紅キ罰
那須村 裕
問題編
序章 招待
僕は机の上に放り出された小説を手に取ると、どっさりと椅子に腰を下ろした。
小説の側に置いてあったコーヒーカップは適度に冷めている。猫舌の僕には最適なものだったが、僕の親が飲もうものなら温め直すに値する温度でもあった。
コーヒーを一口含みつつ、その間、左手は栞を挟んでおいたページを捲る。
「密室のトリックが確か……」
カップを静かに机に置き、独り言を呟きながら、文面にある事件現場を脳内に構築していく。この密室トリックさえ解ければ犯人を断定できるという段階にまできていた。しかし、なかなかに強固な密室であることを認めないわけにはいかなかった。高校へ通っている間も、永遠のごとく、この密室トリックについて思考を巡らせていたのだが、さっぱり、解決の糸口を掴めずにいた。どうすればこの密室を打ち破れるのか……。
自然と右手がコーヒーカップに伸びる。ブラックコーヒーも時折飲むが、たいては、砂糖をたっぷりと入れたコーヒーが日課だった。そうやって糖分を摂りつつ、脳をフル回転させるイメージを描く。いつもはチョコレートやスナックが糖分補給の主役なのだが、今日は残念ながら在庫を切らしていた。今日に限っては、お菓子の最愛のお供、コーヒーがフィーチャーされているというわけだ。
「この部屋の鍵は室内にあって……マスターキーは確かに彼が所持したまま……」
……駄目だ。どうしてもパズルが上手く噛み合わない。puzzle……「悩ませる」という意味の動詞でもあるが、腹が立つほどに今の状況を体現しているといえるだろう。
再び静かにコーヒーカップを置くと、人差指の先で机をコツコツと叩いた。
矛盾無く、論理的にこの密室を成立させる方法……。密室の中の被害者が他殺であることが確定している以上、小説の中で密室と呼ばれるものは所詮、密室ではないのだ。必ずどこかに論理の綻びがある。その間隙を探るのが読者の使命であり、そこに僕が推理小説を愛して止まない理由がある。
「少し休憩しよう……」
僕は一つ欠伸をし、目を閉じて頭を垂れ、全身の力をゆっくりと抜いた。
五分程経った後、机の上に置いておいた小説を両手に持ち、それを天に掲げるようにして背伸びをした。しばらく呆然と天井を眺め、体を静止させる。他殺は確定……室内に鍵……完全な密室……現場に残っていたのは……。
「そうか……わかったぞ!」
僕は仰け反っていた体を勢いよく起こすと、そう叫んだ。僕は大きな勘違いをしていたんだ。そうだ、間違いない。このトリックを使えば、この密室は……
その時、誰かが自室の扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ!」
僕は謎を解明できた喜びを共有してもらおうと、その来客の入室を快諾した。
「おぉ。久しぶりだなぁ、
「
そこに現れたのは、父さんの弟に当たる啓一叔父さんの姿だった。僕は椅子から降り、部屋の中央にあるテーブルの方へと移動した。
「元気にしていたかい? いやぁ、少し見ない間にまた大きくなったんじゃないか?」
叔父さんはゆっくりと腰を下ろしながらそう言った。
「そんな定型句はいいですよ。現に、あれから身長はほとんど伸びていませんから。それに、前会ったのはほんの半年前じゃないですか。もう高二にもなった僕に、これ以上の背の伸長は期待できませんよ」
「はっはっはっ。言うようになったじゃないか。……そうだ、君に渡したい物があるんだよ」
「急に何ですか?」
啓一叔父さんは徐に一枚の封筒を取り出した。どうやら、エアメールのような洋形の真っ白な封筒のようだった。
「これを君にあげようと思ってね。……と言っても、肝心の中身は何処かで失くしちゃったんだけどね……」
啓一叔父さんは少し照れるような仕草をしながら言った。
「あの……封筒だけ渡されても……」
切手を蒐集する趣味というのは聞いたことがあるが、封筒を蒐集するというのはどうなのだろう? 無論、僕にそんな嗜好はないのだが。
「いや、中の手紙は必要ないんだ。この封筒さえあれば大丈夫だから」
さっぱり、状況が掴めない。
「……一体、その封筒に何の意味があるんですか?」
「あぁ、そうだった。その説明がまだだったね。この封筒には僕が送った懸賞の当選通知が入っていたんだ。来週の土曜と日曜の一泊二日で洋館に泊まり、素敵なディナーを楽しもうというものだ。怜璃君は洋館とか、古めかしい建物が好きだったよね?」
「えぇ、まぁ……推理小説に出てくるような洋館に一度でいいから、泊まってみたいとは思っていましたが……」
それは本音だった。ただ、現実にそんな旨い話が存在するのだろうか。現段階ではまだ、そう訝らずにはいられなかった。
「それはよかった。せっかく当たった懸賞だけど、丁度その日は仕事の予定が入っていてね。自分で送っておいて言うのも変だけど、独身の僕には独りで行くというのに若干、抵抗もあったからね。……そうそう、二人まで参加できるそうだよ。怜璃君には彼女はいないのかい?」
「いえ……いませんが」
少し間を置いてから、僕は恨めしげに返事をした。
「何だい、何だい。そんなに落ち込むことはないだろう。僕たちは仲間同士ってことじゃないか」
勝手に仲間にしないで下さい。僕は彼女がつくれないわけではないんです。つくらないだけなんです、と言ったところで、誰が聞いても負け惜しみにしか聞こえないか。
「それから、失くした手紙のことなんだけどね。問い合わせてみたら封筒を持参するだけでも構わないと言われてね」
「そういうわけですか。その封筒の意味はよく分かりました。でも、それを僕に渡すためだけに今日はわざわざ来て下さったんですか?」
「まぁね。独身の僕には当然息子がいないから、君を実の息子のように感じているところもあるんだよ。それに誕生日がもうすぐじゃないか。少し早めのバースデープレゼントだと思って受け取ってくれよ」
「……あ、有難うございます」
僕は両手で恭しくその封筒を受け取った。確かに何も入っていない、真っ白なただの封筒だった。数枚の手紙が入りそうな余裕がある。宛名は当然、
「じゃあ、僕はもう帰るから」
片膝に手を付き、叔父さんは立ち上がろうとする。
「もう帰るんですか?」
「うん? じゃあ、一緒にゲームでもするかい?」
「え、いや……家にはノベルゲームと、それから……。一人用のゲームしかありませんね……」
「ははっ。本当に怜璃君は推理物が好きだなぁ。そのノベルゲームというのも探偵が出てくるようなものばかりだろう? ……そういや、本棚の推理小説も、また増えたみたいだね」
「はい。まだ読みたい本は山ほどあるので、これでも全く読み足りないくらいですよ」
「将来は名探偵かい? ……なんてね。これは楽しみだなぁ。叔父さん、応援しているからな。それじゃあまた。詳しいことは今度、電話で連絡するから」
「え、あ……はい。それでは、また……」
部屋を出て行く叔父さんの後姿を見送り、それからぼんやりとあの封筒を眺める。
「洋館か……。行きたい気もするけど……」
何だか乗り気がしない。
……いや、それはいつものことじゃないか。
どうせ僕は、静かに自分の部屋で小説を読んでいる方が性に合っているのだ。わざわざ外に出る必要はない。確かに、何度も頭にイメージした洋館そのものに宿泊できるチャンスはそう無いのかもしれない。それこそ、これからの一生、一度も廻り逢えないチャンスかもしれないんだ。
それでも……行く気にはならなかった。
「はぁ……」
僕は溜息を一つ吐き、床に仰向けに寝転がった。僕は「怠惰」の象徴なのだろう。
不意に誰かの顔が視界に入って来た。
「フフフ……聞いたわよ。洋館での晩餐会に招待されたんだってね?」
「あぁ。そこの封筒があれば泊まれるんだってさ。僕は構わないから、誰か友達でも連れて、行ってくるといいよ」
僕は天井を見つめたまま投げ遣りに応えた。啓一叔父さんが僕のバースデープレゼントにとくれた物だったが、それをどう処分するかは僕の勝手だ。叔父さんには少し悪い気もしたが、仕方のないことなんだ。僕には……行く気がない。だったら、それを有効に活用してくれる誰かに譲渡した方が、あの封筒も浮かばれるというものだ。
小説の続きを読もうと体を起こしたその時だった。
「一緒に行きましょうよ」
……ん? 今、何か言ったか?
「一緒に行くのよ、洋館に。部屋にいつまでも篭ってばかりじゃ体に悪いでしょう?」
「……いや、そんなことはない。僕は実に健康的に……」
「どこが健康的なのよ……。毎日毎日家に篭りっきりで、体に良くないに決まってるじゃない。学校以外で外に出る絶好の機会なんだから、今度こそはついて来てもらうわよ。この前の家族旅行だって、絶対に行かないって突っ撥ねて……それとも、また何か文句でもあるのかしら? 文句があるのなら今すぐ……」
「わ、わかったよ! 洋館には行くことに……するよ……」
壁に追い詰められた僕は徐々に迫ってくる楼紗を両手で制し、洋館でのディナー旅行に同行することを渋々、半ば強制的に承諾した。この調子だと、何度同行を断っても許してくれそうにない。僕には大人しく従う選択肢しか残されていなかった。
楼紗はテーブルの上の封筒をさっと拾い上げると、素早く踵を返し部屋から出て行った。
腰を上げ、机の上のコーヒーカップを手に取ると、予想通り冷たくなっていた。
その残りを一気に飲み干し、密室トリックの答え合わせのために、新しいコーヒーを注ぎに下の階まで降りた。
階段を降りる途中、一週間後の旅行のことを思うと、少々気が重くなった。
「はぁ……面倒なことになった」
キッチンには母さんの姿があった。今日の夕食は何だろうか? 昨日はカレーライスを食べた。今日もそれかもしれない。
窓からは夕暮れの
「また部屋で推理小説でも読んでいたの?」
ポットからお湯を注ぐ音に反応したのか、母さんはこちらを振り返らずにそう訊ねた。
「あぁ。もう読み終わるところだよ」
「そう」
砂糖と牛乳も注ぐ。黒と白が交じり、やがて好みの色に染まる。
「今夜もまたカレー?」
ほぼ確信に変わっていたが、敢えて訊いてみることにした。
「そんなこと言って、本当はカレー好きでしょう?」
質問に質問で返された。振り返ってこちらを見た母さんに一言返事をすると、コーヒーカップを片手に二階へと上がった。階段を昇る途中、自然と笑みが零れているのに気づいた。
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