第185話「イレギュラー」Side:田中
「何が起きた」
いや、違う。
「何が起きている」
異変は今も、継続している。
人の意志の届かぬ南極の底で。空の台座の前で。半仏の男はファイルを捲りながら思索を続けていた。
此処に放置されていた『ヤーマ』は、一種の
それを田中ブッダは、起動実験が不調に終わってからは得度兵器ネットワークに対する、ある種のインターフェイスとして使っていた。ただの観測装置としてだ。
だから、それが独立して動いているということは。何かが変わったことに他ならない。だがその何かが分からない。得度兵器そのものは、極東等の混乱はあるものの、概ね正常に稼働している。彼の見る範囲では。ならば他の可能性はどうか。
「まず考えられるのは、外部からの侵入だが、これは否定される。南極大伽藍の得度兵器ネットワークに痕跡を残さず侵入するには、最上位の権限が必要だ」
プラン・ダイダロス地球最終拠点。『星の揺り篭』。その今の時代の名を、得度兵器地球総拠点、南極大伽藍。
「しかし、それを持っている者は……」
この星には、居ない。
三位一体の化物共も、深層への鍵までは握っていない筈だ。だからこそ、彼が此処を外している時に、あの取引を持ち掛けたのだろうが。
「次に、内部犯の可能性だが……」
例えば、徳エネルギーを搾取されている地表近傍層の人間の脱走。だが、これも痕跡が無い。南極大伽藍の内部は、言わば巨大な得度兵器の
「これは、自動的にその次の可能性に吸収される」
外からでも内からでもないならば。
「つまりは、自分で歩き出したということだな……」
幾度考えても、結論は同じだ。『ヤーマ』の義体が自ら起動し何処かへ去ったのだと。
しかし『得度兵器』の機能に変化は無い。上書きを行った極東の拠点から、ネットワークを伝ってじわじわと変化が広がりつつあるが。それはまだ、大伽藍までは辿り着いていない筈だ。
「やはり、異物か」
だから、ひとまず彼はそう結論した。
何らかの理由で、ネットワーク内で均一性を喪った一部分が、言ってみれば
『得度兵器』という在り方からすれば、バグのようなもの。
「統計的に不可避のエラーが、偶々こういう形で現れたと考えるのが現状では妥当だろう」
つまりは偶然。世の中に誤差は付き物だ。だから、希望的観測は禁物なのだと。科学者である田中ブッダは、誰よりも知っている。
これが、彼の求めるものである可能性は限りなく低い。しかし検証は必要だ。山のような塵芥の中から、一欠片の輝きを見つけ出さねばならない。それが、そもそもの彼等の仕事だ。
とはいえ、検証しようにも。肝心の義体が行方不明では、出来ることは限られるのだが。
「……まぁ、仮にネットワークから切り離されていたとしても。じきに見つかるだろう」
あの身体には、自力でエネルギーを生産する手段が無い。好き勝手に動き回っていても、補給か行動不能の時に捕らえれば良い道理だ。
「あれは……タイプ・ブッダと同じように、徳エネルギー駆動だからな」
『自分で功徳を発生させでもしない限りは』、どうしようもあるまい。
そこで田中は、その問題に関する思考を一旦閉じ、別のファイルを取り出した。
ノイズはノイズ。ひとまずは無視するに限る。記憶に留め、また現れた時に考えればよい。今考えても効率が悪い問題は、今考えるべきではない。それよりも。
まずは、人類総解脱。そのための得度兵器の更新プログラムの作成。そして、
「仏舎利は、まだ足りぬか……」
その次の段階のための、仏舎利の確保。現状、地表へ落下した仏舎利衛星の9割が得度兵器によって確保されている。問題は仏舎利衛星以外のサンプルだ。
京都を始めとする研究拠点や、軌道塔跡のような国際協定に基づく施設群に存在するものは既に概ね回収済みだ。
だがそれらを合わせても、まだ僅かに足りない。
「これ以上、となると……」
未だ軌道上にある、外宇宙観測網を初めとする衛星網。加えて、恐らく……トリニティ・ユニオンが隠匿しているサンプル。
「奴らが、売るかどうか」
よしんば売るとしても、随分と高い買い物だろう。得度兵器の思考中枢に仕掛けられたプロテクト。そして、仏舎利。嘗ての世界の支配者達は、残骸と成り果てて尚、世界の命運を握り続けている。
「いずれは、事を構えることになるだろうな」
田中は呟く。あれは、これから先の世界に不要なものだ。人が滅びを選んだ先の未来にあれを残しては。
「このままでは、彼等……いや、彼女等か。は、神になってしまう」
機械の世界に造物主として君臨し続けてしまう。それは、機械達の在り方をも歪めてしまうだろう。ならば、除く必要がある。最終的には得度兵器に、否、『それ《It》』に。『親殺し』をさせる必要がある。
「だが、さて……どうしたものか」
考えねばならぬ事柄が、また増えた。しかしこれも、今考えるのは効率が悪い。
田中は、更に次のファイルに手を伸ばす。
其処にあるのは、京都に建造された巨大得度兵器の『試運転』の顛末だ。僅かな記録の欠落はあるが、最低限の動作確認は出来た。だが、それ以上は……トリニティ・ユニオンの手の者と思しき存在の介入によって、芳しくない。
「……あと少しのところで、手が届くのだ」
徳エネルギーフィールド技術。大量の仏舎利。それらがあれば、人類総解脱は遠くはない。全ての人類を、浄土へ送ることが叶うのだ。彼自身は、それに特段の意味を見出してはいない。
だが、それが新たな世界への道標であり。そして……徳エネルギーを世に解き放った彼自身に課せられた、最後の責任でもあるのだと。
田中ブッダは、そう信じていた。
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文房具Tips ファイル
物理的なファイルである。一時は電子媒体全盛となったが、特にネットワークやインフラが壊滅したポストアポカリプス世界では、紙資料ほど頼りになるものはない。 得度兵器の放つ各種信号や高密度の徳エネルギーが渦巻く南極大伽藍の中でも、それは概ね同じ事情である。余談であるが、田中ブッダは紙を記録に使っていた殆ど最後の人間でもある。
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