第7話 美依篇一 すべてがMになる。




               ***




 ――その場所は炎につつまれていた。


 音を立てて激しく燃え盛る炎と充満する黒煙によって目も喉もかわき、息苦しい。


 人々の叫び声がどこか遠くに聞こえる。


 スプリンクラーか消火剤か。なんでもいいが天井から白い煙が振りまかれた。しかし炎はその勢いを弱めない。


 何がどうしてこんなことになったのだろう。分からない。事故や災害というのは大抵そういうものなのかもしれない。後にならなければ原因は判明せず、きっと中には何も知らないまま死んでいくものもいる。


 そうはなりたくないと思った。

 先に希望なんて見えなくても、とにかく生き残りたかった。


 死にたくない。


 だってまだ、幸せなんて言葉の意味も知らないから。

 いつかこの手にそれを掴んでみたいから。


 ――生きたい。


 絶望めいた炎を見据えて、多少の火傷は覚悟した。痛くても熱くても、これを突っ切る以外に生き残る道はない。助けが来る前に炎は今いるこの場所まで届くだろう。その前に煙で喉がやられそうだ。奇跡なんて待っていても仕方ない。希望は自分の手で掴みとるしかない。


 自らを鼓舞して意を決した。

 その時だった。


 周りのことなど気にしている余裕なんてなかったはずなのに。


「――呪われてるんだ」


 そんなつぶやきが耳に入ってしまって。


 出口を目指す人々の流れから離れ、ひとり煙のたちこめる一帯へと歩みを進める後ろ姿を見つけてしまう。


「みんな死んじゃえ」


 まるでこれから炎の中に身を投げようとするかのように、咳き込みながらも呼吸を整えるその誰かを追いかけた。


 寸前だった。

 なんとか追いすがり、その手を掴んだ。


 びくりと肩を震わせて、少女が振り返る――




               ***




「……っ!」


 思わず飛び起きた。

 動悸が激しく、まるで全力疾走のあとのように息が上がっている。額と手の平に汗が滲んでいた。


 それとなく周囲の様子を確認する。教室の中は閑散としていて、数人が談笑している。廊下の方は賑やかだ。まさか昼休みなのか。

 眠ったのはたしか二時限目だったから、だいぶ寝過ごしてしまったらしい。誰も注意しなかったのか、それともスルーされたのか……疲れていたから、呼びかけられても起きなかった可能性もある。


 口元に触れてみた。よだれなんかを垂らしていたら恥ずかしかったがそういうこともなく、たぶんいびきなどもかいていなかっただろう。なんにせよ、授業を寝て過ごしたことでまた自分に対する悪い印象が上書きされたに違いない。

 あまり空腹も感じなかったので、再び机に突っ伏して腕の中に顔を埋めた。


 ……たまに、思い出したかのように夢に見る。


 一年前の五月、ゴールデンウィークだった。今となっては判然としないが、セールか何かがあってそのショッピングモールを訪れた。そして巻き込まれたのだ。


 火災――死傷者を多数出した大惨事で、火元は不明、未だ明らかになっていないのだったか。放火という話も聞いた気がする。自分の人生を少なからず変えた出来事だから気にはなるが、正直あの当時、意識不明の状態から目覚めたばかりの頃は火災の原因なんて気にしていられる余裕はなかった。


 なにせ気が付いたら一年近くの時間が過ぎていたのだ。ちょっとした浦島太郎の気分を味わった。一年という時間は振り返れば短く感じるも、その間に社会では様々なことが起こるものだ。ひと昔前なら総理大臣だって変わっていただろうし、知らないうちに新しい法律が出来ていることだってある。

 もっと身近なところでいえば、なんとなくだが毎週欠かさず観ていた連続ドラマが話題にも上らなくなっていたり、割と楽しんでいたバラエティ番組も終わっていた。あのタレントの姿を見ないと思っていたらスキャンダルか何かで芸能界を干されていたらしい。少年漫画などの週刊誌は購読していなかったが、一年も連載を追っていなければ突然の超展開に読む気を失くしたに違いない。


 流行の移り変わりは早い。単純に眠っている間に季節も変わっていて、目覚めたら周りの風景はガラリと変わっていた。


 いっそ玉手箱でもあればよかったのに、なんて思ったこともある。まあ一年じゃ見た目はそう変わらないしあったとしても記憶や感覚といった中身が進むわけでもないから大した意味はないのだが、心情的にはそんな気分だった。


 何度となく、思い出すたびに想う。どうして見ず知らずの他人を――それも、恐らくは自ら死のうとしていた誰かを助けようなんて思ったのか。


 あんなことしなければ、今頃はきっと……なんて。


 とはいえ、あの事件がなくても自分は結局独りだったのだろう。一年も寝入っていたせいかそれ以前の記憶が判然とせず、両親の顔さえロクに覚えていない原因もこれにあるのだが、自分の記憶とは関係なしに、もしも事故以前の自分が独りでないのなら入院している間に誰かしらお見舞いにでもやってきたと思うのだ。


 来たのは叔父と当時の担任くらいのもので、同級生なんて、クラスの代表として教師に連れられてきた名前すら思い出せない誰かだけだった。

 もともと交友関係などなかったのだから、あの火事がなくても状況は今と大して変わらなかったというわけだ。


 それでもどこか、火事以前の自分と今の自分は別物であるような気がしていた。部分的で軽い記憶喪失のせいもあるのかもしれない。寝ていたせいで体力が落ちて、運動能力がだいぶ低下したせいかもしれない。


 叔父が言っていた。死にかけたからか霊的な感覚が以前よりレベルアップしていて、そういう存在を知覚しやすくなり、また向こうからもこちらを意識されやすくなったらしい。お陰で退院後は妙なものに声をかけてしまってつきまとわれたり、それから逃げようと歩き回ってリハビリしたりと地味に大変だった。


 ただ、そういうものじゃない。

 変化は内側にある。


 本質的には変わっていないのだろうが、考え方というか、向き合い方のようなものに一石投じられた気がする。


 夢の中の自分とは違って、今は幸せなんてものを掴めるとは思えない。

 友達や家族……そんなものがいない自分は、あいつの――レンカの言う幸せとはきっと程遠い場所にいる。


 そういう風に思ってしまった一番の理由はやはり、誰もお見舞いに来なかったことだ。


 友達は仕方ないにしても――両親。


 一人息子が死にかけたっていうのに、お見舞いに来た形跡などなかった。叔父いわく、父が入院費や火傷で重篤を負った際の手術費を出してくれたそうだし、もしかしたら意識を失ってる間に顔を見にくらいは来たのかもしれない。それでもだ。叔父は目覚めたっていう連絡くらいしてくれただろう。それなのに、なぜこない。

 こうなってくるともういっそ、実は自分の親はとうに死んでいて、仕送りがあるなんて話は叔父の作り話だと思ってしまった方がまだ救いがあるような気さえする。


 つらいとか、親への怒りとか悲しみとかそんな感情より――ただただ、遣る瀬無かった。




               ***




 鬱屈とした想いから顔を上げようとした時だった。


「あっ、諒真りょうまさんやっと目覚め――」

「うわっ……!?」


 突然レンカの顔が目の前に現れたものだから、驚き思わず大声を上げてしまった。

 さっき動悸が静まったばかりだというのに、また心臓がばくばくと鳴り響く。


「ちょっ、いきなりなんですかもう……っ。びっくりしたじゃないですか」

「くそ、おまっ……」

「それより! 大変なんですよ!」

「あ……?」


 寝起きのせいもあるが、今の諒真はひたすら機嫌が悪かった。

 この幽霊が慌てた様子で大変なんぞとのたまうほどだ。よからぬことが起きた/起こしたに違いない。


「落ち着いて聞いてください! いいですか? いきますよ!?」

「お前が落ち着け」



「学校中のみんながみんな観詰みつめさんに変身しちゃったんですよ!」



「はあ……?」


 観詰といえば、あの観詰か。観詰美依みい。我がクラス一の目立ちたがり屋といっても過言でない、あの観詰美依のことを言っているのか。


 レンカがうるさいので今一度教室を見回してみて――さっきは目覚めたばかりなのもあったし、クラスメイトに興味もないのでなんとなくみんな同じ顔に見えていたのだが――自分の目を疑った。


 観詰美依以外のクラスメイトの姿がなかった。

 というか、みんな観詰美依だった。


 本当に同じ顔だった。


 観詰美依が一人、二人……三人? 廊下にもいる。どういうことだ。


「だから言ってるじゃないですか!」

「これは……夢か? 寝惚けてるのか?」

「現実です。ほら、今度は自分を見てみてください」


 まさかと思った。

 手鏡でもあればよかったのだが、こういう時に限ってやつが見当たらない。しかし顔を見なくても異変には気付いた。見下ろせば、なんということだろう。


「おい、ふざけんな……」

「睨みきかしてるつもりなんでしょうけど、観詰さんの顔だと凄みがないですねー」


 なに暢気なことを。


 眠っている間に着替えさせられたのか、見下ろすとそこにあったのは制服のスラックスではなく、スカートだった。女子の制服だ。これが誰かの悪戯なら容赦なく張り倒したいところだったが、どうもそういうわけではないらしい。


「俺が寝てる間にいったい何が……ほんとにここは現実か?」


 一年近い眠りから目覚めた時以上の衝撃かもしれない。いったい何が起こればこんなことになるのか。ドッキリか。クローンか。人類観詰美依化計画なのか。


「現実です。出来ればほっぺをつねってあげたいところですけど、出来ないので自分でやってください」


 自分でやった。当然のように痛くて頭を抱えたくなった。


 こんなことが起こる原因に心当たりがあったのだ。ありすぎて困るほどに。

 諒真は目の前にいるレンカを睨みつけた。今日に限って、というより、こいつらを連れてきた日にこんなことが起こったということは、原因は考えるまでもない。ただ、こっちの悪霊にそこまでの影響力があるとは思えない。


「おい、あの薄気味悪い鏡はどこだ。叩き割ってやる」

「おっ、落ち着いてください……!」


 聞くまでもないか。今は誰かの――恐らくは観詰美依の手にあるのだろう。


「……とにかく。何があったんだ。説明しろ」

「こうなったのはついさっきです。昼休みが始まって少ししてからで――」


 なんでもレンカは言梨ことりの案内を受けて校内を巡るつもりでいて、言梨の昼食に付き合って一階にある食堂にいたらしい。すると突然、こうなった。説明も何もない。


「使えないな」

「で、でもですね? 諒真さんがぐっすりしてる間にみなさんで鏡野きょうのさんについてアイディアを出しあってて……最後は観詰さんのところに渡ったのはばっちり確認してます。観詰さん、授業中も鏡野さんと何か話してて、昼休みになるとすぐに教室を出ていきました」


 大方、目立つために鏡野をあずかったのだろうが――そこで何か吹き込まれたか。どっちの提案かは知らないが、面倒な事態になった。


 改めて教室内を見回してみて、周りの美依たちの会話に耳を傾ける。


「……お互いの見た目のことで話し合ってるな。つまり、全員がこの事態を認識してるってことか……?」


 これは鏡野の仕業だろうから、この姿になったのも霊的な力が働いているはずで、そういうものに疎い人間には認識できない――逆に、全員でなくても、霊的なものに敏感な連中にはこの異常が認識できているとみるべきか。


 レンカいわく食堂にいる生徒全員が反応したらしいが、もしも普通の人間にも見えているのだとしたら本格的に厄介な事案だ。


 ポルターガイストという現象がある。人が触れてもいないのに物体が移動したり、誰もいないところから異音が聞こえたりといったもので、恐らく世界的にもメジャーな怪奇現象だ。叔父が言うには、この現象は強い影響力を持った霊が媒体となるモノを通して起こす物理現象であり、そのため霊感の類がなくても認知することが出来るという。


 そういえば昨夜、鏡野が似たようなことを言ってなかったか。


「ちょっ、諒真さん!? 何をどさくさに紛れて――! このえっち! 変態! 一応自分の体だからって普通ひとの前で胸とか触りますか!?」

「うるせえよ!」


 周りの視線が突き刺さるが、別に下心があってこんなことをしているわけじゃない。男女の身体の違いを確認するのにはここが一番だと思っただけだ。他はそれこそ人前でさわれるようなところじゃない。


 美依の特別大きいわけではないがそれなりにある膨らみに触れようとした手が、空を切った。胸に手を当てると硬い感触。平たい。

 スカートから覗く肉感的で引き締まった太腿にも手を伸ばしてみたが、そこにあるのは肌の感触ではなく、恐らくは制服のスラックスだ。


「見た目だけだな」

「ほえ? なんのことです?」

「だから、俺の身体に変化があるわけじゃないって言ってんだ」


 手が空を切るのは実際の自分の身体にそんな膨らみがないからそこに何もないのは当然で、足の方も本当はスラックスを穿いているから肌には触れられない。

 いわば自分の身体の上に観詰美依の姿を投影しているといった感じだろうか。


 鏡などにそんな映写機じみたことが出来るのか疑問だが、鏡面の中に映る少女が鏡の外に出ていたくらいだ。光を媒体にし、鏡に映した美依の姿を投影していると考えれば――


「どうするかな」


 なんとなく美依の目的も分かるし、そうだとすれば実害はないように思える。放っておけば勝手に終息するような気もする。正直、あまり自分の力でどうこうしようという気は起こらない。相手が相手だけになんだかめんどくさいことになりそうだからだ。


 ただ、このまま放置するとどうなるだろう。変に噂が広がらないとも限らないし、昼休みが終われば授業がある。教師も生徒もみんながみんな美依の姿……というのは、想像してみるとなかなかシュールな光景だ。


「まあ見た目だけなら美人だし、別にいいか。不気味だが目の保養にはなる」

束原つかはらくんがそんなこと言うなんて意外……」

「あ? 誰だ?」


 気が付くと、近くに美依の姿をした何者かが立っていた。声から察するにあのクラス委員だろうか。どうやらやはり見た目のみの変化らしい。声は彼女のものだ。


「えっと……束原くんだよね? レンカちゃんと話してるし……」

渦野かのか?」

「うん、わたし」

「…………」


 言梨と美依の間には身長差があるはずだが、今目の前にいる彼女は美依と同じ背丈で、しかし声は頭より低い位置から聞こえてくる。試しに美依の顔に手を伸ばしてみると、案の定その手は空を切った。


「わっ」


 指先が髪をかすめたようだが、目に見える美依の姿に変化はない。ずっとキメ顔というか、不気味に微笑んだままだ。手や足の動きには反応するも、表情などの細かい変化は反映されていないらしい。


「そういえば……」


 レンカに向き直った。


 みんながみんな同じ姿になっている中、自分のことを見つけたのは単にこうなる前から同じ席にいて、眠っていてずっと動かなかったためだろう。気になったのはそこではない。普通に話していたが、レンカだけは元の姿のままだ。


「……お前は……そうか」


 こいつには投影すべき実体がない。幽霊だから変化がないのか。分からないが、この状況における一つの目印になりうるかもしれない。


「束原くん、その……それで、どうするの?」

「……どうすると言われてもな」


 放っておいても問題はなさそうだとしても、これは自分のせいで起こってしまった現象だ。叔父に言われたからとはいえ、役目を放棄してしまった感は否めない。


 それに――


「…………」


 美依の姿に隠れて見えないが、きっと今頃、言梨はうなだれているのかもしれない。自分の責任などと考えているのが容易に想像できる。


 もう一度手を伸ばした。今度は美依の首のあたりだ。


「あうっ」


 どうやら彼女の身長を見誤っていたらしい。頭に手を置くつもりが、額と思われる硬い感触が指先にあった。


「も、もう……何するの……っ?」

「ん……」


 言い訳のしようもなかった。励まそうなどと、やっぱり普段やり慣れないことをするものじゃない。まあ彼女の気も紛れたようだし結果オーライか。


「さて……」


 どうしようか。


 とにかく鏡野さえ確保できればどうにでもなるだろう。ただ、その鏡野が今どこにいるのかが問題だ。美依が持っているにしても、この状況下で彼女を見つけることほど難しいものはない。


 そのことを説明したいのだが――そういうことが出来れば困らない。


「……観詰さえ捕まえられればどうにか出来るんじゃないか」

「そうだね。教室に戻るまでに誰が最後にあの手鏡を持ってたか聞いてきたんだけど、やっぱり観詰さんが持ってるみたいだから。でもこの状況じゃ本物の観詰さんが近くにいても、誰が誰だか分からないし……」


 さすがクラス委員というべきか。自分の言いたいことを察してくれた。そう、本物とそうじゃない生徒を見分けるすべがない。


「それ以前に、あいつが今どこにいるかも分からない」


 あの目立ちたがり屋のことだから、やろうと思えば誘い出しあぶり出す手段はいくらでもあるのだろうが、たぶんそれらは自分には適さない。というか、難易度が高い。


「聞き込みとかすべきかな。こういうことになってるから、みんな直前に観詰さん見かけてたら覚えてると思うし……」


 不幸中の幸いか、美依の姿をしているから人相が悪いことを理由に避けられることもないだろう。声だけで判別できなければ少しは会話にも付き合ってくれるかもしれない。ただ、こんな状況とはいえ、やっぱり他人に話しかけるには勇気がいる――聞き込みが効果的なのは分かるが、正直言って面倒だ。


 貸しを作るようで嫌だが、こうなったら――


「ふふん、私の出番ですね!」


 こちらも察しが良い。レンカが薄い胸を張ってみせる。


「この私が観詰さんを見つけ出してみせます!」



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