58.黒の出所

黒の出所1

 目の前のキノコ頭を両手で抱え、そのまま廊下に叩き付けたい衝動に駆られた。

 恐る恐る美桜の顔に目をやると、マスクで口元は見えなかったが、眼鏡の奥で目を見開いているのがわかった。彼女も同じことを考えているに違いない。『なにを言い出すのだ』と。

 授業と授業の合間の、ほんの少しの休み時間にこんな話切り出すもんじゃない。芝山を思わず睨み付けたが、ヤツは眉をキリッとさせ口角を上げた。俺の意図は全く通じていないらしい。


「もう一度言おうか、レグ」


「やめろ芝山。美桜……、後で時間、くれないか。昼か、放課後か」


 廊下に俺の声が響いた気がして、俺は一気に汗だくになった。

 しばしの沈黙の後、美桜はフフと笑う。


「人前で下の名前で呼ぶなんて珍しい。わかったわ。じゃ、放課後」


 俺の顔をギロリと睨む美桜。例えようのない寒気に襲われて、背中に激震が走る。

 美桜はクルッときびすを返し、スタスタと教室に戻っていった。

 深くため息を吐く俺に、芝山が一言。


「芳野美桜って、あんなんだっけ」


 嗚呼そういえば、芝山は美桜の本性を知らない。


「あんなんだったよ。最初からな。ところで……えっと、次の現国に?」


「飛べよって話」


「あー……そうだった。了解。善処する」


 日本史の時間に努力したが、何もできなかったことを思い出した。

 まぁ、どうにかなるだろう。さっき、何かを掴みかけた気がしたんだ。

 ほんの少しだけ前向きな気持ちで、俺はそう答えた。





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 授業開始前に、美桜が小さな紙切れを寄越した。

 可愛い桃色の紙に薄いインクで花模様が描かれている、如何にも美桜好みの一品だった。部屋と同様、持ち歩く文具や小物も少女趣味で、彼女によく似合う。四つに折りたたまれた紙を開くと、綺麗な文字で何か書かれていた。


『どういうことなのか、あとでキッチリ説明してもらうわよ』


 戦慄した。

 同時に、芝山に対し殺意が湧いた。

 前方の芝山を睨み付けるが、俺の視線など全く気付かぬ様子で授業を受けている。この憤りをどこにぶつければいいのやら。

 手の中で紙をクシャクシャに丸め、……もう一度開く。『説明してもらう』か。どこをどう説明すればいいのか。余計な心配をかけぬよう、ある程度俺の身に起きたことを話さねばならないなんて、難しすぎる。

 机の上に腕を組み、じっと紙切れを見つめた。

 説明……するなら、俺より話し上手な芝山やジークの方がいいだろう。無理かもしれないが、ジークにはこっちに合流するようお願いしよう。問題は、放課後まで美桜が我慢してくれるかどうかだな。

 シワを伸ばした紙を栞のように教科書に挟み込み、ため息を吐いた。

 とりあえず今は、美桜のことより芝山の言う二次干渉者のことにでも集中しようか――、俺がそう思った直後だった。

 視界の隅に、黒いものが映った。

 初めは気のせいだと思っていた。目の前が霞んだだけだと。

 目を凝らす。美桜の周囲にはやはり青緑ばかりが漂っていて、黒ずんではいない。大体、美桜の気配そのものには濁りがない。複雑に色が混じり合っているとはいえ、透明度が高いのだ。

 だが、視界を遮るように漂ってくる黒いものは、まるで不透明水彩の絵の具のように歪みながら周囲の色を呑み込んでいく。

 出所を探らないと。

 嫌が応にも焦りが募った。

 教室中をグルッと見まわす。なんだ、これ。色を感じる能力が邪魔して、視界が真っ黒になっていく。これじゃあ、目視で対象を探すのは無理だ。となれば、別の方法で。

 芝山が言っていた、アレだ。『現国の時間に飛べ』、それしかない。

 美桜の力に乗っかって、か。黒いもやの中から青緑色の気配をたぐり寄せる。美桜の気配。様々な困惑と運命が混じり合った悲しげな気配。目の前の席にいるんだから、やってできないことはないはず。

 俺がこんな妙な努力をしているとも知らず、美桜はきちんとノートを取っているようだ。美桜には“独特の臭い”とやらが届いていないのか? 風邪だから? 右手が動いている。左手で髪を掻き上げる。黒板を見て、またノートに目を落とす。

 美桜の鼓動を感じろ。呼吸を。匂いを。

 彼女が放つ、大きな力を。

 シャーペンを握りしめたまま、俺は目を閉じる。耳をそばだて、息を殺す。

 美桜の力の波に呑まれるようにして飛ぶんだ。大丈夫、造作ない。彼女の気配を感じて、そこに全てを委ねるようにすればできるはずだ。

 意識を沈めていく。深く、深く。

 同時に、美桜を強く意識する。

 初めて“レグルノーラ”に飛んだときのことを思い出せ。引きずられるようにして飛んだときのことを。彼女と手を握り合っていたときのことを。

 フッと身体が軽くなった。意識が分離し始めた証拠だ。

 芝山の話では確か、この瞬間に周囲を見渡せと。

 目を、開く。この行為が現実に行われているのか、意識的な問題なのか説明は付かない。が、とにかく目を開く。

 大きな渦が見える。教室が歪み、椅子が落ち、机は宙に浮いている。地上に向かって景色が崩れ、灰色の渦に呑み込まれていくのがわかる。上を見やると、目の前に居たはずの美桜が崩れることもなく、真っ直ぐと前を向いて授業を受けていた。他の生徒たちも同じように宙に浮いて、黒板の前に整列した机と椅子に固定されている。

 芝山は――、いた。俺の下で、必死に手を振っている。まだ、芝山の姿のままだ。声は聞こえないが、どこかを指さし、何か叫んでいる。口の形だけじゃ、何を言っているのかわからない。仕方なく、指さす方向に振り返ると。


 見えた。


 確かに女子だ。

 窓際の。

 一人の女子から黒いモノが噴き出している。

 その女子自身が下に落ちてくるというわけではないけれど、彼女の周囲には黒いもやが立ちこめ、それが教室に伸び、更にこの“ゲート”の中にまで入り込んでいる。

 つまりこれが、“悪魔”の正体。それは必ずしも単体ではないと、話には聞いている。同じような黒いモノが大量に集まって、それがレグルノーラまで到達すると魔物に姿を変えていく。その集合体が“ダークアイ”なのかもしれないと、そういうことか。おぼろげにしか知らなかったものの正体がわかると、それはそれで身震いする。いくら“ゲート”のある教室だからって、こんな……。

 チラリと、その女子と目が合った。

 気のせいでありたい。

 まさか、こっちを見ているはずなんて。

 俺の実体はちゃんと授業を受けているはずで、こうして下から教室を見上げている意識の方と目が合うなんて、おかしいに決まってる。

 どうして、どうしてこっちを見てるんだ。

 須川――。





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