湖を抜けた先4

 ――パン、と静寂を割くように彼は手を叩き始めた。何に対してなのか、彼は静かに笑いながら拍手を続ける。


「素晴らしい」


 低い声が音のない世界に響き渡り、俺はそれだけで心臓がバクバクと高鳴るのを感じていた。


「短期間で二つの世界の構造をよく見抜いた。流石、私が見込んだだけのことはある。異界の干渉者、リョウ。私は君がここに来るのを首を長くして待っていた」


 キースの姿をしたドレグ・ルゴラは、わざとらしく叩いた手を止めると、今度は両手を大げさに広げて歓迎を表した。

 それから両手を腰に当て、「だが」と前置きする。


「君は人間じゃなくなってしまった。とてもよろしくない。君は君でなければならない。下劣な金色竜などと同化する必要などないのだ」


 下劣、とは聞き捨てならない。歯を食いしばり、唸ってみせるが、この程度で彼は動じない。それどころか、哀れみの目で俺の方を見上げている。

 こうやって見ると、本当に彼がかの竜の化身なのかわからなくなってくる。ただ、身体の奥底に秘めた黒い感情が溢れていて、おきなが言うところの、『煮えたぎるほどの感情を持ってしまったとしても、それを抑えておく心を持つ』状態に達したのではないかと推測する。

 キースはおもむろに右手を掲げた。

 何をするつもりだ。警戒する中、彼は宙に魔法陣を描きだした。魔法も使えるぞと、それはさっきも夢で見た。


『凌、こっちもシールドを張れ』


 テラの声で我に返り、ワンテンポ遅く魔法陣を描き始める。


――“巨大なシールドで、攻撃を全て押さえろ”


 俺が日本語を書き込んでいる間に、キースもやはり文字を刻んでいた。レグル文字――けどしまった、竜石を砕いてしまった。文字が、なんとなくしか読めない。

 何て書いてある? 同化? 金色竜がどうしたって?

 しかも早い。俺の魔法陣が発動するよりもずっと早く、キースの魔法陣が光った。赤黒い光を帯びた魔法陣が薄暗い世界を照らすように煌々と光り輝いた。

 かと思うと、俺の身体は痙攣するほどの衝撃を受ける。

 魔法陣と同じ赤黒い光に包まれた俺の身体は、凄まじい力で空中に固定された。

 “スライス”される。

 咄嗟に思った。身体が何度も切り裂かれ、バラバラになってしまうと脳が警告を出した。


『ダメだ、凌……ッ! この魔法は』


 テラの声が途中で途切れ、意識が離れていくのを感じる。

 身体が千切られ、細胞が解けていく。巨大化した身体がどんどん縮んでいくのがわかる。

 自分の声が咆哮から悲鳴に変わり、鱗が消えていく。背中の羽も、どんどん小さくなって肩甲骨に吸い込まれ、かと思うと自分を包んでいた硬い皮膚が徐々に人間の肌そのものになっていって。

 もしかして、これは。

 つまり、俺の覚悟など全部無駄であったかのように。

 身体が、言うことを聞かない。金縛りに遭ったかのように自分の意思で動けない。



 テラとの同化が、せっかくの竜化が解かれる。



 赤黒い光がフッと消えると、俺の身体は解放されると同時に、湖面へと落下した。バシャンという音が耳に響き、また水中へ戻されると思ったが、そんなことはない。まるで分厚いガラス板のような冷たい感触が背中に当たり、全身を強く打ち付けたショックでしばし動けなくなる。


 人間に……戻ってる。

 一糸纏わぬ完全無防備な姿で、キースの前に横たわっている。


 何だこれ。

 どんなプレイだよ。

 離れたところに、やはり竜の姿に戻って倒れるテラの姿が見えた。

 嘘だ。こんな簡単に引き裂かれるなんて。グロリア・グレイのときも酷かったが、これはもっと別の次元で酷すぎる。


「この下劣な金色竜のどこが良いのだ」


 キースの足音が耳元でして、俺は顔を上に向けた。

 目が、光っている。

 黒かった瞳が赤々と光り、俺を見下しながら薄ら笑いを浮かべている。


「下劣な金色竜のどこが良いのだと聞いている」


 まるでそれは死刑宣告のように、俺の頭にしっかりと響いた。

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