95.すべてを失う

すべてを失う1

 他人の目がなければ、俺はきっと美桜を押し倒していた。

 途轍もなく長い間、彼女とは違う時間を生きてしまった気がして、俺はとても気が気じゃなかった。

 久しぶりの美桜はとても柔らかく、優しい匂いが溢れている。胸に抱きつく彼女の長い茶髪を優しく撫で、俺は至福のひとときを堪能した。


「こんなの見せつけられたら、諦めるしかないじゃん」


 涙声で須川が言うのが耳に入る。その中に憎悪や嫌味は含まれていなかった。若干の微笑みと嬉しさが混じっているように聞こえた。

 俺は須川を見ることもできず、無言で返した。


「時間切れ」


 と須川は言って、そのままモニカの膝の上から消えた。“向こう”の世界に戻ったのだろう。

 俺と美桜は周囲が気遣い作ってくれた沈黙に、しばし酔いしれていた。

 あまりにもドタバタが続きすぎ、こうやって二人で触れ合うことさえ難しかったのだ。

 初めは手のひらから。そう、彼女の手と俺の手を合わせたことから全て始まったというのに、いつの間にか手に触れることもなくなっていた。

 それを成長というなら致し方ないことかもしれない。

 いつまでも幼子のように美桜に頼ってばかりはいられなかったのだし、俺だって少しずつできることが増えていった。彼女との距離は平行線どころかそれぞれ逆方向に反れ、互いに手を伸ばしても届かなくなってしまっていた。同じ方向を見ていたはずの俺と美桜が再びこうして出会うのに、ぐるっと地球を半周したところでやっとぶつかる程度に長い時間を必要としてしまったのだ。


「お楽しみのところ悪いけど」


 と、シバが咳払いした。

 俺と美桜は顔を赤くしてサッと離れ、ソファで顔を歪める彼に身体を向けた。


「さっきの話を整理していた。あまりにも多くの情報が一度に提供されて頭がパンクしそうなんだが、要するに来澄はもう、“表”には戻れないと。テラはそう言ったんだよな」


「ああ」


 俺は答えたが、頭では納得していなかった。


「俺たちが思うよりずっと、レグルノーラの人々は追い込まれている。だから、救世主になり得る干渉者を確実にこの世界に引き留める必要があった。退路を断ち、全てをこの世界に捧げさせるため、ありとあらゆる方法をとろうとした。……ディアナもテラも、干渉協会のマシュー翁たちも、可能性に懸けていたのかもしれない。俺がもしかしたら、その人物なのかもという、いちるの望みにすがっていたのかも。そう考えると、俺は彼らの考えを否定することはできないし、今の現状を受け入れるしかないと自分に言い聞かせるしかできない」


 改めて言葉にして、俺は絶望をどうにか受け入れようとしていた。

 戻れないなんて嘘だ。逃げ出したい。そういう気持ちが心のどこかにあるのは否めない。

 けど、俺にはそういう選択肢は用意されていないのだ。


「“裏”の動きをもっと知っていたなら、こんなことにはならなかったかもしれないな」


 シバは目を細め、壁にもたれかかるジークを睨み付けた。

 ジークはムッとして顔を歪め、声を荒げた。


「僕だって知っていたら、もう少し慎重に事を進めていた。君らと行動を共にするようになった途端、ディアナ様も干渉者協会も、必要な情報をくれなくなったんだ。どうせ僕は協会とは縁遠いし、団体行動も苦手だ。お堅い協会の体質や塔の管理体制も好きじゃなかったから、仕方がないと諦めて行動したところまではよかったんだけどね。隠しごとがあればどうしてもひずみが生まれる。必死に埋めようと思ったころには全てが取り返しの付かない状態になっているということさ」


 フンとそっぽを向くジーク。

 気張ってはいるが、彼だって相当のショックを受けているに違いない。心なしか目が潤んでいる。


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