黒い湖2

 モニカは俺がセリフに反応するより先に、エアバイクめがけて走り出した。その背中が酷くもの悲しい。彼女の言い分はわかる。けれど、今は。

 俺は自分が剣を突き刺した肉塊と、血だらけのままヘドロの中に放り投げた剣に目を落とし、それから強く目をつむった。


 シバ。

 芝山哲弥。


 俺は、お前が見ようとしたものを見に行く。

 それが例えドレグ・ルゴラの企みだとしても。

 戻れる保証が皆無だとしても。

 この船はもうじき時空の狭間に呑まれる。

 弔う余裕が微塵もないのを許してくれ。

 お前のことは絶対忘れない。

 絶対に。

 絶対にだ。


「おい、リョウ! 早くしろ!」


 ノエルの声にハッとして顔を上げる。

 先に辿り着いていたノエルは倒れた機体を起こしてそれぞれにエンジンをかけ、その一台に跨がってヘルメットを被り待っていた。

 俺はすまないと手で合図し、ヘドロを避けながら二人の元に急いだ。


「位置情報もわかるし、確かにこっちの方がいいのかもな。飛行魔法ができるわけでもないし、あの真っ暗闇の先に地面があるのかも怪しい。けどさ。ホントにあんなところに行く気……? 理解できないな」


 パネルを見ながらノエルが呟くと、


「救世主様がお決めになったことです。私たちは全力でサポートする。そういう約束だったじゃありませんか」


 さっきまでの弱気を振り払うように、モニカが言う。


「悪いな。付き合わせて」


 俺も言いながらエアバイクに跨がる。ヘルメットを被るモニカを横目に、さて俺もとハンドルに引っかけたヘルメットの紐を手に取って被ろうとしたその瞬間、ガクンと船体が前方に大きく揺れた。

 エアバイクが傾くのを足で踏ん張って必死に止める。テラが乗るはずだった一台が甲板を滑り、またヘドロの中へ突っ込んでいく。


「浮上しろ!」


 ノエルが叫んだ。

 そうだった。飛んで船体から離れれば傾きの影響は受けない。

 思い切りエンジンを吹かして急浮上、


『乗らずに飛んだ方が早くないか』


 頭の中でテラが言う。


「そりゃそうだけど、単独行動したら二人の位置を把握できなくなる」


『面倒な』


 呆れたように言われたが、二人を見捨てるようなことは絶対にできない。

 機体は高く上がった。

 ノエルとモニカはとうに帆船から脱出していた。

 傾いていく帆船に巻き込まれぬよう、更に急上昇する。

 足元を見ると、地面が途切れているのがハッキリとわかった。白と黒。光と闇。二つの境目に接した船が激しく壊され、崩れるようにして暗闇に呑まれていく。

 船体が割れる音はまるでこの世の終わりを告げているかのような轟音で、塞げるなら耳を塞いでしまいたくなるほど全身に響いた。

 砂煙は空へ届くほど高く上がり、その衝撃の激しさを伝えてくる。

 ゴーグルで視界を守っていても、砂煙で前が見えなくなる。最早、ノエルとモニカがどこにいるのかさえ、目では確認できない。二人とも無事は無事なんだろうけど。手元のパネルにある位置情報は、確かに近距離で二人が飛行していると伝えている。

 衝撃波が何度も襲った。

 船体が壊れていく、そのときの衝撃が空気を伝って、エアバイクごと身体を揺らす。

 次第に砂煙が納まり、徐々に視界が晴れてきたところで、俺は息を飲んだ。



 黒い湖だ。

 恐ろしいまでの黒。

 今まで見たことのないくらい色のない世界。



 何百メートルも下に広がる黒い湖に、たくさんの砂と共に帆船が落ちていくのが見える。

 音もなくゆっくりと落ちていく帆船、高く上がる黒い水しぶき。

 あんなに大きなモノが落ちていったのに、全てを呑み込んでも波一つ立たない水面は、静けさの中におぞましい狂気を含んでいるようにさえ思えた。



――『たくさんの鬱憤とたくさんの不満、欲望、嫉妬、憎悪、恐怖、悲哀。そういう暗い感情が二つの世界からこぼれ落ちてできた場所』



 黒い湖の上に、レグルノーラが浮島のようにぽつんと乗っかっているのが見える。

 まるで全てを掌握されているかのような、小さな世界。


 そして、湖の中に透けて見えるのは――。


「リアレイト? どういうことだ?!」


 俺は叫んだ。

 見えたのは見慣れた街並み。俺たちの通う翠清学園高校、丘の上の高級住宅地や美桜のマンション、それから坂の下の雑多な街。そこで生きる人々の姿が見える。

 俺たちはリアレイト、つまり“表”から下に落ちてくるわけで、だのにどうして足元に街が見えるんだ?


『違う! 凌! 君が見ているのは――』


 テラが頭の中で叫ぶ。

 違う?

 何が――。



 目の前が突然真っ暗になった。


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