第七章 終幕

 晋太郎くんは紅文字の手紙を一通り言葉にした後、未だ目にしていない7枚目の文面を口にした。分かっている。は。

 月明かりに照らされ、正面階段を背にしていた彼は、不意に180度振り返った。そしてそのまま、階段へと走り出す。分かっている。君が今からしようとしていることも。

 「剣持さん! 彼を取り押さえて下さい!」

 これが正しい答えのはずだ。

 僕の言葉に反応して、予想以上に敏捷な動きを示した剣持さんは、瞬く間に晋太郎くんに追いつくと、すぐさま彼を羽交い絞めにした。

 「怜璃様、何故私にご指示を?」

 息一つ乱さずに剣持さんが訊ねた。

 「あなたが、元警察関係者だと踏んだからです」

 「……驚きました」

 僕はゆっくりと剣持さんと晋太郎君の元へと歩みながら言った。

 「一点目に、剣持さんは一般的な呼称である『蒼霧山荘殺人事件』ではなく、『蒼霧事件』という略称を用いたこと。二点目に、これは美琴さんに確認したことですが、剣持さんが蒼代家に入ったのは3ヶ月前、事件があったのは6ヶ月前。つまり、事件に蒼代家が関わっていることを知るには、例の小説を読んだりして情報を集めるか、直接的には、警察のような事件の関係者であるかのどちらかです。そして何より……」

 「『直観に頼った推測』ですね」

 「そうです」

 僕はにやりとして応えた。

 「晋太郎君。君は今から自室へと向かい、焼身自殺を図ると共に、あらゆる証拠を隠滅する計画だった。そうだろう?」

 既に抵抗を諦め、剣持さんの拘束から解かれた晋太郎君に向かって訊ねた。

 「…………」

 「君はさっき、『この世界を生きることに絶望したから』と言った。しかし、それは愛ちゃんを独り、この世界に残すということか?」

 晋太郎君はロビーにいる愛ちゃんの方を、ゆっくりと一瞥した。

 「君がどんなに手を紅く染めようとも、僕がその手を掴んで、引っ張り上げてやるさ。もう二度とこの手は離さない。後悔するような生き方は今日で止めにしたんだ。愛ちゃんを救える君を救わなければ、僕はこの先、一生後悔する」

 僕は晋太郎君に右手を差し出した。

 床に座り込んでいた晋太郎君は僕の手を掴むと、ゆっくりと立ち上がった。

 その時。唐突に、正面の鉄扉が音を立てた。静寂を守っていたあの重い扉が。

 「指示通り、鍵は持ってきたが、何もこの扉を閉じる必要はなかったんじゃないか?」

 扉の向こうに立っていたのは、僕と楼紗をここに運んでくれた、あの無愛想な小父さんだった。呆然として立ち尽くす僕らを一通り眺めると、小父さんは再び口を開いた。

 「そういや、この扉が閉じているのを見たのは、以来だなぁ」

 あの時……まさか。

 「あの、もしかして、『あの時』というのは、ここに住んでいた蒼代家の方のことですか?」

 「ほう……その通りだ」

 小父さんは、何故、楼紗がそのことを知っているのか、興味深いといったように腕を組んだ。

 「是非、その話を聞かせてください」

 僕はそう訊ねた。鉄扉が開かれ、悲劇の舞台から降りられるという安堵感からか、昔話に耳を傾けてみたいという余裕が生まれていた。

 腕を組んだまま人差し指で鼻頭を掻くと、小父さんは頭を上げて言った。

 「扉を閉じた理由は俺にも分からない。ただ、知っているのは、昔、この洋館の主が自ら扉を閉め、その扉を開くのに、俺が立ち会ったということだ。まさに、今日みたいにな」

 晋太郎君も含め、全員が小父さんに傾注していた。

 「奥さんは既に他界していたが、洋館の主には、二人の息子と、一人の娘がいた。三人の子どもたちは独立し、それぞれ異なる業界で大きな成功を収めていた。そして、ある日、この洋館に隠居していた主は突然、執事や召使全員に暇を出した。そのことを不審に思った執事の一人が、こっそりと洋館に戻ったところ、この正面扉が完全に閉じていたという。すぐさま、執事は主の子どもたち全員にそのことを伝えた。実は、扉の鍵は、主しか持っていなかったらしい。召使たちは、第一線で、不眠不休で日々働いているような彼らが、洋館の扉が閉じたと聞いて、飛んでくるものだろうか。そもそも、一体何ができるというのだろうかと訝しんだ」

 小父さんは思い出すようにしてその後の言葉を紡いだ。

 「俺は車にある三人を乗せた。いつもの万事屋の仕事だ。随分と高価そうなスーツを着込んでいたなぁ。そう、洋館の主の子どもたちだった。洋館に到着し、長男が持っていたらしい鍵を使って、三人は正面扉を開いた。しばらくして、三人は戻ってきたが、二人の息子さんは青ざめ、娘さんは涙を零していた。洋館の主は、寝室のベッドで亡くなっていた。自然死だったそうだ。正直、俺にはどうして、洋館の主が孤独な死に方を選んだのかは分からない。ただ、洋館に向かう車内で、あの三人が父親の無事を必死に祈っていたことだけは、確かだ。……いや、俺の勘だけどな。さぁ、昔話はこのくらいにして、俺の仕事を全うさせてもらう。車に乗ってくれ」

 「……分かりました。楼紗、美琴さんと愛ちゃんを呼んできてくれ」

 「うん、分かった」

 僕はゆっくりと歩を進め、洋館の外へ出た。肌寒い。

 たった、二日間の出来事。一生忘れられないだろう、惨劇。本当に……本当に長い、長い時間だった。

 園部さん、剣持さん、楼紗、美琴さん、愛ちゃん。そして、晋太郎君も外に出た。

 両手を組み、精一杯背伸びをした。夜の冷たい空気を吸い込む。

 「怜璃さん」

 「ん?」

 晋太郎君の声だ。

 「僕は……僕は、未だに、自分が自分であるという実感がないんです。本当の僕は、今頃、業火に焼かれて死んでいたはずなんです。僕は死んでいるんです。今、ここに立っている僕は、僕であって、僕ではない。死んだはずの僕なんです」

 「…………」

 「僕は生きているのでしょうか? 死んだ僕にとって、正しい選択をしたと思っていたことは、今ここにいる僕にとって、取り返しのつかない過ちなんです。僕は、生きているのでしょうか? 僕は……僕は、生きていいのでしょうか?」

 「大丈夫だ。君は生きている。死後の亡霊なんかじゃない。今の君は、犯した過ちに気づけたんだ」

 「どうして、こんなことになったんだろう……どうして、もっと違う選択ができなかったんだろう……どうして……僕は、誰かを助けたかっただけなのに……」

 「誰かを助けることは、今の君にもできることだ。どんなに過ちを犯しても、それに気づけたのなら、誰かに必要とされる存在に必ずなれる。君の助けを待っている人がいるはずだ」

 俯いたままの晋太郎君の表情は分からない。君の助けを必要としている人がいる。そのことを……

 「あれ……?」

 楼紗が手のひらを夜空に向けて呟いた。

 「雪……」

 誰かがそう口にすると、深々と白雪が降り始めた。開かれた玄関扉からは暖かな灯が漏れ、洋館の真っ紅な外壁と白雪は、言い様のないコントラストを成していた。

 気づくと、愛ちゃんが晋太郎君の傍に歩み寄り、袖を引っ張っていた。

 「お兄ちゃん、泣いてるの?」

 愛ちゃんがか細い声でそう訊ねた。

 「……いいや、違うんだ。これは、涙じゃない」

 晋太郎君は両目を拭い、愛ちゃんの目線に屈み、こう応えた。

 「雪が目に入っただけなんだ。愛の大好きな雪だ。泣くわけがない。……さぁ、お家に帰ろう」

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