第1章
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八月二十六日
朝、俺は例のごとく熱気に纏わりつかれながら目が覚めた。
朝食を食べている間もジリジリと鳴く蝉の声は、今日も俺の脳内を暴れまわり思考にちょっかいをかけつづけ、逃れるように朝食を食べ終わりそそくさと家を出た。
半袖のカッターシャツが汗で滲みながら、必死で自転車を漕ぐ。というのも、日差しが蚊よりもたちの悪いかゆみを引き起こしており、頬をなでるわずかながらの涼しい風欲しさのためである。
学校まで二ブロック、赤を示す信号をにらみつつ横断歩道十歩前ほどのあたりで自転車をとめた。
暫くしてすぐ前に自転車を止め汗を拭く青年に見覚えがあった。新しく自転車を買ったのだろうか、どうやら徒歩通学をやめたみたいだ。俺は自転車をすぐ横に止めた。
「よう、坂田」
たまにはこっちから肩を叩いてやるのもいいだろう、そう思ったのだが
「ん?海崎か」
驚いたことに、坂田はのんきな男子から真面目な青年へと変わったようだった。黒縁メガネ姿は、新鮮だが違和感だらけだ。
「なんだお前、とうとう自分のアホさ加減にも気が付いてメガネにしたか」
「久々に会って第一声がそれか。また視力が落ちて新調したんだ、どうだ?カッコいいだろ?」
そう言い、わざとらしくメガネの鼻当て近くの部分を押し上げてみせた。メガネの場違い感がにじみ出てるぞ、昨日までのほうが良かった。
「何言ってんだ海崎、昨日は家にいたぞ」
恰好がいつもと違いだけでリズムも狂うな、昨日学校で課題が終わったことをベラベラと自慢してたのは何だったんだ。
「ん?そりゃ一体何の冗談だ?そんな課題なんて知らないぞ?」
そういいまた前を向く、どうやらやり残した課題が見つかったのだろうな。夏休みを盛大に楽しむなどと威勢良く言っていた手前、俺と顔を合わせるのも心苦しかろう。そうかそうか。
「まあ気を落とすな」
俺は坂田の肩をひとたたきして、
「何なら、残っていって課題やるか?互いに見せあって貸しはパーだ」
「だから何の課題だ。どこに残るんだよ、そんな用事覚えてねえな……」
ああ、そうかい。しばらくは何を言っても耳を素通りするくらいショックだったのか。ならば俺は手を引こう。何も言わないことにしてやるよ。
信号が青へと変わり、じゃあと一声かけて先に学校へ向かった。
驚いたことに、いつの間にか学校中の男子高校生の間ではネクタイをしないのが主流になったようだった。ネクタイをきっちりつけてくる真面目男子もネクタイを取り去り首元のボタンを開けているし、廊下を体育教師が歩いてもビビることなく堂々としているではないか。
もっと驚いたのは、クラスメイトの半数以上の名前が出てこなかったのだ。
「……あぁ、おはよう」
この何気ない挨拶にもかかわらず、声が強張ってしまう。
ここは間違いなくいつもの教室、一年三組だ。突如として名簿がすっぽり抜けるとはな、なんだか入るクラスを間違えたようだ。とうとう俺も熱中症にでもなってしまったのだろうか。次の休み時間に自販機でジュースでも買っておこう。コーラでもいいよな?
そうして漠然と授業をこなし、今は若干長めの中休みである。
「なあ河内、聞きたいんだが」
「うん?どうしたんだい?」
カバンへ化学の教科書をしまい、入れ違いに貫禄のある現代文の教科書を取り出しながら、俺は一つ疑問をぶつけてみた。
「坂田のやつはどうした?登校中はいたはずだが」
「坂田……あぁ中学の時の。それがどうしたの?」
「どうもこうも、いないじゃないか。教室に」
朝、確かに俺は坂田をみた。自転車に乗ってメガネをかけてはいたが間違いなくあいつだった。それなのに、一時間目が始まっても全く来る様子もない上に、坂田の席には別のヤツが座っていた。いつ席替えしたっけな、それとも単に記憶違いだろうか。ならいいけど。
「いないって、そりゃそうだよ。坂田は北高にいるし」
北高?あそこは県内トップレベルの高校じゃなかったか?
「そうだっけな……トップがどこかは知らないけど、ここ東高よりは下だったはずだよ」
そうか……ってそうじゃなく、なぜあいつは北高にいるんだ?不自然だろ、どこをどうなれば東高の生徒が別の高校に行かねばならんのだ?
「いいや、坂田はもとから北高の生徒だよ」
平然とした口調の河内はどこか困ったような顔をしてみせた。
今日はどうしたってんだい。クラスからは完全アウェー感が漂ってるし、坂田が来ない上に河内の言葉は霧で曇っている。首筋の裏側あたりに妙な冷気が走った。
息苦しい、そう思い首元に手をかけたとき、これまでの違和感がかわいく思える事態が発生しやがる。
「ど、どうしたの海崎?」
俺は床を凝視し固まっていた。信じられるわけがない、こんなの。
「……なあ河内」
俺の低いトーンの声に、河内が首をかしげる。
「俺はいつから、ネクタイをしてない」
この次の返答ですべてがわかる、わかってほしい。
だがしかし、河内の口から発せられた回答は、俺の予想の斜め上を大きく擦り抜けていった。
「朝からだね。もっと言えばこの高校、ネクタイはないはずだよ」
なんてこった。
おかげでそれからの授業をまったく何一つ聞けやしなかった。ためしに頬やら耳やらを力任せにつねってみたが、わかったのは尋常でなく痛いってことだけだった。教室掲示の名簿表には見覚えのある名前が十にも満たなかったし、開いたこともない生徒手帳を片っ端から読み漁ったが何処にもネクタイの表記すらない。どんな声も物音も俺の耳を素通りし、廻り続ける思考を止める手助けにすらならず、気がつけばホームルームさえ終わって、とっくに放課後になっていた。
これから遊ぼうだのなんだのってご機嫌な雑音が過ぎ去ってまもなく、俺はようやく鞄片手に廊下に足を踏み出した。
そうして行く当てもないまま四階から三階への踊り場にたどり着いたとき、俺はあることに気が付いた。たしかそう、ズボン右ポケットだったか。
ガサリと乾いた音とともに取り出された紙切れ、昨日の下校時に見つけたラブレターもどきのメモ書き。
『七月二十七日の放課後、一年七組で待ってる。』
『東高校,一年三組,窓側最後尾の席へ』
文面とは裏腹に温かみのある丸文字で書かれたメッセージ。だが、これ以上考え直す必要もないだろう。この通りなら一年七組には俺を待つであろう誰かがいた、だがそれは過ぎ去った事実だ。誰かが俺を呼びつけたところで、誰かが俺に何かを伝えたとこで、それは今現在俺の思考の範疇にはないからだ。
おそらく送り主は、他の誰かと勘違いしたのだろう。校内トップクラスの秀才か、スポーツ万能な青少年か、心優しき少年か。誰でもいい、だが俺ではない。人違いなんてよくある話だ、名指しがない辺りでそう判断するのが妥当だろう。
紙切れを折りたたむことなくポケットにしまい込み、俺はそのまま帰路についた。
帰るべきでなかっただろう、いまなら理解できる。過ぎ去った事とはいえ確認すべきだろう、なんてバカなことしちまったんだか。ってな。
自転車を引き半開きの校門へと足を向けると、そいつはそこにいた。
制服姿の少女が一人、流れに取り残されたようにただ立っていた。
こちらを凝視し、鈍い金属光を放つ何かを握りながら。
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