第一章 人形

 どのくらい揺られていただろうか。

 生い茂る木立の間、鳥たちの囀りを聴きながら、砂利道の上を車は走っていた。

 横に目を遣ると、楼紗が窓の外の森を眺めていた。何がそんなに楽しいのか、さっきからずっと落ち着かない様子だった。

 今度は前方に目を遣ると、10分前と変わらない景色が後ろへと流れていた。

 野生の動物が出没するからスピードは出せないというのは理解するが、それにしても長過ぎる。一体、いつになったら到着するのだろう。貧乏揺すりをする右足に気がつく。……一度冷静になろう。こういうときにだけ、せっかちな自分を戒める。

 敗因は、推理小説を入れたバッグが後ろのトランクにあるということだ。何もすることがないという苦痛は思っている以上に堪える。早く着かないものかと焦燥せざるを得ない。

 もう一度窓の外を見る。雪は降っていないようだった。天気予報によれば、明日の午後には降る可能性が僅かにあると言っていた。気温が下がるばかりで、僕らの暮らす市ではここ数年間、雪を見ていない。おそらく、地形のせいなのだろう。せっかく田舎の奥地までやって来たのだ。冬が好きな僕としては、降雪を期待しないわけにはいかなかった。

 無意識に、溜息を一つ吐いた。窓ガラスが白色に曇る。

 ……雪は、降るだろうか?


 僕らは啓一叔父さんに言われた通りの時間の電車に乗り、目的の駅で降りた。そこにはリムジンの一台でも待っているのかと期待したが、何の変哲もない普通の車が一台停まっているだけだった。僕は車には詳しくないため、「普通の」としか形容できないが、本当によく見るような車だった。

 駅にあった公衆電話から叔父さんに連絡を取ろうかとも思ったが、僕はその普通の車を迎えの車だと決めつけた。何故なら、僕らが降りた駅が随分と寂れた田舎にあったからだ。見渡す限りの山々。車は疎か、人気さえ感じられないほどだった。そんな場所に停車した車が一台だけ。

 それから、迎えの車だと判断したのには、もう一つ理由がある。

 「あれが、私たちの乗る車かしら?」

 楼紗がその車を指差して言った。

 「おそらくそうだろう。レンタカーのようだしね」

 「どうしてそんなことがわかるの?」

 「ナンバープレートさ。『わ』と書いてあるだろう? 楼紗は車を運転したことがないから分からないかもしれないけど、『わ』というのはレンタカー用の平仮名なんだ。地方によっては『れ』の場合もあるけれど、とにかくあの車はレンタカーで間違いない」

 「運転未経験なのは私と一緒でしょ。それで、どうして私たちの迎えの車だって判るの?」

 「レンタカーを利用するのは、旅行先での足として使う場合、あるいは、利用可能な自家用車を持っていないためだと考えられる。そして、おそらくあの車の運転手は後者だ」

 「それはどうして?」

 「昨日の夜、少し気になってこの辺りの地理を調べたんだけど、観光ができるような場所で、車で通行可能な所はほとんど無いんだ。あるとすれば、隣駅からの方が近いことも分かっている。つまり、観光目的でもなく、わざわざ車を借りて人を待っているのは、普段訪れないような場所へその人を案内するためじゃないか、と思ったわけさ」

 「なるほど。それが、叔父さんが言っていた森の中の洋館ってわけね」

 「そういうことだ」

 レンタカーを利用する目的としては他にもいくつか考えられるが、今は関係無いだろう。

 「そういえば……この辺りの地理を調べたって言ったけど、結構、この旅行に乗り気なんじゃないの?」

 楼紗が僕の顔を覗き込むようにして訊ねる。

 「そ、それは……行くことになった以上は、このくらい当然だろう? ほら、さっさと行くぞ」

 僕は楼紗の不気味な笑みを振り払い、例の車へと近づいた。

 そして、忌憚無くその車の運転手に声を掛け、自分の考えが正しいことを確認した。

 薄く髭を生やしたその運転手の男は、僕の眼には40代くらいに見えた。楼紗が例の封筒を運転手に見せると、「洋館に行きたいのなら乗れ」と無愛想な返事が返って来ただけで、結局僕らは促されるままに乗車した。


 「ねぇ、もうすぐ着くって」

 隣に座っていた楼紗が話しかけてきた。駅から目的地の洋館まで30分くらいの距離だ、と運転手の小父さんが淡白に言った。駅を離れて5分ほどで森の中に入ったはずだから、この深い森を20分以上も車で移動していたことになる。比較的都会に住んでいる僕としては、想像を絶するその洋館の立地の悪さに、ほとほと呆れるしかなかった。何が目的でこんな不便な場所に館を建てたのだろう? 悪巧みをする奇怪な集団の隠しアジトなわけでもないだろう。

 例え話だが、この森の中を徒歩で抜ける場合、一体どのくらいの時間が掛かるのだろうか? 日が出ているこの時間だからこそ砂利道の上を正確に行くことは容易だといえるが、これが真夜中の森であれば話は違ってくるだろう。つまり、日が落ちてからのこの森はを形成する条件の一つを満たしているんじゃないだろうか?

 推理小説の中で大量殺人等が起こる場合、クローズドサークルといって、事件現場を外界から遮断する環境が作られることがある。例えば、嵐の中の孤島。孤島に誘い出された登場人物たちは嵐によって閉ざされた島から外へは出られず、結局嵐が止まないうちに次々と殺されていく。

 ここまで突飛な妄想を膨らませて、自分が馬鹿なことを考えていたと漸く気がつく。おそらく、少し前に読んだあの小説の影響だろう。確かに洋館と言えば殺人事件が起こるベタベタなシチュエーションではあるが、それは所詮フィクションの世界。一週間前に僕が必死に取り組んでいた密室殺人も同じことだ。現実世界にそんなユニークな事件はまず起こらない。「事実は小説よりも奇なり」など知ったことか。虚構だと割り切ってこそ、推理小説は楽しむことができる。 

 「…………」

 数羽の烏が耳障りな羽音と鳴き声を窓の外に響かせ、騒がしく飛び去った。この妙な胸騒ぎは気のせいだろうか。

 「見て! あれが、私たちの泊まる洋館よ」

 僕とは対照的に、妙な陽気さで楼紗が身を乗り出し、前方を指差す。いくら人気のない森の中だといっても、シートベルトはしっかり装着しないと危ない、と言いかけたところで車が急停車した。

 「痛たたた……」

 楼紗は左手で顔を覆っていた。どうやら前の座席の何処かに鼻をぶつけたらしい。後でシートベルトの装着意義について、再度説教をする必要がありそうだ。

 「それじゃあトランクを開けるから、後ろに回ってくれ」

 運転手の小父さんに従い、楼紗と僕はトランクから各々の荷物を回収した。僕は地味な色のボストンバッグ、楼紗はなトローリーケースを持参していた。トローリーケースというのは、スーツケースにキャスターが付いた物のことだ。母さんはそれを「コロコロ」と呼んでいた。意味が通じれば、どちらでもいいのだが。

 「俺の仕事はここまでだ。後のことは中に入って執事か誰かに聞いてくれ」

 「洋館には執事がいらっしゃるんですか?」

 あまりにもそれらしいワードに、思わず訊き返してしまった。

 「あぁ、俺はそう聞いているが」

 「やっぱり、洋館といえばそういう人が付き物なのね。……そうよ、だったらメイドさんもいるかもしれないわ」

 過去に読んだ小説に影響を受けた考えだが、確かにそうかもしれないと自分も半ば納得した。

 「あの、そういえば、普段はどんな仕事をなさっているんですか?」

 既に運転席に乗り込んだ小父さんに対し、出し抜けに楼紗が尋ねた。

 「ん? あぁ、この辺りで万事屋をやってんだ。今日の仕事もその一環だ。じゃあまたな」

 僕と楼紗は運転手の小父さんに一礼し、元の森へと戻っていく車を暫し目で追った。見送りが終わると後ろを振り向き、今一度、目の前の洋館を眺める。紅みがかった外壁は美しく、ゴシック建築を思わせる尖塔もまた綺麗だった。尖塔は館とは別に建てられていて、外見からするとただの飾りに見える。俯瞰したとしても、おそらく綺麗に映るだろうが、何処か違和感を覚える……。

 「早く中に入りましょう」

 楼紗が無理矢理、僕の手を掴んで前方へ引っ張った。僕は視線を上へ向けたまま歩を進める。まだじっくりと外観を眺めていたかったが、開かれたままの玄関扉を過ぎた辺りでそれを諦めた。前を見据えると、そこには初老の紳士が恭しく立っていた。

 「ようこそいらっしゃいました。当館の執事を務めさせて頂きます、園部そのべと申します」

 「こ、こんにちは。よ、よろしくお願いします」

 何故か緊張して楼紗が頭を下げた。僕も楼紗に倣って頭を下げる。

 白い髪に、白い髭。60代くらいの物腰の優しそうな人だ。

 「あ、あの……。招待状を受け取ったのは私たちの叔父なんですが、叔父が仕事の都合で来られなくなったので、その代わりに来たんですけど……。えっと、これだ。この封筒があれば大丈夫だと言われたので……」

 楼紗はしどろもどろになりながらも上着の右のポケットから例の封筒を取り出し、それを執事の園部さんに照会した。

 「はい、確かに拝見致しました。お名前をお訊きしても宜しいでしょうか?」

 「は、はい。紅楼紗です。こっちは兄の怜璃です」

 「紅楼紗様と紅怜璃様ですね。承りました。お食事まではまだ時間がございます。お部屋へご案内致しますが、いかが致しましょう?」

 「そうね……とりあえず荷物を置きましょう」

 落ち着きを取り戻した楼紗が僕に向かって提案した。

 「宜しいでしょうか?」

 「はい、お願いします」

 「お荷物をお持ち致します」

 気づけば、楼紗のトローリーケースは既に園部さんの左手に収まっていた。

 「……いえ、大丈夫です。僕は自分で持ちます」

 「恐れ入ります。では、こちらへ」

 どうやら無事に、客人証明は済んだようだ。ほっと胸を撫で下ろす。

 園部さんの後を追う前に、僕は立ち止まってこの高い天井を呆然と見ていたくなった。優に10メートルを超えそうなほどの高さの天井は一階と二階が吹き抜けになっており、よく見ると円形の天窓が一つあった。落ちかけた日の光が僅かに差し込んでいるように見える。そういえば、この館には他に窓があっただろうか?

 「どうしたの? 早く早く!」

 「あぁ、今行く」

 僕は小走りに楼紗の元へ駆け寄り、正面の階段に足を掛けた。真っ紅な絨毯は入口から階段の段上にまで鮮やかに敷かれていた。

 二階へ上がる途中、ふと階下を見下ろすと、どうやら新たな招待客が玄関口に現れたようだった。一人は中学生くらいの男の子、もう一人は小学校に上がるか上がらないかくらいの小さな女の子だった。仲良く手を繋いでいるところを見ると、どうやら兄妹のように見える。兄妹で旅行に来るなんてあまりないだろうと思い込んでいたが、僕らの次に来た招待客がまさかそれだとは考えもしなかった。

 「…………!」

 眼が合った。

 僕がじっと彼らを見つめていたことに気づかれたらしく、男の子は僕に向かって軽く会釈をした。慌てて自分も会釈を返す。

 「こちらです」

 二階に上がり、先導の園部さんに付き従って廊下を進んで行く。正面玄関から見て右側の廊下へと向かう。どうやらこの洋館は、俯瞰すれば、部首で言う「うけばこ」の形をしているようだ。つまり、片仮名のコの字を右に90度傾けたような具合だ。僕らは今、その右側の廊下を進んでいる。

 「こちらのお部屋です」

 廊下の突き当たりの部屋が僕らの部屋だった。園部さんが鍵を開けて入室を促す。中にはシングルベッドが二つ。そういえば、一人一人個室ではなくて、あくまで、二人一組としての宿泊だった。

 「お食事の時間になりましたらこちらからお呼び致します。何かございましたら、ベッドの側にあります内線電話でお申し付け下さい」

 「ありがとうございます」

 早速ベッドの上に腰を降ろす楼紗を余所目に、僕は園部さんから自室の鍵を預かった。鍵には「205」と数字の書かれたタグが付いている。ここの部屋番号だ。

 「流石に高級なベッドだわ。家のベッドとは大違いね」

 楼紗がどうでもいいことを口にしていた。兄妹だとしても、いい歳の男女が同じ部屋に泊まることになろうとは何とも不思議な感覚だ。楼紗の方に問題がないのであれば、僕が余計な心配をする必要もないのだが。

 「この建物自体がそうだから、客室の天井も随分と高いな……」

 「言われてみると、そうね。今夜は落ち着いて眠れるかしら?」

 楼紗の無神経さなら大丈夫だろう、と心の中で呟く。上を見上げると、自宅のそれの2倍とまでは言わないが、それに近いくらいの高さを持つ天井に、自然と威圧感を覚えた。そこには小さなシャンデリアが一つ、取り付けられている。玄関にある照明のスイッチは、このシャンデリアにだけ対応して点灯するようだ。

 ベッドの上にボストンバッグを放り出すと、自分もその上に体を投げた。部屋を見回すと、窓が一つも無いことに気がつく。我が家の自室のカーテンはいつも閉じているため、窓があっても無くても同じように感じていたが、やはり全く無いとなると若干の圧迫感を覚える。威圧感の次は、圧迫感だ。この洋館の外観を眺めた時に僅かに覚えた違和感はこのことだったのか。やはり、この洋館には例の天窓を除いて一つも窓が無いのかもしれない。

 異常に高い天井、窓が無いという事実を除けば、至って普通の部屋と言えた。除かなければ、文字通りの異様な部屋だ。

 とりあえず、この洋館の構造を今一度思い起こしてみよう。

 一階はまだよく見ていないが、玄関から右奥に少し見えた広いロビーと、おそらく左側にあった部屋はダイニングルームだろう。他にあるとすれば厨房や使用人室。一階はこのくらいだろう。二階は主に客室があり、「うけばこ」の右側には4室確認できたから、左側も対称にあるとすればさらに4室で、合計8室。不吉だからと「204」が無い可能性を無視すれば、ここの部屋番号が「205」であることからも、ほぼ間違いないと言えるだろう。つまり、最大招待客数は16人というわけだ。

 しかし、僕らの他に現在確認できた招待客は、さっき見た兄妹(仮)のみ。まぁ、食事の時間になれば、当然招待客全員と顔を合わせることになる。ということは、僕はその時間まで自室でゆっくりとしていればいいのだ。僕らは新しくここに越してきたアパートの住人などではない。他の招待客に挨拶回りに行く必要など全くないのだ。食事の時間に顔を出し、全員に軽く会釈をする程度でいい。

 僕は一度体を起こし、バッグから推理小説の本を何冊か取り出した。旅行に来ているとはいえ、四六時中旅行限定の娯楽に耽る必要はない。こうして食事の時間までたっぷりと暇な時間はあるのだ。そういう時間を他の招待客との談笑に当てるよりは、持参した推理小説を独り読んでいた方が僕にとっては建設的な行為だと言えた。社交性などというものは、食事中に養えば十分だろう。

 先刻の移動中に積もり積もったイライラの件もある。

 僕は持ってきたいくつかの推理小説をベッドの上に並べると、どれを読もうかとうつ伏せになり、顎に手を当て考えた。そして、最近高校の友人に勧められた本を読むことに決め、手に取り最初のページを捲ろうとしたその時だった。

 「……何をしているのかしら?」

 目の前には不穏な笑みと怒りを湛えた楼紗の顔があった。

 「え……いや、推理小説を読もうかと……」

 「旅行しに来てまで何やってんのよ。それじゃあ、いつもと何も変わらないじゃない! 部屋に篭ってるんじゃなくて、こういうときはもっとアクティブに行動しないと、せっかく旅行に来た意味が……」

 「わ、分かったよ……じゃあ、一体何をすれば……」

 「とにかく、一階のロビーに行きましょう。少なくともこの部屋に残っているなんて選択肢は無いわよ。ほら、さっさと起きる!」

 全ての語尾にエクスクラメーションマークが付くような勢いで、楼紗が捲くし立ててくる。いや、その調子はいつものことか……。

 僕は観念して小説をバッグの中に戻し、楼紗に連れられるまま廊下に出た。本の一冊でも忍ばせていこうかと思ったが、楼紗にそれを見透かされて断念した。部屋を出た後、忘れずに鍵を掛ける。この部屋の扉はオートロックではないらしい。鍵は僕が持っておくことにした。

 旅行と言ったって、この洋館内で何をしようと言うのだ。お土産売り場でもあるというのだろうか。全くもって、不毛だ。

 廊下を進み、角を曲がって中央の階段が見えたところで、新たな招待客と対面した。

 「こんにちは」

 楼紗が進んで挨拶をする。

 「……ん? あぁ、こんにちは」

 向こうはまだこちらに気づいていなかったようで、慌てたように返事をした。50代くらいの白髪交じりの男性と、その後ろを歩いていたのは同じくらいの年代に見える女性だった。夫婦、兄妹、秘書、旅行仲間……色々と関係性を考えてみたが、夫婦というのが妥当そうだった。一瞬だけ女性の薬指に光る物が見えたからだ。それで、他の可能性が消えるわけではないが、何というか、勘だった。

 僕は二人ともに会釈をしながら通り過ぎ、中央階段を降り始めた。二、三段降りた後、すぐに振り返ると、彼らは僕らが今来た廊下を進んで行ったようだった。そういえば、今の二人には園部さんのような案内人が付いていなかったな……。案内を拒否したのだろうか?

 僕らは一階まで降り、楼紗の言う通りにロビーへと向かった。

 ロビーには壁際に横長のテレビが一台あり、その前にはこれもまた長い、真っ紅なソファーが向かい合って並んでいた。とにかくこの屋敷は「あか」に拘っているようだ。外壁も絨毯もソファーも、全てが紅、紅、紅。そしてそこには、3人の先客があった。

 「こんにちは!」

 楼紗が気さくに声を掛ける。

 「あら、こんにちは」

 「……こんにちは」

 返事をしてくれたのは40代くらいの男女だ。彼らの隣に僕らは座った。

 「失礼ですが、ご夫婦ですか?」

 「えぇ、そうよ。……そうね、ここで会ったのも何かの縁だし、自己紹介するわね。私の名前は浅沼あさぬま理紗りさ。こっちは旦那の俊介しゅんすけよ。よろしくね」

 「どうも」

 奥さんには明るく、知的な印象を受けたが、俊介さんは少し無愛想な感じがした。例の運転手と同じような雰囲気だ。

 「こちらこそ、よろしくお願いします! 私は紅楼紗と申します。こっちは兄の怜璃です。……変わった名前ですよね?」

 楼紗も十分変わった名前だと思うが、敢えて何も言わないことにする。

 「それでは、僕からも自己紹介をさせて下さい」

 先ほど二階に上がる途中で見た兄妹(仮)の兄の方だ。着席していたのは女の子だけだったが、不意に背後から現れて声を掛けてきた。女の子の隣に腰を下ろしながら言葉を続ける。

 「如月きさらぎ晋太郎しんたろうと申します。この子は妹のあいです。ほら、ちゃんと挨拶をしなさい」

 愛ちゃんは終始テレビに夢中のようだった。中々こっちを向こうとはしてくれない。

 テレビと言えば少し気になっていたのだが、テレビの上に変わった人形が何体も置かれていた。数えてみると12体、紅いクマの人形が横一列に綺麗に並んでいた。どれも同じ顔、同じ格好をしており、形容し難い不気味さを漂わせている。この館の主の趣味なのだろうか? それにしては子ども染みている気もするが……。

クマの人形と言えば、テディベアの名前の由来が思い出される。

 確か、アメリカの大統領、セオドア・ルーズベルトの通称から取られた名前だった。ルーズベルト大統領は熊狩りが趣味で、同行したハンターに年老いた雌熊への最後の一発を頼まれたことがあったが、彼はスポーツマンシップの精神から、その熊を撃たなかったらしい。このことが同行した新聞記者からおもちゃメーカーへと伝わり、ルーズベルト大統領の名である「テディ」の名称でクマの縫いぐるみが発売されたのが事の起こりだそうだ。

 これは誰かから聞いた話だったような……。

 そうだ、2年前、台所で母さんが楼紗にそう話しているのを聞いて知ったんだった。

 「すみません、今年小学校に上がったばかりなんですが……人見知りする性格で……学校でも中々友達ができないようで、少し困っているんですが……」

 晋太郎君は俯いてぶつぶつと呟き続けていた。

 「そ、そんなに気にしないで下さい。愛ちゃん、こんにちは」

 「……こんにちは」

 愛ちゃんは晋太郎君の右腕を両手でしっかりと抱えたまま、隠れるようにして返事をした。テレビでは彼女くらいの年齢の子が好みそうなアニメを放映していた。

 「晋太郎君はいくつなの?」

 理紗さんが自然に訊ねる。

 「中学の2年生になります。愛とは八つも歳が離れているんです」

 「あら、そんなに珍しいことじゃないわよ。私には十一離れた兄がいるもの」

 「そうなんですか。これは、認識を改める必要がありますね」

 理紗さんの目が楼紗の方へと向く。

 「楼紗ちゃんはいくつ?」

 「私は今15です。ちなみに、兄は一つ上です」

 楼紗の言うように、僕らは一つしか歳が離れていないため、晋太郎君と愛ちゃんの八歳差でも十分なインパクトがあった。

 「理紗さんにはお子さんはいらっしゃいますか?」

 「えぇ、いるわよ。ちょうど楼紗ちゃんと同じ歳の娘が一人ね。是非、楼紗ちゃんに会わせてあげたかったけど、残念ながら今日は家で独りお留守番だわ」

 「そうなんですか……それは残念です」

 俊介さんは無視するように腕を組んで下を向いている。

 「あの、お二人はご結婚されてどのくらいになるんですか?」

 更に楼紗が積極的にプライベートな質問をぶつける。こういうところまで「アクティブ」である必要はあるのだろうか。

 「今年で15周年ね。……結婚記念日の略称としては、何になるのかしら?」

 理紗さんが俊介さんの方を向いて訊ねる。

 「……俺は知らん」

 俊介さんは無表情のまま短く応えた。この二人の結婚生活はうまくいっているのだろうかと、余計なお世話だろうが、少し心配になってしまった。

 「ええっと……確か、水晶婚式だったと思います。そうです、間違いありません」

 「水晶婚式? 初めて聞いたわ。メジャーなのは銀婚式や金婚式でしょう? 他にも色々とあるのかしら?」

 「はい、勿論。20周年は陶器婚式、30周年は真珠婚式、35周年は珊瑚婚式……」

 「真珠や珊瑚まであるのね。勉強になったわ。楼紗ちゃんは博識なのね。それとも、余程結婚に憧れているのかしら?」

 「あ……じ、実は……中学生の頃に少し調べたことがありまして……」

 楼紗が頬を紅潮させる。熱弁を振るい過ぎたと反省しているのだろう。いくら結婚に憧れているからといって、結婚記念日を調べようと思う中学生が世の中にどれだけいるのだろう。やはり、楼紗は少し変わっているようだ。十数年同じ屋根の下に暮らしていながら気づけていなかったことが他にもあるのかもしれない。

 いや、待てよ。そういえば、かくいう自分も図書館で数の単位を調べて暗記したことがあった。今でもそれは完璧に暗唱できる。……晋太郎君の言葉を借りれば、兄妹ともに変わり者だと認識を改める必要があるのかもしれない。

 「こんにちはー。何の話してるんですかー?」

 やって来たのは二人の茶髪の女性。二階から降りて来たようだ。高校生か大学生くらいに見える。

 「あ、私千原ちはら奈美なみって言います。奈美って呼んで下さーい」

 「私は寺崎てらさき留美るみです。よろしくお願いしまーす。勿論、呼ぶ時は留美でいいですよー」

 随分とフレンドリーな人たちだ。いや、少し違うか……。

 「よろしくお願いします、紅楼紗と申します。こっちは兄の怜璃です」

 「ふふ、よろしくね。浅沼理紗よ。こっちは旦那の俊介」

 「こんにちは。如月晋太郎と申します。こっちは妹の愛です」

 楼紗と理紗さん、晋太郎君が順に挨拶をした。話し掛けられると面倒そうだと判断し、僕は黙礼だけにした。俊介さんと愛ちゃんに関してはほとんど無視しているようなものだ。

 「来年受験なんですけどー、まぁ、たまにはこういうのもいいかなーって思って」

 奈美さんが話し始める。高校3年生か……僕の一つ先輩にあたるということだ。容姿からして、まさか中学生ということはないだろう。

 「それにしてもラッキーですよねー。タダでこんな綺麗な洋館に泊まれて、高級ディナーが食べられるなんて」

 「もう写メ超撮りまくりですよ。皆で一緒に写りません?」

 留美さんの提案に対し、俊介さんがあからさまに嫌な顔をした。

 ……空気が静まり返る。一瞬、誰かの舌打ちが聞こえた気がした。

 「何で招待主がいねえんだよ!」

 何事かと、少し飛び上がる。突然、怒声が玄関の方から響いてきた。少し席を立ち、声のした方へ視線を遣ると、如何にも不良そうな男女が、白いエプロンドレスを着たメイド風の女性に向かって騒ぎ立てていた。

 「で、ですから……まだ、館にご到着されていないんです……も、もう少しお待ちいただけませんか?」

 「俺たちは客だぞ! どうして招待した側が遅刻してんだよ! とっとと冷たいやつを出せってんだ!」

 煩い男は左手でバッグを肩に背負い、右手に持ったペットボトルで肩をポンポンと叩いていた。女の方はバッグを床に放り出して余所を向き、長い金髪を人差し指でクルクルと弄んでいた。

 騒ぎを聞きつけたのか、園部さんが奥から現れた。小声で説得を始めたようだ。いや、園部さんが小声なわけではないだろう。そもそも、かなりの大声でなければ玄関からここまで声が届くはずがないのだ。

 そういえば、あの男が言っていた「招待主」、言い換えれば、この旅行を企画した責任者のような人は何処にもいないのだろうか? 園部さんやあのメイド風の女性に任せきっているということか?

 「すみません。僕は部屋に戻りますね」

 席を立ったのは晋太郎君だった。あんな柄の悪い男女は愛ちゃんの教育上良くないとの判断だろう。言ってしまえば、視界に入るだけで気分を損ねそうなほどだ。

 「愛、テレビはまた後で見ればいいだろう。部屋に戻るよ」

 動こうとしない愛ちゃんに向かって、晋太郎君は優しく宥めるように言った。やがて、愛ちゃんは視聴を諦め兄の手を取り、中央階段へと向かった。テレビは点いたままだ。そういえば、客室にテレビは無いんだった。推理小説が読めればどうでもいいことだが。

 「私たちもそうしようかしら?」

 今度は理紗さんだった。俊介さんも無言で起立する。

 「えぇー! もう部屋に戻っちゃうんですか?」

 「そうですよー。まだ全然お話してませんよー」

 奈美さんと留美さんが順に抗議をした。

 「ごめんなさいね。変な空気になっちゃったし、あの男はおそらくこっちに来るだろうから」

 「どうしてそんなことが分かるんですか?」

 楼紗が訊ねる。

 「ふふ。おそらくあの男はこう言うわ。『招待主が現れるまでロビーで待たせてもらう』ってね。どうしても彼は招待主に会いたいようだし。しかも、かなり焦っているように見えるわ。すぐにでも会いたいんじゃないかしら?」

 「……なるほど」

 楼紗に加え、僕も納得した。

 「それじゃあ、私たちは自室に戻るわ。また後でね」

 理紗さんと俊介さんも中央階段へと向かった。女子高生の二人はどうするのだろう。

 「じゃあ、私たちも戻る?」

 「奈美が決めなよ」

 「じゃあ戻るってことで。あんな不良に絡まれても困るし」

 案の定、奈美さんと留美さんも自室へ戻ることに決めたようだ。

 「私たちはどうする?」

 「ここにいたって何もすることはないだろう。僕たちもさっさと部屋に戻ろう」

 「そうね。そうしましょう」

 テレビのスイッチを切り、僕と楼紗が女子高生の後に続こうとしたその時、ペットボトルの中身を飲みながら不良男と不良女がこちらに近づいてきた。二人ともサングラスを掛け、奇抜なファッションをしている。一体、何処で流行っているのだろう。

 僕たちはコソコソと逃げるようにその場を後にした。

 玄関前に来てみると、丁度園部さんが新たな招待客を出迎えているところだった。メイド風の彼女は脇に畏まっている。

 「遠藤えんどう美佳子みかこです。早速、部屋に案内してくれるかしら?」

 「畏まりました。お荷物をお持ち致します」

 「あ……その前に、お化粧室は何処かしら?」

 「一階にございます。こちらです」

 30代くらいの若い女性と、高校生くらいの男の子が立っていた。

 女性の方の第一印象は、性格のシビアなキャリアウーマンといったところだろうか。高校生らしき男の子の方はずっと下を向いており、寡黙で暗い印象を受けた。真に勝手な妄想だが。

 「母さんは先に行ってて。僕は一階を見て回るよ」

 「そう? わかったわ」

 どうやら親子のようだった。息子さんは園部さんから部屋番号を聞くと、こちらに向かって歩き出した。

 「あ……こんにちは」

 「こんにちは!」

 楼紗が明るく返事をする。明るさだけは間違いなく人一倍、いや、三倍くらいはある。

 「いきなりで失礼かもしれませんが……もしかして、高校生の方ですか?」

 「……はい。今年、高校に上がりました」

 「本当ですか! 私も今年、高校生になったんです。同級生ですね。何だかそんな気がしたんですよ」

 「そうなんですか。これは奇遇ですね……」

 彼は基本的に視線を落としまま会話をしていた。さっきの第一印象は強ち外れていないのかもしれない。

 「そういえば、自己紹介がまだでしたね。紅楼紗っていいます。こっちは兄の怜璃です」

 「僕は、遠藤和哉かずやと申します。よろしくお願いします……」

 今日、何度も繰り返している遣り取りだ。

 「こちらこそ、よろしくお願いします。楽しいディナーになるといいですね。……そういえば、一階を見て回ると言っていましたけど、洋館がお好きなんですか?」

 「えぇ。家に古い図鑑があったんです……。もう随分と前に失くしてしまいましたが……」

 「もしかして、この洋館のこともご存知なんですか?」

 「はい、少しだけなら。えっと……前から知っていたわけではなく、ここに来る前に少し調べただけなんですが……」

 「この洋館って、名前はあるんですか?」

 「はい、『紅月館こうげつかん』というそうです。紅白の紅に月で、紅月館です。名前の由来は、単に外壁が紅色をしていることと、それから……あそこに天窓がありますよね?」

 和哉君は上を見上げながら言った。ここへやって来た時に見た円形の天窓のことだ。

 「あそこの天窓を通して月を眺めることができるそうで……それで、紅月館という名前になったそうです……」

 「そうなんですか……。名前の由来を知っていると、何だか同じ物でも違って見えてきますよね」

 楼紗はそう言いながら、天窓に映る月を必死に探そうとしていた。日中でも月を見ることはできるが、さすがにあの高さまではまだ昇っていないだろう。

 「それから、蛇足ではありますが……この洋館には、あの天窓一つしか窓が存在しないそうなんです」

 「えっ! そうなんですか? 全然気づかなかった……」

 鈍感過ぎる楼紗のことはさて置き、やはり、この洋館にはあの窓を除いて一切窓が無いらしい。

 「もしかして、入り口はそこの扉だけなのかい?」

 僕は玄関の開かれたままの鉄扉を指差して訊ねた。

 「はい……。つまり、この洋館の出入りはあの扉と天窓からだけ、ということになりますね……。不便なのか、都合がいいのか、よくわかりませんが……」

 「不便ですよ! あの扉が開かなくなったら、もうここからは出られないんですよ? どう考えても、あの天窓から外へは出られないでしょうし」

 和哉君が「都合がいい」と言ったのは、外部から不審な人物が侵入しようとした場合、そこの扉一つを監視、若しくは、封鎖していれば済む、というようなことだろう。あるいは、楼紗の考え方からすれば、そこの扉を封鎖して中にいる人たちを閉じ込めるのに都合がいいともいえる。後者の場合、今の僕らにとって、それは全く笑えない話になるのだが……。

 「確かにそうですね……。出入りは天窓と扉からのみと言いましたが、実際にはあの天窓からの出入りはほとんど不可能だと言えます。楼紗さんのおっしゃる通りだと思います……」

 地面から十数メートル離れた場所にある天窓。二階の手摺からの直線距離でもかなり離れている。中から外へ出ることは不可能だろう。

 「そもそも、あの窓は嵌め殺しなんじゃないか?」

 「言われてみるとそうですね……。外壁を攀じ登ってあの窓まで辿り着いたとしても、一度あの窓を割ってから、十数メートル下のこの地面までロープか何かを下ろす必要がありそうです」

 中から外への移動が不可能なだけでなく、外から中への侵入も絶望的なのだ。窓を割る必要がある以上、その音を誰にも気づかれずに、侵入を遂げることは非常に困難。偶然聞かれなかったとしても、必ず破片が床に散乱するはずだ。それから……

 駄目だ。つい、いつもの癖で出入経路の確認をしてしまった。あくまで今日は旅行目的で来ているはず。そのことを先刻、楼紗に諭されたばかりだ。

 「あ、そうだ。あそこのロビーに不良っぽい人たちがいますから、気をつけて下さいね。近寄らないほうがいいと思いますよ」

 「そうなんですか……ゆっくり見回っていたかったのですが、早めに戻ったほうがいいのかもしれませんね……」

 「それじゃあ、私たちは部屋に戻るので、また食事の時にお会いしましょう」

 「そうですね。それでは、また……」

 互いに会釈をし、僕らは一度別れることにした。

 

 自室まで真っ直ぐに戻る。途中の階段や廊下で擦れ違った人はいなかった。

 「これだけ紅色に囲まれていると、闘牛なんて連れて来たら大変なことになりそうね」

 自室の扉を閉める僕の背に、ベッドに腰を下ろした楼紗が話し掛けてきた。

 「ん? 楼紗は、闘牛が紅色に反応して興奮していると思っていたのか?」

 「えっ……違うの?」

 「牛の目に色を識別する力はないんだ。闘牛士は布の色じゃなく、布の動きで闘牛の興奮を煽っているだけなんだよ。あの鮮やかな紅色が眼に焼きついて、牛の眼の真実を視えなくしているんだろうな」

 「ふーん、そうだったんだ」

 ……さて、今度こそ小説を読むか。今度こそ、それが許される時間のはず。僕もベッドに腰を下ろし、バッグの中の小説本を探った。

 「またそれなの? 本当に推理小説を読むことしか頭にないのね」

 今度は酷く冷めた目で楼紗が話し掛けてきた。

 「そんなことはない。他にも本は読むんだぞ?」

 「例えばどんなのよ」

 「例えば……『死因大辞典』とか、『毒薬・麻薬大全』とか……あと、『大量殺人の系譜』とか……」

 「とか……じゃないわよ! 結局、陰湿なわけわかんない本ばっかりじゃない」

 「陰湿とは失礼な。人間誰しも平等に備えている概念の一つが死じゃないか。死なない人間なんていない。だからこそ人間は死に固執し、その神秘さや不条理に惹かれるんじゃないか。いいか、そもそも死というのが……」

 「もう結構よ!」

 楼紗は一方的に怒りを露にし、枕に顔を埋めて黙り込んでしまった。僕には何をそんなに怒っているのか分からない。

 自分のベッドにうつ伏せになり、さっき読もうと思っていた本をバッグから取り出す。確かに、初めこそ窓の無い部屋は息苦しく感じていたが、よく見れば照明や空調設備の整った素敵な部屋じゃないか。何も気味悪く感じることはない。

 目次を飛ばし、最初のページを捲る。タイトルは『蒼霧あおぎり山荘殺人事件』。著者はある出版社の記者で、内容は全てノンフィクションだという噂だが、真偽のほどは不明だ。半年ほど前、ニュースでも話題になった事件ではあるが、事の全容を知ることはできなかった。何故なら、この本が出版されるまで、何処の山荘で起きた事件なのかさえ伏せられていたからだ。殺人事件が起こったという事実がその山荘のイメージダウンに繋がり、経営に悪影響が出るのを避けたためだろうと推測する。それだけに、この本の持つ魅力は絶大であるといえた。しかし、この本の出版が後の裁判の端緒となったのは言うまでもない。

 本の内容が真であれ偽であれ、僕は推理を楽しめればいいだろうという何とも不謹慎で無責任な思考の下、最初の行を目で追った。

 主人公はある大富豪の御曹司。側には常に一人の執事が付き従っており、主人公は面倒なことを全てその執事に任せる……というよりも、押しつけていた。執事は博識で、どんなことにも精通していた。主人公は暇潰しにと、ある大事件に挑むことになる。側には常に執事が控えていて、適切な助言を与えていく。主人公は一見不可能に思えるトリックを前に、持ち前の洞察力と推理力でそれを解決していく、という話だ。

 主人公の「傲慢」な性格が癪に障ることもあったが、パートナーの執事が上手くそれをコントロールしているようだった。それに、執事が語る知識の数々には驚嘆せざるを得なかった。僕も彼くらいの知識があれば、以前読んだあの小説の、小難しいチェスやアーチェリーの話にもついていけたのかもしれない。

 暫時、ページを捲る音だけが時を刻んでいた。

 半分近くまで読み進めたところで扉をノックする音が聞こえた。慌てて体を起こし、読んでいたページに紅い栞を挟む。

 隣のベッドを見ると、楼紗は顔を向こう側に向けて静かに眠っているようだった。

 「どうぞ」

 確か、鍵は開けたままだった。無用心だったかと少し反省する。僕が返事をすると、入り口には20代くらいのメイド風の女性が立っていた。不良男に怒鳴られていた彼女だ。

 「失礼致します。お食事の準備が整いましたので、お呼びしに参りました」

 メイド風の女性は慇懃な礼をしてからそう言った。隣の楼紗を静かに揺り起こす。

 「楼紗、起きろ。食事の時間だぞ」

 「何……どうかしたの……?」

 楼紗は片目を擦りながら体を起こし、入り口の彼女の姿に気がつくと、慌てて姿勢を正した。

 「こ、こんにちは! もう食事の時間なんですか?」

 「あぁ。だから呼びに来てくれたんだろう?」

 「あの……その、お名前は何と……?」

 僕の言葉を無視して楼紗が訊ねる。

 「あっ……失礼致しました。笠原かさはら美琴みことと申します」

 再び深々と礼をしながら、彼女はそう応えた。

 「えっと……美琴さん……って呼んでいいですか?」

 「はい。ご自由にお呼び下さい」

 美琴さんは少し照れるような表情で俯いた。まだメイドとしての経験が浅いのだろうか。それともただ、楼紗のような積極的な態度に弱いだけなのか。

 「……あ、すみません。ダイニングルームまでご案内しますね」

 楼紗と部屋を出ると、僕が部屋の鍵を掛け、すぐに美琴さんの後を追った。

 廊下にも紅絨毯が丁寧に敷かれている。壁際の均等に並んだ洋灯もまた、真紅の色を纏っていた。妖しく、美しく、不気味な光だ。

 「あら、楼紗ちゃん」

 「あ、理紗さん」

 中央階段付近でばったりと出会ったのは浅沼夫妻だった。先導していたのは園部さんだ。2時間くらい前に会ったばかりだというのに、数年振りの再会を喜んでいるかのように楼紗は振舞った。

 「どんなに美味しい料理が出るんでしょうね? 楽しみだわ……」

 「えぇ、そうね。私も楽しみだわ」

 理紗さんは少し笑いながら応えた。使用人の方が二人も目の前にいるというのに、楼紗は堂々とのたまう。年相応に、もう少しお淑やかにして欲しいものだ。肩を竦め、やはり、心の中でそう呟く。

 一階まで降り、目的の部屋へと案内される。思っていた通り、玄関から見て左側にあったのはダイニングルームだった。中には誰もおらず、僕らが一番に呼ばれたらしい。映画で見たような長テーブルがまず目を引いた。向かい合った椅子が7組14脚ある。つまり、招待客の数は14名ということでいいのだろうか?

 「お好きな場所にお座り下さい」

 「そうね……。勝手な提案だけど、大人は大人、子供は子供で固まっていた方がいいんじゃないかしら?」

 「そうだな……。例の不良たちは子供たちから離して座らせたほうがいいかもしれん」

 珍しく俊介さんが発言する。

 「わかりました。私もそのほうがいいと思います。どうかしら?」

 「あぁ。晋太郎君や愛ちゃん、それに和哉君たちともまた話がしたいしね」

 そう言って奈美さんと留美さんの存在を思い出す。まぁ、彼女たちは二人だけで十分楽しんでいるだろうから構わないだろう。

 「それじゃあ、私たちは前の方に座るわね。楼紗ちゃんたちは後ろの方から座るといいわ」

 僕と楼紗は理紗さんの指示通りに最後方の席に向かい合って座った。理紗さんと俊介さんは一番前側の席に向かい合う。

 「どんな料理かしら。和食? 中華? やっぱり、フランス料理?」

 「その通り。啓一叔父さんの話だと、フランス料理らしい。楼紗、テーブルマナーは大丈夫か?」

 「うっ……ちょっと、心配かも……」

 「子どもは子どもで集まるんだから、僕たちが晋太郎君や愛ちゃんに教えてあげられないと不味いんじゃないか?」

 「そ、それは確かに不味いわね……。一から教えて」

 どうやら本当に何も知らないらしい。というわけで、食い意地ばかり張る妹に簡単にレクチャーをすることにした。西洋が舞台の推理小説を読むにあたって、洋食のテーブルマナーくらいは知っておくべきだと思い、自分で調べたことがあった。それがこのような形で役に立つとは、世の中何が幸いするかわからない。今まで、その知識を活用できる場面に遭遇してこなかったのは、些か悲しいことであるのもまた事実だが。

既にテーブルの上には皿やナプキン、カトラリーがきちんと並べられている。楼紗は目の前にずらりと並んだナイフやフォークに目を白黒させているようだった。

 「いいか? まずナイフやフォークは外側から順に……」

 「あ、こんにちは。先ほどはどうも……」

 入り口に立っていたのは和哉君だった。隣にいるのは確か、彼の母親の美佳子さんだ。

 「あ、和哉君。実は、大人と子どもで別れて座ろうってことになったの」

 「そうなんですか。じゃあ、母は前の方に座ればいいんですかね……」

 「そうですね。よろしくお願いします」

 「わかりました」

 美佳子さんはそう短く言うと、さっさと前の方の席へと移動した。

 改めて着席し、講義を再開する。

 「うん……うん……。よし、大体わかったわ」

 僕が説明を終えると楼紗は小さく頷いた。

 「和哉君は洋食のテーブルマナーって知ってた?」

 「……いえ、あまり詳しくはありませんでしたから、実は、今の怜璃さんの説明を聞いて勉強させて頂いていました………」

 「少しでもお役に立てたのならよかったよ」

 「皆さん、お揃いですね」

 今度は晋太郎君と愛ちゃんだった。愛ちゃんはしっかりと兄の手を握っている。

 「どうやら、分かれて座っているように見えますが……」

 「その通りだよ。晋太郎君と愛ちゃんは楼紗の隣に並んで座るといいよ」

 「そうせてもらいますね」

 現在、楼紗の右隣には和哉君、僕の左側には愛ちゃん、晋太郎君の順に座っている状態だ。

 「そういえば、楼紗さんのお隣の方とは初対面でしたね。初めまして、如月晋太郎と申します。この子は妹の愛です。よろしくお願いします」

 「こちらこそ、よろしくお願いします。遠藤和哉といいます……」

 「ゴホンッ、ゴホン」

 咳き込みながら入室したのは、僕らが初めロビーへ向かう時に、中央階段付近で擦れ違った男女だった。何も言わずに軽く会釈だけして通り過ぎ、美佳子さんの隣に女性が、その前に男性が着席した。俊介さんとその男性の間には空席ができることになる。また彼らに案内役は付いていなかった。

 「うわー、マジ映画みたいじゃん?」

 「あー、それ分かる、分かる」

 会話と声だけでそちらを向かずとも誰だか認識できた。入ってきたのは奈美さんと留美さん、先導していたのは美琴さんだ。留美さんが晋太郎君の左隣に、奈美さんはその前の席に座る。これでまた奈美さんと和哉君の間に空席が一つできた。

 「……美琴さん、美琴さん」

 楼紗が小声で側に立っていた美琴さんを呼ぶ。まだ空席は二つあったが、残りの招待客、つまり、あの不良組は園部さんが呼びに行っているのだろう。

 「はい、何でしょう?」

 「前の方の……俊介さんの右側に座っている人は、どんな方何ですか?」

 「はい、黒河くろかわ英司えいじ様ですね。確か……お医者様だと聞いております。英司様の正面に座っていらっしゃるのが奥様の和枝かずえ様です」

 「なるほど……確かにお医者さんって感じの人ですね。ありがとうございます」

 あの人は医者だったのか。観察が足りなかった。夫婦だというところまでは見当通りだったが。

 「そういえば、晋太郎君はテーブルマナー大丈夫なの?」

 「えぇ、フランス料理のレストランへは何度か行ったことがありますから。ただ、愛がそれを覚えているかどうかは心配なところです……。でも、僕が補助するので大丈夫だとは思います」

 「あ……そうだったんですか。羨ましいなぁ……」

 自然と楼紗よりも晋太郎君のほうがずっと大人に見えてしまう。晋太郎君は育ちがいいのだろう。

 隣に座る和哉君が楼紗の科白に笑っていたその時、ダイニングルームの入り口の扉が勢いよく、乱暴に開かれた。

 「クソッ! 招待主は現れねぇし、裕香ゆうかは戻って来ねぇ! ったく腹が立つぜ!」

 とうとうあの不良男がやって来てしまった。一瞬にして場の空気が強張る。一緒にいた女の人は不在らしい。

 「おい! 俺は何処に座りゃあいいんだ?」

 「あ……こちらの席にどうぞ」

 美琴さんが怖ず怖ずと、俊介さんの隣へ着席を促す。

 「あんまり腹減ってねぇからよぉ、別に急がなくてもいいぜ」

 不良男はどさっと座ると、左腕で頬杖をつきながら悪態を吐いた。誰もあんたのためだけにディナーを用意するわけではない。園部さんはあと一人の女の人を探しに行っているのだろう。まだ戻ってこない。

 「それにしても、あんたらも物好きだよなぁ。餓鬼どもなんてそうは見えねぇぜ?」

 不良男はまだ話を続ける。大人たちは何も言わず、沈黙していた。……物好き? 一体、何の話をしているんだ?

 しばらく重い沈黙が続き、やがて園部さんが戻って来た。

 「尾崎おざき様、申し訳ありません。お部屋をノックしましたが、返事はありませんでした」

 「他は探したのかよ?」

 「はい。屋敷中を探しましたが、佐藤さとう様のお姿は見えませんでした」

 「ったく何処行ったんだよ!」

 不良男の名は尾崎、一緒にいたのは佐藤と言うらしい。そして、その佐藤さんの姿が何処にも見当たらないと……。

 「まぁ、いいや。それはそれで都合がいいからよ。さっさと飯持って来てくれよ」

 「佐藤様をお待ちしなくても宜しいのですか?」

 「あぁ、もういいぜ、あいつのことはほっといて。後で部屋に持って来てくれりゃあ、それでいいからよ」

 「畏まりました。それでは皆様、少々お待ちを」

 園部さんと美琴さんは一礼して部屋を出て行った。

 さっき尾崎さんが言っていた「都合がいい」というフレーズも気になる。一体、彼は何を企んでいるんだ? 都合がいいといえば、玄関前で和哉君と話した内容を思い出す。


 すぐに最初の料理が運ばれてきた。自分の腕時計を見ると、夜の7時を少し過ぎた辺りだ。

 「ご紹介致します。彼が皆様のお食事を担当致します、剣持(けんもち)です」

 40代くらいのシェフの制服を着た男性だ。その険しい顔つきに、縦長のコック帽はあまり似合っているとはいえなかった。

 「宜しくお願い致します。それでは、園部さん、笠原さん」

 「はい」

 園部さんと美琴さんが既に運ばれていた料理を配膳していく。

 「オードブルは鰻と茄子のテリーヌでございます」

 「うわぁー……」

 楼紗が目の前の料理を凝視して感嘆の息を漏らす。剣持さんの説明など御構いなしにナイフとフォークを進める。晋太郎君は愛ちゃんにカトラリーの持ち方を教え、楼紗の隣の和哉君は黙々と食べ進め、奈美さんと留美さんはぺちゃくちゃと話をしながら携帯電話まで持ち出し始めた。

何とも賑やかな雰囲気だ。尾崎さんも食事中は黙々と手を進めることだけに終始し、さっきのような暴挙には出ないようだった。和哉君の隣の空席が少し気になるが、僕も食事を進めることに専念した。言うまでもなく、全員が食べ終わらなければ次の料理は運ばれてこない。

 「ねぇ、あの絵って何だっけ?」

 楼紗が僕の後ろを指差して言った。振り向くとそこには、大きな額縁に収められた一枚の絵があった。

 「あぁ、『最後の晩餐』のレプリカだな。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた絵だ」

 ダイニングルームに最後の晩餐か……。何とも、良い意味には取れない。

 「南瓜の冷製スープでございます」

 続いて運ばれて来たのはスープだ。スプーンで手前から掬って口へと運ぶ。

 「和哉君は、兄妹はいないんですか?」

 いつの間にか食べ終わっていた楼紗が訊ねる。

 「いえ……大学生の実の兄が一人います……」

 大人組の方を見てみると、理沙さんが隣の美佳子さんに時折話しかけるくらいで、会話はあまり弾んでいないようだった。

 一品終わる毎に美琴さんと剣持さんは厨房へと戻り、次なる料理を運んで来る。園部さんは常に室内に待機していた。

 「サーモンのムニエル・トマトとラタトゥイユ添えでございます」

 今度は魚料理。トマトは僕の好物なので食欲がそそられる。もともと紅色には食欲を増進させる効果があるらしいが。

 「愛、持ち方はこう……」

 愛ちゃんはまだナイフとフォークの持ち方に苦戦しているようだ。小学校1年生にしてこんなにも洒落た料理を食べているのだから、困惑するのは無理もない。

 「あの後、何か発見はありましたか?」

 またしても一番に食べ終わっていた楼紗が和哉君に訊ねる。

 「そうですね……事前に調べていた以上のことはまだ。楼紗さんが仰っていた通りに、あの尾崎さんという方を避けて早めに戻りましたから……」

 和哉君の声は元々小さい為、今の会話がその本人の耳に届くことはないだろう。

 奈美さんと留美さんは出された料理を一々携帯電話で撮影しているらしい。さっきからしきりにシャッター音がパシャパシャと鳴っていた。何処かのSNSにでも載せるのだろう。

 「仔羊と茄子・バジルとニンニク風味のソースでございます」

 いよいよ肉料理だ。楼紗が配膳はまだかと待ち構えている。

 「晋太郎君は、推理小説は読む?」

 期待通り既に食べ終わっている楼紗が晋太郎君に訊ねる。ちゃんと味わって食べたのだろうか。我々庶民にとってはこんな機会、めったにないイベントなのだから。そういえば、和哉君の手がさっきの料理から余り進まなくなった。まぁ、小食と言われれば、それはそれで頷けそうなものではある。

 「推理小説ですか……あまり読みませんね。よく読むのは古い文学作品くらいです」

 「そうなんですか。私の前に座っている誰かさんは、推理小説にしか目がないんですよ」

 またその話か……。後で晋太郎君にお勧めの本を教えてもらおう。家に帰って、インターネットでその本を取り寄せれば……。

 「あぁ、駄目だ。全然食欲が沸かねぇ……。もう俺の分はいいからよ、この皿下げといてくれ」

 尾崎さんが急に席を立ち、そう言って部屋を出て行った。

 尾崎さんの皿を見ると、料理がまだ半分以上は残っていた。こんなにも美味しいのに、勿体ないな……。

 「デザートは南瓜のタルトでございます」

 色鮮やかな黄色をしたタルトだ。

 「あ、これってもしかして、表面をバーナーで焦がしてあるんですか?」

 初めて楼紗が剣持さんに声を掛けた。

 「その通りでございます」

 「やっぱりそうだ! 前に一度テレビで見たんですよ」

 そう言ってナイフとフォークを手に取ると、目にも止まらぬ速さでタルトを平らげてしまった。今度、家の近くの店でやっているカレーライスの早食いに挑戦させてみよう。30分以内に超大盛りカレーを完食すれば賞金が貰えるそうだ。

 「本当に美味しかったわ。剣持さんは普段は何処で働いていらっしゃるのかしら?」

 「はい。普段は蒼代あおしろ家に使える料理人ですので、残念ながら民間のレストラン等では皆様のお目にかかることはございません」

 「あら、そうだったの。それは残念だわ……」

 理紗さんが剣持さんと会話をしていた。周りを見ると、どうやら全員がデザートを食べ終わったようだ。園部さんと美琴さんが皿を下げていく。

 「それでは、朝食のお時間になりましたら、またお呼び致します」

 園部さんが最後にそう言って、この場は解散となった。


 「そういえば、佐藤さん、結局来なかったわね……」

 楼紗がダイニングルームを出てすぐに僕に話しかけた。

 「そうだな……変な物食べて、お腹でも壊したんじゃないか?」

 僕が適当なことを言っていると、玄関に一人の人影があった。

 「や、やあ……怜璃君に、楼紗ちゃん」

 その人影は全く予想していなかった人物。

 「啓一叔父さん!?」

 僕と楼紗は口を揃えてその名を叫んでいた。仕事で来られないはずだったのに、どうして今、ここに啓一叔父さんが?

 「じ、実はね……仕事が早めに終わってさ、僕も来られるようになってね」

 「でも、招待数は二人までじゃないんですか?」

 楼紗が当然の疑問を口にした。

 「それが……おそらく怜璃君たちが到着した後くらいに、僕が来ないことを疑問に思った企画責任者の人がわざわざ電話を寄越してくれてね。ディナーは出せないけど泊まるくらいはしてもいいと言われてね……」

 「それはよかったです。……でも、部屋はどうしましょう?」

 「それは大丈夫だろう。おそらく一室だけ部屋が余っているはずだから」

 僕は二階の構造と、ダイニングルームの席の数を思い出して言った。楼紗は納得しているようだったが、啓一叔父さんの言っていることは何処か腑に落ちない。

 「啓一叔父さん、企画責任者というのはどういう人でしたか?」

 「どういう人って言われてもね……電話口で声を聞いただけだから、男としかわからなかったなぁ。歳は……30代くらいじゃないかな」

 「その企画責任者は、この館には来ないんですか?」

 「それはどうだろうね……。僕はそこまで詳しいことは聞いていないから……」

 「そうですか……」

 「紅啓一様ですね」

 少し飛び上がって後ろを振り返ると、そこには園部さんが立っていた。まるで忍者か何かのように音も無く現れた。

 「は、はい。そうです」

 「ようこそいらっしゃいました。早速、お部屋へご案内致します」

 「ありがとうございます……」

 叔父さんは仕事場からそのまま来たのか、何も荷物を持っていなかった。そこまでしてこの洋館へ来たかったのだろうか。独りで行くのは恥ずかしいと言っていたから、僕らの保護者役として行くことを決断したのかもしれない。今は、そう納得することにした。

 僕と楼紗は中央階段を上ったところで遠藤親子と別れ、如月兄妹とともに右側の廊下を進んでいた。叔父さんは園部さんと一緒に左側の廊下を進んで行った。

 「それでは、また明日の朝お会いしましょう」

 「晋太郎君、また明日。愛ちゃん、またねー」

 楼紗が屈んで愛ちゃんに手を振る。すると、愛ちゃんも小さな手で振り返してくれた。晋太郎君が頭を下げてから扉を閉め、やがて施錠する音がした。

 「愛ちゃんは本当に可愛いわよね」

 楼紗がそう言って如月兄妹の隣の部屋、206号室の前を通り過ぎようとしたその時だった。

 「……来るな、来るなッ! や、やめろ! 殺される、殺される、殺されるッ!」

 「な、何だ! 誰の声だ?」

 「……こ、この部屋の中からよ!」

 僕らと如月兄妹の間の部屋。その中にいる誰かがこの世のものとは思えない絶叫を上げていた。ガラスの割れる音や何かを壊しているような音も聞こえる。

 「オラ、死ね! 死ねってんだ! ち、近寄んじゃねえ!」

 再び、男の枯れ果てた絶叫。叫ぶ度に何かを殴打する音も聞こえる。バキッ、ガシャン、グチャり。

 「一体何が起こっているんだ!」

 「落ち着いてよ! 早く誰か呼ばないと……」

 「何かあったんですか!?」

 隣の部屋からついさっき別れた晋太郎君と愛ちゃんが現れる。

 「中から男の人の絶叫と、何かを壊すような音が聞こえるの!」

 「えぇ、さっきから聞こえていました。早く扉を開けて確認しましょう!」

 急いでドアノブを握る。何度か捻って漸く、扉が完全に施錠されていることに気がつく。どうやら、今の自分は相当気が動転しているようだ。落ち着け、落ち着くんだ。

 「駄目だ、鍵が掛かっている。誰か……そうだ、マスターキーだ! 園部さんか美琴さんを呼ぼう!」

 「僕が呼んできます!」

 晋太郎君がすぐに返事をしてくれた。

 「わかった、とにかく急いで呼んできてくれ」

 「はい!」

 晋太郎君は愛ちゃんにじっとしているように告げると、全速力で廊下を駆けて行った。

 「どうしたのかね? 随分と騒がしいようだが……」

 晋太郎君の部屋の向こう側の扉が開き、中から黒河夫妻が出てきた。

 「うああぁ! やめろ、やめろッ! 殺してやる、殺してやるッ!」

 「な、何なんだ、この叫び声は!」

 「一体何があったのです?」

 黒河夫妻が続け様に反応する。

 「この部屋の中から聞こえるんです。鍵が掛かっていて中の様子はわかりません」

 「ま、まさか……この部屋は尾崎さんの部屋じゃないのかね?」

 「え……それはわかりません。どうしてそれが……」

 「怜璃さん、園部さんを連れてきました!」

 予想よりも早く、廊下の奥から晋太郎君が園部さんと共に走ってきた。

 「どうなさいましたか?」

 園部さんが息を切らしながら訊ねる。

 「この部屋の様子がおかしいんです。早く鍵を開けて下さい!」

 「く、くそがあッ! た、助けてくれッ!」

 そうしている間にもますます絶叫の声は大きくなり、グシャ、ボキっ、ヌチャ……と不気味な音が廊下にまで響いていた。

 「早く、早く開けて下さい!」

 「お待ち下さい、今開けます……!」

 園部さんはさっきまでのような冷静さを欠いており、慌てて鍵穴に鍵を突っ込み、カチャカチャと音を立てていた。

 「開きました!」

 「園部さん、僕、晋太郎君の3人で中の人物を取り押さえます。いいですか? ………開けて下さい!」

 勢いよく扉が開かれ、男3人は扉の向こうの何者かに対して身構えた。灯りは点いていない……というよりは、破壊されて点かなくなっているのだろうと推測する。

 そして、暗闇の中にいたのは、血塗れのバットを持った……尾崎さんだった。

 「うおおぉ!」

 今度は僕が絶叫を上げ、尾崎さんに飛びかかる。振り上げられたバットが下ろされる前に、上手く両腕が尾崎さんの腰を捕らえ、後方へと押し倒した。

 「園部さん! 早くバットを奪って下さい!」

 「うああぁ!」

 必死にもがこうとする尾崎さんを、自分も必死になって押さえ込む。

 「わかりました!」

 透かさず園部さんがバットを奪い、尾崎さんの足を押さえた。その間に僕は尾崎さんの両腕を押さえながら胸の上に跨る。

 「うおぉぉ……ううっ……」

 尾崎さんの抵抗は徐々に収まっていった。もし、あの瞬間に飛びかかっていなければ、園部さんや、晋太郎君や……自分自身の身が危なかったかもしれない。肩で息をしながら、一瞬も気の抜けない状況は続く。今、目の前にいるこの男の眼は、明らかに

 「う、うわあぁッ!」

 急に入り口の方から悲鳴が上がる。そこには、晋太郎君が腰を抜かして床に倒れていた。その視線の先にあったのは……全身を血で濡らした女性らしき姿。

 初め部屋に入った時には前方しか見ておらず、下に注意が行っていなかった。その上、この薄暗い部屋の中では何処に何があるのかさえわからない。廊下から漏れる灯りを頼りにするしかなかったのだ。

 「か、顔が……無い……!?」

 晋太郎君はガタガタと震え、両手で口を押さえた。

 「晋太郎、しっかりしろ! とにかく今は、急いでロープのようなものを持ってきてくれ、頼む」

 僕はから顔を背け、目の前の尾崎さんをどうにかする方法を必死に考えていた。寒気が収まらず、冷汗は止まらない。

 「……は、はい。わかりました!」

 晋太郎君はしばらく放心していたが、我に帰ると急いで部屋を出て行った。

 「ねぇ、何があったの?」

 「中には入るな! 楼紗は愛ちゃんと一緒に廊下にいるんだ」

 一瞬だけ、に目を遣った。こんなにも惨たらしい死体を楼紗や愛ちゃんに見せるわけにはいかない。何なんだこれは……本当に人なのか? おそらく、尾崎さんが持っていたバットか何かを使って、顔だけをこんなに、グチャグチャになるまで潰して、潰して、潰して……! 何処が目で、何処が鼻で、何処が口なのか、それさえも判らない……。中に収まっているはずのものが、周りに飛び散っている。はっきりとわかるのは血を吸った髪の毛と、両耳だけだった。後は、もう……。

 外傷は顔だけじゃない。肩、腕、胸、腹、足……全身のあらゆるところに殴打された痕が残っている。頭部だけでなく、全身から血がドボドボと溢れているのだろうか。よく見れば、床はまるで血の池のような有様だった。もうこれは人と呼んでいいのかさえわからない、血肉の塊のようだった……。

 「怜璃さん、持ってきました!」

 「早くこっちに」

 外には他にも人が集まっているようだった。晋太郎君からロープを受け取ると、僕と園部さんは、尾崎さんをロープで何重にも椅子に縛りつけることにした。

 縛り終え、ずっと堪えていた吐き気を両手で制し、トイレに駆け込むと、僕は何度も嘔吐した。園部さんが心配する声をかけてくれたが、とても応えられるような状態じゃなかった。ただ、ひたすらに吐いた。何だってんだ……何かの冗談、いや、最悪下劣なフィクションだ。そう願いたくなる。

 ゆっくりとした歩みで部屋の外へ出ると、僕は黒河先生を呼び、尾崎さんと女性の容態を見てもらうことにした。とはいっても、女性の方は既に人としての原形を留めてはいないといえた。何故、尾崎さんはこんな暴挙に及んだのか。黒河先生なら何かわかるかもしれない。

 「園部さん、あの女性は……」

 「はい。おそらく、尾崎様のお連れ様、佐藤様かと」

 廊下を見渡すと、遠藤親子や女子高生の二人、浅沼夫妻に啓一叔父さん、料理人の剣持さんの姿まであった。つまり、ロープを持ってきてくれたらしい美琴さんも含め、この場には全員が揃っていた。

 「一体、中で何があったの?」

 理紗さんが代表して訊ねる。部屋の中の惨劇を知る者以外の誰もが抱く疑問だった。

 「酷い有様だった……。女性の方は言わずもがな……亡くなっていた」

 部屋から出てきた黒河先生がそう皆に告げた。

 「亡くなったって……何があったの? この部屋で、何が起きたのよ」

 美佳子さんが声を荒げる。

 「落ち着いて下さい。僕から……説明します。まず、中にいたのはおそらく佐藤さん、そして、尾崎さんの二人です。園部さんのマスターキーを借りて中に入った時、尾崎さんは手にバットを持っていました」

 「ま、まさか、バットでその女性を殴打して、殺めたと言うのですか?」

 僕の説明に黒河先生の奥さん、和枝さんが訊ねた。バット、死者を結びつける最もシンプルな答えだった。

 「マ、マジでありえないんだけど……」

 「嘘でしょ……」

 奈美さんと留美さんが絶句する。

 「マスターキーを借りるために園部さんを呼んだのは僕です。つまり、僕らが来た時、この部屋には鍵が掛かっていました。それは怜璃さんと僕、楼紗さんが確認しています。……僕の推理ですが、尾崎さんは誰にも邪魔をされないようにするため、鍵を掛け、佐藤さんを……」

 「止めて下さい」

 晋太郎君の言葉を楼紗が遮る。

 「と、とにかく……警察、警察を呼びましょうよ!」

 「……楼紗様。申し訳ありませんが、携帯電話等での外部への連絡はできません」

 携帯を取り出した楼紗に園部さんが諭すように言った。電波を届かせるには洋館を囲む森はあまりにも深い。一応、自分の携帯電話の画面を確認してみたが、当然のように「圏外」の二文字が浮かんでいた。奈美さんや留美さん、啓一叔父さんも同じ動作をし、また、同じように落胆した。

 「じゃ、じゃあ……この館に備えつけてある電話を使いましょう。そうだ、部屋に電話があったでしょ? あれはどうなんですか?」

 続けて楼紗が訊ねる。

 「申し訳ありません……。館内にある電話は全て、内線電話としてのみ機能しておりますので……」

 「それなら……徒歩でも、走ってでもいいから外へ連絡を取りに行こう! ぼ、僕が行ってきます。皆さんはここで待っていて下さい!」

 「啓一様!」

 園部さんが啓一叔父さんを呼び止めようとしたが、叔父さんはそのまま走り去ってしまった。

 「追いましょう」

 和哉君が声を発した。和哉君は何か悟っているのかもしれない。そんな表情を、彼はしていた。

 皆でばたばたと中央階段を駆け降りる。玄関の扉の前には啓一叔父さんの姿がまだあった。両拳で何度も扉を叩き、やがて崩れるように項垂れた。

 「園部さん、玄関の鍵を」

 どうやら、玄関の扉は施錠されているようだった。僕はすぐに園部さんに玄関の鍵を催促した。

 「真に、申し上げ難いのですが……」

 園部さんの顔は何故か、真っ青だった。

 「怜璃さん……無理なんです」

 「和哉君、どういう意味だ?」

 「この玄関扉はこの洋館唯一のオートロックで、さらに悪いことに、内側から開く方法は存在しないんです。たとえ、鍵を持っていたとしても……。扉をよく見て下さい。鍵穴が無いはずです……」

 和哉君に言われるまま扉を隅々まで確かめる。冷たいその鉄の扉にはノブ以外に特徴のある凹凸は何一つ無かった。試しにノブを掴んで押したり引いたりしてみたが、少しも動く気配はない。ここへやって来た時には気がつかなかった、真っ紅な扉。あまりにも冷たく、静かな扉に。

 「つまり……この玄関扉が閉ざされたということは、誰かが外から開錠してくれるその時まで、僕らは外へは出られないということです……」

 そんな……そんな、滅茶苦茶な扉があるっていうのか? 現に、目の前にそんな扉があるっていうのか? ここから、出られない? まさか! 人が一人死んだんだぞ。殺人鬼が今、この洋館内にいるんだ。その犯人を縛り付けたとはいえ、安堵できるものじゃない。助けを呼ばないと……。でも、どうやって? まさか、ここに来る途中の車内で、冗談に思っていたが現実のものになったっていうのか。それも、小説で読んだような陳腐なクローズドサークルじゃない。これは、……!

 「嘘だ! ……どうして? 一体誰がこの扉を閉めたんだ!」

 啓一叔父さんが怒声を上げて僕らを睨みつけた。

 「私たち使用人は、決して玄関扉を閉じないように厳命されております」

 園部さんが静かに応える。

 「じゃあ、招待客の内の誰かが閉めたってことだな……」

 俊介さんが抑揚のない声で言った。

 「一体誰よ! 私たち一生出られないってこと?」

 「そうと決まったわけじゃありません! 誰かが偶然通りかかって外から鍵を……」

 「はァ? 誰かって誰よ? ふざけんじゃないわよ! マジわけわかんないんだけど」

 奈美さんの怒声に楼紗が宥めようと応対したが、留美さんが更なる追い討ちをかけた。楼紗には悪いが、鍵を持った誰かが通りかかるわけがない。

 「私は閉めてないわ。ディナーの前も後も、ずっと部屋にいたもの」

 「私と俊介も同じよ。ロビーで楼紗ちゃんたちと別れた後は部屋を出ていないし、夕食後も同じ」

 「僕も理紗さんに同じです。愛と一緒にずっと部屋にいました」

 「私も同じだ。和枝とともに部屋で本を読んでいた」

 美佳子さん、理沙さん、晋太郎君、黒河先生が順にアリバイを示した。いや、この場合、正確な意味でのアリバイとはいえないな。

 「待って下さい。ディナーが終わった後、ダイニングルームを最後に出たのは誰ですか?」

 僕はこの場にいる全員に訊ねた。

 「剣持さんと笠原さんは後片付けがあったから、当然彼らが最後ね。その二人を除けば私と俊介が最後よ」

 「ダイニングルームを出た時、玄関扉を確認しましたか?」

 「……そうだわ。その時には確かに玄関扉はまだ開いていた。ということは……」

 「玄関扉を閉めていないというアリバイを示すには、ディナー後に何処にいたかということが重要になります。既に美佳子さん、理沙さん、俊介さん、晋太郎君、愛ちゃん、黒河先生、和枝さんはクリアです。特に、晋太郎君と愛ちゃんはディナー後、尾崎さんの部屋で事件が起こるその時まで、ほとんど僕らと一緒にいましたから、間違いありません。さらに、啓一叔父さんと園部さんは一緒に叔父さんの部屋まで行っていたので、同じくアリバイがあります。後は……」

 「和哉はディナー後ずっと一緒にいたわ」

 「私と留美も部屋で話してたから関係ないね」

 これで和哉君と奈美さん、留美さんもクリアだ。今、部屋に拘束されている尾崎さんも、ディナーが終わる前に部屋を出ているから白だ。

 「つまり、使用人のお二人の内どちらか、という可能性が高いわけですね?」

 黒河先生が冷ややかな目で美琴さんと剣持さんを見遣る。

 「わ、私はディナー後、お皿を厨房まで運んでいました。もちろん、剣持さんも一緒です」

 「はい。間違いございません」

 剣持さんはずっと黙っていたが、急に疑われることになり、冷や汗を禁じえないようだった。

 「ちょっと待ってよ。それって、ありえなくね?」

 「マジ意味不明なんだけど」

 奈美さんと留美さんが毎度の如く口々に言った。

彼女たちの言う通り、意味がわからない。全員に一応のアリバイはある。この重厚な鉄扉がひとりでに閉まったというのか?

 「一旦、落ち着きませんか? ……そうだ! そこのロビーでゆっくり、これからのことを考えましょうよ」

 「それはいい考えね。皆、少し頭に血が上っているのかもしれないわ」

 楼紗の提案に理紗さんが同調し、僕らはロビーに移動した。美琴さんが気を利かせてコーヒーを淹れてくると言い、剣持さんと共に厨房へと向かった。皆が適当にソファーへ腰を下ろす。これだけ大勢で座ると、異様に広く思えたソファーも狭く感じる。

 「お兄ちゃん……人形が無い……」

 「人形? ……あぁ、テレビの上にあった人形か」

 愛ちゃんと晋太郎君が隣で、あの人形の話をしていた。


 テレビの上を見ると……12体あったはずの人形の内、

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