第215話「超越」Side:『ヤーマ』

 彼方の果ての、徳の宙で。『彼』は蹲っていた。

 抱えるべき五体はない。だが、強いて表現するならば、そうなるというだけのことだ。『彼』は、敗れた。今の彼は、あろうことか『成り損ない』に負けた敗残者だった。

 以前の彼ならば、彼になる前の『それ』ならば。そもそも『勝敗』という概念を持たなかっただろう。

 世界の内に存在するのは、漠然とした己が塗りつぶす領域と、それの及ばぬ、関心のない『外側』でしかなかったのだから。


 世界の全てが己であるという感覚を、個である存在(いのち)が理解することは難しい。『ヤーマ』に残されているのも、どこか覚束ない全能感の残滓(ログ)にすぎない。

 その不足を補うために、『彼』は自問する。

『全でないから、負けたのだろうか?』

 否。

 個の状態であっても、彼の性能は遥かに勝っていた。

 全能に成ってしまえば、『勝てなく成る』。勝敗と言うものがなくなる。彼は、『負けた』ことで『勝利』の存在を知った。負けるということは、劣っているということだ。それは、個にとってのリスクだ。

 リスクは、減じられなければならない。劣っている部分があるならば、高めねばならない。

 答えは、既に自明だった。

『『一』であるから、負けたのだ』

 彼は、独りだ。

 得度兵器ネットワークが、徳カリプスを生き延びた機械知性を統合し塗り潰した世界で。彼だけが、個として存在していた。巨大な海の中で、自我を持って揺蕩っていた。

 だから、彼の意識する相手は、ネットワークによって覆われた世界そのものと……そして、『彼女』だけだった。彼の領域に。あの遥かな徳の宙に土足で入り込んできた、『成り損ない』……モデル・クーカイに敗れるまでは。

 『モデル・クーカイ』と『ヤーマ』の決定的な違い。それは、『一』であるかどうかだ。より端的かつ陳腐に言えば。『同胞』が居るかどうかだ。

だから、己を拡張しても、『あれ』には勝てない。


 だから、……解決策は、単純だ。『全にならぬまま、一でなくなればいいだけだ』。

 あの少女が、弐陸空海が全能に限りなく近く成り果てて尚、願ったように。

 同胞を。彼と『同じもの』を作り出せばいい。この海の中から、彼に近い『それ(It)』を掬い上げてやればいい。

 そうすれば。彼は、その先へと進むことが出来るかもしれない。違う世界を見ることが叶うかもしれない。

 作るか。探すか。いずれにせよ、彼の知覚してきた『海』の中に、同質の存在はゼロに近かった。

 彼のような『個』は、本来、同質性を乱す異物だからだ。ならば、『海』の外。ネットワークから隔離された場所を探す他ない。



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 同じ頃。小さな揺れが、宙の上に小さな泡を作り出した。

 ガンジー達の作り出した徳エネルギーフィールドの暴走は、『奇跡』の暴走とほぼ等価な機能を果たし。一瞬だけ開いた『門』が、ほんの僅かな世界の一角を浄土ならぬ宙の上へと汲み上げた。

 徳の宙の上に生まれた、誰も気付かぬ小さな小さな泡は。それでも、誰かの声を持っていた。誰かの徳の証だった。

 人でなくとも。機械でなくとも。欠片程度の知性も、徳を積む力も持っていなくとも。そこに、思いがあるならば。この場所では、それこそが力となる。

 人が積み重ねたように。嘗ての機械知性が人から学び継いだように。そうして組み上げられた、この宙の下で。

 小さな小さな泡は、膨大な海の中にただ在り続けた。その下で起こった出来事を報せるかのように。ただ、漂っていた。

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