第一章

第1話 再邂




 ふと気が付いた時、少女は見知らぬ街の中に立っていた。


「……?」


 周囲には買い物袋を手にした主婦らしき女性たちが行き交い、どこからか威勢のいい客寄せが響く。どうやら商店街のような場所にいるらしいことは分かったが、少女にはどうして自分がこんなところにいるのか見当がつかなかった。


 直前までの記憶がない。


 ぼんやりしながら立ち尽くしていると、周りから奇異の眼差しを向けられる。その視線から逃れるように俯くと、自分が裸足であることが目に入った。


 やたらと風を強く感じる。それは髪を揺らすというより、自分の存在そのものを吹き飛ばそうとしているかのようだ。近くを人が通り抜けるたび、寒さに凍え震えるように、身体の芯の方から何かが波打つかのような感覚があった。


「――そこの」


「……え? 私?」


 自分に声をかけているのだと気付くのに少し時間がかかった。声の方に顔を向ける。商店街に立ち並ぶ店と店の間の路地だ。そこに、周囲の人々からまるで浮き立つかのような存在感がある。フードを目深に被った黒いコート姿。口元だけが窺え、声もあって女性だと思った。コートの裾は地面に触れるほどに長く、あるいは彼女が小柄で、そのせいかまるで子供が黒い布を被って怪しげな占い師の真似をしているようにも見えた。


 占い師というイメージが浮かんだのは、その人物が人目につかない暗がりに立っていて、足元に大き目の革鞄が置かれていたためだろうか。鞄の上には箱のようなものが乗っている。ビデオカメラのようなレンズがあるが、古めかしく、骨董品のようだ。少なくとも少女が知らないものだった。そのレンズがどこか水晶玉めいて、少女の姿を映している。


 微笑ましく、胡散臭い。少女がその人物から受けた印象はそんな感じだ。


 こんなところに立ち尽くしていればこんな人に声をかけられても仕方ないだろう。少女がぼんやり、どこか他人事のようにそう考えていると、占い師めいたその人物が細い腕を持ち上げ、人々が行き交うその先を指差した。


「この先を真っ直ぐ、商店街の中心、十字路の方へ進んでいけば――その場所で、あなたを幸せにしてくれる人と出逢えるでしょう」


「……しあわせ……?」


 指差す先に顔を向け、ぽつりと繰り返した。


 やはりいかにもといったそれらしい言葉で、そんな朝の星座占いよりもいかがわしいことをはいそうですかと信じられるほどに自分は単純な人間ではないような気がしていたのだが――


 少女はふらふらと歩き出していた。

 自分の中にはこの先どうすればいいのかという指針がなく、どうすればいいのかも分からない。だからこそ占い師の言葉の先に、現状に対するなんらかの回答が待っているような――それこそ本当に、自分を幸せにしてくれる誰かがいるような気がしたのだ。




               ***




「……さて、来てみたはいいが」


 近頃この界隈を騒がせている通り魔事件の影響なのか、休日の午後にもかかわらず出歩いている同年代の姿をあまり見かけなかった。お陰で商店街まで知人と出会わずに済んだが、打って変わって商店街の中は盛況のようだ。


 いつも通りの風景。変わらない、平和な日常のシーン。特にこれといった変化は見られない。


 東西南北四つの入口がある大きな商店街に東口から入り、立ち並ぶ店から声をかけられたりしながらまずは中央の十字路を目指す。そこから全体を見回し、何もなければ来た道を戻りながら買い物でもしようと思った。


 ふだん休日は部屋にこもっている束原諒真つかはらりょうまはその日、世話になっている叔父に言われ、『困っている人』を探していた。

 なんでも、商店街に困っている人がいるから、ちょっと話を聞いてきて、とのこと。

 よく分からなかったが、ついでに夕飯の買い物もしようと思って出てきてみれば――どうだ。


「あ、あのー……あなたが私を幸せにしてくださる方ですか……?」


 とか、


「わ、私を幸せにしてください!」


 だの、


「幸せになりましょう!」


 ……という、ともすればおかしな勧誘だと思われかねない言動をする怪しげな少女の姿を進行方向に捉えた。通りがかる人たちに次々と声をかけ、素通りされ、それでもなおめげずに声をかけ続けている。まるで少女を空気のように無視する人もいれば、適当にあしらいながら横を抜けていく人もいる。いずれにしろ、少女の声に立ち止まり耳を傾けようというものはいないようだ。それも仕方ない。だって、胡散臭い。


 見たところ、少女はまだ中学生かそこらといった風貌だ。長い黒髪を背に流していて、彼女が頭を動かすたびにさらさらと揺れる。どこかの病院から抜け出してきたかのような、患者衣めいた、さむえともパジャマとも思える白い服を身にまとっている。足元は裸足。細く青白い素足を晒している。全体的に儚げで、夜に出くわせば幽霊だと驚く人がいそうな印象を受けた。


 呆れながら距離を置いて観察を続けていると、少女は次第に自分からその辺にいる人に近付いていって積極的に声をかけ始めた。そこまでされればさすがに無視するものはいなくなったが、だんだんと少女に対する反応も冷たくなっていく。話しかけられると嫌そうに顔をしかめたり、野良犬にするようにしっしっと手を振るものもいる。


 中には、たまたま虫の居所が悪かったのか、声をかけてまわっている少女を見てあからさまに顔をしかめるものもいた。がっしりした体格の大男だ。少女もさすがに相手を選んで声をかけているのか、この男だけは敬遠している様子だった。妥当な判断だが、そういう空気を悟られたらしい。男が自ら少女の方へ近づいていこうとしているのが分かった。


「……どうするか」


 商店街の真ん中でビラ配りめいてせっせと動き回っていた少女が固まるのを見て、諒真は少しだけ逡巡する。


 束原諒真は年上に対してあまり物怖じはしないが、年下の相手をするのは苦手だ。見るからに困っていれば放っておけないし、気付いてしまっては見て見ぬふりも出来ない。特にこの少女は出来れば関わり合いになりたくない人種だ。声をかけられそのまま流されてしまうほど自分が押しに弱いとは思わないが、ついてこられたり頼られたりすれば無理に追い払えるほど強気に出られないだろうという自覚がある。


 もともと困っている人を見ると無視できない性分だ。何もせずにいたら後々それを思い出して嫌な気分になる。だが……これが普通の大人などであれば躊躇いなく間に入るなりするのだが、相手が相手だ。大男の方ではなく、少女の方。


 関わってもいいものだろうか。これは直感だが、何か面倒なことになる気がする。実際彼女は妙な勧誘をしていた。自業自得だし放っておこうか。


「……っ」


 迷っている間に、少女の方がこちらに気付いた。近くで立ち尽くしていたのだから見つかるのも不思議じゃない。目が合う。じっと見ていたのだから、その視線に彼女が気付くのも仕方ない。助けを求めているようだ。自身よりはるかに上背のある大男が威圧するようにゆったりと近付いてきているのだから無理もない。


 目を逸らした。泣きそうな顔をしているのが視界の隅に映った。


 しょうがない。


「何してるんだよ、ほら行くぞ」


 困っているところに颯爽と現れ助けに入る……という展開は避けたかった。だから行動は迅速に。その方が少女に変な想いを抱かせないだろうし、悪者扱いして大男との間に遺恨を残さずに済む。


 自分としてもヒーローになりたいわけじゃない。叔父に言われ、仕方なくだ。叔父の言う『困っている人』とはこのことだろう。ならば自分が対処しなければならないという義務感ゆえの行動で、他意はない。


 出来るだけさりげなく、大男の存在には気付いていないという、ごく自然な風に。

 今にも掴みかかって怒鳴り散らしそうな気配を発する大男より先に踏み出し、相変わらず固まっている少女の腕をとった。


 とっさのことで状況に適したうまい言い訳も思い浮かばず、ややつっけんどんになりながらそう言って、少女の手を引いてなるべく急ぎ過ぎずに歩き出す。去り際、気付かれるかどうかという程度に軽く頭を下げて可能な限り手短に謝意を示した。それが逆に気に障ったりせず、そのまま水に流してくれればいいが――


(……ふう)


 さすがに、緊張した。

 殴られるくらいの覚悟はしていたのだが、男は小さく舌打ちするだけでその場を去っていった。諒真は振り返らず、とにかく一刻も早く男から離れようと足を動かした。しばらく少女の手を引いたまま西口へ向かう。


(あれだな……叔父さんの言ってた『困ってる人』ってのはあの人の方だったみたいだ。どっちかっていうと、この子は『困った人』だ)


 自分の考えに苦笑しながらちらりと後ろを見やると、少女は安堵しきったような表情で手を引かれるままついてきている。一応まともな感性は持っているらしい。


 ともあれ、つきまとわれても厄介だ。適当なところで別れ、買い物でもして帰ろう。

 問題はどう別れるかだ。こんなことをしでかしてしまった以上、簡単には逃がしてくれそうもない。自分で蒔いた種だがさてどうするか。


 そうやって軽く先のことに頭を巡らせている時だった。


 まるで何かを告げるかのような強い風が吹き、商店街のどこかに貼られていたのだろう一枚のビラが飛んでいく。それは諒真の顔を横切って背後へ。

 それはなんでもない町内会のお知らせか何かのビラだったが、つい反射的に、そのビラの行方を目で追いながら振り返っていた。


「ひゃ……っ」


 その際、気のせいか――少女の顔にビラが貼り付いたかのように見えた。実際激突コースだったのだが、ビラはなにものにも妨げられることなく、風に乗って商店街の中央へと消えていった。


「……?」


 きょとんと首を傾げる少女と目が合い、諒真は目を逸らしながら掴んでいた手を放す。


 気が付いたらもう西口の出口だ。せっかくだしこの辺でいいだろう。このまま商店街に引き返して買い物をしたいところだが、そうすると少女がついてきかねないし、面倒だが急がば回れだ。いったん出て、少女を撒いてからまた戻ってくることにしよう。


 そう思い、諒真は別れを告げる意を込めて適当に手をひらひらさせながら、その場を離れようと歩き出した。


「ま、待ってください……!」


 案の定、だ。無論、待つつもりなど毛頭ない。妙な絡まれ方をする前にさっさとおさらばしよう。恐らくこの少女なら呼び止めるだけでなく、こちらの腕なり服なりを掴んで物理的に引き留めようとしてもおかしくない。捕まればおしまいだ。迫ってきているはずだがやけに気配を感じない。それでも諒真は距離を離すために歩調を上げ――


「!?」


 ぎょっとした。


「あ、あっれー……?」


 驚き絶句する諒真と違って、手を伸ばした方の少女は間抜けな声を上げていた。だがそれでも一応、自身に降りかかった現象――いや、自身が振りかざしている現象に戸惑っているようだった。


「え、えぇ……っ? も、もしかしてこれって……」


 何が起こっているのか、諒真もよく呑み込めていないが、見たままを説明すると。


 少女が諒真を引き留めようと伸ばしたであろう手は空を切り――それどころか、掴もうとした諒真の服すら通り抜け――その手は、諒真の背中から胸を貫通していた。


 見下ろせば、自分の胸の前で少女の手がにぎにぎとうごめいている。


「なっ……、あ?」


 痛みも何もなく、動くことには支障がなさそうだ。このまま歩き出せばすんなり少女の腕は抜けるだろう。何事もなかったかのように。だから逃げろ、今すぐ。そうは思うのだが、あまりの出来事を前にして、諒真は固まってしまっていた。心臓がばくばくいく類のものではなく、息が止まってしまうような驚きだった。


 たぶん、これは、あれだ。衝撃から立ち直り、少しずつ冷静になってきた。突然すぎて動じるというか固まってしまったが、〝こういうもの〟自体には耐性がある。なんてことはない。


 後ろで少女が叫ぶ。



「もしかしてあなた、幽霊ですね!」



「お前がな!」



 あんまり冷静じゃなかった。



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