最終章三幕「虧月狂想曲・㉒」

 月から溢れ出た、否、生まれ出たブッシャリオンの塊は、只でさえ混乱状態の『ヴァンガード』船内を更なる混沌へと導くのに十分なものであった。

しかし、千里だけは、違っていた。

異能でも物理法則の範疇です。最大収束照射で焼き潰します」

「……了解!」

 彼女のその一喝で、混乱は徐々に収まりつつあった。

 しかし、心中では、彼女ですらも迷いがあった。

 果たして、惑星規模のブッシャリオン構造体に、今の出力で足りるのか?『ミラー』の二群、三群の使用検討すべきか?

 あれは絶対に、あの星の上で留めねばならぬモノだ。今の人類に、いや、最盛期であっても、これ以上の破壊力は用意できはしない。

 あってはならない。人類が、ここで負けるなど。

「……『004』は?」

「どう切り詰めても、あと20時間以上必要です」

 切れる手札は、他に何かないか。更なる熱量で、月の上を焼き潰す他には……

「『ミラー』の第二群を……」

『意見具申です』

 其処に、声が割って入った。

 船のメインフレーム。『ヴァンガード』の中枢たる機械知性体。それが声を上げることなど、ごく稀なことだ。

「……なんです?こんな時に」

 しかし、稀であるからこそ、彼女は非常時であっても、それに目を通した。

 人間を、ただ見続けた『それ』だけが辿り着いた結論を、蔑ろにしなかった。

「これは……月面都市の人間の救出プラン」

 大雁08は、何もかもを捨てたわけではないと。

『少なからぬ人間の危険リスクを引き上げます。実行には許可が必要です』

 人類が好きだからこそ静観を続ける『それ』にも例外はある。

 人類を救うこと。ただ、そのためならば、『それ』はあらゆる手段を講じる。

 提案が受け入れられるかどうかは、確率的要素が付き纏う。千里の思考は、予測モデルが成立しない。

 それに、数百人の命と、未曾有の脅威。

 に考えれば、答えは決まっている。


 だが、彼女は。「普通」ではなく。「最適解」を出すために、ここにいるのだ。

「……方針変更です。軌道上の『ザナバザル』に任務変更を伝達!十分以内に月面への降下準備!」

 船内の指令所がどよめく。一度は収まりかけた混乱が、再び息を吹き返す。

 それでも、構わず彼女は決断を下す。

「PDD-002へ自壊コードを送信。+00:15:00を以て『ミラー』の照射を中断します!!」

 無論、感傷だけの判断ではない。

 あれがブッシャリオン事象である以上、月の人類の存在が何らかの形で源になっている可能性もある。確保できるに越したことはない。

 それに、『ミラー』の照射によって月面を覆う影が割れている今なら、安全な突入が可能。再び分断されたとしても、内側に戦力を送り込むメリットは大きい。


 それでも。

 其処には確かに、『徳』があった。

--------------


『軌道高度が安全値を下回っています。直ちに上昇してください』

 AMSが警告音を垂れ流す。

「……うるさい、黙れ」

 月面を見下ろしながら、ドウミョウジはくぐもった声で言い返す。

(ありがとう)

 声が頭に響く。

 しかも、質が悪いことに。これは、アイツの声。アマタの声だ。

 彼女を握る手を、自分は確かに離した筈なのに。

 彼女は今もまだ、この星の空の上を、独りで漂っている筈なのに。

 もうそろそろ、自分も駄目になったのか、とドウミョウジは考える。まだ、帰るべき場所は遠いのに。


 だから。彼は生まれて初めて、神仏に祈った。あの機械……大雁08でさえ、祈ったのだ。それに折角、神のような何かを見下ろす場所に居るのだ。

 人間の自分が、それくらいしてみても、いいのだろう。

 どうか。空の彼方の故郷に、自分が帰り着けるように。そして、願わくば……

(願い事が、あるのですか?)

 再び、頭の中にアマタの声が響く。

「いや、アイツはそんな言い方しねぇだろ」

 彼にも、漸くわかった。これは、アマタ自身の声でも彼の幻聴でもない。「ムーンチャイルド」だ。あの存在が、アマタの声を借りて話しているのか。

「……まだ喋れたとは驚きだが」

 そういえば。仏像の方はまだ握りしめたままだった。どうせなら、此方を真っ先に手放すべきだっただろうに。

 気付けば。眼下に広がる、罅から湧き出た青白い海が、彼の「足下」まで伸びてきている。宇宙故の遠近感のずれか、それとも異常な光景故か。光の粒の塊が、粘菌のように彼の足を掬わんと蠢いている。

 いや……これは、『仏像』に引き寄せられているのか。

「もしかして。あれは、お前なのか?」

 口に出して問うてはみたが、内心では確信していた。いや、こんな存在が同じ星に幾つもあって堪るものか。

 しかし、少し前に話した時程の、思考を覗き見られるような不快さはない。「ムーンチャイルド」自体が変わったからか。それとも……認めたくないことだが、彼女の声を使っているからか。

 もしかすると、声そのものが。彼の受け取りようによって、そう聞こえているだけなのかもしれない。

「願い事を聞くってことは。叶えてくれる用意があるんだろ?」

 そうでなければ、許して堪るものか。あいつの声まで借りて。まったく、本当に。初めて祈ったのが、こんなもの相手とは。

 しかし、その問いに。手に握った仏像が微かに、頷いたような気がした。

 願い事は、決まっている。俺が……いや。

「彼女が、家に帰れるように」

 俺自身のことは、自分でどうにかできる。

 だから、どうせ神仏に頼るなら。それは、手の届かぬことであるべきだろう。

 人間は欲張りだ。だから、彼方を目指し続けるのだ。

 月から伸びた、恐らくはブッシャリオンの触手が仏像に触れ、弾ける。

 頷いたように見えたのは、何のことはない。ただ、崩れそうな仏像がひしゃげただけだったのか。

 崩れた像の中身が、宙に

 仏像の中に入っていたのは、ボロボロになった真っ白い布の切れ端だった。

その端に、うっすらと、赤いラインと青い星の跡だけが残されている。

「……はは……そういうことか」

 ドウミョウジは、最初に自分達が降り立った場所の名前を思い出した。

 ハドリー山、アポロ15号寺。

 『ムーンチャイルド』……人造仏舎利を作るにしても、ゼロからではなく、核となる遺物は必要だと推測してはいたが。

最初の人間ファースト・マン足跡そくせきか」

 それは、道理で。

「この星を、思い通りにできるわけだ」

 旗はこの星を覆う虚無を掃き清めるように地に舞い降りていく。


 天上天下、唯我独尊。

 この世にただ独りの人ならば。たしかに、世界はその独りのものだろう。

 だが、全ては過去のことだ。

 夢から醒めるように布は解れ、 糞掃衣のように風化していく。

 何故なら、その夢は、もう。夢ではなく、ただの現実になったのだから。彼方を目指し、別の星に根を下ろす。そのすえこそが、他ならぬ彼等なのだから。

『速度、高度クリア。周回軌道に到達しました』

 AMSの音声ガイドが軌道到達を告げる。そして、彼の眼前には……ほんのついさっき、手を離した筈の彼女が漂っている。

 そして、二人を横目に、軌道上の巨大な宇宙艦……『ザナバザル』が月面へと降下していく。

 あの瞬間、何が起きたのか、とドウミョウジは考える。

 浪漫の無い推測をすれば、月を覆う二種の異種ブッシャリオンが『ミラー』の光圧によって撹拌・衝突することで斥力が生じ、二人を軌道上へと押し上げたのか。

 いや、ここは……より勇気と誠実さを持って、「今はまだ、わからない」としておくべきなのかもしれない。

 この空は広く、遠く。徳の宙には、まだ届きすらしないのだから。


 通信越しに浴びせられるアマタの声を聴きながら、彼はしばし、時の流れに身をゆだねることにした。

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