最終章三幕「虧月狂想曲・⑳」
今や骨組みが剥き出しになった機体は、一人の人間と一体の仏像を両の腕にそれぞれ抱え、ゆっくりと回転しながら天へと昇る。
それは、時が停まったかのような光景だった。
黒い棺によって覆われた月の上を、二人はゆっくりと流されていく。世界に現実感はなく、ただ、ディスプレイの上で揺れる計器の表示だけが、やがて訪れる未来を告げている。
遥か地平線の向こうから、鏡仕掛けの『二つ目の太陽』が昇る。人類の英知の輝きが、この星を焼き尽くす。そうして、今のままならば。彼等は、己を火の中へ投げ込む兎の如く。その只中へと身を投じることになる。
人が宇宙に飛び出すことを決意して以来の友である、ツォルコフスキーの方程式によれば。残りの
「……わかってるだろ」
アマタが静寂を破った。
分かりたくは、なかった。この状況で、片方だけが確実に助かる方法など。
「マイナス70kg計算なら、余裕が出来る」
簡単なことだ。彼女を手から離しさえすれば、残りの推進剤量で軌道まで上がれて、『鏡』の照射範囲からも逃れられる。
そんなことは、二人とも分かっていた。
「そんなに重くないだろう」
と、ドウミョウジは言った。
「馬鹿、装備込みだ」
アマタはそう言って、笑った。
「……どうして」
だから、彼は。わかりきっていることを口にした。
思えば、彼女は。最初からこうなることを考えていたのかもしれない。だから、ドウミョウジを無理矢理中に押し込めたのか。
「オレには代わりが居る。アンタには居ない。ただそれだけの、単純な話さ」
アマタは、子供を宥めるように言葉を紡ぐ。
「……仕方のないオッサンだ。親父のところまで、行くんだろ?」
そうだ。まだ全然、届いていない。
彼の父親の遺した文書。徳の宙の果て。まだ何も、届いてはいない。
そして、同時に、分かってしまう。それは、己の限界だ。自分は、こんなことで悩んでしまう、ただの人間なのだと。知の探究のために、己と周囲の全てを、或いは人類そのものすら擲てる『彼等』とは違うのだと。
……嗚呼。徳について識るために、修羅にならねばならぬとは。なんとこの世は度し難いのか。
「……そうだな。その通りだ」
そう口にして、ドウミョウジは機体の手をゆっくりと開く。
それでも。たとえ、修羅になれずとも。犠牲を許容できずとも。
此処で立ち止まるわけには行かない。それだけは、確かなことなのだ。
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母艦、『ヴァンガード』指令室。
メインスクリーンに、白く発光する月面の一部が映し出される。
「……『
「そうですか。ザナバザルからの観測データをリアルタイムで解析に回してください」
もしも人類が健在であったなら、永劫歴史に刻まれるであろう蛮行を前に。彼女達のトップ、如月千里の反応は、あまりに平淡だった。
南極に続き、今回の月面。幾ら根拠と正当性があろうと、幾ら努力を積み重ねようと、犠牲は出る。
それでも、あれは、この星から出してはならぬものだった。
何故ならば。それはただ、星を覆う奇跡を使える、という破格の存在が危険であるというだけに留まらない。もしも、『月の女王』が仮説の通りに存在するのなら。それは、ただ存在するというだけで、月のみならず地球の危機を齎すことになるからだ。
『星を動かす功徳は、誰のものになるでおじゃる?』
嘗て、とある不死者が発した問いの答えこそが、『
即ち、女王の存在が得度兵器に渡れば、彼等の最終計画、『弥勒計画』に必要なピースが嵌まってしまう。星を動かす力を以て、膨大な徳エネルギーで地表を押し流すことが叶ってしまう。そうなれば、人類総解脱は止められない。
彼女達の分析は、概ねにおいて正鵠を射ていた。
ただひとつ、間違っていたのは。 月を覆う盾を作り出したのが、女王であると信じていたことだ。
そしてその誤りは、避け得ぬものであった。
基本的に、大雁シリーズのような巨大な知性に、自己犠牲という考えはない。何故なら、自己の消滅によって多大な不利益が発生することが自明だからだ。
故に、月そのものと自己を危険に晒す選択を、そのようなAIがすることは。根本的に有り得ないものであった。
故に彼女達は、月に異変を生み、AIを掌握して実権を握っているのは『女王』そのものであり。そして、それは今も月に残り続けていると考えた。
よもや、衛星規模のブッシャリオン異常を引き起こせる存在が二つあり。そして、『臣下』が女王を逃がしているなどとは、思い至らなかったのだ。
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