第4話 夜に背く




               ***




「鏡よ鏡、鏡さん……世界で一番美しいのはだぁれ?」

「それはレンカさま、あなたです」


 ……なんだろうか、この頭の悪そうなやりとりは。


 夜だ。

 悪霊にとり憑かれたり薄気味悪い手鏡を押し付けられたりした一日が、ようやく終わりを迎えようとしている。


 普段ならこの時間、諒真りょうまは何をするでもなく自室でだらだらしたり、学校からの課題を片付けたりと思い思いの過ごし方をしていた。


 だが今夜はどうだ。

 机の上に適当な本を広げ、後ろから聞こえる声には徹底無視の構えをとっている。

 全然くつろげない。


 ここは自分の部屋だ。事務所の二階にあり、そう広くはないが、机にベッド、クローゼット等、どこの部屋にでもあるだろう必要最低限の家具が揃っている。ただ、手鏡をこの部屋に持ってきた際やつに「地味な部屋ですねぇ、まるで住んでる人のそのひとらしさが感じられません」と言われてしまうくらい、その他には何もない。一応本棚に気に入った小説などが無造作に突っ込まれているが、特色と呼べるものではなかった。


「諒真さん、暇です。なに読んでるんですか? 私とお喋りしてください」

「うるさいな、本読んでるんだよ邪魔するな」


 後ろからレンカが覗き込んでくる。口をきけばつけこまれると思って無視してきたが、読書をしてるとはっきり告げればさすがに黙るだろう。実際さっきまでこちらには構ってこなかった。


「読んでないでしょう、さっきから視線が文字を追ってませんよ」

「…………」


 図星だった。


 鏡は仕方ないにしても、幽霊とは厄介なもので、ドアに鍵をかけようと窓を閉めきろうと、壁をすり抜けて侵入してきてはひとを苛立たせる。その上、これはどういうことだ。レンカとは反対の方からこちらを覗き込む着物姿の少女がいる。手鏡は木箱に収めてベッドの上に放りだしているにもかかわらず、それどころか鏡の中から抜け出してさえいるのはなぜだ。


「何もさわれないからやれることなくて暇なんですよー、お喋りしましょうよー」

「わたくしも会話は大切だと思います。話すことで何かわたくしの新しい用途が発案されるやも――」

「ええい、うっとうしい!」


 びしょ濡れになった犬がそうするように激しく首を振り、寄ってくる悪霊と妖怪を追い払う。そんなことしたって意味がないことくらい分かっているが、思わずそうしたくなるくらいにうっとうしい。


 鏡の件はまだいい。でも、どうして自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか……。




               ***




 ――諒真は叔父に悪霊のことを相談した。


「そういえば諒真くん、この前も小さい女の子つれてきてたね」

「え……諒真さん、それはさすがに……」

「うるせえよ、一応あれでも同級生だよ。――そんなことより」


 叔父に言われて商店街に向かい、そこでとり憑かれたこと、レンカは記憶喪失で気が付いたらあの場所にいたらしいこと……。それらを説明し、改めてレンカ自身からも話を聞いた。


「はい、そうなんです。他に何か思い出せないかずっと考えてたんですけど……やっぱり気が付いたらあの場所にいたということ以外、何も……。気が付いたらあそこにいて、占い師みたいな人に声かけられて……このさきで私を幸せにしてくれる人と出逢えるって言われて。そうして向かった先に諒真さんがいたんです。だから諒真さんが私を幸せにしてくれる――私の失くした記憶を取り戻してくれる人なんだと思って」


 特に占い師のくだりが胡散臭いのだが、どうにも彼女が記憶喪失という話は本当のようだ。そうでもなければあからさまに怪しい人物の言葉に従ったりしない。


 幽霊だという時点で厄介なのに、記憶がないとか面倒なことこの上ないと諒真は思うのだが、叔父ならきっとその類まれなコミュニケーション能力(諒真目線)でどうにかしてくれるだろうと期待していた。


 それに、そもそも商店街へ向かえと指示を出したのは叔父だ。それが単に、自分を相談の席から離すための口実だとしても、何かしら理由があるだろう。そのあたりも聞いておきたい。


「そうだねぇ……叔父として休日なのに引きこもってる甥の体を心配してね、運動がてら商店街のパトロールにでも行ってもらおうかと思ったんだよ。それがまさかこんな拾いものしてくるなんてねぇ……」

「おい」

「い、いやぁね? ついでに夕飯の買い出しでもしてくるかなぁ、と。それにほら、最近この界隈じゃ通り魔事件なんてものが起きてるらしいし、パトロールの意義はあるよ」


 言い訳がましい遊里ゆうりは諒真の隣にぽつんと座っているレンカを見つめてから、


「でもなんだろうね、どうにも生々しいというか、死んでる感じがしないね。幽霊らしい気配のようなものも感じない。記憶喪失の件といい、その見覚えのある服装といい……もしかすると案外、本体は病院なんかで意識不明か何かで寝込んでるだけで、亡霊ではなく〝生霊いきりょう〟の類かもしれないね」

「……なるほど」


 その考えはなかった。生霊。生きた人間の魂が肉体を離れ、さまよっている状態だ。たしかにそう言われると死人感がしないし納得できる。


「それじゃあ……私は生きてて、生きた身体がどこかにあるんですか?」

「まだそうと決まったわけではないけどね。……ふむ、まあ少し調べてみるよ。ここ最近で起こった事件や事故を当たって、君に該当しそうな人物を探そう」

「ありがとうございます……!」


 となれば、自分はもう悪霊にわずらわされることもないわけだ。


 やっぱりこういうことは叔父に相談すべきだ。今までもそうして、根気でも追い払えず自分で話してみてもどうにもならなかった幽霊は叔父がうまく説得して成仏させていた。なるべくなら迷惑をかけたくないというのが本音であり理想でもあるが、物事には向き不向きというものがある。一応努力して無理だったのなら、今後は早々に相談しよう。その方がストレスも少なくて自分も助かるのだ。


 何はともあれ、あとは叔父が調べてくれて、いつものように解決してくれる――


 そう思っていたのに。




               ***




 明日もまた憂鬱な一日になりそうだ。

 しかしこの件を叔父に丸投げするわけにもいかない。


「解決するまではとりあえずうちに置いておけばいいんじゃないかな。幽霊だから食費がかかるわけでもなし、いるだけなら問題ないからね」


 ……などと、家主である叔父が言うのだ。丸投げすればいつ解決するか分からないし、きっと自分が動かなければいつまでもつきまとわれる。面倒なことこの上ないが、レンカに関しては自分が何もしなくても勝手にどうにかなるかもしれないという期待があった。適当にほっといても彼女がうろついていれば目につくだろうし、それを見た誰かが彼女について何か知っていれば自ずとその正体も判明するだろう。


 問題はこちらに丸投げされた鏡の方だ。


「……なんなんだよあんたは。なんで鏡の中から出てごろごろやってるんだよ、はしたない」


 明日に備えて早く就寝しようと思えば、ベッドの上に先客がいた。鏡だ。正確には、鏡の中にいた着物姿の少女だ。着物の裾がはだけて細い脚が太腿付近まで覗いている。


 こんな風に鏡の外に出歩いていたから持ち主に捨てられる羽目になったのだろう。なんでも、誰もいないはずの部屋に人影があったとか、そういう怪奇現象も起こっていたらしい。それもこれもこいつが原因だ。


「わたくし自身は鏡ですので、厳密にはその中から出ることはできません。〝これ〟は部屋の照明を媒体にしたわたくしの身体……あなた方の言うところの霊体というやつです。なので、手を伸ばしても触れられない、ここにあってないようなものなのでお気になさらず。わたくしは今こういう開放的な気分でいますよと分かってくだされば、それで」

「……気にするなといってもな」


 邪魔なんだが。

 いくらただの映像のようなものだとしても、視覚的に、こんなものと同じベッドで眠るのには抵抗がある。


 とりあえず、今は表にしてある鏡面に反射した天井の照明が、この霊体を形作っているらしい。つまりどこかの悪霊と違って電気を消せばこの少女自体は消える、と。邪魔なら明かりを落とせばいいだけの話で、それ以前に鏡を裏返せば済むわけだ。


 それにしても。


「……昔の女性はもっと奥ゆかしくて大人しいイメージがあったんだが」


 本来ただのモノであった手鏡に意思が発露するにしても、何か元になるイメージがあるのではないか。こういう姿をしているということは、こいつの人格というか意思みたいなものはそういう人物を原型につくられていると思うのだが。


「ひとを見た目で判断しないでもらえますか? わたくしの〝これ〟はですね、かつての持ち主の姿に似せているだけです。なろうと思えばなんにでもなれます。ただこの姿が気に入っているというか、わたくしらしく感じるからこうしているだけで」


 らしく感じる、というのもまた、この鏡の意思にベースとなった人物の存在があるということではないだろうか。そうなると結局、九十九神つくもがみなんてものは元の持ち主の魂のなれの果て、その残留思念みたいなものが物質に定着したから生じた現象なのだろう。


 何が言いたいかというと、この鏡野きょうのと名付けられた喋る手鏡も、要は意思をもっただけの怪奇現象だということだ。


「それに昔の女性といっても、一人になり鏡の前で自分と向き合えば、愚痴もこぼすしお喋りにもなります。あなたが言う〝はしたない〟……着飾らない素の自分も見せます。ちなみにわたくしは、そうした人が心の底に隠した真実を映す、本音を引き出させる性質も有しています。なにせ鏡ですからね、わたくしは真実を、ありのままの事実のみを映すのです」


 鏡野はどこか自慢げに胸を張ってみせるが、その性質というものが九十九神になった手鏡が発現した怪奇現象の一種だとすれば、一応気に留めておいた方がいいだろうか。


「……それにしてはさっき、思いっきり嘘ついてた気がするがな」

「真実を告げればいいというものでもありません」

「あのー……それって私のことですか……? もしかして遠回しに私が美しくないとかそういう話を……」」

「わたくしが映す女性はみんな美しいのです」

「お前がいちばん嘘つきだよな」


 そんな嘘つきの相手をするよりは、明日に備えてとっとと寝てしまおう。そう思いベッドの上の木箱に手を伸ばすと、鏡野は慌てたように、


「さ、先ほども言いましたが、わたくし、残念ながら映像のようなものなので、手を伸ばしても触れられないのです」

「は?」


 そうは言っても手鏡自体は現実に存在する物体だ。


「なのでいくらわたくしが魅力的だからといっても、諒真さまには何も出来ないのです。悶々とするしかありません。ですが……わたくし、自身の姿を自由に変えられるのです。というわけで、せっかくですから諒真さまの期待に応えようかと思います」

「…………」


 こいつは何を言ってるのだろう。本気で意味が分からない。


 うふふ、と微笑みながら、ベッド上で着物の胸元をはだけて上目遣いになる鏡野。見えそうで見えないが、特に見たいとも思わない。


「妙な気は起こさないでくださいね、レンカさまも見ていますからね……?」

「起こすかよ。誰が……」


 十代前半のように見えるが、全体的に華奢な体格をしている。露わになっている脚だって細い。幼女というほどでもないが、雰囲気から童女とでもいおうか。とにかく幼い。何もかも未発達で妙な気を起こせという方が無理な話だ。


「あら、でも先ほどは小さい方がどうのこうのと――」

「うるせえよ」

「ふふっ、わたくしの前では素直になってもいいのですよ? 望む女性の姿を心に思い浮かべてくだされば、その姿になることもできます。しかし……ほらほら、本当は見惚れているのでしょう?」

「わあ……ちょっ、ちょっと鏡野さん? いくらなんでも大胆すぎやしませんか……?」


 着物の裾をぎりぎりまでたくし上げ、肉付きが薄い太腿を、きめこまかくてきれいな肌を見せつけてくる。裾を上げる際のゆったりとした手の動きといい、こちらを見上げる目と口元の妖しい笑みといい、いったいどこで学習してきたのやら。


 正体はなんにしろ見た目は一応少女なので、さすがにそこまでされて何も感じないというのもそれはそれで男として問題があるだろう。だから、思わず目を逸らしてしまったのは自然な反応で、決してこの鏡のいうような理由からではない。


「俺の気を引いて自由時間を満喫したいのかもしれないが」

「ちょっ、あの、おやめになって――っ!」

「変な声出すな」


 容赦なく木箱の中の手鏡を裏返した。まだ何か言ってるようだが、鏡面を裏にしてしまえば声もくぐもってほとんど聞き取れない。光という媒体も得られないからベッド上から少女の姿も消えている。これでやっと眠れそうだ。


 寝相が悪い方ではないが念のため木箱を机に移動し、さあ電気を消して眠りにつこう、というところで、自分に向けられている恨みがましい視線に気が付いた。


「……どうして鏡野さんとは話すのに、私とはお喋りしてくれないんですか」

「あっちは一応お客様だ。仕事とプライベートは分けないとな」

「えっと……鏡野さんの方が仕事で、じゃあ私は……特別? 特別なんですね! 楽しみを後にとっておく感じですか!」


 仕事だから仕方なく相手してやっているが、プライベートな方は義務でもなんでもないから構う必要はない、という話だ。


 電気を消す。


「あっ、ちょっ、もしかして寝る気ですか諒真さん! お喋りは? それともこれがいわゆるピロートークというやつですか?」

「……布団とか用意しなくてもいいよな、別に。幽霊なんだし」


 ふと気が付いてどうしようかと迷ったが、自分が世話を焼く義理もない。そもそも幽霊に睡眠が必要かも疑問だ。日中あんなに走り回ったのにこんなにぴんぴんしてるくらいなのだから。


 無視してベッドの上で横になる。やかましいのは厄介だが、相手は霊体なので無理やりはたき起こされるようなこともない。こいつのせいで今日は疲れた。少し我慢していれば普段より強い疲労感が眠気に変わり、きっと気が付いたら夢の中だ。


「諒真さんはもっと私に興味を持つべきだと思います」

「…………」


 背を向けて目を閉じる。


「だってこれから一緒にやってくんですから、私のことも少しは知ってた方がいいと思いませんか? そうじゃなきゃ私について調べることも出来ませんし」

「……おまえ記憶喪失だろ。話したって得られるものないじゃねえか」

「で、でも! なんかこう、話してる間に私も何か思い出せるかも……。それに諒真さんのことも知りたいですし!」

「……うるっせえな……」


「あ、いらいらがピークな予感……。でもでも! 暇なんですよ私! なんか眠気もないですし、何もさわれないから自分で暇も潰せないし! ご飯も食べれなければ、それ以前にお腹も空かないんですよ? あ、そうだ、お供えものとかしたら私も食事できると思いませんか?」


 遊里は今頃寝ているだろうか。叔父に押し付けてしまいたかったが、自分で持ち込んでしまった案件で迷惑はかけたくない。だからプライベートなのだ。この幽霊で生じる問題の責任は自分で持つつもりでいる。が、こいつの面倒まで見るつもりはない。


 見るつもりはないのだが……。


「暇ならテレビでも観てろよ。……電源くらい入れてやるから」

「さっき遊里さんが観てたの横で見てたんですけど、あんまり面白くなかったっていいますか、私ってたぶん深夜番組とか観ない子だったと思うんですよねー」


「……っ」


 思わず舌打ちしてしまう。せっかくのひとの親切を。


「それに、深夜に一人でテレビ観るのってなんていうか……寂しい感じしません?」


 これはダメだ。こいつはとにかく他人とお喋りがしたいに違いない。仮にテレビをつけてやっても何か理由をつけてここに居座る気だろう。


「そんなに誰かと話したいなら同じオカルト同士、鏡とでも駄弁ってろ」


 鏡面を表にするとこちらにも騒音被害が及ぶから、どこか別室に持っていくか。いや、それも確実とは言えない。光を取り込んで霊体を作り、二人揃ってこの部屋に戻ってくる恐れもある。霊体には壁も何も関係ないのだ。


「そうだ。お前、外にでも行って来いよ。自分の足で調べてこい」

「ほえ?」


「とりあえず人のいそうなところに行って、自分から聞き込みなりなんなりしてこい。ひとに頼ってないでまずは自分で自分のこと探ってこいって言ってるんだ。お前は幽霊のくせに普通の人にも見えるみたいだからな」


 とにかく人目につくだけでも収穫はあるかもしれないのだ。噂が広がれば、生前の彼女のことを知る人物のもとにも情報が行き渡る可能性だってある。


「もう夜も遅いので人はあんまりいないと思います。というか、私って壁とかドアとか通り抜けられるのに、どうして普通に床の上に立ってられるんでしょうね? もしかして海に潜るみたいな感覚で地中深くまでいけるかもしれませんよ? しかも飛べるから果ては宇宙まで!」


「だからなんだよ。別に羨ましくねえよ。死んでんだから」

「ま、まだそうとは決まってないです……!」

「……っ」


 切迫した声だった。


「え、えっと……でも不思議ですよねー? なんでこうして座ってられるんでしょう。壁とかは普通に無視してすり抜けられるのに、床はそうならないです」

「……無意識に、すり抜ける性質みたいなものを押さえてるんじゃないか。生前の……人間としての感覚があって」


 逆に意識すれば二階にあるこの部屋から一階まで落っこちるというか床をすり抜けて移動できるのだろう。壁も同じく、通り抜けようと思ってそうするからそうなるのであり、そう思わずに触れれば――


「……いや、違うか。霊体なんだから物体には触れられない。やっぱり人間としての感覚があって、無意識で押さえているから床はすり抜けずにいるんだろう。座ってるというよりは浮いてるんだろうな、床のある位置で」

「ほほう、なるほどなるほど」


 ……しまった。つい罪悪感から話に付き合ってしまったが、そんなことをすれば調子に乗るのは目に見えていた。失策だ。


「もう寝る。話しかけるな」

「えー」


 不満気な声が上がるが今度こそ無視を決め込む。


「今度は諒真さんの話、聞かせてくださいよー。そういえば遊里さんは諒真さんの叔父さんなんですよね? ご両親はどうしたんですか?」


 この幽霊は配慮というかもう少し何か察することが出来ないのだろうか。分からないなら教えてやろう。そうすれば大抵の相手は沈黙するのだ。


 敢えて溜めを作ってから、告げた。


「――死んだよ」


 息の止まる気配。


「え、ぁ……、」


 さすがの幽霊もこれで気まずくなるだろう――


「あ、の……その、ごめんなさい……」

「…………」


 本気で落ち込まれてしまい、むしろ気まずくなったのは自分の方だった。

 背を向けてレンカの姿を見まいとしているからこそ、余計に今の彼女の様子を想像して良心の呵責に苛まれる。静かになったのだから喜ぶべきなのだろう。しかし、さっきまでうるさかった彼女がこうも押し黙ってしまうとそれはそれで――


 自分自身に呆れ果てそうだ。

 邪険にしたいのにしきれない。


「嘘だよ、冗談だよ。死んでねえよ、たぶん」

「……ほえ?」

「失踪、蒸発したんだよ。行方不明で生死も不明ってだけだ。俺はもう親の顔も覚えてない」


 返事がないのは良い便りという言葉があるが、死人に口なしとも言う。意味は違うものの、つまり死んでしまえば返事も何もないということだ。ただ、叔父の営むほとんど慈善事業と化している探偵事務所がもっているのは、時折両親のどちらかから送られてくる諒真用の養育費によるものらしいので、単純に連絡が取れないほど忙しい立場にいるのかもしれない。儲かってはいるのだろうが、自由気ままには過ごせない、どこかの大企業の重役か何かなのだろうと諒真は考えている。


 親の顔を覚えていないのはまた違う事情からだが、とにかくそうなってもおかしくないほど、諒真は実の両親と顔を合わせていない。


 自分がこうも他人と話すのが苦手なのもまた、両親に原因の一端があると思う。昔からずっと独りで、家族との会話という当たり前の時間が存在しなかった。叔父も突然押し付けられたからか諒真の扱いを決めかねていて、諒真の方も自分から叔父に接することはなかった。


 たぶん――幼い頃から会話というものをしてこなかったから、今の自分はこうも対人関係に不慣れなのだろう。


「……分かったか? だから俺はこの家にいる。親にほっぽりだされたからな。そして、俺は叔父さんの世話になってる身分だ。だからあの人の言うことは聞くし、仕事も手伝うことにしている。お前らの相手をしてるのもそういうわけだ」


「…………」


 しょんぼりしている姿が簡単に思い描けてしまう。


「もういいだろ、いいかげん寝かせろ。幽霊には関係ないだろうが、明日は月曜日で、俺はお前らのために働かないといけないんだからな」

「……あのー」

「なんだよ」

「諒真さんが寝てる間でいいんで、その、私が諒真さんの身体にとり憑けないか実験してていいですか? そしたらこう、いろいろ自由が利くと思うんで――」


 ……心配した自分が馬鹿だった。頭を抱えたくなる。


 こいつは思ってるよりタフだ。


 眠気もそこまで来ているし、明日のことで釘を刺したからか、こちらが黙り込むとさすがにもう何も言ってこない。今のうちに寝てしまおう。


 静かになると、その気配すら感じなくなった。




               ***




(ひま……)


 シンと静まり返った暗い部屋に一人。

 ……ひとりぼっち。


 木箱に収められた鏡野も沈黙しているし、目の前のベッドでこちらに背を向けて眠っている彼も無論のこと喋ってくれない。


 正直もっと何か話していたかったのだが、明日のこともあるし、何より――彼はあまり気にしていないといった風に語っていたけれど、両親について触れてしまったことを少し反省している。


 いっそのこと、言われた通り幽霊らしく深夜徘徊でもしてみようか。ただ、自分はたしかに幽霊のようだが、だからといって怖いものがないわけではない。夜に一人で出歩くのだっておっかないし、もしも自分よりもそれらしい幽霊に出くわしてしまったら……。


 いや、違う。

 自分が本当に怖いのは――独りになることだ。


 誰もいない、誰も自分を見てくれない、暗闇の中。幽霊なんて不確かで曖昧な存在だからなのか、そうした自分すら見失いそうな場所にいることが恐ろしい。商店街の中でふと気が付いたように、ふとした瞬間に自分が消えてしまいそうで。


 自分はいったい何者なのだろう。今のレンカにはこの名前以外に何もなくて、だから唐突に、最初から何もなかったかのように消えてしまってもおかしくないように思えて、不安で不安で仕方ない。

 そんな自分を誤魔化したくて、紛らわしたくて、とにかく誰かと話していたかった。


「…………」


 静寂だけが横たわっている。


 床に座り、諒真の眠るベッドに寄りかかった。腕を枕代わりにして、形だけでも眠る格好をとってみる。


 眠気はやってこない。気が付いてから何も食べていないが空腹も感じない。それ以前に食べたいとも思わない。食べ物を前にしても食欲は湧かず、疲れも感じないから睡眠だって不要。生きるために必要なごく当たり前のことが、今の自分には必要ない。なぜなら、今の自分は幽霊なのだから。


 食事や睡眠は生きるために必要な行為ゆえか、人はそうすることで幸せを感じるものだと思う。美味しいものを食べたり、疲れた夜はふかふかのベッドが心地よかったり――そんな幸せを感じられる物事の一切が、今の自分には出来ない。だからだろう、まるで自分とは対極にある『幸せ』という言葉に惹かれ、行動したのは。


 何もないから、曖昧だから、とにかく何か拠り所が欲しかった。自分を定める何かがなければ呼吸さえ出来ない。息をすること自体に意味はなくても。


 あのときは深く考えていなくて、ただ自分を衝き動かすものに従っただけだった。

 でも今なら分かる。こんな自分でも幸せを感じられる方法があると気付いた。


 それは、誰かといることだ。

 話すだけでも気は紛れるし、『楽しい』と感じることは出来る。それがきっと幸せで。

 とにかく誰か幸せな人が浮かべる笑顔を見ることが出来たなら、それはきっと自分の心を満たしてくれるように思う。自分もつられて笑えるだろう。


 明るい空気、光、匂い、どこか遠く――原風景。

 家族――


「……ぁ」


 うっすらと何か思い出しかけた気もするが、形だけでも眠ろうとしているせいなのか、すっと意識が拡散していくような、頭の中にもやがかかってぼんやりと霞んでいくような感覚があって、浮かびかけた光景はそのもやの向こうに消えてしまった。


 なぜだか寂しくなって、心細くて、誰かと触れていたい、誰かの存在を身近に感じていたいという想いが湧いた。温もりが欲しい。寒さも何もないのに。


 もやの彼方に消えた想い出を捕まえようとするかのように、手を伸ばした。

 この手は何も掴めないけれど。

 相変わらず空を切って、何に触れることなくその背を透過してしまったけれど――


「おやすみなさい」


 嫌そうでも、少しでも反応してくれたことが嬉しかった。



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