第10話 美依篇四 鏡より確かに




               ***




 ――幼い頃、私は自分の容姿が嫌いだった。



 特にどこが嫌いというわけではなく、正直なところ特別嫌いというわけでもなかった。

 祖母や母も可愛いと言ってくれたし、亡くなった祖父も将来は美人になるよと頭を撫でてくれた。


 にもかかわらず、小学生になってすぐ、クラスの男の子たちは容姿を理由に自分をからかい、女の子たちも容姿のことで笑っていた。


 そうして気付いた。家族のくれた言葉はいわゆる身内びいきというやつで、周りから見れば――世間一般的に言うならば、自分は可愛くないのだと。美人だなんて鼻で笑われるどころか、のたまえば嘲笑の的にしかならない。


 世間知らずだった。甘やかされて育っていた。祖母や母の目から見れば可愛く映ったのかもしれないが、鏡を見て、現実を知って――打ちのめされた。

 太っていた。テレビの中のアイドル、クラスでも人気のある美少女……彼女たちと比べるまでもない。そんなもの一目瞭然で、体育の授業で何かヘマをやらかすたびに上がるのは喝采ではなく嘲笑だ。


 だけど父が励ましてくれた。誰になんと言われようと美依みいは可愛い、笑うやつらなんて気にするな。それでも美依が気になるのなら、笑われないように頑張ればいい。


 唯一自分を可愛いと言ってくれる家族に報いたかった。失敗して笑われる恥ずかしい姿を見せたくなかった。恥ずかしい想いをさせたくなかった。誰もから羨望の眼差しを浴びるような、父にとって自慢の娘になりたかった。


 運動を始めた。たとえばかけっこでビリにならないように、すっ転んで笑われないように、足腰を鍛えることから。走って疲れて転んで泣いて、痛みに耐えてまた走った。

 気付けば体育でミスることはなくなっていた。むしろ男の子たちよりも運動ができ、女の子たちからは頼られるようになった。


 もう笑うものはいなかった。

 だけど――




               ***




「そういうのを、人は個性っていうのよ」



 ――決まった!



 これで束原つかはら諒真りょうまは陥落する。我ながらシチュエーションは完璧だ。ぼこぼこにされ実力差を思い知り落ち込んでいる彼に、彼自身が嫌うものを肯定する言葉をかける。それは個性であり、別に恥じるものではないのだと。


 その言葉はきっと彼にとって深い闇夜に射す一筋の光明となったに違いない。

 もしかしたら惚れるかもしれない。

 いや、間違いなく心酔する。

 そうすればこれからはもう少しうまくやっていけるはずだ。


 美依は別に彼のことが嫌いではない。ただ気に喰わないだけだ。

 彼もまた自分のように容姿、見た目のことで周りから悪く思われている。そのことに共感も出来るが、それを改善しようとしないことが気に喰わないのだ。


 生まれ持った容姿という〝運命〟に屈しているようで。


 だけど、向こうが歩み寄ってくるのなら、美依は彼を受け入れてやるつもりで――


「レンカ! 合体しろ!」

「は、はいぃっ!? 合体ってなんですか!?」

「あいつにとり憑け!」


 まさか、


「ちょっ、え!? 何!?」

「喰らえ!」


 そんな風に歩み寄って――もとい、突っ込んでくるとは思いもしなかった。




               ***




 ――希望を見た。


 レンカだ。


 不意打ちに失敗して立ち位置が逆転したことで、諒真は窓際に、美依は恐らく扉の前に移動していた。幸いかどうかは知らないが、自分を倒すことに決めたようで美依は扉から逃げ出さず教室内に留まっている。姿は見えないものの、扉は開かれていないし、何より本人が目の前で喋っていた。

 その美依がいると思しき扉の前から、レンカがにゅるっと姿を現したのだ。


 これまで扉を背にしていたのもあるが、美依にばかり気をとられていたせいで今に至るまで気付けなかった。どうやらレンカはさっきから教室の中と外を行ったり来たりして、外にいる言莉ことりに状況を伝えていたようなので、そのせいもあるかもしれない。


 とにかく、これは盲点だった。

 レンカの姿が見える。


 鏡野きょうのの力の対象は美依だけなのか、それともレンカには何も出来ないと思って意識していなかったのか、なんにせよこれはチャンスだ。

 鏡野に気付かれる前に、一瞬で決着をつける必要がある。


 とっさに言葉が思い浮かばず、こう叫んだ。


「レンカ! 合体しろ!」


 我ながらどうかとも思ったが、イメージとして最初に浮かんだ言葉がそれだった。

 案の定、意味は伝わらなかったが、


「あいつにとり憑け!」


 レンカはちゃんと応えてくれた。


 諒真の目からは、レンカが扉の前に移動したようにしか見えなかったものの――


「ちょっ、え!? 何!?」


 その場所からはっきりと戸惑う声が聞こえてきた。


 レンカが美依の身体にとり憑いた――というと語弊が生まれそうだが、要するに物体をすり抜ける性質を活かして美依と同じ座標に立っているのだ。


 肩からレンカに向かって突っ込む。


「喰らえ!」


 自分の身に起こった怪奇現象に戸惑い、こちらから意識を外しただろう美依に畳みかけるように声を上げた。


 もはや容赦する気はなかった。全力で突っ込まなければまた避けられる。さっきは相手の姿をしっかりと捉えることが出来ず、わずかな迷いが威力を落としてかわされる結果となった。しかし今回はレンカという目印がある。彼女を信じて、全力でそこにぶつかっていけばいい。


「……っ!」


 たしかな手ごたえがあった。

 その瞬間だった。


「やっと――」


 突き飛ばされた美依が背中から扉にぶつかった。その手を離れた手鏡が床を滑る。


「お前を見つけた」




               ***




 突然だった。


 自分に密着というかそれを通り越して一体化した幽霊の出現に戸惑わずにいる方が無理な話だろう。


 その不意を突いた体当たり。レンカには何も出来ないと高を括っていて、彼女の存在を見過ごしていたのが運の尽きだった。

 とっさに前面を庇う動作に移れたはいいが、その拍子に手鏡を手放してしまった。持ち主から離れると効力を失うのか――


「これで今度こそ、終わりだな」


 観詰みつめ美依は今、束原諒真に見下ろされている。


 手鏡は彼の手の中にあり、いくら相手がぼろぼろだとはいえ、さすがにこうなったらもう――打つ手がないと見せかけて、


「えい」

「……っ、おまッ」


 取り出したのは赤コートに砕かれた手鏡の破片だ。


「鏡さん、精神攻撃よ!」


 どこかの幽霊と違って「精神攻撃ってなんですか?」なんて訊かない。この手鏡は持ち主の、使用者の意思を反映するのだ。破片とはいえ効力は変わらないだろう。たぶん。


 現に諒真はこちらを見下ろした格好のまま動きを止めている。美依の望み通りなら、今頃彼は美依の姿に自身を重ねて見ているだろう。精神攻撃はバトル漫画の常套手段だ。誰しも自分自身に語り掛けられれば無視することは出来ないはずだ。


 早速声をかけようとした時だった。


「……ふう」


 と、深く息をついたかと思うと、


「おい、鏡野」


 寒気を感じるほどに低い声だった。


「分かってないなら教えてやる。今、お前の本体は俺の手にあるんだよ」

「こ、この鬼畜……っ! 人質を使うなんて……!」

「うるせえよ。二度と日の目を見れなくするぞコラ」


 その一言が効いたのか――諒真の目が再びしっかりとこちらを捉える。


「ほら、その破片もこっち寄越せ」

「い、いやよ……っ」


 渡すまいと握りしめたら手の平に鋭い痛みがあった。だがそんなこと気にしていられない。これが最後の希望なのだ。


「お前な……そんなもの持ってたってしょうがないだろ。だいたいなんだよ、周りをみんな自分の姿にしてなんになる」

「噂になるわ」

「それも一過性だろ。みんなすぐに忘れる」

「だけど私を見かけるたびに今日のことを思い出すはずだわ。むしろ今日のことをきっかけにみんな私に注目するようになるのよ。そして私の名前が歴史に刻まれるのね」

「黒歴史になるんじゃないか、それ」


 そうつぶやいて嘆息すると、諒真は視線を脇に落としながら、


「……お前、なんでそこまで目立ちたいんだよ」


 言うかどうか逡巡したが、案外こういうタイプは素直に事情を打ち明けた方が懐柔できるかもしれない。


「……小学生の時に、容姿のことでからかわれたのよ。いじめといってもいいわ。だから……見返してやりたいのよ」

「今でも充分だろ……毎朝ひとに挨拶してんだろうが。誰もお前を……まあアホだと思ってるかもしれないが、馬鹿にはしてない」

「アホってなによ」

「そのままの意味だよ」


 ついムキになって言い返そうとしたところ、手の中の破片から「美依さま、美依さま」と呼びかける声があった。耳に当てて手鏡の声を聞く。


「ここは泣き落としでいきましょう。思うに、諒真さまは美依さまの事情を聞けばきっと落ちます」

「……泣き落としって。でも……そうね――」

「おいお前ら、それ電話じゃねえんだぞ」


「…………」


 心の準備をするため呼吸を整えてから、立ち上がって怪訝な顔をしている諒真と向き合う。


「私の目的は何もこんな学校レベルでの人気じゃないのよ」

「そうです、美依さまには事情があるのです」

「……なんだよ、事情って」


 どうせ下らない理由だろ、とでも続きそうな口調だった。


「私はもっと、世界的に有名になって――父に、知らしめるのよ。見返してやるの」

「父……?」


「……つい最近、両親が喧嘩したのよ。今は別居状態。父が出ていって、私は母に連れられて祖母の家で厄介になってるわ」


「――――、」


 喧嘩の詳しい理由は分からない。昔からあまり仲が良くなかった気もする。父は仕事人間で休日も家にいないことが多く、母はそんな父をあまり快く思っていなかったのかもしれない。


 だけど、原因は自分にあるようにも思う。


 母は美依を甘やかして育て――その結果として美依は小学生の頃にいじめられ、父はそうした母の教育方針というか娘に対する溺愛ぶりに反感を覚えていたのかもしれない。美依がいじめられつらい想いをしたのは母に原因があると考えたのだろう。


 恐らくは娘のことで、両親の仲はこじれていった。

 いや、もしかすると父が出ていったのは単に、母を、そして娘を見限ったからではないか。そんな不安がある。自分が、父にとって自慢の娘となりえなかったから――


 なんにせよ、原因が自分にあるのなら――どうにかしたいと、そう想う。


「私は自分の価値を証明する。母との仲はどうなるか知らないけど、それでも」


 有名になって、誰もが注目し関心を寄せる存在になれば、その噂はいずれ父の耳にも伝わるだろう。そうすれば父だって娘を放っておかないはずだ。優秀な娘をそばに置いておきたいと思うかもしれない。そう思ってくれるよう、自らの価値を証明する。

 注目され人気になるとはつまり、世間からその価値を認められるということだ。


「そのために私には鏡さんが必要なのよ。これさえあれば注目を集められるし、何も今日みたいな大事にしなくたって――父に会えれば、精神攻撃でなんとかなるかもしれない」


「……精神攻撃って、お前な」


 呆れたようにつぶやいてから、


「そんなオカルトアイテムに頼らなくたって、お前はその、なんだ……だから、充分目立ってるだろ。クラスの連中だって、こうなってからお前のこと話題に挙げてた。よく見ると可愛いとかなんとか……」


「よく見ると! よく見るとってつまり、これまではちゃんと私のことなんか見てなかったってことじゃない! 今朝だって! 私が髪切って髪型ちょっと変えてきたのに誰も気づかなかったし声もかけてくれなかった!」


「あー……、」


 なんだか諒真が初めて見せる、困ったような呆れたような微妙な顔をしているが――


「き、気付いてたよ! 短くなってたよね!」


 教室の外から慌てたようなフォローが入るも、


「嘘よ。渦野かのさんは束原くんに夢中で気付いてなかったじゃないっ。私、ちゃんとみんなのこと見てるんだから……だから、私のことも見てくれたっていいじゃないのよ」


 努力はしてきたつもりだ。だけどそれに見合うだけの評価が得られない。努力が必ずしも認められるとは思っていないが、それでも何かしら変化はあるだろう。注目されてもおかしくないはずだ。


 勉強の方はまあまあにしても、運動なら男子にも劣らない自負がある。クラスでも浮いていて恐れられてすらいる諒真に毎朝声をかけ、こんな不良にも堂々と接することの出来る勇敢さというか恐れ知らずさをアピールしているのに。


 それなのに、思うような、クラスの中心的存在にはまだ及ばない。

 だから、自分はまた見誤っているんじゃないかと不安になる。

 父のこともその不安に拍車をかけた。


 努力を続けていても、それが自信に繋がるとは限らないのだ。いつだって不安で、たしかな言葉が欲しい。誰かの評価が欲しい。


 あの手鏡はそんな美依に「世界で一番かわいい」と言ってくれたのだ。

 自分の野望を叶えるために必要な道具であると同時に、美依にとって鏡野は家族以外で自分を認めてくれる大切な存在でもある。


 手放したくない。


「……お前、自分の顔、鏡で見たことあるのか」


 ぽつりと、まるで独り言のように聞いていなくても構わないといった口調だった。でもそれは美依にとって聞き逃せない意味を含んでいる。


 鏡を見たことあるのかなんて、己の分も弁えていないのかという侮蔑に他ならない。


「見てるわよ。見るわよ。だからそれ返しなさいよ」

「こいつが見せるものはまやかしだ。何言われたのか知らないが、この妖怪は誰彼かまわず可愛いだの美しいだの言うぞ」

「わたくしが映す女性はみな美しいのです! それはまやかしなどではなく真実です!」


「こんなインチキくさいやつに頼らなくたってな……お前は充分、可愛いよ」


 ふとつぶやかれた言葉は今にも消え入りそうで、うっかりしていたら夢か幻かと思ってしまいそうなほど彼の口から出てきそうにないものだった。とても現実味がない。


 でもそれはたしかな実感を持って――胸の奥に染み入ってくる。

 たぶん、これは本音だ。


「自分じゃ見慣れ過ぎてて感覚が麻痺してるんだ。お前は美人だし、自信を持っていい。クラスの連中もそう思ってるはずだ。ただ……普通は、思ってても直接は言わないだろ。それだけで、別に人気がないわけじゃない」


 たどたどしくはあるものの、


「さっきも言ったけどな、こうなってからみんな、お前のこと可愛いだのなんだの話してたんだ。お前は逃げ回っててちゃんと見てなかったろうけどな」


 言葉を尽くしてくれている。


「けどな、今日みたいに無理やり見せつけられてちゃ、いずれ飽きられる。だから、その……あれだ。本当に価値があるのは、今のこういう一瞬なんだよ」


 今の――

 投影された変化のない映像などではなく。

 この一瞬ごとに変わっていく、目の前にいる美依自身。


「今のお前、俺はかわいいと思う」




               ***




 ――この手鏡はきっかけでいい。


 妖怪なんかが今を生きる人間の人生に深く関わるべきではない。

 これからは自分の力で何かを変えていく努力をすべきだ。

 これまでもそうしてきたのなら、なおのこと。

 そうして頑張る姿が一番魅力的なのだと――



「…………」


 思うところが、ないわけではない。


 ただ、まあ――多少の想定外を含んだものの、〝計画〟の第一段階としては上々の成果だろう。


「……〝演出〟はうまくいったわ」


 窮地に陥った主人公の元に颯爽と現れ、難敵を相手取るヒロイン。

 始まりの、関心を持つきっかけとしては悪くない。


 良い働きをした――と、〝彼女〟はそばに控える人物を振り返った。


「――――、」


 昼食をとっていた生徒たちも徐々に校舎へ引き返しつつあり、ほとんどひと気もなく閑散とした中庭に、その人物は誰の目を引くこともなく佇んでいる。


 赤いコート姿の――少女。

 少女はフードを目深に被っていて、うなだれるように首を傾けている。表情は窺い知れない。何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。分からないが、構わない。


 少女の意思など関係ないのだ。

 今はただ自分の言うことを聞いていればいい。与えられた〝役割〟に殉じていれば、いずれその望みが叶う機会も訪れるだろう。


 とはいえ、今日はもうこれ以上すべきことはない。

 つい先ほどまで中の様子を窺っていた教室から何やら騒々しいやりとりが聞こえてくるものの、そこからは自分の関与する必要のないことだ。気にはなるがあまり長居も出来ない。用が済んだのなら早々に立ち去るべきだ。


 そして役目を終えたなら、少女の存在に意味はない。


「さて――」


 これからだ。


 中庭の木陰から日向に踏み出した〝彼女〟は一人だった。後に続くものはいない。


 昼休みも半ばを過ぎ、中庭を出ていく生徒たちの中に紛れて〝彼女〟はその場を後にする。柔い日差しを浴びてきらめく長い黒髪、反射するような白い肌、涼風に吹かれて髪がなびくたび垣間見える細いうなじが魅惑的だ。ふと気を抜いていると見逃してしまいそうなほどに自然と風景の中に溶け込んでいながら、気が付けば誰もが思わず目を奪われる可憐な容姿をしている。


「……ねえ、今の子……」


 すれ違い、〝彼女〟に気付いた生徒が振り返る。


「あんな子いたっけ……?」


 そんな声も気にならない。今の〝彼女〟は普段に比べれば上機嫌だ。


 肩に落ちた髪を片手でもてあそびながら、鼻歌でも歌いそうな足取りで、


「第二段階。傷心しているところを、優しく接して慰める――心の距離を詰めて寄り添えるように」


 物語のヒロインのように、いつか幸せを掴めるように。

 そのためには二人の関係を進展させる〝悪役〟が必要だ。物語を動かし、立ち塞がる壁となって、打ち倒すべき敵となる存在が。


 この願いを叶えるためならば。


 己がために誰かの幸せを踏みにじる、


 私は、『魔女』にでもなろう――。




               ***




 ――正直、何も感じなかったと言えば嘘になる。



「もしかして……いやもしかしなくても、束原くんって……」

「……んだよ」

「私に惚れてるのね……」



 今の会話もそうだが、何よりいくら事態を収拾するためとはいえ、あの諒真が言葉を尽くして説得したことに驚きを隠せない。


 ともすれば情熱的な告白にもとれる、たぶん心からの本音。

 美依が誤解するのも当然の反応だ。


 もっと他にやり方があったかもしれないが、ああして直截彼女に伝える必要があったのは分かる。


 美依の言葉の端々にはまるで自分の容姿に自信がないかのような、無理に自らを鼓舞している節が窺えた。だからこそ伝説だのなんだの、大袈裟な言葉を使ったのだろう。

 諒真はただ、そんな彼女がきっと心から欲している言葉を伝えただけだ。


 あの時あの瞬間にその言葉を伝えられたのが彼だったというだけで、別に諒真でなくても良かったとは思う。しかし普段あまりしゃべらない彼からの言葉だからこそ感じ入るものがあるのも事実で、やっぱり他の誰かの言葉じゃ美依は折れなかったかもしれない。


 だけど、何が彼にそこまでさせたのだろう。

 問題は解決したのに、少しだけもやっとした何かが胸のうちにわだかまる。

 素直によろこべない言梨である。


「うるせえよ、いいからその破片返せ」


 教室の中から言い争う声が聞こえてくる。


「照れなくてもいいわ。私に惚れるのは世の摂理だもの」

「ぐ……」


 ここで何か言おうものなら、また美依の機嫌を損ねてしまうかもしれないから言葉に詰まる。きっと今頃彼は苦虫でも噛み潰したような顔をしていることだろう。


「墓穴を掘ったといいますか、なんというか……こじれちゃいましたね~」


 と、いつの間にそこにいたのか、声がするから振り返ってみたらすぐそばにレンカがいた。さっきから教室を出入りして中の状況を伝えてくれていたのだが、ぼんやりしていたせいか気付かなかった。


「そうだね……」

「?」


 中ではいったい何が起きているのだろう。目に見えないから、余計に想像してしまう。


「誰がお前なんか!」


 あぁ、とうとう言ってしまった。


「そんなに否定するってことは……」

「今度はなんだよ」

「…………」

「妙なタメつくってんじゃねえよ」


 不思議な静寂に、言梨も思わず耳を澄ませた。


「束原くんは――ロリコン、だったのね」


 …………………………。


「俺のどこをとったらそうなるんだよ!」

「だって渦野さんにばかりかまけてるじゃないの!」

「向こうが絡んでくるんだよ! ていうかな、お前らなんか眼中にねえよ! 俺はどちらかというと年上がタイプなんだよ分かったならもういい加減それ返せ!」


 ほんとにどうしてしまったのだろう。


「そうね……年上にも勝るとも劣らない私の魅力はいいとして、渦野さんはさすがに小さすぎて視界に入らないわよね」


 なんだか無性に扉を蹴破りたくなった。


「なんでこの私じゃなくあの子がクラス委員に選ばれたのか、私は今でも先生のチョイスに疑問を覚えてるわ……ロリコンなんじゃないかしら」

「うちの担任は女だろうが――」


 もういっそのこと教室に戻ってしまおうかと思った。ここにいること、忘れられてる気がする。


「……くっそ……じかに持ってるせいか、もう自分ですら何言ってるのか分からない」


 手の平が痛むと思えば、知らぬ間にキツく握りしめていたことに気付いた。


 扉に押し付けていた顔を上げようとした時、不意に扉が開いて心臓が止まるかと思った。


「まだいたのかよ……」


 ほんとうに苦虫を噛み潰したかのような顔をしていた。その顔を見れただけでも残っていて良かったと思える自分はどうかしているだろうか。

 彼はそんな顔のままひとを押しのけると、後ろ手に扉を閉めた。力任せだったのか、激しいその音にまた心臓が止まるかと思った。


「……っ」


 舌打ちする音。彼はこちらに構わず歩き出してしまう。教室の中では美依が何か怒鳴っているが、結局破片は回収したのだろうか。諒真の手には例の手鏡しかない。


 美依の方も気になったが、どうやら彼女にはクラス委員の件で敵視されているようなので、自分が相手をしてもしょうがないだろう。


 諒真を追いかける。


 もしかすると、今の彼ならもう少し、自分とも口をきいてくれるんじゃないか。

 ――なんて期待がなかったといえば、嘘になる。

 彼女のことを羨ましく思っている自分に気付いた。


「その赤いやつ、」


 一瞬なんのことだか分からなかった。


「えっと……」


 ただの独り言でもちゃんと聞いているつもりでいたのだが、こちらに背を向けながらも、その言葉は自分に向けられていた。


「これ……?」


 前髪を留めているヘアピンのことだろうか。赤といえば、それしか思い浮かばない。さすがに先ほど現れたという赤いコートの不審者のことではないだろう。


 なんとなくヘアピンを抜くと、前髪がさらりと流れて目の前を覆った。前が見えなくなるほどではないが、他人から見ればだいぶ目を隠してしまっているように映るはずだ。


 彼はやっぱりこちらを振り返ることなく、


「……似合ってる」

「ぁ……、」


 たぶん、なんとなくだけど、どうしてそんなことを言い出したのか、その理由に見当がついて。


「ふふ」

「笑うな」


 いつの間にか、胸の奥にあったもやもやとした何かは消えていた。


 足早に歩いていく彼の後に続こうとして、ふと思い出して振り返った。

 若干地に足のついていない少女がこちらを見つめている。

 いや、その視線は去っていく彼を追いかけているのか。


 目が合うと、まるで思い出したかのように微笑んだ。


 無邪気な――見知った笑み。


「あのね、なんとなく聞きそびれてたんだけど……」

「?」

「あなた、『蓮延はすのべ』さんだよね……?」



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