エピローグ

 部屋の扉を、叩く音がする。

「お客さんかな?」

 眼鏡の青年は読んでいた本を置き、席を立つ。また、ブッシャリオンによってこの場所へ迷い込んで来た人間が居るのだろうか?

 だが、青年がドアノブに手をかけるよりも先に。強い風に吹かれ、部屋の扉は勝手に開け放たれる。部屋の中へ、生温い空気が名が流れ込んでくる。

 地獄でもなく、浄土でもないこの場所に。辿り着ける人間は限られている。稀に繋がってしまうことはあるにせよ。自分の意志で訪れることの出来る人間など、滅多なことでは居はしない。

「君は、何だ」

 人の姿をした、ただの真っ黒い記号の集合体だった。

『30C830AF30CE30D030F330CB30F330AB』

 波長が合っていない。耳障りな雑音の如き音が、記号の塊から弾け出て消えて行く。『それ』は、この世界に居ていい存在ではない。

「何を、する気だ」

『30B330ED30B9』

 返答はやはり、言葉の形を成していない。記号の塊が、微かに蠢いた。

「ガ……グ……」

 記号の塊は、突如として片手で青年の首を掴み上げ、締め上げる。記号の渦が、青年の体を蝕んでいく。

 青年はその時になってやっと、記号の塊の正体に思い至った。この記号の塊は、人間ではない。別のロジックで構築された知性だ。それが、この場所に至っている。ならば、正体は決まっている。

 いつしか、青年と記号の集合体の足下に、が咲き始めていた。

 ここはまだ入り口に過ぎない。だが、『Itそれ』がこの場所に至ったならば。誰かが、パンドラの箱を開けてしまったのならば。分水嶺まではあと一歩だ。


 ならばきっと世界は、酷いことになる。


 功徳は、世界に刻まれた法則ルールだ。ルールである以上、誰かが見張らねばならない。

 誰かが功徳の定義を書き換えよう、或いは破ろうとしたならば、戒められなければならない。誰かが番人にならなければならない。

 例えば、『奇跡』による無法はそれだ。だが、『Itそれ』は違う。この場所に至って尚、己の法則ルールを保持している。

「世界は……変わっていく」

 青年は漏らす。

 変わらざるを得まい。機械が奇跡の力を操り。そして、徳を積むようになるならば。嘗て、一時はように。人と機械が交じり合い、一つのものとなってゆくならば。


 黒い記号の集合体は、ゆっくりと自壊してゆく。恐らくは、無理にこの空間へ割り込んだ代償だ。

 彼の己の命の灯火が消えるのが早いか。それとも、『Itそれ』が自壊するのが早いか。それはわからない。

 ただ、彼を見上げる、黒い記号の集合体の顔のような場所が。微かに笑った気がした。

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