逆上3

 心なしか、空気が変わった。

 芝山の、おさの周囲に風が流れている。微風だが徐々に強くなっている。


「去れよ。特にお前だ……、テラとか言う。来澄だけならまだしも、お前は話にならない。来澄のしもべだか竜だか知らないが、この船の中ではボクが……、私が一番権力を持っている。従ってもらおうか。嫌なら、立ち去ってもらう他、ない」


 不意に芝山の方向から突風が吹いて、ドンと船長室の扉が外側に開いた。

 足元をすくわれるような風圧に、俺もテラも壁に手を付く。


「聞こえなかったのか。出ろよ」


 堪忍袋の緒が、切れたらしい。

 逆上すると手がつけられなくてと、ザイルも言っていた。あの時だって――美桜が俺と交際してるだなんて嘘を吐いたあの時だって、芝山はいつものクールさをひっくり返すようなキレ方をしてた。

 “向こう”じゃ叫び声を上げるだけで終わっても、“こっち”ではそうもいかない。力が使える。つまりは俺たちに攻撃できるってこと……か。

 風が更に強くなり、棚が震え、中の調度品や食器、本がガタガタと音を出し始めた。このままでは危ない、出るぞと、テラに目で合図する。何であんな奴の言うことなんかと、テラは納得しない様子だったが、こんな狭いところで何かされても困るのはこっちも同じ。風を除けながら、壁を沿うようにしてやっとこさ船長室から脱出する。

 甲板に出ると、だいぶ日が傾いていた。空を覆った白い雲が光を屈折させ、燃えるような赤色に染まっている。マストのところどころに吊された裸電球に明かりがともり、甲板を緩く照らしていた。


「ど、どうしたんですかぃ」


 外で待っていたのか、ザイルが慌てて近寄ってくる。


「離れて! 早く!」


 俺はとっさにザイルと、周囲で働く船員たちに呼びかける。


「近寄らない方がいい。今は……!」


 ただならぬ雰囲気に、マストに上っていた数人が慌てて柱を滑り降りた。舵を握っていた船員も、仕事に一息吐き遠くを眺めていた船員も、手を止めて船縁に寄りかかったり、掴まったりして、じっとこちらの様子を覗っている。

 船長室からおさが風を纏いながら現れると、船員たちは一様に、顔を青くした。何度か経験のある、嫌な経験がまたも繰り返されたというような、悲壮に満ちた表情だ。


「去る気がないなら、力尽くだ。この帆船という聖域を、冒されたくないんでね。元々は竜だとはいえ、今は人間の姿――。来澄は上位の干渉者かもしれないが、そっちはどうだか知れたもんじゃない。一気に片をつけさせてもらう……!」


 おさはゆっくりと腰に手を回した。カバー状の護拳のある長いサーベルが鞘から抜かれ、俺とテラの前に突きつけられた。

 風が甲板をうねるように走り、垂れ下がったロープやランプ、そして帆を不規則に鳴らす。荒波に飲まれたかのように、船も上下左右に揺れ始めた。

 甲板の中央まで逃れた俺とテラは、芝山の動きをじっと観察しながら、どうすれば場が丸く収まるのか、それだけを互いに考え続けた。


「は、話し合おう、芝山。その物騒なものをしまって。自分の船だろ。ここで騒ぐのは得策じゃない」


 テラの背後で呼びかけたが、芝山……もといおさは、全く聞く耳を持たなかった。


「来澄、君のしもべに良く言い聞かせるんだ。今すぐ船を下りろと。竜にでも何にでもなって、さっさと出て行けと。早く……!」


「む、無茶な」


 いくら広い船だからって、ここで変化へんげして飛び立てっていうのか。それに、言ったところでテラが納得するわけがない。テラはテラで、あるじになってしまった俺の側に居続けるため、人間なんかに姿を変えているんだから。


「できないのか。なら……、こうするしかない」


 おさは腰を落とし、数十メートル先から剣を掲げて走り出した。

 ヤバイ。確実に、狙ってきている。


「テラ、逃げよう。早く!」


 テラのベルトに手を引っかけ、引っ張ろうとするが、案外重い。全然動かない。


「逃げるったって、周囲を見ろ!」


 怯える船員たちが、自分たちに被害が及ばぬよう神にお祈りしていた。果たしてこの世界に神という概念があるのかどうか知れないが――。彼らを巻き込むわけにはいかない。

 とすると、おさの攻撃を受けるしかない?

 それがすなわち、死を意味するかもしれないとしても?


「私は攻撃タイプではないと、前にも言ったな」


「はぃ?」


「単体での戦闘が苦手なのだ。それに、戦いながら君を守る自信もない。悪いが借りるぞ」


「え?」


「身体、借りるぞ」


 肩越しに振り返り、テラは目で何かを合図した。

 わかってる。了承なんて得るわけがない。俺の了承なんてなくても、最初からそうするつもりだったくせに。

 まばたきをした瞬間、テラの姿が目の前から消えた。

 同時に、自分の身体の中に何かが入り込んでくる、あの感覚が蘇る。

 背中には羽の感触。向かい風。一度地面を踏みしめ、それから高く飛ぶ!


「――何?」


 目の前で何が起きたのか、一瞬過ぎて理解できなかったらしい。おさは目を丸くし、きゅっと足を止めた。

 数メートル飛び上がった俺は、風の中心から外れ、ふと息を吐く。


「来澄……、お前、なんだ、その姿は……!」


 竜の羽を生やし上空から船を見下ろす俺を、おさになった芝山は、あんぐりと口を開けて呆然と眺めていた。

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