだ。


 近くの教室から集めてきたガムテープやカーテンなどで光の入り込む余地を徹底的になくしたのだ。扉の隙間も、外にいる言梨が暗幕で覆って潰してくれる。背が届くかだけが心配だったが、どうやらなんとかなったらしい。椅子でも持ってきて足場にしたのかもしれない。


「どうだ、だいぶ手間取ったぞ」


 対鏡野用に準備を施した教室に美依を追い込む。レンカだけでは心許なかったが、言梨という小さいながらも一応物理的に美依の行く手を阻むことの出来る協力者がいてくれたからこそ成功した作戦だ。


「さて……観詰、そいつを返してもらおうか」


 教室の奥、窓際へと後ずさる美依に一歩詰め寄った。この準備室は机などを脇に追いやってはいるが、広さは一般教室の半分もないからお互いの距離はすぐに埋まる。逃げられる恐れはないが、カーテンを開かれるのは少々厄介だ。


「こ、こんな薄暗い部屋に連れ込んで、私にいったい何する気よ……!」

「なんもしねえよ。さっさとそれを返せば解放してやる。……お前、このままそれ持ってたら、またさっきのヤツに襲われるぞ」


 美依は手鏡を腕の中に抱え込んだ。毅然とした表情でこちらを睨む。明らかな拒絶だ。


「ふ、ふん……っ。構わないわ、襲われたって。事件になれば目立つもの!」

「……お前な……」


 呆れ果てるばかりだが――そう考えると、あの赤コートが現れた理由も頷ける。


 あれさえも、鏡野の作りだしたまやかしなのかもしれない。

 美依を目立たせるための引き立て役。


 演出――?


「目立ちたいとかなんとか……ガキかよ。いちおう女子高生だろうが」

「うるっさいな! 大人ぶってひとのアイデンティティー否定するんじゃないわよ! ……一コ上だからって!」


「……勝手にひとを大人扱いしてんのはお前らの方だろうが!」


 思わず怒鳴っていた。美依がビクリと肩を震わせて後ずさる。その反応に思わず舌打ち――


 思わず?


(……冷静じゃない)


 さっきから自分がおかしい気がする。いくら作戦がうまくいったからって人前でガッツポーズなんてしないし、舌打ちもただえさえ悪い印象がさらに悪くなるから、なるべくしないよう心がけている。それに何より、思っていても言葉にしてあんなことを言ったりしない。黙り込んで何も言わなくなり、そのせいで怖がられているのが自分なのだから。


(……あいつのせいか……!)


 美依の腕の中からこちらを覗く鏡野。たしかあいつにはひとの本音を引き出させるだのなんだのという性質があるのだったか。

 だからこうも、心の中が掻き乱されるのか。


「観詰、よく考えろ。お前はもうチェックメイトだ。終わってんだよ。逃げ場はない。こっちがその気になれば実力行使で取り返せる。大人しく返せ。それは俺のものだ」


 冷静でいるよう心がけながらも、ある部分だけは鏡野の性質に委ねることにした。

 お陰で普段の自分には難しい、相手を諭すために言葉を重ねることが出来る。


「いいか、観詰。お前のそれは窃盗だ。持ち主は俺だ。お前は俺から盗んだんだ。俺が返せって言ってるんだからさっさと返せ。さもなきゃ訴えるぞ」

「ふん、その理屈に沿うなら、私にこれを返す義務はないわ。だってこの鏡は私のものだもの」

「たしかにもらってくれるやつを探してはいたが、そいつにやるかどうかは俺が決めるんだよ」


「最初はそうだとは気付かなかったし、どうしてあなたがこれを持ってたのかも分からなかったけど……事情は聞いたわ。〝おばあちゃん〟が預けたんですってね」


「は……?」


 一瞬、何も考えられなくなった。


「この手鏡をあなたの実家に預けた人は明日野あすの伊依いよりというんでしょう? それは私の祖母なのよ」


「ちょっと、待て……」


 下の名前までは知らないが、たしかに鏡野を事務所に持ってきた依頼主の名前は――


「そうなんですよ諒真さま。この方こそ、わたくしの未来の持ち主――いえ、正当な持ち主である美依さまなのです!」

「じゃあ……風邪ひいて寝込んだ孫ってのは……」


 そういえば……そういえば! 思わず声が出た。動揺しながらも頭の中では先週のことが蘇る。朝の日課とばかりに欠かさず挨拶してきた彼女が先週だけはやけに静かだった。その理由は、風邪か何かで熱を出して欠席していたからだ。

 時期的には、たしかに合う。美依が寝込み、最初はそれこそただの風邪だと思っていたのだろうが、何もないところに向かって話しかけている孫の姿や家の中で起こる怪奇現象のことに思い至り、だからこそ依頼主は鏡を不気味がって事務所に持ってきた。


 風邪で寝込んだというから、てっきり、もっと幼い、小学生くらいを想像していたのに――


「そう、その孫というのが私よ」

「……いや、でもお前、名字……」


 そんなもの、少し考えれば分かることだ。叔父は言っていなかったか。依頼主の娘さんが孫を連れて実家に帰ってきたとかなんとか。娘なら、結婚して名字が変わりもする。


「…………」


 こころなしか美依の表情がくもったが、気にしている余裕はなかった。

 冷静になって説得しようとしたら、逆に向こうの正当性を認識する羽目になってしまった。むしろさっきより動揺していてどうすればいいのか分からない。


 ――心に、付け込まれる。


「くそ……こうなったら実力行使だ」


 もはやただの意地のような気もするが、とりあえず美依に鏡野を持たせていてはこのさき何をやらかすか分からない。叔父の元に持ち帰って相談しようそうしよう。


「とうとう本性を表したわね。さすがこの学校を裏で牛耳ってる番長……やっぱり最後は暴力に訴える」

「まだそのネタ引っ張るのか」

「ふん、あなたがやろうとしてるのは強盗も同然、正義は私にあるわ!」


 本来の持ち主だかなんだか知らないが、こちらも一応お金をもらって請け負ってる身である。それはつまり、こういう他人に迷惑をかけるような使い方をする輩に鏡野を渡さないことも仕事に含まれるということだ。そのはずだ。


「諒真さまがその気というのなら、こちらにも策があります」

「ええ。本当は籠城して文明人らしく会話で解決しようと思っていたけど……番長を倒して名を上げるチャンスだわ!」

「むしろお前の方がやる気じゃねえか。ていうかなに目指してんだよ」


 喧嘩慣れしていなくとも、普通に考えて自分が彼女に劣るとは思えない。にもかかわらず美依が強気なのは、やはり鏡野の存在があるからだろう。何をするつもりなのか。欠けた鏡面の中からこちらに不敵な笑みを向ける鏡野を注視した。


 その時だった。


「なっ……!?」


 見失った。


「光を奪えばわたくしを無力化できるとでも思いましたか? わたくしの本分は人に己の真の姿を見せること――つまりは目です。あなたの視覚に直接働きかけることだってできます。……視覚だけに死角でしたか?」


 この場合は盲点だったというべきだろう。それにしても何が己の真の姿を見せる、だ。


 何も見えない。


 ついさっきまで目の前に立っていたはずの美依の姿がどこにもないのだ。唐突に彼女が消えた。まるでこの密室に一人きりになったかのようにさえ錯覚する。


「だ、大丈夫なのよね……?」


 ただ、美依の声はしっかりと前方――先ほどと同じ位置から聞こえてくる。


「諒真さまには今わたくしたちのことが見えておりません。わたくしを視界に捉えている限り。……さあ、今のうちにカーテンを!」


 鏡野に促されて美依が動き出す気配は感じる。教室の奥に行く気だ。追いすがろうとするも、鏡をこちらに向けているのか、目に映る光景に違和感を覚えたままだ。


 たしかに一歩踏み出したはずなのに、目の前の状況に変化がない。カーテンの方に近付かない。近づけない。映像でも見せられているかのようで、この目で見ている景色に実感さえ持てなかった。そのくせ足は前進している感覚を訴えてくるものだから気持ち悪い。


 ばさっとカーテンが開かれた。昼の弱い日差しが教室内に射し込んでくる。薄闇に慣れていた目にはその微光さえ刺激だった。思わず目を細めると、かろうじて窓辺に立つ美依の姿を捉えることが出来た。

 だがそれも一瞬で――


「くそ……っ」


 目の前の景色が歪み、美依の姿がぼやけて消えた。次の瞬間、先ほどまでとは違う位置に彼女の姿があった。それも、三か所。

 吐き気を覚えた。それは別に美依が三人現れたからではなく、視覚に攻撃されたせいだろう。めまいにも似た感覚がある。気持ち悪い。そしてその吐き気は物理的にも襲ってきた。


「ぐっ……!」


 突然だった。腹に衝撃を感じてくの字に折れる。その場にうずくまった。何がなんだか分からない。


 顔を上げれば三人の美依は自分の正面、右斜め前、左斜め前の三か所から動いていない。にもかかわらず、今のは蹴りだ。上履きの硬い感触があったから間違いない。


(この野郎、蹴りやがった……!)


 そのことも信じられなかったが、何より現実が目に見える光景と異なることに驚きを隠せない。こうなると自分の目さえ信用できない。めまいこそ治まったが、未だに違和感からくる気持ち悪さは健在だ。いっそ何も見えない方がまだマシにすら思える。


 そうだ。なら目を閉じてしまえばいい。声は聞こえるのだ。足音だってした。視覚以外は使える。

 瞼をぎゅっと閉じて、耳を澄ませる。どうせこちらからは攻められず、向こうにされるがままなのだ。受け身でしかいられないならせめてどっしり構えてじっと堪え、相手の接近を見逃さず――もとい、聞き逃さず、その攻撃を捉えればこっちのものだ。

 鏡野の能力を封じるすべがない現状、美依を捕え手鏡を奪う以外に勝ち目はない。


「ちょっ、諒真さん大丈夫ですかっ!?」


 横合いからレンカの声がした。こうなる前、説得しようと頭を悩ませる姿なんて見られたくないから、レンカと言梨には入ってくるなと釘を刺しておいたし部屋の扉にも鍵をかけていたのだが、さすがに中の異変が気になったのか。とはいえレンカには何も出来ず、むしろ騒がれると美依の気配を掴めない。


 いや、待てよ。


「ふふふっ、ふはははははっ! ざまあないわね!」


 美依の悪役めいた笑いが木霊する。直後、足元に衝撃が来た。足払いか。我ながら見事にすっころぶ。


「さすがの番長も今のわたしたちの前じゃあ形無しだわ。その子の前で無様に這いつくばちゃって、情けない」

「てめえ観詰この野郎……ッ」


 警戒こそしているのだが、その攻撃はほとんど不意打ちと言ってもいい。少しでも気を抜くとやられるし、相手の姿が見えないせいで起こるのは唐突だ。心臓に悪すぎる。そんな動揺も加わるから結果は目も当てられない無様なものになってしまう。


 それにしても容赦なさすぎだ。

 すっころんで起き上がろうとすれば腹を蹴られ、腕を掴まれたかと思えば後ろに捻りあげられる。ここまでされるとさすがに目もつむっていられないが、そこまでされているのに美依を捉えることも出来ない。


 改めて、鏡野の力を思い知らされる。視覚は完全にやつの支配下にあるし、恐らく美依がこうも暴力的なのは鏡野の性質とやらのせいだ。単純に、諒真からは何も見えていないから好き勝手できる、というのもあるかもしれないが。そうだとしても、それもまた鏡野の持つ性質であることに違いはない。


「観詰さん……! もうやめて! 観詰さんは充分に目立ってるから!」


 教室の外から言梨の声が耳に届く。美依の暴行が止まり、腕の拘束も解放された。距離をとるような足音がする。


「まだよ。私の伝説はここから始まるんだから!」

「なんだよ伝説って……」


 しかし、これはチャンスだ。

 いや、別に美依の伝説とやらの一ページに加わるチャンスというわけではなく――


「なんでもいいけど! とりあえず束原つかはらくんに乱暴するのだけはやめてあげてよ! 束原くんはあの、あれだから」


 あれってなんだよと思いつつ、今は黙って気配を探る。


「いろいろあって、身体とか弱い方だから……!」

「ぷぷっ、たしかに弱っちいわ!」


 非常に屈辱的だが、今は、今だけは、何も言うまい。


 目を閉じて耳を澄ます。神経を研ぎ澄ませる。

 言梨の声に反応する美依の返事を聞き逃すな。

 この目で見つけられないなら、その声の聞こえる場所を探り当てろ。


「束原くんは観詰さんのこと心配して……! 観詰さんがその鏡もってたら危ないからって、だから取り返そうとしてるんだよ……!」


「…………」


 美依が黙り込んだ。思うところはあるのだろう。赤コート。さっき身をもってその危険を経験したばかりだ。


 だが、なぜそこで黙る。なんか言えよ。変な空気になるだろ――相手の姿が見えないからこそ、今どんな表情でいるのかを想像してしまってこちらまでうろたえてしまう。それに位置も探れない。


 ひとまず、この間に体勢を立て直す。さっと教室内に視線を向けるが相変わらず美依の姿はなく、しかしゆっくりと立ち上がりながらも警戒は怠らない。

 だからこちらに向かって駆けてくるような足音にも気付き、あまり効果はないかもしれないが、少しでもダメージを軽減できるよう身構え、精神的にも攻撃に備えることが出来た。


 出来たのだが、そのインパクトは予想のはるか上をいっていた。


「がっ……!?」


 腹部を鈍器にでも殴られたかのような衝撃が襲う。


 見えないから正確には分からないが、恐らく蹴り飛ばされ、諒真は背後の扉に背中から激突した。肺から酸素が奪われる。息が詰まった。


 今のは……まさか、飛び蹴りか。そんなことまでするのか。


「ちょっ、束原くん大丈夫!? 観詰さん何してるの!?」

「そ、そうですよ! いくら照れ隠しにしてもこれはやりすぎじゃ……!」

「て、照れてなんかないわよ!」


 怒鳴っているのはレンカの言うような理由からではなく、そう勘違いされたことに対する羞恥か何かからだろうが、そんな反応をすればむしろ邪推されてしまうだけだ。


 美依は「こほん」と咳払いし、


「私は別に意味もなくこんなことをしてるわけじゃないわ。渦野さん、これは対話よ」

「観詰さんってそんな体育会系だったっけ……?」


 体育会系だろう、間違いなく。


 普段はうざがるばかりであまり意識していなかったが、美依はけっこう引き締まった体つきをしているし、運動神経にも恵まれている方だ。体育の授業でも活躍している姿を目にした覚えがある。あの赤コートやレンカに追われていながらもこうしてひとに暴力を振るえているあたりからも彼女の体力の程が窺えるだろう。


 鏡野だけでなく美依についても認識を改める必要がありそうだ。

 彼女には彼女の望むパフォーマンスを実現できるだけの身体能力がある。加えて今の美依は鏡野の影響で暴力的になっているから――正直、手を付けられる相手じゃない。

 少なくとも、正攻法では無理だ。実力行使なんて我ながら思考が短絡的だった。


 降参しよう。白旗を上げ、美依が油断した隙をついて鏡野を奪う。あいつさえ封じればこちらのもの――


「束原くんだって一度敗れて私の本気を知れば、私に協力してくれる。そのために私は私の実力を、私の意思を証明しなければならないのだわ!」

「少年漫画じゃないんだから倒しても仲間にならないよ!」


 マズい展開だ。


「いいえ、渦野さん。束原くんみたいな番長キャラは一度倒してしまえばたいてい仲間になるのよ。これは王道よ、セオリーなのよ。暴力しか能のない人間は自分より強い人間に屈服するのね」

「おいちょっと待って」


 いろいろ突っ込みたいのだが。


 現実は必ずしもそううまくはいかない。思うに、実力差を知らしめるなり仲間になるなりしなければ再び主人公の前に立ち塞がる恐れがあるからこそ、そういう風にキャラクター間のわだかまりのようなものを解決しているのではないか。再び目の前に現れた時、今度も前と同じように主人公が勝てるとは限らないのだから。

 まあ単純にその方が燃える展開なのかもしれないが。


 しかし……この考えに則るなら、


「私より目立ってるし、私の魅力に影を差すみたいにクラスの空気を悪くしてるから、個人的にいつかボコボコにしたいとは思っていたのだけど――やっぱり一度徹底的に叩きのめさなくちゃ、今後ともことあるごとに私の邪魔しそうだもの。私には敵わないっていう実力差をしっかり知らしめないといけないわ!」


 ……こうなるか。


「そうです! 知らしめてやりましょう! 懲らしめてやりましょう!」


 鏡野が嬉々とした声で賛同する。


「『叩き割る』という言葉の恐ろしさ、身をもって実感してください!」

「お前ら俺の何を叩き割るつもりだよ!?」


 骨か? 頭蓋か?


「それに渦野さん、これはあなたのためにもなるのだわ」

「え? えっ? 何がどうなればわたしのためになるのかさっぱり理解できないんだけど……?」

「私が束原くんを叩きのめすことで、彼のひねくれた性根を叩き直せるわ。私の仲間になればクラスのみんなだって彼に接しやすくなるはずよ」


 ドアの向こうからの反応に躊躇うような間があった。


「……それは……一理あるかも……」

「おい騙されるな!」


 仲間といえば聞こえはいいが、美依の場合それはパシりめいたものになるだろう。喧嘩に負けて彼女に使われるなんて屈辱的すぎる。降伏もまた同様だ。やっぱり隙をついて奪うなど心情的に抵抗があるし、何よりそのような決着だと美依は納得せず、本人も言うように事あるごとに絡んでこないとも限らない。


 ならば――


「束原くんもこれでクラスに馴染めるし、彼を仲間に加えることで私の注目度も――、」


「分かってないなお前は!」


「!」


 何も見えない空間へ向けて肩から突っ込んだ。

 正面よりやや左。屈辱に耐えなんとか探り当てた美依のいると思われる位置だ。


 自慢げに何か語っていた不意を突いたのだ。これで決着する、いや、してやる――


 つもりだった。


「ぷぷっ」

「……っ」


 軽く避けられた。壁際に自ら激突する羽目になった。


「そんなふらふらで反撃してるつもり?」


 おまけによろける背中に蹴りが加えられ、顔面から床にぶつかった。


 相手の姿も見えない上に、ここまでさんざんやられ放題で動きも鈍く、いくら不意を突いたとはいっても運動神経で勝る美依にとってはなんてことないものだったようだ。

 こうなっては打つ手もない。せめて彼女の姿さえ捉えれたなら――


「ところで、私が何を分かってないって?」

「……俺なんかを仲間に加えたって、悪目立ちするだけって言ってるんだ」


 疲れ果て、あちこち痛む体に鞭打って起き上がる。


「注目されてもそれは一時的なものだ。……すぐ目を逸らされるに決まってる」


 ふと視線があえば意味もなく怖がられ、顔を背けられたり逃げられる。美依の仲間というか配下になってもそれは変わらないだろう。そんな反応は美依にも飛び火するに違いない。


「まあたしかに、あなた、見た目は凶悪だし」

「……凶悪いうな」


 それほどでもないだろうが。


「いろいろあって話しかけづらいっていうのもあるだろうけど、その見た目というか態度が周りに敬遠させてるのも一つの事実ね。だって束原くん、あなた目つきとか悪いし」

「うるせえよ」


 少しでも何か見えないかと目元をこすっていると、ふと、さっき目を細めた際にかろうじて美依の姿を捉えられたのを思い出した。


「ほら、言ってるそばからまたひとのこと睨んで」

「あ……?」


 別に睨んでいるつもりはないのだが――これが、他人にはそう見えるのか。


 自分の目に見えているものが果たして他の人間の目にも映っているのか。そう思って話しかけた相手が実はそうではなく、周りから白い目を向けられる日々があった。だからいつからか、人を見る時には相手が本当に生きてる人間かそうでないかを見極めようとする癖がついていた。


 意識的に睨むこともあったが、知らず知らず、無意識のうちにそうやってクラスメイトのことを見てはいなかったか。目を細めて、相手が何者かを見極めようとして――


「鏡で見せてあげたいわね……ぷぷっ」


 自分で言ってウケている美依である。何が面白いのか、腹を抱えて笑っているさまが容易に想像できて腹立たしい。今は意識的に彼女を睨んでいた。結局その姿を目に収めることは出来なかったが――


「でもね、」


 ひとしきり笑い終えたあと、美依は改まった口調になって告げる。



「そういうのを、人は個性っていうのよ」



 ――希望を見た。



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