彼女は、清潔そうな膝まで長いストレートヘアを靡かせながら振り返りざまに、真夏のそよ風に似た笑みを浮かべた。

「あら?カイザキ君、もう帰るのかしら」

 驚くかもしれないが、この話は時候の挨拶や前回のあらすじ等もないまま唐突に始めさせてもらう。

 というのも、この展開自体そんなものを語っている暇も考えも及ばないほど唐突な出来事だったからだ。これも夏だからと簡単に片づけれれば良かったのだが。

「そりゃ何にもすることないですからねぇ、委員長さん」

「あら、一年生で幽霊部員だなんて、感心しないわね」

 彼女、七瀬遥香は我らが一年三組の委員長である。

 面倒見もよく誰に対しても優しく接する、まさに委員長の鏡だろう。彼女の立ち振る舞いはインフルエンザもびっくりの感染力を持っており、任命されて僅か一週間という間にクラスの女子の中心的人物にまで登り詰めた。


 カバンを後ろ片手で持ち、髪を耳にかけて変わらない笑顔を向けている。

 そういや、七瀬はこんなところで何をやってるんだ。

「俺は科学部ですよ、一応。今日は活動ないですけど」

 俺はそっけなく返事をした。

 ジリジリと日差しが皮下痛覚にちょっかいをかける。暑い、必死で身体を冷ますまいと吹き出る汗をハンカチでぬぐう。

「だから帰ると?」

 対して、くったくなく笑う七瀬はなぜこれほど清々しい表情でいれるのだか。

「ここにいる理由もないでしょう。補習授業も今日で最終日なんで、残り僅かな夏休みを満喫しますよ」

 何を言わせたいんだ、俺に。

「それは残念ね」

「あの、残念とは一体何がでしょうか……?」

 七瀬は上目遣いで俺に迫ってくる、反射的に片足が後ずさる。

 春先から七瀬と関わるには抵抗がある。というのも、こいつの行動が読めないからだ。とりわけ印象が悪い訳ではないが、昔からこういったタイプの人は苦手だ。

 だがそれ以上に、何だかこう、とっつきにくい。そんな曖昧な理由である。

「手紙、見なかったかしら」

 手を後ろで組んで、七瀬は身体をわずかに傾けた。

「手紙……ってこれか?」

 ポケットから例の紙切れを出してみせた。手紙と言われて思い当たるのはこれぐらいだ。七瀬は乱雑に入れ原型をとどめてないそれを見るやいなや、またこちらを見返す。依然にこやかな表情は保っているが、心無しか目が笑っていないように見えたのは気のせいだろうか。

「なんで知ってるんですか?」

「何で一年七組に来なかったのかしら」

 聞いちゃいない。

「人違いだと思ったからですよ。それに見たのは昨日で……って、何で知ってるんだ」

「それは……秘密」

 そう言うや否や彼女は口元に人差し指を立ててウィンクをする。

「とにかく、帰ります。じゃあ」

 長話する理由はない。校門前は下校ラッシュで犇めく中、立ち塞がる彼女をぐるりと遠回りして出口へと向かう。

「……帰らせないわよ」

 底なし井戸からとどろくような声とともに、思い切り背中をどつかれた。


 なんだ、この感覚は。

 痛い、いつぞや頬をつねった時とはわけが違う。

 背骨をこするように何かが刺さっている。平らで冷たいそれは違和感をまき散らしながら身体の深部まで侵攻している。身体の芯に妙な感覚が走る。

「ふふっ、痛そうね。どう?背中をえぐられる感覚は。この時代の人間も、私たちと何ら変わりないのかしら」

 七瀬はそうつぶやくと、嗤いながら勢いよく何かを引き抜いた。俺の身体から何かが引きずり出された。えぐられる感覚?こいつは何を言っているんだ。

「まだ終わらないわよ、あなたの夏は」

 俺は支えを失った案山子のように倒れこんだ。背中から何かあふれ出てる。必死に手で押さえるが、依然生ぬるいそれは破竹の勢いで噴き出している。

 全身の痺れより、こいつの嗤い声より、流出する血の感覚が恐怖だった。

 意識が遠のく、夏だってのに寒気がしてきた。

 瞼が重くのしかかり、ぼやけた視界は次第に狭まっていく。

 何も出来ぬまま、ただただ冷たい暗闇に突き放された。

 .....

 ....

 ...

 ..

 .



 何だか、ものすごく面白い夢を見ていたような気がする。

 見えるのは何の変哲もないまっさらな天井。

 耳障りな音は、不定期な僅かばかりの涼しさを運んでくる風鈴の音色と、それを阻害するニイニイゼミの攻防戦のようだ。

 かすかに陽炎のようにゆらめく視界の先で、横目に見える机にはワークやらプリントの山。今にも崩れるのではないかという不安定な課題山からは異様な殺気を感じる。柱にかかっている日めくりカレンダーは二十七日を指していた。

 この乱雑に散らかった統一感の欠片もない部屋は、よく見慣れた場所。紛れもなく俺の自室だ。


 天井を見つめながら、俺は物思いに耽っていた。

 そう、あれは夢だ。坂田が北高の生徒になっていたり、クラスメイトが赤の他人とすり替えられていたり、いつの間にか指定制服が学ランになってたり、ナイフで委員長に襲われたりしたのは全くの別世界。妙に現実味のある夢だったが、逆に夢でなきゃ説明できんのだから、夢で間違いない。まったく、脳みそも厄介なことをしてくれるよ。


 とまあ、これからが本当の八月二十七日だと、このときはそう思っていた。

 このときに真実に気付いてても、意味はないが。

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