解決編
第六章 悪夢
「いってらっしゃい」
母さんは笑顔で小さく手を振った。靴の踵に人差し指を入れ、しっかりと履き直す。
「いってきます!」
もう一度ポケットの中の財布を確認すると、僕は元気良く返事をした。
僕らの家はこのマンションの最上階にある。界隈でも一際目立つ、超高層マンションだ。火事や地震が起こった際には、一体、何段の階段を降りなければならないのかと想像すると、それだけで息が切れそうになる。
エレベーターという名の文明の利器に乗り、一階のボタンを丁寧に押す。昔、このマンションの管理人さんと同乗した際に、乱暴にボタンを押したことを喧しく注意されたことがあった。僕自身にそのつもりはなかったのだが、管理人さんにはそう見えたらしい。何れにせよ、あれ以来、誰も同乗していなくとも、ボタンをそっと押す行為が習慣化しているのは間違いない。
一階に到着し、ロビーを足取り軽く進んで行く。
ふと、掲示板に目を遣る。新しい貼り紙がされていた。形式的な挨拶文句を読み飛ばし、本題部分を目で追う。
『近頃、近隣のマンションで強盗の被害が出ています。
外出の際だけでなく施錠はしっかりと行い、不用意に玄関の鍵を開けないように して下さい。必ず、覗き穴から相手を確認した上で開錠をするように心掛けて下 さい。
強盗犯の手口は……』
「あぁ、すみません。開けて頂いて」
気づくと僕は、オートロックの扉の前に立っていた。センサーが僕を感知して扉が開き、外にいた配達員らしき一人の男性が僕に声を掛けて来た。
「えっ? あ、はい……どうも」
僕は軽く会釈をして、その開かれた扉を妹の手を引き通り過ぎた。擦れ違った男性が両手に抱えていた荷物は、妙に軽そうに見えた。発砲スチロールでも入っているのだろうか。
入り口のもう一つの重厚なドアを押し開け、外に出る。
外の空気は思っていたよりも冷たく、容易に僕らの息を白くした。互いに手袋やマフラーを身に着けていたが、握ったその小さな手は、僕をより温かくしてくれるようだった。
「ユキ、ふるかな?」
少し歩いたところで、愛が僕の顔を見上げて訊ねた。
「どうだろうね? 愛は雪、好きかい?」
「うん、大好き!」
「……そうか。じゃあ、一緒にお願いをしよう。早く雪が降りますようにって」
「おねがいする! いっしょに、おねがいする!」
そう言うと愛は繋いだ手を一度離し、両手の指を前で絡ませ、祈るポーズをした。
「神さま、どうかユキをふらせてください、おねがいします……。ちゃんと、お兄ちゃんもおねがいしてる?」
「うん、ちゃんとしてる。雪が降りますように……」
誰もいない道端で、僕ら兄妹は一緒に目を閉じ、神様が天から雪を降らせてくれるようにと願った。そして、再びしっかりと互いの手を握ると、僕らは寒空の下を二人歩んだ。
「お兄ちゃん、なんだか楽しそう」
鼻歌を歌っていた愛が、不意に声を掛けて来た。
「愛には何でも分かるんだな」
「うん! だって、お兄ちゃん大好きだもん! お兄ちゃんのことはなんでも分かるよ」
「ありがとうな」
僕は握った手を一度解き、愛の頭を優しく撫でた。
愛の言う通り、今日の僕の気分は最高だった。僕の短い人生の中でも、一番だと言ってもいいくらいだ。
学校は冬休みで休校中、宿題は休みの一日目で終わらせてしまった。まさか、そんな小さなことが嬉しい訳ではない。僕のような学生は「冬休み」という休日を与えられる時期ではあるが、今日という日は、社会一般的には只の平日でしかないのだ。
それなのに、仕事で多忙なはずの父さんが、今日というこの日を休日にして家にいてくれているのだ。朝、目が覚め、リビングで新聞を読む父さんの姿を認めて、僕は夢でも見ているのかと錯覚したほどだった。
僕が父さんの姿を見るのは休みの日の夜中、それもとても遅い時間だけだった。平日の日は家に帰ることがあっても深夜になり、明朝早くには仕事場に向かっていた。だから、家に帰ることなく仕事場に留まることが珍しくなかった。土曜や日曜だって、父さんは夜遅くまで働いていた。愛は泣き付くように、何度も尋ねた。
「どうして、パパはいつもかえってこないの? どうして、いつもいっしょにあそんでくれないの? どうして、もっと早くかえってきてくれないの……?」
「ごめんな……でも、パパがいないと仕事が回らないんだ。……いや、愛にはまだ難しいな。……どうか、許してくれ。いつか必ず時間をつくるから、その時は、いっぱい遊ぼう」
「ほんと? ぜったいだよ? 約束だからね?」
愛はその小さな小指を前に差し出した。父さんも屈んで小指を前に出す。
「あぁ、絶対だ。約束する」
あの日から数ヶ月が経ち、その約束の記憶を忘れた頃の出来事だった。
父は、約束を守ってくれた。
しかも、その日……今日は……僕の、誕生日だった。
「父さん、仕事は? もう、こんな時間だよ?」
「心配しなくても、大丈夫だ。今日は休みが取れたんだ。……父さん、頑張ったんだぞ?」
そういえば、ここ最近、いつも以上に父さんを見掛けることがなかった。それは偏に、父が仕事場に働き詰めていたからなのだ。毎日、毎日、一生懸命に。今日、この日のためだけに……。
「……あ、ありがとう!」
やっと搾り出した言葉がそれだった。それだけだった。来月の愛の誕生日も休み取れるよね、と訊いてみたくもなったが、それは止めることにした。きっと、僕を驚かせようとしているに違いないんだ。ここで僕が誕生日というワードを自分から言う訳にはいかない。僕は言いたい気持ちをぐっと堪え、洗面所へと向かった。
「ちょっとこれからやらなくちゃならないことがあってね、二人で野菜を買って来てくれないかしら?」
母さんからそうお使いを頼まれ、僕と愛は今、八百屋の前まで来ていた。
「小父さん、トマトとカボチャと……あと……」
渡されたメモを再度確認し、それを八百屋の小父さんに伝える。
「兄妹でお使いかい? よしっ、このトマトはオマケしとくよ!」
そう言って小父さんは、野菜の入った袋にトマトを一つ多めに入れてくれた。
「えっ……いいんですか?」
「あぁ、勿論だ! 男に二言なし! お嬢ちゃんはトマト好きかい?」
「うん、大好き。やさいはなんでも食べられるよ」
「おぉ、偉いねぇ。好き嫌いがないのは素晴らしいことだ! よしっ、この飴もあげよう」
「おじさん、ありがとう!」
そう言って飴を一つ受け取ると、愛はすぐにそれを口に入れてしまった。
「こら、行儀が悪いぞ」
「……ごめんなさい」
愛は小さく俯く。
「まぁまぁ、いいじゃないか。小父さんからのプレゼントなんだから」
「……すみません。愛、包み紙はちゃんと家で捨てるんだよ?」
「うん、分かった!」
笑ってしまうくらいに、愛はすぐに機嫌を直した。
「どうも、ありがとうございました」
「いいってことよ! またおいでね!」
そう言って八百屋の小父さんは、帰路につく僕らの背中に大きく手を振ってくれた。
家を出た時よりも気温が下がった気がする。自然と足取りが速くなったが、愛に手を引っ張られ、元の速度まで落とす。しかし、いつの間にかまた速くなり、愛に怒られるという遣り取りを何度か繰り返した。
灰色の雲が、頭上の空を覆い始める。
……雪は、降るだろうか?
ポケットに入れていた鍵を使ってオートロックを解除し、降りて来るエレベーターを待つ。エレベーターは最上階から降りて来るようで、つまりは、最長の時間を待たされることになった。
いつもだったら、少しくらい苛立ちを覚えたかもしれない。しかし、今日はこれから最高の日になるんだ。このくらいの時間、瞬きをするより短く感じるほどだ。
一階まで降りたエレベーターに二人で乗り、最上階のボタンを押す。
一階で待たされたのとほぼ同じ時間をかけて最上階を目指す。
「……くしゅん!」
「愛、大丈夫か?」
一度屈んで、少し寒そうにしている愛に声を掛けた。
「うん……大丈夫!」
愛は笑って返事をした。やはり、もう少し着込んだ方が良かったのかもしれない。後で温かいスープでも一緒に飲もう。
エレベーターの扉が開き、後は玄関の扉をこの鍵で開け、中に入って父さんと母さんの歓迎を待つだけだった。
「お兄ちゃん、だれかいるよ?」
僕らの家の前に、一人の配達員らしき人物が立っていた。何度か呼び鈴を鳴らしている。誰も出てくる気配はない。
「あの……ここ、僕の家なんですが、どうかしましたか?」
「えっ? あ、どうもすみません……今、ご帰宅でしたか。ご注文の品をお届けに参りました」
「いえ、その……中に誰もいないんですか?」
「えぇ、ご不在のようですが」
「ちょっと、待っていて下さい……」
「あ、あの、これを……」
握っていた鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。
……心臓が、裂けそうなほどの鼓動を始めた。何故だか分からない。
……分からない? 分かろうとしていないだけじゃないのか? よく、考えてみれば……。いや、大丈夫だ……。きっと、機械の故障か何かだ……。そんなはずは……ない?
で、でも……いくら僕が鍵を持っているからといって、急に外出したりするだろうか? 僕は携帯電話を持っているんだ。一言連絡があってもおかしくはないはずだ。そもそも、届け物が来ると分かっていて、二人揃って外出するだろうか? おかしい……何かが、おかしいんだ!
……違う!! その憶測は完全に間違っている! そんなの勝手な妄想だ! デタラメだ! そうさ……この扉を開ければ、笑顔で僕を迎えてくれるはずなんだ。笑顔で……最高の、笑顔で……!
だって、今日は……最高の日なんだ。
「父さん! 母さん!」
「犯人は……晋太郎君、君だね……」
自分の名を呼ばれ、僕ははっと我に返った。
「驚きました……急に僕の名が聞こえたので。……どうして、僕が犯人なんです? いえ、犯人が誰かというよりも、11名もの方がどうやって殺されたのか、そちらの方が知りたいものです」
「分かったよ。君の全ての問いに応えよう」
「いえ、やはりそれは不可能ですよ。一から思い出してみて下さい。昨日、この玄関扉が閉じられた時、全員にアリバイがありました。それだけではありません。ほとんどの殺人において、生きていた方々全員にアリバイがあったじゃありませんか。誰にも殺人は行えない。まして、警戒状態にあった遠藤さん親子が殺された件、奈美さんと留美さんの悲鳴がしなかった件、浅沼ご夫妻と黒河ご夫妻の合言葉を解除した件等々、僕たちには不可能としか言いようがありません。それでも怜璃さんは、この館の中の視える誰かの仕業だと言うのですか? それが、僕だと言うのですか? ……そう言えば、怜璃さん。あなたは確か、推理小説がお好きでしたよね?」
「よく覚えているね」
「えぇ、勿論。怜璃さんの好きな推理小説は皆、所詮、虚構、フィクション、作り話。現実に今、起きているこの事件は、そんな作り話とは違うんです。聡明な探偵が現れ、ページが終わりに近づくと見事に事件を解決してくれる。そんな都合のよい世界とは違うんです。これは、現実! 無闇に探偵の真似事をするのは、止めた方がいいんじゃないでしょうか」
ここまで捲し立て、急に饒舌になった自分に驚いた。何を焦っているのだろう。相好を崩してはならない。
「そういえば、昨夜も、美佳子さんに同じようなことを言われたんだったね。僕は君の言う通り、聡明な探偵でなければ、頭のキれる刑事でもない。ただの、一高校生に過ぎない。それは間違いないさ」
怜璃さんは余裕の笑みを見せていた。それが何だか無性に腹が立ち、僕は少し挑発するような言い方をした。
「残る人形はあと、一つです。あの人形が無くなる時、おそらくこの事件は、完全犯罪となるのでしょう」
「どうして、そんなことが分かるんだい?」
「気にしないで下さい。一中学生の勘に過ぎません。現に、今までの事件は完全犯罪の体を成していました。最後の犠牲者が出て、万が一ここから出られるようであれば、残された6人はこの惨劇の容疑者となるでしょう。しかし、誰にも殺せなかったんです。だから、誰も疑われない。この事件は、永遠に謎のままとなるんです。きっと……」
「これだけは言わせてくれないか?」
「……はい、何でしょう?」
そう返事をして、怜璃さんの眼を見たその刹那、その鋭い眼光に息が詰まるような錯覚を覚えた。
「僕は今までに数え切れないほどの推理小説を読んできた。そして、時には完全犯罪を成し遂げる話もあったが、最終的に読者には全ての謎が明かされてきた。小説の中の探偵や刑事は、君も言っていたように、いつだって見事に事件を解決してみせた。しかも、一分の隙もない、鮮やかな推理でだ」
そこで怜璃さんは、一呼吸置いた。
「……しかし、僕はそんなフィクションの存在じゃない。君の言う通り、現実世界を生きる人間だ」
「一体、何が言いたいんです?」
怜璃さんは、一度伏せていた顔を再び上げ、こう言い放った。
「どんなに無様な推理だろうと、どんなに稚拙な論理だろうと、僕はもうこの事件から目を背けない! この惨劇に完全犯罪という名の幕は降りない! 降ろさせない! そんな幕、今から僕が、この手で引き裂いてみせるさ!」
何を言い出すかと思えば……。完全犯罪の幕は降りない? 引き裂いてみせる? ……駄目だ。決して相好を崩してはならない。あくまで冷静を装う。
「怜璃さんの言いたいことは分かりました。僕もその探偵ごっこに付き合いましょう。僕が疑問に思う謎を、今から怜璃さんに提示して行きます。僕も真相を知りたい者の一人ですから。構いませんか?」
「あぁ、勿論だ」
「それでは、最初の謎です……」
何を言おうと、どう足掻こうと、この完全犯罪は誰にも崩せはしない。大丈夫だ。彼の戯言を聞き終わったら、あとは、最後の一体を……。
「昨夜のことからお訊きします。何故、尾崎さんはあのような凶行に及んだのでしょうか?」
「その答えは昨夜、美佳子さんと交わしたものと変わらない。尾崎さんは、何者かによってペットボトルに混入させられた多量の覚醒剤を摂取し、自室内において錯乱状態に陥った。それが答えだ」
結局、威勢がいいだけの暴論。少しでも期待していた自分が愚かしい。次の質問に移っても構わないが、一応訊いておこう。
「怜璃さん、お言葉を返すようですが、一体、誰に覚醒剤を混入させる余裕が……」
「昨夜のディナー中、尾崎さんの左隣に座っていた人物、浅沼俊介が、尾崎さんのペットボトルに覚醒剤を混入させたと仮定する!」
怜悧さんが僕の言葉を遮るように、語尾を強めて言い放った。
「……まさか!」
「ほ、本当なの?」
剣持さんと楼紗さんがほぼ同時に反応した。俊介さんが混入させた? いや、当てずっぽうに決まっている。何の根拠も無い出鱈目だ……。
「黒河先生の証言によると、ペットボトルは黒河先生から見て反対側の床に置かれていたはずだ。尾崎さんを挟んで黒河先生の反対側の席、つまり、浅沼俊介が覚醒剤を混入させた可能性が高い!」
「ちょっと待って。そもそも、覚醒剤ってそうやって服用するものなのかしら?」
「ニュースなんかで聞くのはあぶりや注射器といった単語だろうが、固形化させた覚醒剤を飲料物に溶かして服用する方法も実際にあるんだ。おそらく、浅沼俊介は、ディナー中に尾崎さんの目を盗み、固形の覚醒剤を大量にペットボトルに投入した。あるいは、もっと現実的な方法としては、予め準備した、似たようなパッケージのペットボトルと擦り替えたと言った方がいいかもしれない」
「……それで?」
「尾崎さんはディナーを途中で退席し、自室へと向かう。この場合、尾崎さんが中座するかどうかは、犯人の計画に影響しない。尾崎さんはペットボトルを飲みながらダイニングルームを出た。ダイニングルームを出た後だろうと、尾崎さんが携帯しているペットボトルの中身を飲むことは、犯人が予め、尾崎さんの麻薬常習者としての体質、つまり、口が異常に渇くという性質を知っていれば、簡単に予測ができた。それを犯人は利用した」
「……では、何故、尾崎さんの部屋には鍵が掛かっていたのでしょう? 錯乱状態の彼が、何故、鍵を掛けることが可能だったのでしょう?」
「錯乱状態に陥ったのは入室前でも直後でもない。入室し、あるものを見た後だったんだ」
「……あるもの?」
「尾崎さんは多量の覚醒剤を摂取した状態で自室に入り、無意識に施錠をした。見知らぬ土地に泊まっているんだ。自室へ戻ったら、施錠は自然と行うはずだ。そして、室内の灯りを点けようとした。しかし、灯りは点かなかった」
「どうして、そんなことが分かるんです?」
「破壊されたシャンデリア、そして、床に不自然に転がったライターだよ。シャンデリアのある位置から考えて、普通にバットを振っただけではあの高さにあるシャンデリアを破壊できるはずがないんだ」
「確かに……。お客様のお部屋の天井の高さは、4メートルほどございます」
園部さんがそう応えた。
「つまり、シャンデリアは犯人の手によって、既に破壊されていた!」
「どうして、そんなことをする必要が?」
「理由は二つある。まず一つ目に、部屋の施錠をさせるため。もし、すぐに灯りが点いたなら、室内の異変に気づき、慌てて施錠をしない可能性がある。その場合、つまり、尾崎さんの部屋の鍵が開いていたなら、僕らはもっと早く尾崎さんの暴走を食い止めることができた。それを妨害するためにも、尾崎さん自身の手によって、無意識の施錠をさせる必要があったんだ。そして、二つ目は、尾崎さんを部屋の奥まで誘導し、あるものを最大限の衝撃を与えられる状況で見せ付けるためだ……」
「さっきから言っている、あるものって一体、何なの?」
楼紗さんが神妙に訊ねた。
「それは……顔面を破壊された、佐藤さんの遺体だ」
「…………!」
「最初の紅文字の手紙の内容を思い出してくれ。あの手紙の佐藤さんに該当する部分だ。そこには、『顔を潰されて死にました』と書かれていた。何処か不自然だと思わないか?」
「え……何処かおかしいのかしら?」
「手紙の紅文字は全て印刷されたものだった。つまり、予めそうなることが犯人によって決められていたはずなんだ。それなのに、顔を潰されて死ぬはずの佐藤さんは、全身を殴打された状態で見つかった」
「……それはつまり、どういうことなの?」
「つまり、佐藤さんは、尾崎さんではなく、他の誰かによって殺され、顔面を破壊された。床に転がっていたライターは、尾崎さんが暗闇の中を佐藤さんの遺体の元へと近付く時に使用し、それを視認した後に、動揺して手から落としたんだ!」
「……どれも憶測に過ぎません。第一、その誰かと言うのは誰なんです?」
「おそらく……遠藤和哉、彼だ」
「和哉さん? 殺されたはずの彼がどうして? それに、尾崎さんのペットボトルに覚醒剤を混入させたと仰る俊介さんも、被害者の一人じゃありませんか? 僕には怜璃さんの言っている意味が理解できません」
「確かにそうだわ。どうして、俊介さんや和哉君がそんなことをする必要があるの?」
「何故、二人が殺人を行ったか、その確かな動機の説明はできない。紅文字の手紙の2行目がそれを説明しているはずだが、それだけの情報じゃ何も分からない。僕が推理するのは、誰が、どうやって殺人を行ったかの推理だけだ」
「僭越ながら、一つ、気になることがございます……」
声の主は剣持さんだった。
「何でしょう?」
「仮に俊介様と和哉様が犯人だったとしても、何故、そのような遠回しなことをなさったのでしょう?」
「おそらくそれは、僕らを嵌めるためです」
「……嵌める? それは、どういうこと?」
「和哉君は覚醒剤中毒者の幻覚による暴走を利用して、僕らが尾崎さんから遠ざかるように仕向けたんだ。そして、その思惑通り、僕は尾崎さんを椅子に縛り付け、これ以上騒ぎを起こさせないようにしてその場を後にした。そうなれば、ほぼ確実に犯人の当初の目的である『彼の喜々する方法』で尾崎さんを殺すことができる。犯人は大量の覚醒剤投与で尾崎さんが死亡する、若しくは、死に至らずとも、暴走を抑制するために何らかの拘束がなされることを読んでいたんだ。偶然僕がその呼び掛けをした訳だが、そうならなければ、犯人が自らそう提案しただろう。ディナーを中座する必要が無いと言ったのは、尾崎さんが暴走する場所はダイニングルームでも廊下でも自室でもよく、佐藤さんの遺体が発見された後に、それを尾崎さんの仕業だと結びつけさせられれば十分だったからだ」
「…………」
剣持さんは黙って怜璃さんの推理に耳を傾けていた。
「僕は次のように佐藤さん、尾崎さん殺しを仮定する! まず、一階を徘徊していた遠藤和哉は佐藤さんだけが自室へと向かうのを確認し、佐藤さんが入室したところで準備したバットによって彼女を撲殺。入り口から部屋の奥まで遺体を移動させ、顔面だけを何度も殴打し、最後に、室内の全ての照明を破壊して、部屋の鍵を奪い、その場を逃走。ディナー時間となり、今度は浅沼俊介が尾崎さんのペットボトルに大量の覚醒剤を投入。それを飲んだ尾崎さんは自室で佐藤さんの遺体を発見後、暴走。僕らによって拘束された後、遠藤和也は奪っていた鍵を使用して中に侵入。尾崎さんの口の中に大量の粉を流し込み、窒息死させた」
「ここで三つの疑問があります。まず、佐藤さんが二階へと上がるのは偶然に過ぎないのではないかということ、次に、バットをどうやって用意したのかということ、最後に、尾崎さんが俊介さんの隣に座ったのもまた、偶然に過ぎないのではないかということ……」
「一つ目の疑問に関しては、招待状に予め、覚醒剤の取引はロビーで行うことと、その際、付き添いの人物には席を外させることを書いておけばいい。そして、二つ目の疑問。バットをどうやって用意したのか……。用意したのは、おそらく……理紗さんだ」
「……理紗さんが? そんな……嘘よ……」
楼紗さんの顔が少しずつ青くなるのが分かった……。
「浅沼夫妻の部屋から、女性用のロングコートが見つかった。おそらく、入館時、浅沼理紗はコートの中に2本のバットを隠し、堂々と正面から持ち込んだんだ」
ロングコート……。確か、入館時を除いて彼女は一度もそれを着ていないはず。各部屋の調査をしたあのたった一度で、コートとバットの関連性に気づいたのか。コートも一緒に回収すべきだった…・・・。
「最後の疑問、席順についてだが、これも、予め園部さんたちに、ダイニングルームへ招待客を連れてくる順番を指示しておき、更に、座る位置についての指示までしておけば、容易に尾崎さんの座る位置をコントロールできたはずだ」
「確かに、差出人不明の手紙には、そのような指示がございました」
園部さんが反応する。
「そういえば、座る位置の指示っていうのは……」
「そうだ、浅沼理沙が真っ先に、大人と子どもを分けて座らせるように指示した。これによって、空席の位置を浅沼俊介の隣と、遠藤和哉の隣に限定することができた。後は、二人ともに覚醒剤を準備させておけば大丈夫という訳だ」
「では……次の、謎です……」
「次は、遠藤親子、紅啓一殺しの件だ」
「はい。何故、犯人は遠藤親子の部屋に入ることができたのでしょう?」
まさか、この謎に対しても答えが見つかったと言うのだろうか?
「まずは、殺害された順序だ。紅文字の手紙の第一の効果……それが、殺害順序の誤認トリックだ」
「殺害順序の誤認……?」
剣持さんが興味深げに訊き返す。
「えぇ。実際には啓一叔父さんが殺された後、遠藤親子が殺害された。いや……はっきりと、言わせもらう。遠藤親子は他殺じゃなく、自殺したんだ。よって、遠藤親子の密室トリックを破る必要は無くなる!」
「今……何と……!?」
こ、この人は……まさか……そんなはずは……。
僕を含め、この場に居た全員が言葉を失った。遠藤親子は他殺ではなく……自殺……。
「僕は次のように紅啓一、遠藤親子殺しを仮定する! 昨晩、遠藤美佳子の怒声で解散となったあの後、彼女は紅啓一の部屋へと向かい、彼を刺殺。扉は、僕らと仲の良かった和哉君にでも交渉させて開けさせればいい。鍵を奪って自室へと戻り、遠藤美佳子は遠藤和哉とともに首吊り自殺を行った。よって、二人の遺体には絞殺と思われる、実際には、僕らがそう勘違いしただけの痣が残っていた!」
「待って下さい! じゃあ、顔面の損傷はどう説明するんです?」
「僕の推理には当然、続きがある。遠藤親子は前もって紅啓一の部屋の鍵と、自室の鍵を浅沼夫妻に渡していた。浅沼夫妻はその鍵を使って遠藤親子の部屋に侵入し、浅沼理紗が準備したバットを使って二人の顔面を破壊。施錠をして部屋を後にした。これで、遠藤親子の密室の謎はクリアだ!」
「…………」
「次は、奈美さん、留美さん殺しだ。これは浅沼理紗が犯人であることにより、全て説明がつく。隣室から悲鳴や物音が聞こえなかったこと、遡れば、この館の玄関扉が閉じられた時の言葉も全て嘘だったとすれば、始めから謎なんて一つもなかったんだ」
「では、合言葉の密室は……」
「合言葉を最初に提案したのは浅沼理紗だった。よって、合言葉というワードが何か別の意味を表していた可能性が高い。僕は次のように黒河夫妻、浅沼夫妻殺しを仮定する! 誰かによる、この場合、浅沼理紗による合言葉の提案により、黒河夫妻は自室へと篭るように招待状により指示されていた。そして、真の合言葉もそれに記載されていた! 黒河夫妻が園部さんたちに伝えた合言葉は『神曲』。これは、黒河夫妻の部屋にあった本のタイトルだ。つまり、犯人と交わす真の合言葉とは別の合言葉が必要になり、咄嗟に身近にあった本のタイトルを利用した」
「勝手な推測です……」
「恐縮ですが、疑問がございます。何故、浅沼様はそのような二重の合言葉を用意する必要があったのでしょうか」
剣持さんが訊ねる。
「黒河夫妻が殺害される前の時点で、既に犠牲者は7人に上っていました。楼紗が言っていたように、僕たちがロビーに集合して団結するといった、何らかの防衛策を採ってもおかしくない状況でした。しかし、そのような提言を誰も行わなかった。もっといえば、最初の佐藤さんの殺害の時点で、そうするべきだったんです。しかし、僕たちはしなかった。それは、真犯人がそのことを想定し、各々が自室に籠るように巧妙に誘導されていたからです」
「その仕掛けの一つが二重の合言葉ってこと?」
「その通りだ。合言葉があれば安心だと思わせることで、僕らは何の警戒心もなく、浅沼夫妻と黒河夫妻が自室に戻るのを許してしまった。浅沼夫妻は加害者として当然に、黒河夫妻は恐らく招待状の指示に従って、自室へと戻った。そして、黒河夫妻は真の合言葉を語る声に扉を開き、浅沼夫妻によって殺害された! その後、今まで通り部屋の鍵を奪い、施錠をして自室へと戻る。そして、彼女たちもまた、自殺した……」
「また、自殺なの……?」
「浅沼夫妻の首元にも、遠藤親子のものとよく似た紐状の痣があった。そして……」
怜璃さんがゆっくりと僕の眼を見つめた。
「晋太郎。君が、ガスバーナーで浅沼夫妻の顔を焼き、2枚の紅色の封筒を一方は浅沼夫妻の部屋に、もう一方を5本の鍵とともに黒河夫妻の部屋に残した……そうだろう?」
「どうして……僕が、そんなことを……」
「君が犯したミスは2つ。一つ目は、紅文字の手紙の第二の効果、殺人予告だ。奈美さん、留美さんが殺害された後、何故、犯人は君の部屋に手紙を残したんだ? 考えられる理由の一つは、犯人の計画通りに死体を発見してもらう必要があったからだ。死体が予定より早く見つかったり、逆に、遅く見つかったりすると、人形を回収するタイミングを逃す可能性があったからだ。だから、殺害する度に部屋の鍵を奪い、施錠をして部屋を後にすることで、僕らの発見を遅らせたんだろう?」
「…………」
「そして、二つ目。これが、君が犯した最大のミスだった。僕が『浅沼夫妻の顔はどうやってあんな風にされたと思う?』と訊ねた時、君は何と応えたか? 君は確かに、僕にこう言った。『ガスバーナーなんてどうでしょうか?』と。何故君は、浅沼夫妻の顔面が焼かれていたことを知っていたんだ? 今考えると、僕のあの質問に対しまず君は、『顔面がどのようになっていたのか』を聞かなければならないはずだったんだ」
僕があの時、敢えて「ガスバーナー」という単語を出したのには理由があった。それは、昨夜のディナー中のことだ。楼紗さんは剣持さんに、「表面をバーナーで焦がしてあるのか?」と訊ねた。僕は咄嗟にそのことを思い出し、浅沼夫妻殺害の嫌疑を剣持さんに向けようと謀った。しかし……結局は墓穴を掘ることにしかならなかったということか。
「この大量殺人の犯人は5人。遠藤親子、浅沼夫妻……そして、晋太郎、君だ!」
「……どうして、遠藤さん親子が……どうして、浅沼ご夫妻が……どうして、僕が!」
「晋太郎。ミスを犯したのは君だけじゃない。この事件にはいくつもの真っ紅な嘘が存在した。楼紗の言葉で僕はそれに気づき、今のような結論に至った」
「いくつもの、真っ紅な嘘……?」
「楼紗。和哉君には兄弟はいたか?」
「えっ……。うん、確か実のお兄さんがいるって、ディナーの時に言っていたわ」
「そうだ。遠藤和哉には実の兄がいるはず。それなのに、昨夜、遠藤美佳子は声を荒らげてこう言った。『大事な独り息子はこの手で守る』と」
「…………!!」
「それは、どういうことなの……?」
「僕はこう仮定した。遠藤親子は、実の親子ではないと!」
「まさか……和哉君と美佳子さんが親子じゃないなんて……」
「まだ矛盾はある! 楼紗。理紗さんの娘さんの年齢はいくつだと言っていた?」
「た、確か……私と同じ歳の娘さんが一人いるって言っていたから、15じゃないの? ……まさか!」
「今朝、楼紗の提案で、ここまでどうやって来たかを全員に訊ねた時だ。浅沼俊介は『俺たちは娘の車で来た』と言った。何故、15の娘が車を所持していたんだ? 何故、15の娘が車を運転して帰ることができたんだ? そこで僕は、浅沼夫妻は実の夫婦ではないと仮定した!」
たった……たった、それだけの、何気ない会話じゃないか。兄がいる、息子を守る、娘がいる、車を運転した……たったそれだけの会話で、どうして、そんなことに気が付けるんだ……彼らが紅の他人だということに!
「その仮説に……何か根拠でもあるんですか?」
怜璃さんを見る眼の焦点が合わない。落ち着け……自分に有利なように解釈したに過ぎない。根拠なんてあるはずがない!
「あぁ。この仮説には2つの根拠がある。そして、この根拠は偽装関係説の浮上により明らかとなった」
「偽装関係であるという仮説から導かれた根拠……?」
剣持さんが反応した。
「はい、そうです。まず、何故、遠藤親子、浅沼夫妻の顔面を損壊する必要があったのか? それは、この殺人計画が遂行された後、身元が明らかとなるのを防ぐためだったのではないでしょうか? そして、何故、彼らの荷物からは身分を証明する物が一切出て来なかったのでしょう? 車の免許証や、携帯電話、保険証といった物が、この二組からは一つも見つからなかった。それは、彼らが偽名を用い、事件後の捜査によって身元が明らかとなるのを妨害しようとしたためではないでしょうか?」
「なるほど……。偽名である上に、顔の判別が付かず、身分を証明する物も一切無い。これでは、捜査は難航必至……」
剣持さんは呟くように言った。
「……そう言えば、晋太郎君。君は確か、古典文学が好きだったよね?」
「よく覚えていますね……」
「あぁ、勿論。君たちが用いた、自殺を他殺にみせかけるというトリックは、アーサー・コナン・ドイルの『ソア橋』という短篇に既に存在したものなんだ。そして何より、『ソア橋』のトリックは、推理小説における立派な古典だ」
「……ははっ……」
無意識に、乾いた笑いが零れた。人は極限の絶望状態に陥ると、笑う生き物らしい。ちょうど、あの時のように。
どうして……ここまで……。ここまで、やって来たというのに……。
悔しさからか、悲しさからか、それとも怒りからなのか……。笑いと共に零れそうになる涙を必死に堪えた。僕独りだけじゃ、こんなにも弱い……。
僕は、逃げるように、再び深い記憶の中へと彷徨う。
「父さん! 母さん!」
玄関扉を開け中へと踏み込むが、人の気配は無い。
意を決し、ゆっくりと歩を進める。一歩一歩、リビングの扉へと近づく。
ノブに手を掛け、カチャリと音を立て、静かに扉を開く。
……そして、それらを視た。
「う、うああああああぁあぁぁぁ!!」
絶叫を上げ、尻餅をつき、ガタガタと震え、そして……涙が溢れた。
「何で……何で……何でっ……!?」
僕は同じ言葉を何度も繰り返した。
床を這うようにして、横たわる父さんと母さんに近づいた。
「父さん……母さん……ほら、何か言ってよ。……今日は、僕の誕生日なんだ。覚えているよね? ……当然だよ、僕の、父さんと母さんだもん。だから、ケーキだって準備してくれたんだよね? ……だから……お願いだから、何か言ってよ……」
母さんは喉を裂かれていた。父さんは胸を刺されていた。二人は見つめ合うようにして倒れていた。父さんの両目からは、零れる何かがあった。それは、僕が初めて見た、父さんの涙だった。
気が狂いそうだった。声にならない声を上げた。苦しくて、苦しくて。早く悪夢から覚めてほしかった。この両目を潰してしまいたかった。何も見ないで済むのなら、それが一番正しい選択だと信じた。
「……お兄ちゃん?」
リビングの扉の向こう側から、愛の声がした。僕は悪夢を受け入れなければならなかった。扉の向こうの愛はまだ悪夢を知らない。僕が悪夢から逃げてしまったら、愛を悪夢から救い出すことは一生できなくなる。
「来るなぁ!」
涙を拭い、僕は咄嗟に叫んだ。何度拭っても、涙は止まらなかった。
震える足に少しでも力を入れ、僕は立ち上がり、玄関で待っていた愛を外まで連れて行った。
「……さっきは、怒鳴ってごめんな」
愛の目線に合わせて屈み、そう言った。愛の肩に両手を置いたが、手の震えは少しも収まらない。
「ううん、大丈夫……。……お兄ちゃん?」
「……うん? どうした?」
「どうして、泣いてるの?」
僕はもう一度だけ涙を拭うと、愛の頭を撫で、何も言わずに抱きしめた。
数日後、ある一人の男が車に轢かれ、死亡していたことが分かった。
ニュースでは、その男の顔写真とともに、交通事故のことが大袈裟に報道されていた。何故ならその男は、いくつもの都府県を跨る連続強盗殺人犯だったからだ。
その男が……あの日、エントランスで擦れ違った配達員の男だった。
何だか……可笑しかった。
目の前の現実に、只々呆れ、只々笑うしかなかった。
復讐を……あの日の僕は、誓った。両親を殺した犯人を、この手で殺してやると、僕は……誓った。どんな手を使ってでも、どんなに汚い手を使ってでも、絶対に殺してやると……誓った。
それなのに……それなのに奴は勝手に死んだ。これを笑わずにはいられなかった。
僕の復讐は……永遠に成し遂げられなくなった。
薄暗いこの洋館の玄関ロビーに佇む僕ら。
天窓には月が覗き、その月明かりが僕を照らしていた。
僕は俯き、最期の告白を呟く。
「1体目の人形が罰を受けました。
奴らと仲良くしたからです。
2体目の人形が罰を受けました。
罪無き善人を唆したからです」
――『何も止めることができなかった』
浦野さんには実のお兄さんがいた。
そのお兄さんは、尾崎に無理やり覚醒剤を飲まされ、やがて廃人となった。
彼の家族はゆっくりと、着実に破滅へと向かった。
止むことのない、破滅へと。
彼の父は、息子が覚醒剤中毒であることが世間に知られ、酒やギャンブルで気を紛らわす日々を続け、ついに首を吊った。
彼の母は、夫の多重債務を抱え込み、息子のことで世間からは冷たい目を浴びせられ、夫や息子の暴力に怯え、やがて精神を病み、入院することになったが、その後行方不明となった。
浦野さんは尾崎を捕まえて兄のことを訴えるべきかとも考えた。しかし、どうやって居場所を探せばいいのか、見つけたとして、一体自分に何ができるというのか。浦野さんは、自分独りではどうにもならないのだと諦めた。しかし、家族の破滅を止められるのは自分だけだということは分かっていた。
浦野さんは後悔した。どうして何も止めることができなかったのかと……。
「5体目の人形が罰を受けました。
愛する人を奪ったからです」
――『息子への愛を失った』
椿さんには独り息子がいた。
まだ幼いその子と一緒に歩いていた時、飲酒運転をしていた紅啓一に息子を轢かれた。それは、一瞬の出来事だった。たった今、隣にいたはずの息子が消えていた。必死になって目を凝らし、走りすぎる車を目で追った。そして、あまりの恐怖に膝が崩れ、両膝をコンクリートの上に落とした。
息子はタイヤに服を巻き込まれ、無惨にも引き摺られていたのだった。道路には、紅黒い血の痕が彼の車を追うようにして続いていた。後になって分かったことだが、息子さんは数キロメートルに渡って引き摺られ、それはまるで原形をとどめていなかったという。
犯人を探し続けて半年が経った。彼女はもう諦めかけていた。そして彼女はそれを、息子への愛が薄れてしまったのだと自責した。
しかし、ある日、彼女は紅啓一の車を偶然にも見つけ出すことができた。
そして奇しくも、彼女は以前、ネット上で見た僕の書き込みのことを思い出した。
「6体目の人形が罰を受けました。
大切な人を苦しめたからです。
7体目の人形が罰を受けました。
大切な人を追い遣ったからです」
――『何も気づいてあげられなかった』
小宮さんには高校生になった娘が一人いた。夫とは数年前に離婚し、女手一つで育ててきた、大切な娘だった。
ある日、至るところに怪我をして帰ってきた。本人は、体育の時間に転んだだけだと言った。しかしそれは、同級生に執拗に暴行を受けたからだと後になって分かった。
ある日、教科書を失くしたと言われ、すぐに新しいものを購入した。しかし、数日経つと、また、教科書が失くなっていることに気が付いた。友人に貸しているだけだと娘は言った。それは、同級生に罵倒する言葉を書き殴られ、挙句に破り捨てられたからだと後になって分かった。
ある日、今日のお弁当は美味しかったかと訊ねると、不自然な笑みで「美味しかったよ」と返ってきた。弁当箱の中を見ると、おかずを仕切るためのバランも失くなっていた。それは、同級生に弁当箱を奪われ、中身を教室のゴミ箱に捨てられたからだと後になって分かった。
その日の二日後、娘は学校の屋上から飛び降りて亡くなった。
いじめの中心格が千原と寺崎であり、集団で数え切れないほど多くの残虐なことをやっていたことが後になって分かった。
小宮さんは後悔した。どうして何も気づいてあげられなかったのかと……。
「10体目の人形が罰を受けました。
真実を偽ったからです。
11体目の人形が罰を受けました。
偽りを受け入れたからです」
――『抗う意志が弱かった』
関口さんには妻がいた。
黒河の経営する病院の待合室に、関口さんは佇んでいた。
奥さんの診断結果は、癌だった。
関口さんは日頃の平静さを欠き、黒河に掴みかかろうとする勢いで妻は助かるのかと何度も訊ねた。黒河は関口さんの方は一切見ずに、手元のカルテを眺めているだけだった。
黒河は、私に任せれば大丈夫だとだけ言い、碌な説明もせずに関口さんを帰らせた。
二度の手術後、奥さんの容態が急変した。突然、口から血を吐くようになった。その頃の奥さんはほとんどの髪が抜け落ち、もともと痩身だった手足は更に痩せ細り、その手を強く握ることさえ躊躇われるほどだった。関口さんは仕事を辞め、毎日奥さんに寄り添った。静かに寝息を立てているのを確認すると、毎晩逃げるように涙を流した。どうして、妻がこんな目にあわなければならいのか。
黒河はある日、もううちの病院では手に負えないと言い出した。関口さんは黒河に言われた通りに、数百キロも離れた大病院へと奥さんを搬送させた。もうこの男に任せていてはどうにもならないと確信したからだった。何とか大病院に着いた。そこでの診断結果に関口さんは耳を疑った。
治療の施しようがなく、もってあと二日です。
遠回しな言い方ではあったが、もっと早くここのような大病院に搬送すべきだったこと、手術の痕があるようだが、適切な治療とはいえず、むしろ病状を悪化させた可能性があることを知った。
このようなことを語るのに、その医師が躊躇ったのは当然で、それでも関口さんは必死になってそのことを聞き出した。私に任せれば大丈夫だと言った奴の言葉は、今になって関口さんの憎しみと怒りを増幅させた。
大病院に搬送された三日後、奥さんは亡くなった。
その後、関口さんは何年もの間、黒河の医療過誤についての証拠を見つけ出そうと奔走した。しかし、悉く隠蔽された後だった。看護師からは、過去の黒い噂をいくつも聞いた。それでも、証拠はすべて闇に葬られていた。どう足掻いても、証拠なんて残っていなかった。99%黒だと分かっていても、奴を糾弾し、罰を与えることはできなかった。全てを失い、両手を合わせることしかできなかった。……諦めるしかなかった。
関口さんは後悔した。どうして、抗う意志が弱かったのかと……。
「最後の人形が並んでいました。
12体目の人形が罰を受けました。
この世界を生きることに絶望したからです。
火に炙られて死にました。
残る人形はありません。
もう何も怯えることは無く、
もう何も恨むことは無いのです。
12体の人形の死によって、彼らは救われたのですから」
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